2019年1月 8日 (火)

【文芸時評】東京新聞(2018・12・27)佐々木敦

   今月はまず『新潮』1月号が「読むことは、想像力」と題した「創作大特集」を組んでいる。ヤマザキマリ+とり・みきの人気マンガ『プリニウス』の連載が『新潮45』の休刊に伴い移ってきたことも話題だが、他にも瀬戸内寂聴、町田康、松浦寿輝の新連載が開始され、華やかな新年号と言っていい内容となっている。特集には総勢二十六人が参加しており、「創作大特集」と言いつつ「特別原稿」としてエッセイや対談、写真作品(杉本博司)なども混じっている。
 自らが率いる劇団の名前を題名に冠した山下澄人の「FICTION 01」は、左半身不随の実在の劇団員オギタをモデルにした自由奔放な書きっぷりに引き込まれるが、あらゆる者に容赦なく訪れる「死」に対する透徹した視線は悲劇性を増している。円城塔の「歌束」はごく短い作品だが、『文字渦』の「文字」に続いて「和歌」をめぐる連作が始まるのかもしれないと期待させられる。宮内悠介「ローパス・フィルター」は芥川賞候補になった『ディレイ・エフェクト』と同じく、SF的発想を用いて倫理的な問題に迫る好作。朝吹真理子「mameのブルゾンください」は『TIMELESS』の番外編的な掌編だが、言葉の凝縮度と突然に時空を超える跳躍の力はこちらの方が上かもしれない。「特別原稿」も含め、特集名にある「想像力」が緩やかな全体のテーマになっているようだ。
 『すばる』の特集は「本を読む」。インタビュー、ルポ、論考、アンケートなど、創作以外のヴァラエティに富んだ記事が並んでいる。アンケートの問いは「どうやって本を読んでいますか」で、諸分野で活躍する三十人の回答が寄せられているのだが、文芸雑誌でわざわざ「本を読む」ことが特集のテーマにされるというのはいささかアイロニカルではある。
 『群像』は特集「文学にできることを」。「I<短篇創作>」とあるので次号に続くようだ(「II」では何をするのだろう)。瀬戸内寂聴、笙野頼子、日和聡子、高橋弘希、小山田浩子の短編が掲載されている。その他、新年号らしいのは多和田葉子の『地球にちりばめられて』に続く新連載「星に仄(ほの)めかされて」が始まっていることだろうか。ちなみに今月、四誌全てに多和田は登場している。『すばる』はリービ英雄との対談、『新潮』は「特別原稿」の「沈黙のほころびる時」(このエッセイは『新潮45』問題へのレスポンスにもなっており、重要な内容である)、『文学界』は温又柔(おんゆうじゅう)との対談。今年は満谷マーガレットによって英訳された『献灯使』での全米図書賞翻訳文学部門受賞もあり、ベルリン在住の二言語作家である多和田の存在感はいや増している。そして近年、手を替え品を替え、さまざまな(時には文芸雑誌らしからぬ)特集を組んでいる『文学界』が、今月に限って特集をやっていないのがなかなか興味深い。これは明らかに他誌との差異化を狙ってのことだろう。
 その『文学界』では、磯崎憲一郎の新連載「日本蒙昧(もうまい)前史」が始まっている。他は多和田×温の対談と、メディアアーティストの落合陽一と『平成くん、さようなら』で芥川賞候補になっている社会学者の古市憲寿の対談。しかしここでは古川真人の中編「ラッコの家」に触れておこう。芥川、三島両賞の候補に挙げられた『四時過ぎの船』にも現実を不分明にさせる老境の印象的な描写があったが、この小説は視力の弱った八十近い叔母と二人の姪(めい)の話から始まる。古川のこれまでの作品と似通った世界ではあるが、うねるような語りがほとんど改行なしに延々と連ねられてゆく魅力的な文体は新たな局面に入ったようであり、結末も大変に鮮やかである。力作だと思う。
《参照: 古川真人「ラッコの家」 小山田浩子「小島」「夜神楽の子供」 佐々木敦

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2018年12月28日 (金)

【文芸時評】1月号(産経新聞12月23日) 石原千秋教授

--2頁から抜粋ー
もし近代国家も崩壊した果てに、AIが物語を作ったらどうなるだろうか。AIが物語を作ることそれ自体が問題なのではない。AIが作った物語を人々が物語だと心から信じたときが、人類が人間ではなくなるときだ。ミシェル・フーコーは、世界の主体としての人間の終焉(しゅうえん)を説いたが、それとはちがった意味での人間の終焉がはじまっているようだ。僕たちは自らを理解するために、「人間」とはちがった言葉を用意した方がいい時期にさしかかっている。
 河出新書再始動第1号の橋爪大三郎と大澤真幸との対談『アメリカ』は、アメリカの政治から思想までをも縦横に語った読み応えのある本だが、このアメリカは明らかにトランプ以後のアメリカである。大澤は、いまのアメリカは本気でキリスト教を信じている一握りの人々がいるから、まあアメリカはキリスト教国家としておこうという「なんちゃって」キリスト教国家だと言うのだ。僕たちは、これまで自らを人間と呼んできたから、まあこれからも人間と呼んでおこうという「なんちゃって人間」になってはいないだろうか。
《参照: 【文芸時評】1月号 僕ら「なんちゃって人間」?! 早稲田大学教授・石原千秋 》

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2018年12月24日 (月)

【文芸時評】12月(東京新聞)文芸この1年(下)佐々木敦さん×安藤礼二さん

◆反現実的小説の時代(佐々木)
 佐々木 第百五十九回芥川賞の候補作「美しい顔」の問題にも触れたい。東日本大震災で家族を失った少女を主人公にした小説で、ノンフィクション作品との類似表現が問題になりました。デビュー作だった北条裕子に脇が甘いところがあったのは事実。この作家は二作目が書けるかどうかが勝負でしょう。
 安藤 震災を題材にしたのが全ての原因だと思います。歴史を描くか、フィクションを描くか、位置取りが明確でなかった。震災は非常に強いリアルなので、題材にするにはたいへんな覚悟が必要。
 佐々木 確かに、本人も被災地に行かずに書いたと公言していて、盗作疑惑がなくても批判される可能性はありました。ただ、それでも擁護したいと僕が思うのは、あれが新人の第一作だったからです。推測するに、彼女はテレビ報道で震災ポルノ的なものを見て、心の底からムカついたんだと思う。だから主人公の少女はやっぱり作者自身なんです。その個としての切実さは認めたい。
 安藤 でも、震災を文学に利用しては駄目ですよ。確かに、文学作品は究極の反社会性を持たざるを得ないところがある。笙野頼子(しょうのよりこ)の『ウラミズモ奴隷選挙』には、男性の痴漢する自由が、『新潮45』問題の起きる前にパロディー的に嘲笑されています。ただ、彼女は自分が言葉の暴力を行使しているということに自覚的。作家は言葉の暴力にあらがうと同時に、その主体であることを踏まえ、それに伴う責任を引き受けなければいけない。
◆言葉の暴力に自覚を(安藤)
 安藤 今の作家たちが未知なるものに挑む力をすごいと思う一方で、どこか既視感もある。例えば人間にとって性的な欲望とは何かという問題。かつては性を正面から描くのがある種の解放でしたが、今はむしろ性の交わりがない中で、どうやってコミュニケーションを取るかという主題が目立ちます。
 佐々木 その問題をはっきりリアルに描いているのが村田沙耶香。性や生殖が人間の営みの基本になっているという人間観自体にノーを突きつけている。『地球星人』というタイトルも秀逸。『殺人出産』『消滅世界』、そして本作と、家族とか人間関係とか、常識だと思われていたことを全部壊していく。一方で、「日本」を徹底的に相対化し、ドメスティックな問題自体を無効化するという立場を取るのが多和田葉子です。『地球にちりばめられて』では、日本という国そのものがなくなっている。
 安藤 多和田と書き方も主題も対極的に見えるのが平野啓一郎の『ある男』。主人公は在日三世の弁護士で、戸籍を交換した男を追ううち、彼自身もアイデンティティーを失っていくという話。ストーリーテラーとしてうまい。多和田作品が外側に開かれているとしたら、平野は内側に同じような問題を追っている気がしました。
(後半省略)
<ささき・あつし> 1964年生まれ。批評家。著書に『新しい小説のために』『ニッポンの文学』『シチュエーションズ』など。
<あんどう・れいじ> 1967年生まれ。文芸評論家、多摩美術大教授。2015年、『折口信夫』でサントリー学芸賞。近著は『大拙』。
《参照: 文芸この1年 佐々木敦さん×安藤礼二さん 対談(下)》


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2018年12月23日 (日)

【文芸時評】12月(東京新聞)文芸この1年(上)佐々木敦さん×安藤礼二さん

   文芸時評を執筆している批評家の佐々木敦さんと、文芸評論家で多摩美大教授の安藤礼二さんが2018年の文学について語り合いました。(文中敬称略)ー一部抜粋ー
◆奥泉、巧さの極致に(佐々木)
 安藤 今年を振り返ると、歴史と物語の関係を再考するものが多かったと思います。平成が終わることが決まり、もう一度、作家が歴史をどう解釈し、自分なりの物語として書くかが問われました。
 佐々木 新書でも歴史ものがベストセラーになっており、歴史への関心が無意識的なレベルで高まっていると感じます。その点で今年を代表する作品としてまず挙げたいのが、戦前の昭和を舞台にした奥泉光の『雪の階(きざはし)』です。彼のお家芸ともいうべきパターンですが、ミステリーの形式を取りながらどんどん話が混沌(こんとん)としていく。普通のミステリーのように結末で物語が収束することなく、読者を異世界に連れていく。今作では文章も語り口も巧(うま)さの極致に来ている。
 安藤 奥泉は、この本で三島由紀夫と松本清張とを一つにしたかったのかなという気がします。
 佐々木 それは明らかにありますね。僕は先日「豊饒(ほうじょう)の海」の舞台を見たのですが、昨年は「美しい星」が映画化され、今年も大澤真幸が新書(『三島由紀夫 ふたつの謎』)を出すなど、三島のプチブームが来ている。古川日出男の最新の戯曲も「ローマ帝国の三島由紀夫」だし。これも平成の終わりと関係があって、三島というスクリーンの向こう側に見えるのは天皇なんです。
◆異質排除する論壇(安藤)
 安藤 女性作家が増えたとはいえ、やはり文学界は根本的に男社会だったことが露呈したのが、早稲田大の文学学術院で起きたセクハラ問題。大学の問題と文学の問題が連動している面があります。教育現場では、教える側と教わる側が非対称で、権力関係が醸成されやすい。そして、文学というものを本当に教えられるのかという点も問われました。誰もが作家になれるわけではない。小説を書きたい学生が大学の教員から学ぶのは、不幸な出会いではないかと以前から感じていました。
 佐々木 あの案件については一切擁護できない。被害を申し立てた元大学院生の勇気ある行為によって問題が表面化したことはたいへん良かったし、再発に対する歯止めにもなり得る。また、寄稿がLGBT(性的少数者)への差別的表現だと批判され、『新潮45』が廃刊になった問題では、文芸誌が意外なほどビビッドに反応しました。そうしないわけにもいかないということもあったでしょうが。
 安藤 右と左に分かれがちな論壇誌を見ると、どちら側も異質の意見を入れる余地が全くなく、うんざりします。
《参照:文芸この1年 佐々木敦さん×安藤礼二さん 対談(上)》

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2018年12月 3日 (月)

文芸時評(東京新聞11月29日)=佐々木敦氏

 「アジサイ」(『新潮』12月号)は、『送り火』で第百五十九回芥川龍之介賞を射止めた高橋弘希の受賞第一作である。「妻が家を出てから、庭にアジサイが咲いた」という一文から始まるのだが、ある意味で物語はこの最初の文章を延々と堂々巡りして終わる。証券会社の営業マンである主人公は、三十代にして庭付き一戸建ての自宅を持ち、十分な蓄えもあるというのだから、勝ち組と言っていいだろう。結婚して三年になる妻との間にまだ子どもはないが、夫婦仲は何ら問題がない、少なくとも彼の方はそう思っていた。ところがある日とつぜん、妻は家を出て実家に戻ってしまった。彼には思い当たることが何もない。妻の置き手紙にも理由は一切書かれていない。妻の実家に電話を入れてみるが、気に入られていると思っていた義父母も妙に冷淡で、妻は電話に出ない。携帯にメールしてみても、返信はない。
 ごく短い作品である。主人公にとっては甚だ不条理な状況だが、けっきょく妻の家出の謎は最後まで解かれることはない。終始、夫の側から描かれているので、彼が気づいていない重大な問題や落ち度があるのかもしれないが、読者がそれを推し量るには材料が決定的に足りない。そのように書かれている。答えを得るためのカギというわけではないが、題名に選ばれたアジサイは意味ありげである。その花は妻がいなくなるのと入れ替わりに咲き出したようであり、色彩を変化させつつ、あれからずっと庭に存在している。
 不穏な気配がじわじわと高まってくる様子は、この作家の真骨頂と言ってよいが、いわば結末を欠いたミステリアスな短編としてさすがによく書けてはいるものの、やや技巧が目立つ感もなくはない。
 『新潮』には社会学者の岸政彦による三作目の小説「図書室」も載っている。一作目の『ビニール傘』は芥川賞候補になった。今回の舞台も作家自身の暮らす大阪である。五十歳になる女性の「私」は、十年前に十年一緒に暮らした男と別れてひとり暮らしを始めた。堅い仕事に就いており、生活に不安はない。だが最近、子どもの頃のようにまた猫を飼いたくなってきた。そして「私」は小学生の時を思い出す。物心ついた時点で父親はおらず、母親はひとり娘を育てるために夜の仕事をしていた。家には何匹も猫がいて、毎晩「私」は猫たちと一緒に寝ていた。「私」は別の小学校の同い年の男子と知り合い、親しくなる。
 何と言っても、この作品の読みどころは、小学生の「私」と、その男の子が交わす大阪弁の会話である。子どもらしい他愛(たわい)ない話ばかりなのだが、まるで漫才のような活(い)き活きとしたテンポがあり、おかしみとともに不思議な幸福感が滲(にじ)んでくる。岸の社会学者としての研究スタイルは、取材対象からの聞き取りを基盤とする「質的社会調査」と呼ばれるもので、要は相手の喋(しゃべ)りを丹念に記録するところから始まるのだが、『ビニール傘』と同様に、小説家としての岸はそこで得た感触を最大限に活用している。物語は回想を終えて現在に戻ってくるのだが、小説として綺麗(きれい)にまとめようとしないで、いっそ次は会話だけで書いてみたらどうか? 岸の筆力なら、それだけで十二分に魅力的な「小説」になると思うのだが。
 第六十二回群像新人評論賞は長崎健吾の「故郷と未来」(『群像』12月号)に決まった。長崎は東京大学大学院の日本史学博士課程に在籍中で、当選作は柳田国男論である。一見素朴とも思える題名と同じく、まず論を紡ぐ文章の平易でありながら品のある佇(たたず)まいが良い。ケレン味や鋭さはないが、じっくりと一歩一歩、足元を踏みしめてゆくような文章である。大澤真幸、熊野純彦、鷲田清一の三人の選考委員も、内容以前にそこに惹(ひ)かれたのではないか。これはまぎれもなく「文学」の文体である。
《参照:岸政彦「図書室」 長崎健吾「故郷と未来」 佐々木敦










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2018年11月 2日 (金)

文芸時評10月(東京新聞)三国美千子、須賀ケイ=佐々木敦氏

  一部抜粋=まず新潮新人賞の三国美千子「いかれころ」(『新潮』11月号)は、昭和五十八年、ということは今から三十五年前の大阪、河内で農業で生計を立てている旧家を舞台に、当時四歳の奈々子の視点から、家族や親族のさまざまな相克が描かれる。
  情景や人物の動作の描写が瑞々(みずみず)しくも丁寧なのが好ましい。しかし四歳の幼女にここまで見えているのか、言葉に出来るものかと思っていると、途中から奈々子の視線に数十年が経過して中年女性となった彼女の視線が紛れ込んできて、ああそうだったのかと腑(ふ)に落ちる。ノスタルジックな作品のように見えて、作者は現在を生きている。
 欲を言えばもう少し、この設定が壊れてしまうほど危険なところまで踏み込んでしまってもいいのではと思う部分もあった。まだ自分の小説の世界に対して遠慮がある。次作ではもっと思い切って、この作品に明らかに潜在する死や狂気に迫ってほしい。
  不思議な偶然だが、すばる文学賞受賞の須賀ケイ「わるもん」(『すばる』11月号)も、幼い子供の視点から書かれている。こちらはもっと徹底していて、読者は幼稚園児の「純子」の視界と思念を通してしか物語の内実を知ることが出来ない。純子には鏡子と祐子という年の離れた姉がいる。
《参照:三国美千子「いかれころ」 須賀ケイ「わるもん」 佐々木敦》

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2018年10月29日 (月)

文芸時評11月(産経新聞)石原千秋教授

文芸賞は、日上(ひかみ)秀之「はんぷくするもの」と山野辺太郎「いつか深い穴に落ちるまで」の2作品。「はんぷくするもの」では、震災の被災地で仮設店舗を経営する毅の母が、客の古木さんに三千円ばかりの金を貸すが、古木さんは返さない。そのわずかなお金がこの地域の生活を壊していく。生活がお金を必要とするのではなく、お金が生活を回していく(はんぷくすること)ありさまが日常の中で語られていく秀作だと思う。「いつか深い穴に落ちるまで」は、日本からブラジルに最短距離で行けるような穴を掘る話。僕も子供の頃、そういうことができればいいと思ったものだ。そのバカバカしい話を大まじめに書くのがいい。しかし、「結末があまりにも安易」(町田康)という選評はその通りだ。
新潮新人賞は、三国美千子「いかれころ」。南大阪エリアを舞台に、差別問題と姉妹の結婚問題とを絡ませた作品で、谷崎潤一郎『細雪』と中上健次の諸作を混ぜて薄めてひっくり返したような作品。幼い妹の視点から語られるからそれが強くは出ない。この「新人」は「自分らしさ」を壊す力があるように思えた。
 すばる文学賞は、須賀ケイ「わるもん」。これもある一家の出来事を幼い子供の視点から書く。したがって、何が起きているのかその全体がわからない。全体が家族の異化になってはいるが、それだけの作品だと思う。
《参照:産経新聞2018.10.28 早稲田大学教授・石原千秋 「自分らしさ」を壊す

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2018年10月 4日 (木)

文芸時評10月(産経新聞)石原千秋氏

  坂上秋成「私のたしかな娘」(文学界)は、本名は由美子なのに「エレナ」という名を付けた知人の娘と、いや、彼女は「自分の娘だ」と感じる、エレナと名付けた34歳の神谷との奇妙な関係を書いた小説で、その隠微な感じがいい。しかし、それは冒頭近くでもうわかってしまう。「スカートの下に伸びる陶器のように白い脚が他人の情欲を刺激することは十分に考えられた」とあるからだ。この「情欲」が、こう想像する神谷のものであることはあまりにも明らかだからだ。ちょとばかり種明かしが早すぎたように思う。
 金原ひとみ「アタラクシア」(すばる)は新連載だから内容には触れないが、最後はこれでいいのだろうか。「レジ袋を持って半歩先を歩く俊輔の斜め後ろを歩きながら、空を見上げる。何やってるんだろう。私の疑問に答えるように、星たちが小さく瞬いた。」と終わるからだ。そして「つづく」となる。短編ならこれでもいいと思うが、まだ続くのに星が解答してはまずいだろう。最後の一文はいらない。それで読者は、「何やってるんだろう」を一緒に考えてくれるのではないか。
 最近の「連続テレビ小説」はおばあさんの役割が大きくなっているなと漠然と感じていた。トミヤマユキコ「おばあさんがヒロインになる時-現代老女マンガ論」(すばる)を読んで合点がいった。もちろん家庭や親戚のおばあさんと一人でキャラが立つマンガのおばあさんとではテイストは異なるが、いまはまちがいなくおばあさんの時代なのだ。ただ、トミヤマユキコのキャラは斎藤美奈子とまるかぶりではないかな。
《参照:産経新聞=文芸時評10月号 早稲田大学教授・石原千秋 おばあさんの時代》

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2018年10月 2日 (火)

文芸時評10月(東京新聞9月26日)佐々木敦氏

《参照:石井遊佳「象牛」 坂上秋成「私のたしかな娘」 古川日出男「ローマ帝国の三島由紀夫」 佐々木敦
 『新潮』10月号で古川日出男が長編戯曲「ローマ帝国の三島由紀夫」を発表している。同誌は野田秀樹や岡田利規、神里雄大などの戯曲を随時掲載してきたが、舞台化の決まっていない純粋な書き下ろし戯曲、それも小説家の筆による戯曲は非常に珍しい。古川には『冬眠する熊に添い寝してごらん』という戯曲があるが、これは故・蜷川幸雄の演出によって上演されることが前提だった。だからこれはかなり貴重な試みだと言っていい。
 「戯曲」も「文学」の一形式である。かつての文豪はしばしば戯曲に取り組んだものである。その最大の存在こそ三島由紀夫であり、古川は大胆にも「ミシマユキコ」を舞台上に登場させる。破格のスケールの小説を次々と書いてきたこの作家は、戯曲でもあっさりと時空を超えてみせた。

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2018年9月 5日 (水)

文芸時評8月(東京新聞)今の世界、社会、時代、日本=佐々木敦氏

 古市憲寿(ふるいちのりとし)「平成くん、さようなら」(『文学界』9月号)は、同誌4月号の「彼は本当は優しい」に続く、人気社会学者の二つ目の小説である。「平成くん」は語り手の女性の彼氏のファーストネームで、「ひとなり」と読む。彼は一九八九年一月八日、すなわち「平成」の始まりとともに生まれ、大学の卒論が二〇一一年三月十一日の東日本大震災に関連づけられて書籍化されたことをきっかけに、あっという間にメディアで引っ張りだこになった。有名な漫画家だった亡き父親の著作物の管理をしながらアニメのプロデュースやイラストを手掛けている「私」は、平成と付き合うようになり、現在は同居している。物語は、彼女が平成から「平成」が終わるとともに安楽死をしようと思っていると告げられたことから始まる。
 誰もが平成に作者自身を重ねて読んでしまうわけだが、私はテレビを普段まったく観(み)ないので、古市憲寿と「平成くん」が、どの程度似ているのかはわからない。実際よりもさらに人間らしさの足りない無機質な人物として描かれているようにも思える。それはともかくとして、作者の狙いはもちろん、このような非常にフィクショナルな設定を使って平成という時代の終焉(しゅうえん)を浮かび上がらせようとしたということだろう。そしてそれはかなり成功している。情報量の多い内容を軽快に捌(さば)きつつ、きわめて読みやすい文体でサクサクと進んでゆくストーリーは、ラストで思いがけぬ湿度を帯びる。
 だが私にとって最も興味深いのは、何よりも古市憲寿がこれを書いたということである。
《参照:古市憲寿「平成くん、さようなら」 鴻池留衣「ジャップ・ン・ロール・ヒーロー」 佐々木敦

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