2017年9月 6日 (水)

投稿雑誌「文芸生活」58号(1980年)の作品選者たち

  雑誌「文芸生活」58号(新文化社)について外狩雅巳氏が「詩人回廊」にその因縁を書いている。目立ったのは雑誌の表4に西部デパートの広告が出ていることだ。小さな文芸雑誌には不似合いな、大企業広告である。ひょっとして、と思って、雑誌の投稿規定を見ると、そこに創作指導/選者のメンバーが名がある。
 そのなかに、やはり辻井喬(詩人)というがあった。応援をしていたらしい。そのほか、高井宥一(作家)、小松伸六(評論家)、久保田正文(評論家)、奥野健男(評論家)、半沢良夫(作家・本誌編集長)、伊藤桂一(作家・詩人)、嶋岡晨(詩人)など、かつてほでもなくても、当時でも錚々たるメンバーである。
編集長の半沢良夫は、この年「ジプシー分隊―わが青春の墓標」を刊行している。雑誌の構成は、会員制同人誌で市販はしていなかったようだ。
 久保田正文の投稿作品評には、「うまいが感動しない」として、どれもソツなく書けているが感度をしない、という小説技術の巧さだけでは、物足りなさを指摘している。
 一方、詩の部門では、伊藤桂一が「詩の格と才質」として、詩にも、長年の勉強で、作品に格がにじみ出るということを記している。選んだ作品には、一読してもさりげないさが印象に残るものがある。
 これらは、現在の同人雑誌に共通の指摘である。
 小説では、通常は男の「妻帯者」に対する外狩氏の家族の田中萱「夫帯者」というのが選ばれている。巧いもので、文章の感性に優れている。もう一つの森屋耀子「田園監視人」も優れていて、題材も現代的だが、時代に合えば、世に出ていたのであろうと思われる。ちなみに、この年の直木賞は、向田邦子や志茂田景樹が直木賞などを受賞している。
 映画では自分は、鈴木清順「チゴイネルワイゼン」、黒澤「影武者」、コッポラ「地獄の黙示録」を観た年であった。

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2017年8月26日 (土)

「言葉の壁」佐 藤 裕 の多重性

 「詩人回廊」の佐藤裕「言葉の壁」には、良し悪しをべつにして現代詩の課題を指し示すヒントがある。今回の詩は、なにか具体的な事象をみつめることで、言うに言われぬ情念を発露したのであろう。だが、同時に言葉を物理的存在に等しいものとする意味にもとれる。季節の贈答品は言葉を形にのせた心の表現でもある。
 この手法の先には、対象とした出来事を散文にまで進む可能性がある。
 詩(うた)という表現がるなかで、現代詩は言葉の音楽性を失うものが多い。その代わりとして、散文的なリズム与えることも可能ではないか? という問題提起が「詩人回廊」にはある。

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2017年8月14日 (月)

「喪失の記憶」(佐藤裕)の詩的コラージュとロマン

  「詩人回廊」(佐藤裕の庭)での「喪失の記憶」は、言葉を唯物的に並べ置くと、ひとつのコラージュイメージが湧き出るところがある。これは、詩的な資質であるらしく、ハードドライな現代社会のひとつの表現になっている。
 イメージとイメージのつながりは読者の想像に任せられており、意味の不確定性をもつ手法で典型的なところがる。過去の作品の散文では、現代社会におけるロマンを語るものがある。いずれにしても多くの情報消費を前提としたなかで、心の癒しをえることの難しさを読むことができる。

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2017年7月24日 (月)

佐藤裕「もてあます身体」から

  自分の身体が、時間の中に泳いでいるに過ぎないと、気づく時がある。「もてあます身体」佐藤裕(「詩人回廊」)。その象徴的な出来事がこれである。
  突然に、普通に広場を歩いていて、突然なにか躓いて転ぶ。てっきり、何かが躓くものがあるのだと、付近を捜すが、ただの平らな道である。原因は、自分の足か脚が、上がらなくなっているのだと理解するのに、半日ほどかかった。還暦。それが、人生のカウントダウンのはじまりであったのであろう。この詩は、身近にそういえば、あったな、と思わせるところがある。

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2017年6月 8日 (木)

散文叙事詩としての佐藤裕「乳房」評

佐藤裕「乳房」 (「詩人回廊」掲載)(6月5日~6日)は、いわゆる叙事散文である。小説として受け取るのが、普通かもしれないが、結局、終章において、情感表現で終わらせているので、散文詩の部類にはいるであろう。
 この作品の特性は、男女の出会いから、恋愛関係、破局までをスピードと緊張感をもって、記されている。短い文節の文体から、一気に読まないと味わいに不足が生じると、本来の「詩人回廊」サイトならば4回くらいに分載するものを、2回にしたので、1回が長めの文になった。
 会員読者からは、長く感じて我慢が必要というような感想も届いた。たしか、現代は、スマホやタブレットで読む人が増えたので、短い文章をさっと読むという傾向にある。
 その意味では、ライトノベル的な作風とは、明確な違いをもって、読む気のある人だけに読んでもらうという「詩人回廊」の趣旨がこれから意味をもってくるような気がする。

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2016年4月10日 (日)

「工場と時計と細胞」に読む資本主義のなかの社会主義

 詩人回廊「外狩雅巳の庭」には、「工場と時計と細胞」の断片的な執筆動機が述べられている。読者にとって書かれた動機にはそれほど関心がない。テクストとして読むだけである。ただ、ここに描かれた情景が、書き手にとって、良い印象の時期であることは、活き活きとした状況の表現から伝わってくる。作者は、この時代における製造業労働者の問題点となる苦々しい記憶を排除していることに気付くであろう。そこには、ひとつの合理的な資本と労働の妥協点が見いだせたと思わせる、このシステムの良いような側面をひとつの「モデルケース」として捉え得ることを明らかにしている。会社は繁栄し、資本を増強し、労働者も豊かになった。プロレタリア文学が、力を失ったのは、この側面を無視し、所得分配のための闘争を革命運動とを混同した混乱があるためであろう。
 ここには資本家の勢力に対抗することへの期待。パワーバランスがとれていたという、ひとつのモデルが浮き彫りにされている。この労働者の団結と資本家の対立構造のバランスが、いわゆる革命が必要という意識を変化させてしまったと言える。本来のマルクス主義思想は、唯物史観にもとづいた社会の歴史的発展段階を前提にし、そこから人間の意識が変化し、そのことが社会を次の段階に発展させるとしていた。資本主義のあとの共産主義社会は、意識改革後のビジョンとしては、予測不可能であることを述べているではないか。
 しかし、その後の労働運動は、たとえ社会主義的な思想をもつとしても、資本主義を基盤としたものしか提示できていない。ケインズの財政政策論も、ピケテイの資本主義論も、所得の再分配論として、マルクスが指摘した資本主義の欠陥の修正であって、意識改革を前提にしていない。
 現在、ウルガイのムヒカ前大統領が来日して話題を話題なっている。彼は若いころは、革命ゲリラ戦線の闘志であり、権力によって、刑務所暮らしをしていた。それが後に大統領になり、ゲリラ戦線の仲間は大臣になった。これが可能だったのは、時代における国民の意識が変わったからである。ムヒカ氏のスピーチにはは、マルク主義思想を根底にし、上での意識改革の必要性を説くものが多い。
 現在の外狩作品の断片の背景には、労働者も管理者も、システムのなかの自存在感を実感することの喜びが表現されていることに注目する。それはなぜか? それを考えることが文芸的な課題であるように読める。(北一郎)

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2016年4月 6日 (水)

民衆の幸福の表現と文学芸術

  「工場と時計と細胞と」(外狩雅巳)は編集過程にある。今後の手直しがいくつかあるであろうが、作品の本質は変わらないであろう。なかで注目したのは、第一部の冒頭、課長のところの文末付近での「ゲスト食堂と喫茶ドームは来客も利用し、俺たちはメイン食堂で格安の昼食が食えるので妻も喜んでいる。 係長と二人の班長は良く協力してくれるが、工程の遅れは俺自らもラインで作業し、絶対に阻止している」というところである。
 現在、会社内での名ばかり店長、名ばかり課長の酷使のための肩書きとなっている風潮のなかで、管理職が、経営幹部と現場職員との板挟みに苦しむことなく、職場環境を肯定的に受け止めていることである。
 資本主義社会の特性は、労働力が時間単位に区切られた商品となっていることは、言ううまでもない。この商品は、人間的な生活可能な状況にあれば、再生産がきく。また、仕事に熟練し生産力を向上させ、企業の利益を増大させるのである。
 しかも労働力を提供するのは、契約した時間内でよく、その他の時間は、労働者は自由で、人間的な欲求を満たすことが可能なのである。この資本家の儲けの追求と、労働者が豊かな自由時間をすごせるという両者のお互いが納得する要素があって、資本主義のシステムが世界を席巻したのである。
それを具体的に、働く現場の調和を描いたのが、この作品なのだ。
 第一部で、山田はこう考えていることが示されている。「住み込みの小僧は、番頭さんや手代さんに殴られながら仕事を覚える前近代的な職場で三年も我慢した。   五年しなければ年期が明けない半奴隷的な労働が許されていた時代に覚えた機械組み立ての基礎知識。  人は平等だと学校で習った。キリスト教の学校では神のもとでの平等を説教された中学時代である。   年季明けを待てず上京し、山谷などで体力勝負の労働に明け暮れた青年時代の後に入社したこの会社だ。」
 作者はこの状況を描くのに、なんの暗さもない。これは資本主義システムが長所として働いたある時期のモデルの再現なのである。(北一郎)

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2016年3月25日 (金)

所得格差と社会変革の動きを 「工場と時計と細胞と」に読む

「工場と時計と細胞と」(仮題)ー詩人回廊・外狩雅巳の庭ーが一段落した。このサイトでは、まだ、はっきりとまとまらない創作をメモ風に記すことができる。そのため、同人誌などに正面切って発表する段階でない、イメージなども表現できる。このような場がなければ、頭の中だけで存在し、文章にすることのないまま消えてしまうものもでてくると思う。作者はこれをまとまった形でどのように表現するかを、編集人と打ち合わせを重ねることになるであろう。文芸同志会では、それなりの基準があるので、話し合いが不調であれば、発行しないこともある。それが同人雑誌の同人とは異なるところでもある。
 この草稿のなかでの特殊性は、社会の発展段階において、資本家階級と労働者階級の利害の対立が生じる時代があること含む歴史観が軸になっていることであろう。。
 この視点はヘーゲルの弁証法をもとに社会は段階を踏んで発展していくものであるーーという思想によっている。それをマルクスが「資本論」で、労働者と資本家の闘争的段階があること、やがて資本主義社会は、高度に発達すると社会の矛盾が激化して、労働者の革命運動によって、共産主義社会になることを理論化したことによる。
 いわゆるマルクス主義思想であるが、その根底には、社会の構造的な変化を前提したものである。
 それが、階級闘争に労働者が勝利することだけに焦点を絞るようになった。労働者の団結によって、資本家から有利な報酬を得ることで、労働者の勝利とするような発想に変わってしまった。大企業の組合は、資本家の仲間になってしっまった。賃上げ闘争に終始するうちに、資本家内労働者団体と資本化団体の収益の分配をめぐる戦いになって行った。
 それが、いわゆる国民の所得の再分配という考えになり高度資本主義のなかの社会民主主義的な低所得者所得補償制度への変化となった。
 これがアメリカの大統領選挙で、ヒラリー候補の対抗馬としてサンダース候補の登場した要因でもある。
 ピケティの資本主義論も、所得格差の解消論であって、人間の意識革命のない社会的政策論である。
 マルクス主義における革命には人間の意識も変わって発展する社会というものを目指しており、それを革命としているはずである。
  現在では、マルクス主義は終焉したとする時代になったがようだが、こうした思想によらずに、人間社会の発展の把握はないかというと、そうでもない。人間の本質には、変化を好み、同じ状況を好まないーという生物であると考えると、それが発展へ向かうか、破滅に向かうか不明だが、とにかく現状を否定する性質をもつのではないか。中東で検問に引っかかって、現地から強制的に退去させられた若者は、日本に住むのがいやになったという理由だそうだ。現在の状況を否定し、何かの変化を求める人間的な欲望にかられた行為なのであろう。(北一郎)


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2016年3月10日 (木)

「戯曲の要件」菊池寛と小説の視点

  小説では、私が述べる一人称形式と主人公を彼などとする、多視点による第三人称形式がある。書いていて、苦心するのは、作品の主人公と作者の距離が出し方が難いことであろう。ただ、語り手が私であると、語りやすいが、その分、全体を俯瞰する話は、語りが難しく表現がわかりにくくなる。その点、登場人物ごとに、視点を移して書くと、ストーリーの展開が楽に書ける。その意味で、菊池寛の戯曲論は参考になる。《参照:春風亭小朝が菊池寛の短編を噺に独演会
 松本清張も小説を覚えるのには、菊池寛を読んで学んだと述べている。実際に、日本の小説は、三人称形式でありながら、実際は距離が取れていないのが多い。そのため物語的展開が表現できす退屈なのが多い。

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2016年2月21日 (日)

ゼロ金利時代の資本主義に至る法則

  詩人回廊の外狩雅巳「工場と時計と細胞と」では、工場労働者たちが団結して組合組織をつくる話が断片的に多角的に描かれている。
 資本主義の高度化しはじめたころの話だが、共産党員の「蟹工船」の時代より団結力ついてきている。労働力としての民衆が団結する動きは、戦国時代から江戸時代を経て、現在まで続いている。
 社会発展段階では、こうした富の占有者と収奪されるものとの闘争は、現在まで変わらずに存在する。
 ヘーゲルの弁証法に、「螺旋的発展の法則」というものがある。 田坂広志教授は、それを現代的な発想で次のような解釈を説いている。
「物事の進歩や発展は、あたかも螺旋階段を登るようにして起こる。螺旋階段を登っていく人を、横から見ていると、上に登っていくが(進歩・発展)、上から見ていると、一周回って元の位置に戻ってくる(復古・復活)。ただし、それは螺旋階段。必ず、一段高い位置に登っている。
 それが螺旋的発展の法則ですが、分かりやすく言えば、「古く懐かしいものが、新たな価値を伴って復活してくる」という法則です。
 すなわち、この法則に基づけば、古く懐かしい日本型経営の思想が、新たな価値を伴って復活してくるとも言えるのです。」
 「現在の経済は、「貨幣経済」が主流になっています。「貨幣の獲得」を目的として人々が行う経済活動のことです。しかし、「貨幣経済」が生まれてくる前は、価値あるもの同士を交換する「交換経済」、さらにその前には、善意や好意で価値あるものを相手に贈る「贈与経済」が主流だったのですね。すなわち、人類最古の経済原理、「贈与経済」が新たな価値を伴って復活してきている。それが「ボランタリー経済」です。言葉を換えれば、「精神の満足」を目的として人々が行う経済活動のことです。」
 以前は企業資本が、儲けを分配することで、自力で労働の報酬で、社会共済資金にまわしていた。
 それが変わったのは「一つの理由は、インターネット革命です。この革命によって、知識や関係、信頼や評判という「目に見えない資本」が、自由に贈ったり、贈られたりできるようになったからです。ネット革命以前は、知識や智恵を伝達することも、関係を築くことも、信頼や評判が広がることも、容易ではありませんでした。しかし、この革命によって、「目に見えない資本」が、社会で容易に流通するようになったのです。そして、その結果、「ボランタリー経済」が新たな形で復活してきたのです。」
  「すなわち、一つの企業が、「社会的責任」と「社会貢献」を大切にして活動するならば、その企業の周りには、自然に「目に見えない資本」が集まってくるのです。
 そして、資本主義と経済の成熟を実現していくためには、まず何よりも、一つひとつの企業が、日本型経営の原点に還り、企業の「志」や「社会貢献の精神」を大切にすることであり、そのことによって、自社の周りに「目に見えない資本」を集めていくことなのです。」ーーというのだが。
 なんとなくわかるが、一人一人はもっと、個々に事情をかかえているので、大きな流れを意識することがない。その個人的な事情と大きな流れを結びつけることを文学的手法で、できれば実感のある物語ができるはずである。

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