2018年5月 3日 (木)

文芸時評5月=東京新聞(5月2日)=佐々木敦氏

   高橋弘希「送り火」(『文学界』5月号)は、両親とともに青森県の平川に転居し、来春に廃校が決定している地元の中学に通うことになった中学三年生の歩(あゆむ)の物語である。
 途中までは、ありきたりと言ってもいい「田舎に転校した少年の話」が、この作家ならではの濃密な描写とともに続いていくのだが、花札を使った「燕雀(エンジャク)」という遊びが出てきたあたりから、不穏な空気が漂い始める。いつも必ず晃が胴元なのだが、歩は彼が巧みに札を操作していることに気づく。そしてほとんどの場合、稔がドボンになり、残酷な罰ゲームを強いられる。だが晃は教室で稔を故意に無視したクラスメートを殴ったりもする。稔はいつも半笑いで、晃に命じられるがままでいる。だが少しずつ歩たちの日常は失調していき、やがておそるべきクライマックスが訪れる。
  村田沙耶香の長編一挙掲載「地球星人」(『新潮』5月号)は、ひょっとしたら「コンビニ人間」以来の小説ではないだろうか。となると約二年ぶりの新作ということになるのだが、待たされただけのことはある途轍(とてつ)もない傑作に仕上がっている。
  「殺人出産」「消滅世界」「コンビニ人間」と書き継がれてきた村田の「反・人間」小説の最新作は、結末に至って、グロテスクでショッキングな、完全なる狂気の世界に突入する。いや、これはほんとうに「狂気」なのだろうか。そう思うのはこちらが「地球星人」であるからではないのか。村田は私たちが「本能」だと思っているものに楔(くさび)を打ち込み、内側から破壊する。戦慄(せんりつ)と吐き気に満ちた美しさが、そこに現れる。
《参照: 村田沙耶香「地球星人」 高橋弘希「送り火」 佐々木敦

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2018年3月26日 (月)

文芸時評4月「仮想通貨」とは、ほとんど文学」石原千秋氏

   「仮想通貨」も悪いことばかりではない。アメリカにシェールガス革命が起きる前、石油の代替エネルギーにトウモロコシを使おうと発案されて、トウモロコシが投機の対象となったためにブラジルで深刻な環境破壊が起きた。現実世界の投機に向かうお金が「仮想通貨」に向かって泡と消えれば、環境破壊も起きない。お金のない人間の天下の暴論である。それで何を言いたかったのか。人は言葉の呪縛、記号の呪縛から逃れることはできないということである。文学は「言葉の芸術」(中村光夫)だが、それは言葉を使いながら、言葉では言えないことを書こうとする芸術だという意味でなければならない。「仮想通貨」とは、ほとんど文学だと思う。
 そのような意味において、林芙美子文学賞受賞作の小暮夕紀子「タイガー理髪店心中」(小説トリッパー)はみごとな文学となっている。もう老年となった寅雄と寧子(やすこ)が営む理髪店の日常が淡々と書かれる。はじめから息子が幼くして死んだことが暗示されていて、その地点にどうやって着地するかが読書の中心となる。山道で寧子が穴に落ちたとき、寅雄は自分の中に殺意を感じる。もうぼけはじめたかと思われる寧子が言う。「寅雄さんは、そうやって」「そうやって辰雄も殺したのね」と。この一言で、この作品の全編に殺意がみなぎっていたのだと「錯覚」させる。繰り返すが、これが文学というものだ。夏目漱石『夢十夜』の「第二夜」と「第三夜」の本歌取りと読んだ。それならば、冒頭は「柱時計が、静まりかえった店内に六回の金属音を響かせた。/寅雄は待ちかねていたようにガラス扉を押し開け、外に出た。」と2文にしない方がよかった。これでは志賀直哉である。日常の継続性を重視して「柱時計が静まりかえった店内に六回の金属音を響かせたとき、寅雄は待ちかねていたようにガラス扉を押し開けて外に出た。」の方がいい。
《参照:産経3月25日=早稲田大学教授・石原千秋 「仮想通貨」とは、ほとんど文学だと思う

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2018年3月11日 (日)

文芸時評2月(東京新聞)2月28日=佐々木敦氏

 《対象作品》本谷有希子「静かに、ねぇ、静かに」(『群像』3月号)/松尾スズキ「もう『はい』としか言えない」(『文学界』3月号)/市原佐都子「マミトの天使」(「悲劇喜劇」3月号)/松原俊太郎「またのために」(「悲劇喜劇」)/市原佐都子「虫」(『すばる』2016年6月号)。
  松尾も本谷も演劇から小説に越境してきた才能だが、演劇専門誌『悲劇喜劇』の3月号に、劇団「Q」を主宰する劇作家、演出家の市原佐都子の小説「マミトの天使」が掲載されている。松原俊太郎の初小説「またのために」を掲載しており、意欲的な編集方針と言えるだろう。市原は以前「虫」(『すばる』2016年6月号)という小説も発表しているが、そちらは「Q」としての演劇作品の小説版だった。今回はオリジナルだと思うが、原稿用紙百十枚の中編を、「Q」の芝居を彷彿(ほうふつ)とさせる濃密で異様なテンションのモノローグ(独白)で押し通している。ほとんど狂気の域に達するほどに「正常」な女子のモノローグ。正常であり過ぎるからこそ、この世界では、こんな世界では、狂うしかないのだ。新聞では粗筋を紹介するのも憚(はばか)られる内容だが、この言葉の力は相当なものである。市原も遠からず文学の側から注目されるだろう。
 《参照:本谷有希子「静かに、ねぇ、静かに」 松尾スズキ「もう『はい』としか言えない」 》 

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2018年2月28日 (水)

文芸時評3月(産経)=石原千秋 五輪は敗者のためにもある

 小谷野敦「とちおとめのババロア」(文学界)は、女子大のフランス語教師・福鎌純次がネットお見合いで皇族の後藤雍子(ようこ)(実は雍子女王)と知り合って結婚する荒唐無稽な話で、よくも書いたりと思う。彼女は徳田秋聲の熱烈なファンという設定で、小谷野敦のツイッターを見た人なら誰がモデルだかわかる。文学ネタもちりばめてある。ヒロインが「ようこ」で末尾が「車から降りると、天の川が降るようだった。純次はそっと雍子の肩に手を回した。」とあれば、大枠は川端康成『雪国』である。結婚後に戸籍謄本に「福鎌純次・雍子」とあるのを見て、彼女は「やっと人権が手に入った」とつぶやく。それがこの小説のテーマである。

 高原到「「日本近代文学」の敗戦--「夏の花」と『黒い雨』のはざまで」(群像)がいい。敗戦文学と言っていい原民喜「夏の花」のイロニーは自壊し、井伏鱒二『黒い雨』のユーモアは蹉跌(さてつ)したと論じ、いま日本文学は「あたかも『敗戦』などなかったかのように(中略)無数の『内面』と『風景』を手をかえ品をかえ生産しつづけている。だがそれらは文学なのだろうか?」と問いかける。これを「とちおとめのババロア」と接続すれば、戦後日本は「敗者の振る舞い」をたった一人に押しつけて来たのではなかったかという問いとなる。
《参照:文芸時評3月(産経)石原千秋 五輪は敗者のためにもある

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2018年2月15日 (木)

文芸月評2月(読売新聞)先住民、異文化…未知との出会い

「新潮」先月号から2回分載されたNHKディレクター、国分拓さん(53)の「ノモレ」は、ペルーのアマゾン奥地を舞台にした物語風のノンフィクション作品だ。主人公は、学校教育を受ける機会に恵まれた先住民の男性、ロメウ。集落のリーダーを務める彼は、文明社会に全く触れたことがない「イゾラド」と呼ばれる人々が近くに現れたと聞く。2015年、彼はついに川を挟んでイゾラドの男2人と遭遇した。ロメウは彼らに向け、自らの部族の言葉で叫ぶ。
 ノモレ! ノモレ!
 それは、「友達」や「仲間」を意味する言葉だった――。
 先住民を迫害し発展した南米の歴史、加速する自然開発と環境破壊、現代社会で先住民の尊厳をいかに保つか。本作は、幅広い問題を考えさせる。だがそれ以上に、腹に響くのは「ノモレ」の言葉だ。
 国分さんは、アマゾンの森で生活するヤノマミ族とともに暮らした体験をつづる『ヤノマミ』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。自然とほぼ一体化して暮らす人々の剥むき出しの生と死、友愛の感覚が、文明人を覆う心のほこりをそぎ落とす。
 オーストラリア在住の岩城けいさん(46)の「Matt」(すばる)は、父親の仕事のため、同国に日本から家族で移住し、地元の学校に転校した少年の真人を描いた前作「Masato」の続編だ。
 真人は思春期に差し掛かり、会社をやめて起業した父と暮らし、日本に帰国した母とは別々の生活を送る。題名が想像させる通り、現地の教育を受け、オーストラリアでの生活に染まってゆく。
 平仮名や片仮名、英語が交じった会話文は、多様な子が通う学校のざわめきが聞こえるかのようだ。10代の少年が母語でない英語を習得する過程を、日本にしか住んだことのない人間にも体感させる。
 小説の言語や感覚の鋭さが刺さってくる詩人として活躍する筆者の2作もあった。
 日和聡子さん(43)の「水先人のない舟」(文芸春号)は、10編を収めた掌編集だ。土俗的なにおいがする「河童」、抑えた文章にエロスが漂う「ぶどう」。迷子に憧れる子どもが出てくる「丘」など、不思議な話もある。小さなビーズの玉のような各編は、色彩を伴って心の中に残る。読み進むうちに、切れたり、つながったりして面妖な輪を作る。
 四元康祐さん(58)の「奥の細道・前立腺」(群像)は、前立腺がん手術に至るまでの体験を物語化した。性的機能を失う覚悟を迫られた苦しさを距離を置いて見つめるため、四元さんは松尾芭蕉の紀行『奥の細道』の手法を使う。旅情に文章が流されないよう俳句を挟んだ芭蕉と同じく、一連の経緯を記す文章に各種の韻文を配して引き締めた。
 村田喜代子さん(72)の連載「飛族」(文学界、2016年5月号~)も完結した。地上からの高度が80キロ~800キロ離れた熱圏に夢の中でたどりついたと語る鉄鋼マン。体がふわっと浮く体験をした女性。海で嵐に巻き込まれて船が沈みかけ、「空ば飛べっ! 漁師には隠し羽根がある!」と叫んだ九州の離島の漁師と、彼の帰りを待つ妻――。(文化部 待田晋哉)
古典文学を自在に解釈
「池澤夏樹=個人編集 日本文学全集」で古典文学の現代語訳を担当した書き手が魅力を語った『作家と楽しむ古典』(河出書房新社)が出版された。同シリーズの2冊目で、高橋源一郎さん、内田樹さんら第一線の筆者の自在な作品解釈が楽しい。
 エッセイストの酒井順子さんは、「うつくしきもの」「にくきもの」など、テーマを設けて書く手法を用いた清少納言の随筆『枕草子』を、「あるあるネタ」のパイオニアと呼ぶ。作家の中島京子さんは、『堤中納言物語』の男性の登場人物には、気になる姫君に接近する「ドンドン系列」と逡巡しゅんじゅんする「グズグズ系列」が存在すると分析する。堀江敏幸さんは『土左日記』を現代語訳した際、自らの小説『その姿の消し方』の準備もしており、言葉について考えるうえで相補的な関係にあったと明かした。
《参照: 【文芸月評】真っすぐな心取り戻す

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2018年2月12日 (月)

文芸時評1月(東京新聞) 佐々木敦氏=デビュー作芥川賞2作品

 以前紹介した際にも、特に若竹作は高く評価した。心密(ひそ)かに、これは芥川賞候補に挙げられるのでは、候補になったなら高い確率で受賞するのでは、とも思っていた。予想は見事に当たったわけだが、今回は作品評とはやや違った角度から述べておきたいことがある。
 それは今度の芥川賞の二作が、どちらも新人賞の受賞作、すなわち第一作だということである。「百年泥」は「新潮新人賞」、「おらおらでひとりいぐも」は「文藝賞」を受賞した作品であり、つまり石井氏と若竹氏はいずれもデビュー作でいきなり芥川賞を射止めたわけである。そもそも芥川賞は賞規定としては「新人賞」ということになっているのだが、だからといって新人賞(デビュー作)で芥川賞というケースはけっして多いわけではない。
 だが、ご存じのように前回の芥川賞も「文学界新人賞」の沼田真佑(しんすけ)「影裏(えいり)」が受賞した。その前は、文芸誌へのデビュー作の芥川賞受賞は第百五十三回(一五年上期)の又吉直樹「火花」があるが、文芸誌新人賞受賞作となると、第百四十八回(一二年下期)の黒田夏子「abさんご」が「早稲田文学新人賞」だが、仔細(しさい)は省くが黒田氏は実は再デビューなので、正確には「群像新人賞」だった第百三十七回(〇七年上期)の諏訪哲史「アサッテの人」まで遡(さかのぼ)らねばならない。そして、文芸誌新人賞受賞作=デビュー作=芥川賞が二人並んだのは、ひょっとしたら史上初めてのことなのではないか?
《参照:芥川賞2作品 デビュー作受賞、時期尚早か

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2018年1月29日 (月)

文芸時評 2月号 早稲田大学教授・石原千秋

 僕は、「文学の近代」という授業でいつもこう話している。大都市や大学構内や公共施設に多い真っ直ぐ延びる直線の道は権力の象徴であると、そして日本の都市には広場がないから革命は起きないと。すばるクリティーク賞受賞作の近本洋一「意味の在処-丹下健三と日本近代」の冒頭の一文「僕たちが何かの病気にかかっているとすれば、広場へ向かわなくてはいけないのではないだろうか」を読んだその瞬間に、ようやく広場と直線との関係を解く評論が現れたと期待した。その期待は半ば満たされ、半ば満たされなかった。
《参照:産経2月28日ー「芥川賞までの人」になる予感がする 2月号 早稲田大学教授・石原千秋

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2018年1月 7日 (日)

【文芸月評】(読売新聞1月4日)意識の古層に触れる

   若松英輔さん(49)の評論『小林秀雄 美しい花』(文芸春秋)に畏おそれを覚えながら、ひかれるのを抑えられなかった。『霊性の哲学』などの著書がある批評家が、日本の近代文芸批評を形作った小林秀雄(1902~83年)と正面から向き合った。
 筆者の立場は、小林が1929年に発表した評論「様々なる意匠」の有名な一文、<批評とは竟ついに己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!>の解釈に象徴されている。
 例えば、若き日の批評家が、親友だった中也の恋人の長谷川泰子を愛した有名な事件について。筆者はまず、二人の文学青年がともに耽溺たんできしたランボーなどの詩を訳した際、互いの訳文が影響し合うほど精神的に<別ちがたき仲>だったことに触れる。そのうえで小林は単に泰子を愛したのでなく、<中原から泰子を奪うことで、中原との関係を手に入れようとした>と示す。
  <この間はいなげやへつれてゆかないでごめんなさいね(略)おばあちゃんはみすずちゃんが大すきです>
 青山七恵さん(34)の「わたしのおばあちゃん」(文学界)は、スーパーのいなげやに連れて行かなかったことを孫に謝る祖母の手紙から始まる。
 津村記久子さん(39)の「名を匿かくまう」(すばる)は、世間ではその場にいない人の話をするとき、その人物の名前を明かして語る人間と、隠して語る人間がいると説明することから始める。後者の人間のずるさやむなしさをある逸話から語り起こしてゆく。
 柴崎友香さん(44)は、各国の作家が学内に滞在し、交流する米・アイオワ大の国際創作プログラムに参加した体験などをもとに連作小説の執筆を続けている。今月の「小さな町での暮らし/ここと、そこ」(新潮)はとりわけ、学内での何げない生活の模様を記し、日本人が圧倒的な少数派の環境で、自分とは何か、言葉について考えさせた。
 最後に、今夏の芥川賞を受賞した沼田真佑さん(39)が、「夭折ようせつの女子の顔」(すばる)を発表した。ふとしたことで中学校に通えなくなった女子生徒が、気分を変えるため盛岡の叔母の家に預けられる。
 ざっくばらんな叔母、一緒に暮らす気弱な30代半ばの恋人、中ぶらりんな状態の主人公。不思議なバランスを三人は保つ。手のひらで鳥のヒナを包むかのように、変な力を加えると潰れそうな彼らの日々、流れる時間を優しくつづった。(文化部 待田晋哉)
 読売文学賞を受賞した『夜は終わらない』(講談社)をはじめ、ラテンアメリカ文学の影響を受けた大柄な小説で知られる作家の星野智幸さんが、異色の相撲エッセー集『のこった』(ころから)を出版した。
《参照: 【文芸月評】(読売新聞1月4日)意識の古層に触れる

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2018年1月 2日 (火)

文芸時評12月(東京新聞2017年12月28日)=佐々木敦

沼田真祐「夭折の女子の顔」軽い語り、大きい主題
多和田葉子「文通」混濁の渦が、呑み込む
≪対象作品≫沼田真祐「夭折の女子の顔」(「すばる」1月号)/多和田葉子「文通」(「文学界」1月号)。

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2017年12月28日 (木)

文芸時評1月ー世界語である英語の現実=早稲田大学教授・石原千秋

 「新潮」の「特別原稿」の東浩紀と水村美苗がいい。ゲンロンという会社を経営している東浩紀は、中小企業の経営者だった祖父の影響だという。しかし、自分と祖父とは何も共有してはいなかった、そういう関係を自分は「郵便的」と呼んだのだと。5歳の時に父を亡くし、2人の祖父を戦争中に亡くした僕には、「郵便」は永久に届かないかもしれない。水村美苗は、アメリカでは翻訳文学は出版される本全体の1%しかないが、その1%を読むのはまちがいなくリベラル層の「エリート」なので、自分の小説が英訳されるか否かは、彼らを意識せざるを得ない。それが実は「表現の自由」を窒息させているというのだ。それが世界語である英語の現実だと。トランプ大統領誕生の意味を文学の問題として語った秀抜なエッセーだ。(3頁を抜粋)
《産経・参照:文芸時評 1月号早稲田大学教授・石原千秋 世界語である英語の現実》

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