2017年3月 5日 (日)

文芸時評2月(東京新聞17年2月28日)佐々木敦氏

≪対象作品≫
滝口悠生「高架線」(「群像」3月号)/同「今日の記念」(「新潮」3月号/関口涼子「声は現れる」(「文学界」3月号)。
(一部抜粋)
 滝口悠生(ゆうしょう)の書き下ろし長編「高架線」(『群像』3月号)が、とてもこの作家らしい飄々(ひょうひょう)とした佇(たたず)まいの好作だった。かつて存在した「かたばみ荘」の住人たち、およびその周りの人物たちによる、一種の群像劇である。
 小説はまず「新井田千一」のひとり語りから始まる。話途切れると「*」が挟まって、ふたたび「新井田千一です。」と名乗り直して語りは続けられる。それが何度か繰り返されて、起こったことの様相がおおよそわかってきたあたりで、突然、語り手は「七見歩」に変わる。
 七見も新井田同様「七見歩です。」と名乗ってから話し出す。「片川三郎」をめぐって展開していくのかといえば、必ずしもそうではなくて、その後も何人かの語り手が出てきてさまざまなことを語り、いつの間にか「かたばみ荘」を中心とするおおらかで豊かな時間の流れのようなもの、人と人のかかわりの色とりどりの数珠繋(じゅずつな)ぎのようなものが、ゆっくりと、鮮やかに立ち上がってくる。
  瑣末(さまつ)なエピソードや些細(ささい)なディテールがとりわけ面白い。これはもちろん誉(ほ)め言葉として書くのだが、なんだか地味だが妙に心に残る映画かドラマかマンガのような読後感だ。

 関口涼子による「声は現れる」(『文学界』3月号)は、目次には「散文」と銘打たれている。長短さまざまな断片が六十ページにわたって続く。主題は題名にも冠された「声」である。「大切な人の声を録音してください。この本は、ただそう言うために書かれた」。亡くなった祖父の声。留守番電話に録音されていた筈(はず)なのに、いつのまにか消去されてしまっていた、もう二度と聴くことのかなわない、彼女を呼ぶ祖父の声。
 非常に抽象度の高い文章だが、はじめの方にはこんな記述がある。「これから書かれるのは個人的な物語」。そう、これは「物語」なのだ。「散文」とされているが、一種の「小説」としても読める。この分量の一挙掲載は文芸誌としては異例とも思えるが、価値ある試みだと思う。
《参照:滝口悠生「高架線」 関口涼子「声は現れる」 佐々木敦

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2017年2月27日 (月)

文芸時評2月毎日新聞(17年2月22日) 田中和生氏

「現代に通じる三島 肉体と言葉の葛藤=田中和生」
《対象作品》
 高橋睦郎評論集『在りし、在らまほしかりし三島由紀夫』(平凡社)/木村紅美の中篇「夢を泳ぐ少年」(『すばる』)/山崎ナオコーラの中篇「父乳の夢」(同前)/、荻野アンナの短篇「ダクト」(『文学界』)/
(一部抜粋)「文学は人生を素材にするのではなく、言葉を素材にしなくてはならないこと。そうした指摘をする背景には、演劇でも言葉でも古典的な教養が失われ、伝統と切れたところで文学作品が書かれていることに対する危機感がある。」
 「白眉(はくび)は一昨年行われた講演で、少年愛者である三島は自らの肉体に劣等感があり、表現する者として生き延びるのではなく表現される者としてその肉体を滅ぼすことを選んだと指摘する。言葉が軽んじられる時代を肉体という現実で覆そうとした点で、三島由紀夫は「戦後日本」を象徴する文学者だったと言えるだろうか。
 そうした肉体と言葉の葛藤は、現在では女性の書き手たちのものである。」
 

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2017年2月 5日 (日)

産経【文芸時評2月】 早稲田大学教授・石原千秋

 松浦理英子「最愛の子ども」(文学界)は、おそらく横浜にあるだろう私立玉藻学園高等部(若い頃、フェリス女学院大学の『玉藻』という国文学系の雑誌論文を何編もコピーしたものだ)が舞台で、いきなり今里真汐(いまざと・ましお)の「女子高校生らしさとは何かというテーマで作文を書くようにと言われましたが」ではじまる作文が提示されて、白けた。保守的な「らしさ」への批判はもう昭和初期からはじまっているので、「なにをいまさら」と思ったからだ。フェミニズム系のテーマとしても「女らしさ批判」はもう古くさい。

 そう思って読み進めたら、不思議なことに気づいた。今里真汐たちのグループの少しばかり知的で少しばかり刺激的な女子高生活は、同級の「わたしたち」から見られ、語られる構成となっているのだ。「放課後わたしたちは、担任の唐津緑郎(ろくろう)先生に呼び出された今里真汐が職員室から戻ってくるのを、教室で待つともなく待っていた」というふうに。それでいて、「わたしたち」が誰なのかわからない。「わたしたち」は、すっかり成長したワセジョでもあり、まだ「言ってみたい~」と授業中に声にしてしまうワセジョの卵でもあるような不安定なポジション。そのポジションが今里真汐たちの揺れをみごとに読者に伝える。見て、語るポジションを「わたしたち」として抽象化し、それを同級生から少しずらしながら動かす方法があるとは思いもつかなかった。素直に感服した。
文芸時評2月号】不安定なポジションの妙 早稲田大学教授・石原千秋

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2017年2月 3日 (金)

文芸時評(東京新聞2017年1月31日)評・佐々木敦氏

「三田文学」特集「保坂和志」孤立の文学 強力な磁場
松本理英子「最愛のこども」超絶技巧で描く愛の姿
≪対象作品≫
第156回芥川賞・山下澄人「しんせかい」(「新潮」2016年7月号・新潮社刊)/特集「保坂和志」―保坂和志「ある講演原稿」、エッセイ「TELL TALE SIGNS」、「地鳴き、孤鳥みたいな」ほか対談(「三田文学」冬季号)/松本理英子「最愛のこども」(「文学界」3月号)。

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2017年1月29日 (日)

文芸時評(東京新聞2016・12月) 上田岳弘「塔と重力」=評・佐々木敦氏

  『すばる』1月号の特集「17」には驚かされた。もちろん2017年にちなんでいるのだが、とにかく「17」という数にこだわって、谷川俊太郎、角田光代、平野啓一郎、吉本ばななら総勢十四名によるエッセイ「十七歳のとき」、青山七恵、滝口悠生(ゆうしょう)、上田岳弘(たかひろ)の鼎談(ていだん)「『十七歳小説』を読む」、一九一七年に立ち返って夏目漱石没後一〇〇年にかんする水村美苗と小森陽一の対談、ロシア革命一〇〇年をめぐる亀山郁夫、島田雅彦、前田和泉の鼎談、さらには俳人の堀本裕樹の「十七音の遠き海」、数学者・森田真生(まさお)の「数をめぐる十七の断章」など、ヴァラエティに富み過ぎとも思える記事が並んでいる。
  特集といえば『群像』1月号では「五〇人が考える『美しい日本語』」をやっている。蓮實(はすみ)重彦、吉増剛造、橋本治、内田樹(たつる)、リービ英雄、穂村弘、堀江敏幸、村田沙耶香、等々が各々(おのおの)「美しい日本語」を選び、エッセイを寄せている。私も書いている。このタイミングでの特集の企画意図については特に誌面では触れられていないのだが、私も含めた何人もの寄稿者が「美しい」と「日本語」の接続に微妙な違和感を表明しているのがなかなか興味深い。そういう反・ナショナリズム的な反応自体も今や紋切り型ではないかと思いつつ、ついつい留保をつけたくなってしまうということだろう。
 その中で、佐佐木信綱「夏は来ぬ」を挙げた片岡義男の「美しい日本語は、言葉としては残っている。活字で本のなかに印刷された言葉だ。僕がそのような言葉のほんの一端を知ったとき、そのような言葉が描いたはずの日本の風物は、とっくに消えていたと僕は思う。実体はかたっぱしから消えていき、言葉だけが残る」という述懐が心に残った。
 上田岳弘の中編「塔と重力」(『新潮』1月号)は、デビュー作品集『太陽・惑星』、三島由紀夫賞受賞作『私の恋人』、芥川賞候補となった『異郷の友人』と、人類史を丸ごと相手取った極端にマクロな世界観のもとに荒唐無稽な物語を紡いできた注目作家の「種明かし」のような作品として読んだ。なにしろこの小説には、上田作品ではお馴染(なじ)みのSF的にぶっ飛んだ設定は出てこない。
 フェイスブックをはじめとするSNSが物語の中枢に置かれている。「神ポジション」という言葉が出てきて、文字通り「あたかも神のごときポジションからやたらと壮大な視点で語ること」なのだが、それを実体化させると過去の上田作品になるわけだ。「僕」の経歴は作家自身のそれと意識的に重ねられている。上田岳弘という小説家は、どうしてあのような奇妙な小説ばかり書いてきたのかという問いへの、もちろんフィクションではあるのだが、切実な返答らしきものが、この作品のそこかしこに覗(のぞ)いている。「種明かし」とはそういう意味である。これを書くのはかなり大変な、ある意味でしんどい作業だったのではないか。しかしそれに見合う力作に仕上がっている。
 (ささき・あつし=批評家)
《参照: 「すばる」1月号特集「17」 上田岳弘「塔と重力」 佐々木敦

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2017年1月26日 (木)

文芸時評1月(毎日新聞1月25日)田中和生氏

  《対象作品》  金原ひとみ『クラウドガール』(朝日新聞出版)/羽田圭介「成功者K」(『文芸』)/青山七恵「帰郷」(『群像』)/松浦理英子「最愛の子ども」(『文学界』)。
ーー文学作品と現実の関係は、どうあるべきなのか。そんなことを考えたのは、実力ある中堅作家たちが、その関係に苦しみながら作品を書いていると感じられたからだ。――小説は小説のためだけに書かれる、という考え方もある。たしかにこの「小説らしさ」を前提とする文学観は、小説が社会に影響をおよぼす主要なメディアで、教養的にも熱心に読まれていた時代にはリアリティーがあった。しかし作家よりお笑い芸人の言葉で本が売れ、ネット上ではまんがやアニメーションが熱心に語られている現在、これは楽観的すぎる考え方だろう。
 だから意識的な書き手は、作品で「小説らしさ」を前提にせず現実との関係を作り出そうとする。まず金原作品は、父親と離婚した母親と暮らしていてその母親も亡くした、大学生「理有」と高校生「杏」という姉妹を描く。現代日本を舞台にしたその作品で、これまで現実と通じる回路となっていた作者自身を思わせる語り手や主人公は姿を消し、性的に奔放な妹と生真面目すぎる姉が、危うい印象で生きる様子が辿(たど)られている。
 作者は現実との関係を作り出し、作者自身と切り離された若い女性たちを描く挑戦をしている。しかし「理有」と「杏」が抱える生きづらさの起源が、すべてその母親にあるように感じられてくると、実は作品が作者自身を思わせる人物に強く規定されていることに気づく。
 作者自身を思わせる人物の位置づけに苦心しているのは、羽田作品もおなじだ。二〇一五年に芥川賞を又吉直樹と同時受賞し、それからテレビへの出演が増えた羽田は、羽田自身を連想させる「成功者K」という主人公を造形している。「芥川賞」や「文藝春秋」が実名で登場し、受賞から大きく環境も生き方も変わった小説家の「K」は、読者がテレビで拡散された「羽田圭介」のイメージを重ねられるように書かれている。
 それによれば、小説家「K」は近づいてくる女性たちと好きなように性交し、以前から交際していた地味な女性とは別れて若い女優とつきあい、仲間の作家たちからは少し距離を置かれている。テレビというメディアを介しているので、体験的な告白と小説的な虚構の区別がつけにくいが、だからこそ告白や虚構を経由せずに語れない真実の感触に乏しい。思うに小説が作り出す現実との関係より、テレビが生んだ作家「羽田圭介」のイメージの方が強いのである。
《参照:毎日新聞・作品と現実の回路 ありふれたものでつなぐ

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2017年1月14日 (土)

読売新聞【文芸月評1月】近未来 緻密な想像力で

  島田雅彦さん(55)の「黎明れいめい期の母」(新潮2月号~)は、衝撃的な近未来小説だ。
  長嶋有さん(44)の「もう生まれたくない」(群像)も、震災後の世界に対する問題意識を感じた。  
  上田岳弘さん(37)の「塔と重力」(新潮)は、高校時代に阪神大震災に遭遇した男の話だ。勉強合宿と称して宿泊したホテルが倒壊し、生き埋めとなり、淡い思慕を抱いていた女性を後に亡くした彼の約20年後を描く。
  滝口悠生さん(34)の作品はなぜいつも、胸を内側からかきむしりたくなるようなせつなさを催すのだろう。短編「街々、女たち」(同)は、離婚して一人で暮らす男のアパートに、見知らぬ若い女性が成り行きで泊まる話だ。深く交わらないからこそ、美しく残る夜の鈍い輝きがあった。
  松田青子さん(37)の『おばちゃんたちのいるところ』(中央公論新社)は、生きづらさを抱えた現代の女性たちのもとに物ものの怪けが訪れる小品などを収めたキュートな短編集。同著は、昨年創刊された小さな文芸誌「アンデル」などから生まれた。(文化部 待田晋哉)
《参照:読売新聞2017年01月05日【文芸月評1月】近未来 緻密な想像力で》

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2017年1月 2日 (月)

文芸時評1月世界の形を決める 早稲田大学教授・石原千秋

  テクノロジーは自動作用があるかのように進歩する。それを止めることができるのは文化しかない。どこまで進歩させるかを決めるのも文化しかない。大学では、文系学部の縮小は止まりそうもない。それは、僕たちが世界の形を決めることができなくなることを意味する。僕はただこのゆえに、文系学部の縮小に反対する。ただこのゆえに、文学に期待し、だから厳しくありたいと思っている。新しい年を迎えるに当たって、これだけは書いておく。
  今月は論評すべき文学作品は一編もなかった。これが今月の論評である。
《産経:文化が世界の形を決める 早稲田大学教授・石原千秋

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2016年12月12日 (月)

文芸時評11月(東京新聞)・佐々木敦氏

《対象作品》
服部文祥(ぶんしょう)「息子と狩猟に」(『新潮』12月号)/加藤秀行の「キャピタル」(『文学界』12月号)。
《東京新聞:服部文祥「息子と狩猟に」 加藤秀行「キャピタル」 佐々木敦

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2016年12月 9日 (金)

文芸時評12月「ある領域から別のある領域へ移動する人物」石原千秋氏

 主人公とは何だろうか。主人公とは「ある領域から別のある領域へ移動する人物」だとする。NHKの「連続テレビ小説」は「少女から女へと移動(成長)する人物」を数十年繰り返して放映している。これが、主人公の典型である。僕はいまこれを「物語的主人公」と限定的に呼んでおきたい。小説にはもう一つの主人公の型があるからだ。それは「~について考える人物」である。漱石後期3部作の近代的知識人と呼ばれてきた主人公たちで、須永市蔵(彼岸過迄)、長野一郎(行人)、「先生」(こころ)。これを「小説的主人公」と呼ぶことを提案したい。
 もちろん、主人公はこの2つの型にはっきり分けられるわけではなく、多くの場合、一人の人物がどちらの性格も具(そな)えているが、それでもどちらかに偏っているのがふつうだろう。このように主人公を2つの類型に分けてみると、近代文学が理解しやすくなる。たとえば、私小説の主人公は身辺に起きたことについていろいろ思い考えるから「小説的主人公」の性格をより多く具えているというように理解すればいい
《産経:主人公の2類型 早稲田大学教授・石原千秋》 

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