2019年6月10日 (月)

【文芸時評】6月(産経新聞5月26日)石原千秋氏

   (抜粋)ーそれで、十数年前に作った講義メモがあまり役に立たなくなった。たとえば、村上春樹自身が語っているように、『ノルウェイの森』の大ヒットは予想外の出来事だったのだろう。『ダンス・ダンス・ダンス』は『ノルウェイの森』の呪縛から逃れるために書かれた小説で、単行本の「あとがき」には、主人公の「僕」は初期三部作の「僕」と同一人物だとあるが、文庫にするときにこの「あとがき」を削除した。なぜそれができたのか。それは『国境の南、太陽の西』で、村上文学が決定的に変質したからだろう。こういう講義になっているわけだ。

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2019年6月 3日 (月)

文芸時評(東京新聞5月29日付夕刊)佐々木敦氏

 第三十二回三島由紀夫賞は、三国美千子『いかれころ』(『新潮』2018年11月号)に決まった。この作品については初出時に取り上げたので詳しくは触れないが、昭和五十八(一九八三)年の大阪、河内を舞台に、長年農業を営む旧家の四歳の娘の視点から、家族や親類の悲喜こもごもの挿話が瑞々(みずみず)しい筆致で語られる。この作品は新潮新人賞受賞作、つまりデビュー作である。

 三島賞を新人賞受賞作が貰(もら)ったのは、第二十四回の今村夏子の太宰治賞『こちらあみ子』以来であり、候補になったことも二〇一〇年代に入ってからだと、小山田浩子『工場』(『新潮』)、上田岳弘『太陽』(『新潮』)、町屋良平『青が破れる』(『文藝』)の三作しかない(三島賞は単行本単位でも候補になるので厳密に言うと新人賞受賞作とイコールではないものもある)。

 芥川賞に目を向けると、二〇一七年に第百五十七回が沼田真佑(しんすけ)『影裏(えいり)』(『文学界』)、第百五十八回が石井遊佳『百年泥』(『新潮』)と若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』(『文藝』)の同時受賞と、新人賞受賞作のみで占められたことがある。

 毎回ではないが候補作に新人賞受賞作が含まれていることも三島賞よりずっと多い(芥川賞は「新人に与えられる賞」なので当然とも言えるが)。全ての文芸誌は新人賞を設けているので、芥川賞候補に「新人賞枠」で誰が入るだろうと毎回推測してみるのだが、一本入れるなら『いかれころ』だろうと思っていたら前回は新人賞受賞作はひとつも候補にならなかった。文学賞の予想はむつかしい。

 前にも書いたことがあるが、私は基本的に新人賞受賞作をそのまま芥川賞に選ぶことは好ましくないと思っている。せめて二作目を読んでからでないと、その作家に何が書けるのかを見極められないのではないかと思うし、当の作家自身にもあまり良い結果を生まないような気がするからだ。しばらくするとまた芥川賞の季節がやってくるが、次回は候補に新人賞は含まれているだろうか。

 群像新人文学賞受賞作の石倉真帆「そこどけあほが通るさかい」(『群像』6月号)は、幾つかの点で『いかれころ』と共通する要素を持った作品である。舞台はおそらく関西、三つの名字の家ばかりがある「ムラ」で、おそろしく性格の捻(ねじ)曲がった祖母=「婆」と同居する家族のぎりぎりの姿が、娘=「うち」の視点から描かれる。

 「うち」が十九歳の時に「婆」は亡くなったことが冒頭で語られ、回想へと入っていく。嫁と孫たちを日々口汚く罵(ののし)る「婆」と、一緒になって「うち」の家族を詰(なじ)りながらも「婆」を引き取ろうとはしない親戚の醜さはすさまじく、無口だが優秀な頭脳を持った「お兄」も、勉強が出来ず将来何をしたらいいのかもわからない「うち」も、長きにわたって姑(しゅうとめ)の悪口雑言を耐え忍んできた「お母ちゃん」も、やがて感情を爆発させる。方言で語られる「うち」の一人称は素朴で読みやすく、そのせいで却(かえ)って起きていることの酷(ひど)さが際立つ。描写にしても構成にしても、もう少し工夫があってもいいような気もするが、新人賞らしい熱量を持った作品である。

 古市憲寿(ふるいちのりとし)「百の夜は跳ねて」(『新潮』6月号)は、物議を醸した前作『平成くん、さようなら』とは打って変わって、有名大学を卒業しながら就職活動に失敗し、ひょんなことからビルのガラス清掃の会社で働くようになった「僕」が、高層マンションの広大な部屋に独居する大金持ちの老婆に依頼され、無数の窓の向こう側に広がる他人たちの生活を盗撮する、という物語である。

 仕事に就いてまもなく職場の先輩が事故で命を落とした。「僕」には今も彼の声が耳元で聞こえることがある。老婆のマンションには大小沢山(たくさん)の箱が置かれている。彼女には彼女の物語があるようだ。「僕」は老婆と親しくなっていくとともに、自分自身を新たな視線で見るようになっていく。結末がやや甘い気もするが、この極めて現在形の叙情は魅力的である。力作だと思う。

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2019年5月21日 (火)

文芸時評5月(産経新聞4月28日) 早稲田大学教授・石原千秋 「社会貢献」

 保坂和志と郡司ペギオ幸夫の対談「芸術を憧れる哲学」(群像)が面白い。郡司ペギオ幸夫は『天然知能』(講談社選書メチエ)で、何事も数値化して世界に働きかけるAIに対して、「徹底した受動性の肯定的転回」を主張しようと考えたと言う。郡司ペギオ幸夫の話はほとんど現代思想の良質の解説を読んでいるような趣があるが、なかに科学の社会貢献の話題が出る。物理学の社会貢献をずっと考えてきたという学生に、こう語ったのだと言う。「物理がいいといっても、カップに水を入れると、水はカップの形になりますね。そうすると、水はカップの形をしたものだと。自分の観測装置だとか認識様式に応じて物事を決めて、あとはできるだけ徹底してそれだけを見るという形にすれば、水はカップの形をしているのが正しいということになりますね。それは極端な言い方に聞こえるけれども、結局、科学の正しさというのはそういうもので、それを全面的に展開しているだけなんです。外部に対する違和感だとかいうものを考えることは全く関係がない話だと、僕は言ったんですね」と。

今月は文学界新人賞発表の月。受賞作は奥野紗世子「逃げ水は街の血潮」と田村広済「レンファント」。どちらも見かけ倒しの尻すぼみで、読んでいて「小説をなめるな!」と腹が立ってきた。

 奥野紗世子「逃げ水は町の血潮」は、もう26歳なのにまだゴアゴアガールズというグループで地下アイドルをやっている工藤朝子が、まあそれなりにセックスややんちゃをやって、最後は同じグループの星島ミグと少しだけ遠出をして、2人で朝風呂に入る。染めたばかりの髪を洗うとピンクのお湯が流れて、「視界がピンク一色に染まっていた。結露したガラス越しに星島ミグがこちらを見た。/地団駄(じだんだ)を踏むように大きく『はやく』と言ったのがわかった。」でおしまい。はい、いかにも小説らしく少しおセンチに終われました。セックスややんちゃが既視感バリバリで、「限りなく透明に近いピンク」にはまったくなっていない。参照《文芸時評】5月号 早稲田大学教授・石原千秋 「社会貢献」

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2019年5月18日 (土)

文芸時評4月(産経新聞3月31日)石原千秋教授

    総長が祝辞で「いま人類は最も変化の速い時代を経験している。しかし、これほど変化の遅い時代を経験することは二度とないだろう」というようなことを言っている。「ホー、洒落(しゃれ)ているなあ」と思ったら、カナダの首相の言葉だそうだ。要するに、これから人類の経験する変化はこんなものではありませんよということだが、みごとなレトリックだ。 なにがそれほどまでに変化を加速させるのだろう。もちろん科学である。いま科学は脳と人工知能の研究に集中しているようにさえ見える。いや僕が問いたいのは、なぜ人類はそんなに変化を加速させたがっているのかだった。もちろん欲望がそうさせるのである。それは誰の欲望で、その欲望に宛先(あてさき)はあるのだろうか。

 川上未映子「夏物語」(文学界)千枚が、先月と今月で完結した。精子提供で生まれた人が連鎖する人工授精をめぐる物語。作家になった夏目夏子は若い頃からセックスに拒絶反応があり、未婚のままAID(配偶者の関係にない者同士の人工授精)を選ぶ。相手は、AIDの会合で運命のように出会ったフリーの医師・逢沢潤。彼もAIDでーー

 こうしたストーリーを踏まえると、終わり近くのこの文章をどう読めばいいのか途方に暮れる。「逢沢さんと子どもを作ることを決めたのは二〇一七年の暮れで、わたしたちはいくつかの約束をした。」。問題は「と」だ。「逢沢さんと」「作る」のか、「逢沢さんと」「決めた」のか。「逢沢さんと」「決めた」ことはまちがいない。しかし、これを「逢沢さんと」「作る」と言えるのだろうか。だとすると、「と」だろうか。それに、二人は互いに好意を持っている。だとすれば、このAIDは夏目夏子のセックスへの拒絶だけが理由になる。そういう恋愛小説なのか。かつては「借り腹」という残酷な言葉があった。それなら、夏目夏子が逢沢潤に精子を提供されて子どもを生むのではなく、逢沢潤が夏目夏子の腹を借りるのではないのか。「精子提供で生まれた人が連鎖する人工授精をめぐる物語」と読むなら、主人公は夏目夏子ではなく逢沢潤であって、その方が筋が通っている。参照《【文芸時評】4月号 早稲田大学教授・石原千秋 宛先のない欲望》》

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2019年5月 2日 (木)

文芸時評4月(東京新聞4月25日)『たべるのがおそい』「台風の目」が終刊に=佐々木敦氏

 翻訳家、小説家、歌人、アンソロジストなど多面的な顔を持つ西崎憲(けん)が編集長を務め、福岡の小出版社である書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)が版元の『たべるのがおそい』は、創刊以来、意欲的な誌面作りに取り組み、二作の芥川賞候補(今村夏子「あひる」と宮内悠介「ディレイ・エフェクト」)を輩出したことで、やや大袈裟(おおげさ)に言えば近年の文芸シーンにおける台風の目のひとつとなった。まだ終刊号から三たび芥川賞候補が出る可能性も残されているが、そうならなくてもこれはすでに画期的なことである。終刊号の特集は「ジュヴナイル-秘密の子供たち」。銀林(ぎんばやし)みのる、飛浩隆(とびひろたか)、櫻木みわ、岩井俊二、西崎憲の小説/エッセイに加えて、ドイツ文学の研究者/翻訳家の松永美穂が初の小説「物置」を寄せている。

 特集ではないが、ラテンアメリカ文学を専門とする柳原孝敦(たかあつ)の初小説「儀志直始末記」も載っている。松永作は特集に合わせて、少女の瑞々(みずみず)しくも透徹した視点から祖母の想(おも)い出を描いた小品だが、柳原の作品は、十数年前に四十歳で亡くなった友人「伊地知孝行」の遺品から見つかった「儀志直」と題された短編小説と編者による付記という凝った構成のメタフィクションである。高校の時に「ボルヘスになる」と宣言した友人は、その早過ぎる死までの間に、アルゼンチンが生んだ博覧強記の幻想小説家に、どこまで迫り得ていたのか。むろん全てが柳原の創作なのである。まさにボルヘスばりに知略と奇想が張り巡らされた濃密な作品であり、柳原の長編小説をぜひ読んでみたくなった。

 編集長とアートディレクターが交代して大がかりなリニューアルとなった『文藝』は、今号から特集主義を採るということだ。特集は「天皇・平成・文学」。池澤夏樹と高橋源一郎の対談、東浩紀のエッセイ、温又柔(おんゆうじゅう)、岡田利規(としき)、福永信、飛浩隆、小川哲の短編、そして古谷田奈月(こやたなつき)の長編一挙掲載『神前酔狂宴』。いかめしい題名だが、明治の軍神を祀(まつ)る神社に併設された結婚式場でアルバイトをするフリーターの話である。軍神も神社も架空のものだが、いかにもなリアリティがあり、ワリの良い仕事だからと軽い気持ちで働き始めた主人公を通して、読者は「天皇制」の「日本」の「社会」と「家族」の不可思議に対峙(たいじ)させられる。力作である。その他、新連載が幾つも始まっており、表紙にあしらわれた「文芸再起動」という惹句(じゃっく)に偽りなし、次号以降も期待したい。

 片岡義男「窓の外を見てください」(『群像』5月号)が今月のベストである。短編小説の連作を書こうとしている男が女たちに会いに行く、それがそのまま長編小説になってゆく。「昭和」から「平成」の終わりまで片岡の文章の手触りは、ほとんど変わることがない。だが、ここには何か時代を超えた絶対的な新しさがある。(ささき・あつし=批評家)

《参照:『たべるのがおそい』「台風の目」が終刊に 片岡義男「窓の外を見てください」 佐々木敦

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2019年4月 3日 (水)

文芸時評3月(東京新聞3月28日・夕刊)町屋良平、今村夏子作品=佐々木敦氏

 『新潮』4月号に早くも町屋良平の芥川賞受賞第一作「ショパンゾンビ・コンテスタント」が掲載されている。とはいえ長さとタイミングからしておそらく受賞以前に書き進められていたものだろう。ピアニストとしての自分の才能に見切りをつけ、音楽大学を中退して今は小説家を目指している「ぼく」、その親友で気まぐれな性格ながらピアノの天賦のセンスを持つ源元、源元の恋人で「ぼく」が片想いしている潮里、「ぼく」と潮里とはファミレスのバイトが一緒の、何かと頼りになる寺田くんの四人の物語である。

 自分たちをモデルにした「ぼく」の小説の書き出しが何度も挿入されるのが面白い。そういえば町屋と一緒に芥川賞を受賞した上田岳弘の「ニムロッド」にも同様の設定があった。小説の中で小説が書かれる、という趣向が、かつてのような前衛的な文学実験としてではなく、もっとナチュラルに行われていることが興味深い。

 小説が読まれなくなったと言われて久しいが、その一方で各種新人賞への応募は増加しており、インターネットの小説投稿サイトも大流行している。「小説を書くこと」の意味が変質してきているのかもしれない。町屋と上田の最新作に「小説家志望者」が出てきたことは、このことと関係があるような気もする。

 今村夏子が、以前の極端な寡作が嘘(うそ)のように次々と新作を書いている。作品集『父と私の桜尾通り商店街』が出たと思ったら新作中編「むらさきのスカートの女」(『小説トリッパー』春号)が発表された。

 この作品も同じだが、隙だらけのようで油断のならない筆捌(さば)きはもはや名人芸の域に達している。物語は後半、思いも寄らぬ展開となる。読む側の心持ちによって、ユーモア小説にも、不気味な話にも、痛ましい物語にも姿を変える、今村にしか書けない作品である。

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2019年4月 2日 (火)

【文芸時評】4月号(3月31日)産経新聞 石原千秋 早稲田大学教授

    いや僕が問いたいのは、なぜ人類はそんなに変化を加速させたがっているのかだった。もちろん欲望がそうさせるのである。それは誰の欲望で、その欲望に宛先(あてさき)はあるのだろうか。

 川上未映子「夏物語」(文学界)千枚が、先月と今月で完結した。精子提供で生まれた人が連鎖する人工授精をめぐる物語。作家になった夏目夏子は若い頃からセックスに拒絶反応があり、未婚のままAID(配偶者の関係にない者同士の人工授精)を選ぶ。相手は、AIDの会合で運命のように出会ったフリーの医師・逢沢潤。彼もAIDで生まれた人である。

  こうしたストーリーを踏まえると、終わり近くのこの文章をどう読めばいいのか途方に暮れる。「逢沢さんと子どもを作ることを決めたのは二〇一七年の暮れで、わたしたちはいくつかの約束をした。」。問題は「と」だ。「逢沢さんと」「作る」のか、「逢沢さんと」「決めた」のか。「逢沢さんと」「決めた」ことはまちがいない。しかし、これを「逢沢さんと」「作る」と言えるのだろうか。だとすると、「と」だろうか。それに、二人は互いに好意を持っている。だとすれば、このAIDは夏目夏子のセックスへの拒絶だけが理由になる。そういう恋愛小説なのか。かつては「借り腹」という残酷な言葉があった。それなら、夏目夏子が逢沢潤に精子を提供されて子どもを生むのではなく、逢沢潤が夏目夏子の腹を借りるのではないのか。「精子提供で生まれた人が連鎖する人工授精をめぐる物語」と読むなら、主人公は夏目夏子ではなく逢沢潤であって、その方が筋が通っている。

【文芸時評】4月号 早稲田大学教授・石原千秋 宛先のな い欲望

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2019年3月 7日 (木)

文気時評2月(東京新聞2月28日)=佐々木敦氏

  まず『文学界』3月号に「シリーズ『平成考』3」として哲学者の千葉雅也による論考「平成の身体」が載っている。千葉は一九七八年、昭和五十三年生まれ。彼は「昭和末期の約十年間、すなわちバブルの八〇年代に幼稚園から小学校の時期をすごし」た自分の「身体」には「平成的な軽さ」よりも「昭和的な重さ」があると言う。とはいえ彼の人生の大半は平成だったわけで、つまり千葉の世代は「昭和的」から「平成的」への過渡的な存在なのだ。
 千葉は自分は「重さの残滓(ざんし)を抱え込みながら、それに足を取られることもありながら、軽薄化の享楽を生きてきた」のだと続ける。そして千葉は、平成という時代を「インターネット以前/以後」に分割し、彼の世代はその意味においても過渡的だったのだと述べる。このように自分自身の半生と重ね合わせながら、千葉は主にマンガやゲームなどのサブカルチャーの平成という時代を通した変質と、その背景となる、もっと深い次元での「身体/性」の変容を、エッセイと批評の混交のような柔軟な文章で語っていく。
 最終的に彼が「平成の身体」に与える定義は「資本主義的無意味とは『別の無意味』に依拠する身体」というものである。資本主義は加速に加速を重ねて遂(つい)に「無意味」へと突破したが、それとは異なる、より「意味がない無意味」(これは千葉の論集の題名でもある)にこそ「平成」の可能性があったのではないか、と千葉は主張する。
 これに合わせるように『すばる』3月号が「平成とカルチャー」と銘打った小特集を組んでいる。倉本さおりの少年ジャンプ論、清田隆之のさくらももこ論、矢野利裕の小室哲哉論。
 三人とも千葉より若いが昭和生まれであり、結果としてやはり「過渡期」感が滲出(しんしゅつ)している。この中では小室がもっとも「平成的」だと私は思うが、そもそも平成は三十年もあるのだから一点に的を絞って論じるのはむつかしいのではないか。
◆小説家しか書けぬ批評 古川日出男「三たび文学に-」
 『新潮』3月号に古川日出男が「三たび文学に着陸する」を発表している。三たび、の意味は副題で説明される。「古事記・銀河鉄道の夜・豊饒の海」。これは小説家にしか書けない想像的/創造的な文芸批評であり、古川にしか書けない大胆な洞察と張り詰めた文体による文芸批評である。三たび問われる問いは、それぞれに巨大かつ複雑な三つの作品は、何故そのように書かれなくてはならなかったのか、という問いである。古川は三つの、しかし煎じ詰めれば一つの問いに答えるべく、いわばそれらを書き直してみせる。書き直すことによって読み直そうとする。小説家にしか書けない、というのは、そういう意味である。しかし自らも巨大かつ複雑な小説を次々と書き続けながら戯曲や評論まで発表してしまう古川のエネルギーには今更ながら感嘆せざるを得ない。これは欲望というよりも使命感の賜物(たまもの)だと私には思える。何による使命か、これはもう「文学」の、としか言いようがない。
《参照: 「平成論」が続々と にじみ出る「過渡期」感 佐々木敦

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2019年3月 4日 (月)

【文芸時評】2月号(《産経1・27) 早稲田大学教授・石原千秋 

 (頁2)村田沙耶香「信仰」(文学界)は、買い物をするときにはすぐに「原価」を気にしてしまう「現実」主義者の永岡が語り手。浄水器カルトで失敗したかつての同級生・斉川が石毛と組んで「リベンジ」するために、今度は「天動説セラピー」を始めるのに引き込まれていく様子を書いた。小説の構成からは、永岡こそが現実というカルトにはまっているだけではないかという皮肉が浮かび上がるが、それはありふれたテーマにすぎない。僕が興味を持ったのは、前半に頻出する「馬鹿」という言葉である。「石毛は馬鹿だから勧誘されても別に自分は引っかからないだろう」とか、「今からその馬鹿を騙(だま)そうとしてるんじゃん」などなど。これを後半まで持ち込めば、マルチ商法的カルトがマウンティング(自分の優位性を誇示する)競争として見えてくる。
 青木淳悟「憧れの世界」(同)は、タイトルとは裏腹に、多摩ニュータウンへの挽歌である。もうジブリ「耳をすませば」の郊外の時代は終わったと。それは近代が終わったということだ。
《参照:【文芸時評】2月号 早稲田大学教授・石原千秋 現代のマウンティング競争



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2019年2月 4日 (月)

文芸時評1月(東京新聞2019年1月31日)=佐々木敦氏

 (一部抜粋)
 三度目の候補で芥川賞の栄冠に輝いた上田の『ニムロッド』は、私は会心の出来だと思ったが何故(なぜ)か芥川賞の候補にならなかった秀作『塔と重力』に続く、リアリズム路線の作品である(以前の上田は時空を超える荒唐無稽な設定が多かった)。
 物語の鍵となっているのはビットコイン(仮想通貨)で、インターネットのサーバー保守会社に勤務する中本哲史が、ある日社長からビットコイン採掘(マイニング)の新規事業をたった一人で任されたところから物語は始まる。主人公の名前はビットコインを発明した人物の名前サトシ・ナカモトと同じである。
 ニムロッドとは中本の元同僚、現在は遠方に住む友人のあだ名で、小説家になる夢を抱き続けている。中本の恋人で、過去に別の男との中絶と離婚の経験がある紀子が三人目の登場人物である。中本の物語、中本と紀子の物語、ニムロッドが中本に送ってくる小説の断片が並走しながら話は進んでいく。
 町屋は前回(第百五十九回)『しき』で初めて候補となったのに続く二度目の芥川賞候補での受賞である。「純文学」らしくない題材を進んで扱うことで注目されてきた(たとえば『しき』ではネットの“踊ってみた”動画が物語の中心に置かれている)作家だが、タイトルからもわかるように『1R1分34秒』はボクシング小説である。
 とにかく理屈っぽくて自意識過剰な「ぼく」はウメキチというトレーナーと出会うことで変わっていくのだが、小説はボクシングという肉体の戦いを描きつつ、「ぼく」とウメキチの思考のやりとりが主眼となっていく。作品数からすると受賞はまだ早いような気もしていたのだが、上田とはまた違ったタイプの「新しい文学」の担い手であることは疑いない。
 「すばるクリティーク賞」が発表された。受賞作は赤井浩太「日本語ラップfeat.平岡正明」(『すばる』2月号)。タイトル通り、先鋭的なジャズ評論家だった平岡正明と、すでに長い歴史を持ち、ヒップホップ/ラップを生んだ国アメリカとはまた異なる進化を遂げていると言ってよい「日本語ラップ」を縦横に掛け合わせてゆくことで、現在の日本におけるオルタナティヴ(既存のものに代わる)な政治性と運動論の契機を見出(みいだ)そうとする、一種の「革命」論である。
 赤井は二十五歳で、この年齢が若いと言えるのかどうかはともかく、文体はやたらと威勢が良い。青臭いと言ってもいいかもしれない。挑発を通り越して悪罵と思えなくもない先行者への批判の舌鋒(ぜっぽう)や、言いっぱなし的な脇の甘さも気にはなる。
《参照:上田岳弘「ニムロッド」 町屋良平「1R1分34秒」 佐々木敦

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