2020年7月 1日 (水)

文芸時評6月(東京新聞30日夕刊)=伊藤氏貴氏

 東裕紀「考えることを守る」割り切れない困難を/千葉雅也『清く正しくは安易』非常時の日記。
《対象作品》 東裕紀「考えることを守る」(「群像」7月号)批評特集。/高原到「戦争の『現在形』-70年生まれの作家たちのの戦争小説」(前掲誌」。/高橋弘希、宮内悠介、柴崎友香、古処誠二が、若い世代が戦争を描くことの意味を問う。(同)/。古谷田奈月「これは戦争ではないので、誰も戦士にも戦場記者にもならない」(「文学界」7月号)。千葉雅也「非常時の日記」(同)/岩城京子「『テント思考』と演劇」(スバル」7月号)。

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2020年4月28日 (火)

文芸時評5月(産経新聞)石原千秋教授

    それにしても-近未来は閉じこもる時代なのだろうか。近代の扉を開いた鉄道が、現代の扉を開いた飛行機がいまや過去のものになりつつある。国境や県境という過去の境界線がこれほど強固に作用する時代が来るとは思ってもみなかった。 文学界新人賞は三木三奈「アキちゃん」。問題提起的な作品であることはまちがいない。「わたしはアキちゃんが嫌いだった」で始まる。実は、アキちゃんはアキヒロ、つまり「男」。トランスジェンダーであることが、最後に明かされる。ミッカー(語り手)はアキちゃんに女として好きになってほしいのだが叶(かな)わない。それで「嫌い」なのだろう。このテーマに興奮しきっているのが川上未映子だが、いまさら感がある。あえて言うが、トランスジェンダーは小説の構成に利用されているだけで内実がない。「種明かしはこれだけ?」というのが、正直な感想だ。参照:【文芸時評】5月号 「コロナ世代」への責任 早稲田大学教授・石原千秋

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2020年4月 7日 (火)

文芸時評3月「東京新聞」(3月31日)=佐々木敦氏担当・最終回

(抜粋) 砂川文次「臆病な都市」(『群像』4月号)は「新型感染症」をめぐる物語である。だが今現在、世界中で猛威をふるっている新型コロナウイルスのことではない。舞台は今から数年後、「K」は「首都庁」に勤める若手官僚だが、現実とは組織の名称などが変えられており、一種のパラレルワールドのようである。物語は「鳧(けり)」が媒介する新型感染症の発生が疑われるところから始まる。早々に専門家から事実無根の風説であることが示され、Kたち役人も最初はことを軽視しているのだが、市民からは不安の声が次々と上がり、国と都の方針に反して或る自治体が独自の対策を打ち出したことから、行政も対処をせざるを得なくなる。その結果、存在しないはずの新型感染症が不気味なひとり歩きを始める。
 主人公の名前といい、官僚機構のナンセンスな駆動ぶりといい、現代版のカフカを志向した作品であることは間違いない。だが読み進んでゆくと、この小説が撃とうとしているのは、統治する側よりもむしろ「民意」の暴走であるらしいことがわかってくる。後半、状況はどんどんエスカレートしていき、ディストピア的な世界が現出する。私が考えてしまった「余計なこと」というのは、それが現在の状況を反転したネガのように見えてくるということである。この小説では存在しない病気が在ることになっていくのだが、この国では現在、明らかに存在している病気を見えにくくしようとするメカニズムが働いているように思われるからである。これは作者の意図したことではないかもしれないが。
 劇作家の松原俊太郎による文芸誌初小説「ほんとうのこといって」(同)を興奮しながら読んだ。松原は過去に「またのために」という短編小説を発表しているが、前作をアクロバティックな助走とすればこれは大胆不敵な跳躍である。「淀川河口付近の緑地の堤防」で「イヌ」が「発見」される。イヌというから犬だと思ってしまうが、イヌは年齢不詳の男性のヒトであり、駆けつけた警官の人差し指を顛(か)みちぎって現行犯逮捕される。イヌは右目の視力がなく、左目もほとんど見えていないようだ。取調室で「私」がイヌから聞く長い長い身の上話(?)が、この小説の内容である。
 岸田國士戯曲賞の代表作「山山」にも顕著だが、松原は物語の結構よりも「台詞(せりふ)=声=言葉」の濃度と速度と強度において際立った才能を発揮する劇作家である。その天分は小説にも遺憾なく披露されており、とりわけ前半、イヌが異常に猜疑心(さいぎしん)の強い恋人かさねとの顛末(てんまつ)を語るパートの壮絶にして切実な滑稽さには舌を巻いた。最後まで読んでも多くの謎や隙間が残されるが、そんなことは全然気にならない。こういうわけのわからない、だが凄(すさ)まじく面白い「小説」を、もっと読みたい。
◆「文芸誌」にこだわって
 さて、私が本欄を担当するのは今回が最後である。ちょうど丸五年間、私はこの時評を敢(あ)えて「文芸誌」の「小説」に対象をほぼ限定して執筆してきた。文芸時評にはいろいろなやり方があり得ると思うが、私が選んだのは、ある意味で最も狭いアプローチだった。なぜそうしたのかといえば、文芸誌(の小説)はなかなか読まれないからである。この選択にどれほどの効果があったかはわからないが、自分としてはこれでよかったと思っている。文芸時評を降りることにした理由は複数あるが、そのひとつは初めての小説「半睡」(『新潮』4月号)を発表したからである。さまざまなジャンルで長く批評をやってきたが、これをきっかけに私は今後、創作をしていくつもりでいる。つまり評する側から評される側になったのだ。だから文芸時評はひと区切りつけるべきだと考えたのである。ご愛読、ありがとうございました。(ささき・あつし=批評家)
 *佐々木敦さんの文芸時評は今回で終わり、四月からは文芸評論家で明治大文学部専任准教授の伊藤氏貴(うじたか)さん=写真=が執筆します。 伊藤さんは一九六八年、千葉県出身。二〇〇二年に「他者の在処(ありか)」で群像新人文学賞(評論部門)受賞。一四年から「高校生直木賞」実行委員会代表を務めている。著書に『同性愛文学の系譜』『告白の文学』『美の日本』など。
松原俊太郎「ほんとうのこといって」 砂川文次「臆病な都市」 佐々木敦

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2020年4月 4日 (土)

文芸時評4月(産経新聞)石原千秋氏

 今月どこか気になるところがあったのは田中慎弥「完全犯罪の恋」(群像)だ。小説で人を自殺に追い込む物語である。登場人物の田中は、上級生の森戸を、好きだった高校生の真木山緑の恋人だと思い込んだ。そこで次のように伝えろと言う。「ほんとに三島由紀夫が好きなんやったら、お前のことがほんとに好きなんやったら、三島とおんなじ死に方、してみいって」と。しかし、緑はそれを伝えず、後に自殺したのは緑自身だった。緑の娘である静という女子大生と作家になった田中とのやりとりが、というか田中の心を先取りするようにけんか腰で話す静がとても魅力的なだけに、後半になって、田中が郷里の下関での講演のあとに、聴きに来ていた森戸と話して種明かし気味になってしまうのは、残念だ。この小説の着想が、静を殺してしまったようだ。こっちが「完全犯罪」? まさかね。《参照:【文芸時評】4月号 民主主義を守るために 早稲田大学教授・石原千秋

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2020年3月23日 (月)

文芸時評・東京新聞(2月27日/夕刊)佐々木敦氏

 『群像』3月号に「背高泡立草(せいたかあわだちそう)」で芥川賞を受賞した古川真人の受賞第一作「生活は座らない」が早くも掲載されている。とある日曜日、大学時代の知人と久しぶりに会って上野の博物館に行き、神田、神保町と移動して酒を呑(の)んでいるところにもうひとりが合流し、更(さら)に二人加わって、三十代の男たち五人が延々とアルコールを摂取しながら他愛(たわい)ないお喋(しゃべ)りに興じるという、ただそれだけの話なのだが、これが非常に面白い。

 脳内モノローグのような主語を欠いた一人称の文体のだらだらとした軽快さからして、これまでの古川作品とはずいぶん感触が違う。語りの現在時の中に、いま一緒に呑んでいる誰某との過去の会話や、いまここには居ない誰某との記憶などが自在に入り込んできて、それらにはかなり深刻な内容も含まれているのだが、煮詰められることなくすぐに過ぎ去っていってしまう。複数で飲酒しているときの、あの独特な時間の流れ方、大事なことであったはずのあれやこれやが、あっけなく忘れられていってしまうさまが、見事に描き出されている。芥川賞受賞後に書かれたものかどうかはわからないが、この作家の真価はこういうタイプの小説のほうにあるのではないか。吹っ切れた感じが実に好ましい。

 『群像』には崔実(チェシル)の中編「pray human」も掲載されている。きわめて高い評価を得たデビュー作『ジニのパズル』以来、実に三年九カ月ぶりの第二作である。長くかかったが、大変に力のこもった作品だ。十年前に精神病院に入院していたことのある「わたし」の回想譚(たん)というかたちを取っているが、この「わたし」は誰とも口を利かなくなっており、頭の中で「君」と呼ぶ人物に想い出を語りかけ続ける。「わたし」が十七歳、体は男性だが心は女性の「君」が二十二歳のとき、精神病院で二人は出会った。「わたし」は「君」に、二人と同時期に入院していた年長の女性「安城さん」と二年前に再会したことを語る。「安城さん」は白血病で入院していた。「わたし」は「安城さん」に十三歳のときの親友だった「由香」の話をする。以下=《参照:古川真人「生活は座らない」 崔実「pray human」 高山羽根子「首里の馬」 佐々木敦

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2020年2月 5日 (水)

文芸時評1月「東京新聞」(1月30日)ー佐々木敦氏

 第百六十二回芥川賞は古川真人(まこと)「背高泡立草(せいたかあわだちそう)」(『すばる』2019年10月号)が受賞した。作品については初出時にこの欄で取り上げたので、あらためては述べない。古川氏は四度目の候補作での受賞であり、今回の中では最多ノミネート保持者だった。その意味では順当な結果と言えるかもしれない。
 話題にしたいのは、選考委員を代表して受賞作決定直後に会見に臨んだ島田雅彦氏が、あやうく受賞作なしになりそうだったのをなんとか回避できた、という主旨(しゅし)の発言をしていたことである。芥川賞の選考会では、審議に入る前にまず一回目の投票を行うのだが、今回はその結果が非常に厳しかった。それでも受賞作を出すべく議論を続け、どうにか最終的に「背高泡立草」に受賞を可とするだけの票が集まった、ということであった。
 実は同様のことは文芸各誌の新人賞の選考過程の説明でもしばしば述べられている。賞であるからには受賞作を出すことが基本的に望ましいことは確かである。選考会に至るまでには幾つもの審査の過程があり、そこをくぐり抜けて候補となった作品の中から相対的に最も優れた作品を選出するのが筋なので、受賞作なしは事前審査と最終選考の間の乖離(かいり)を示すことになる、という見方もあるだろう。もっとドライなことを言ってしまえば、賞に掛かる費用対効果的にも受賞作を出さないのは好ましくない。
 とはいえかつては芥川賞も「受賞作なし」は結構あった。一九八〇年代には全二十五回中、九回も「受賞作なし」だった。これが一九九〇年代になると三回に減り、二〇〇〇年代には一回、二〇一〇年代も一回となっている。第百四十五回以後「受賞作なし」は一度もない。これはやはり多少無理をしても受賞作を出すことを是としてきたという事実を示すものだろう。先の島田発言も、このような経緯を踏まえてのものだったと考えてよい。私も基本的に賛成である。
 「受賞作なし」がまずいのは、ひとたびそれをありにしてしまうと、ことによると連続しかねない、という暗黙の危惧があるからではないか。いや、実際にはそうはならないだろうが、しかし「受賞作なし」の次の受賞作は、理屈の上では前回の候補作全部との比較に晒(さら)されることになる。だからいったん受賞作を出さなくてもよい、という選択を認め始めると、自然と次第に選考は厳しくなっていかざるを得ない。
 考えるべきなのは、相対評価か絶対評価か、ということである。
 私の考えでは、文学などの芸術にかんして絶対評価を設けることは本当は不可能だし、設けるべきではない。だがそんなものはない、と言ってしまうことがむつかしいのも事実である。「受賞作なし」とは、候補作の中で相対的にはいちばん優れているとされた作品でさえ受賞には値しないと判断された、ということだから、絶対評価的な規準(きじゅん)がほの見えてくる。そして、そういう考え方が前面に出てきたら、受賞に値する、という評価は、どんどんハードルが高くなっていくことだろう。ある意味では、厳しくしようと思ったら、いくらだって厳しく出来るのだから。選考委員が全員一致で価値や才能を認めるぐらいでないと受賞に値しない、これが絶対評価である。問題は「賞」というものが、そういう文句なしの傑作のみを送り出すためにあるのかどうか、ということであり、これは意見が分かれるところだと思う。
 『すばる』2月号で「すばるクリティーク賞」が発表されている。結果は設立以来初の「受賞作なし」である。先々月になるが「群像新人評論賞」も「受賞作なし」で、それを承(う)けて『群像』2月号では選考委員の東浩紀、大澤真幸、山城むつみによる座談会が掲載されている。公募と候補選出は違うし、創作と評論では事情が異なるところもあるだろうが、「受賞作なし」が続いていることが気になる。芥川賞もそうなるところだったのだ。とはいえ「無理をして受賞作を出した」という島田氏の正直過ぎる発言には正直驚かされた。
《参照:芥川賞「受賞作なし」回避 そぐわぬ絶対評価 厳格化防ぐ判断は妥当 佐々木敦(ささき・あつし=批評家)》

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2020年1月29日 (水)

文芸時評・2月(産経新聞・1月26日付)石原千秋教授

  人は本当に悲しい体験は言葉にできないものだ。「悲しい」と言葉にすることで、その体験から自分だけにとって意味を持つ固有性が失われ、誰もが口にすることができるあの「悲しい」という凡庸な言葉になってしまうからだ。それは自分の人生が否定されるほど辛い。しかしそのことは、誰にも伝えることができないと信じていた体験を人に共有してもらうほとんど唯一の方法でもある。そして「悲しい」というとき、「悲しい」と口にするそれぞれの人がそれぞれ人には言えないほどの辛い体験があると身をもって知ることでもあり、「悲しみ」の固有性を諦め、「悲しみ」の共同体に参加することでもある。それでようやく社会の一員に復帰できる。それは自己治癒だと言ってもいい。事実、過去を話すアラムは限りない優しさと穏やかさを得たようだ。言葉、ことば、コトバ。言葉は人を傷つけ、諦めさせ、そして癒やす。文学に関わるほどの人なら誰でもわかっていることだが、それをみごとに舞台化したと思った。

 フランツ・カフカに未完の遺作がまだ残っていたらという設定の、ケラリーノ・サンドロヴィッチ作・演出「ドクター・ホフマンのサナトリウム」(神奈川芸術劇場)はこのうえなくよかった。主演の瀬戸康史は「関数ドミノ」がすばらしかったが、テレビではなく、舞台がいい。

《産経新聞:【文芸時評】2月号 早稲田大学教授・石原千秋 言葉は人を傷つけ、癒やす

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2020年1月10日 (金)

文芸時評1月号(産経新聞12月29日)石原千秋・生きるための悲しみ

村上春樹が群像新人文学賞贈呈式で、〈小説家になったら村上龍という筆名で書こうと思っていたが、先に村上龍がデビューしてしまったので村上春樹でいくしかなくなって残念だ〉という趣旨の「人を喰つた」受賞の挨拶(あいさつ)をしたと、丸谷才一が紹介している(『挨拶はむづかしい』)。村上春樹ファンなら誰でも知っているだろう。 その村上龍が春樹の向こうを張って『ねじまき鳥クロニクル』の書き直しに挑戦したのかと、一瞬わが目を疑った。「MISSING 失われているもの」(新潮)である。《参照:【文芸時評】1月号 早稲田大学教授・石原千秋 生きるための悲しみ

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2020年1月 4日 (土)

2019「文芸この1年」東京新聞(12月25日)佐々木敦さん×江南亜美子さん対談(下)

 佐々木 地球や人類レベルの問題をどう書くかという意味で、「世界文学」という言葉が使われるようになった。
 江南 リチャード・パワーズ『オーバーストーリー』は、人類すら超越した世界を描く。ミシェル・ウエルベック『セロトニン』はグローバル企業が人の心を殺す。
 佐々木 女性やアジア人種への蔑視とも取られかねない独特の視線を含め、ウエルベックの小説や登場人物の持つ心性が許し難いとの意見もある。なのに日本でも人気で、そのねじれに興味があった。
 江南 ウエルベック作品は必ず、欧州的な価値観で動く白人男性が主人公。でも彼の絶望を、アジアの女性である自分も共有できてしまう。属する国や民族を超えて、近代の終わりに生きる人類という共通点があるからなのか。
◆脱人類という視点
佐々木 脱人類、ポストヒューマンという視点も、いろんな文脈で出てくるようになった。そこで名前が挙がるのが村田沙耶香。これまでも『殺人出産』『地球星人』などで、人間が人間であるギリギリの紐帯(ちゅうたい)を切ったらどうなるかという実験をやってきたが、短編集『生命式』でも相当多くの人が受け入れ難いような倫理観や人間観というものを描いている。にもかかわらず、かなり大きな支持を得るという現象も興味深い。
江南 村田は「今あなたが持っている価値観はどこから来たのか」ということを常に問う人。「人間が空気読んで中道に、中庸に生きてどうする」「もっと野性を持て」というメッセージを感じる。
 佐々木 僕が千葉雅也『デッドライン』、江南さんがミヤギフトシ『ディスタント』を今年の十冊に挙げている。ある意味、好対照の作品。かたや哲学者、かたやアーティストの初の小説で、セクシャリティーの題材も絡む。
 江南 千葉は理解してくれるなという拒絶の切実さをキレのある言葉で描く。一方で、自己言及的で読者の誤読を許さない生硬さもある。同性愛者の性愛が徹底してあからさまに描かれるのも特徴。ミヤギは感情の揺れをひたすら繊細に描く。ともに青春小説だ。
 佐々木 千葉は文体への意識が高い書き手。論文を書くように精巧につくりあげている部分と、繊細で個人的な感情が一つになっている。デビュー作として非常にすばらしい。芥川賞候補にもなっている。本業はあくまで哲学者だろうが、これからも書いてほしい。それにしても一九九〇年代以降、異業種からの文学への参入が増えた。《参照:文芸この1年 佐々木敦さん×江南亜美子さん対談(下)

 

 

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2020年1月 3日 (金)

2019「文芸この1年」(東京新聞12月24日) 佐々木敦さん×江南亜美子さん対談(上)


 江南 今年を振り返り、翻訳小説がこれほど話題になった年は近年なかったと思う。特に東アジアの作家がメジャーな場で語られたのが大きな特徴。ブームになったチョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』が牽引(けんいん)し、韓国の現代文学が数多く邦訳された。SFでは中国の劉慈欣(りゅうじきん)『三体』もすごく売れた。

 佐々木 確かに欧米の小説はどこか異国の話という感じがあるのに対し、アジアの隣国の話は日本の問題にスライドできることが多い。

 江南 韓国の女性文学がこれだけ読まれたのは、欧米的なウーマンリブに比べて、日本の女性読者の「これは自分たちのことなんだ」というシンパシーが発動したから。家父長制という共通点がある。

 佐々木 #MeToo運動にリンクする形でフェミニズムが注目され、そこに日韓関係の問題がクロスした時、『キム・ジヨン』がコンパクトで読みやすい本として起爆剤になった。従来の「文学」は、その時代の社会と直接的にシンクロするよりも、個人の内面や自我を描くことが多かったが、その傾向が変わってきた。社会的・政治的な問題が「文学」の中にもいよいよ入ってきたという感じがある。

 江南 韓国の作家はセウォル号事故や経済をめぐる政府の失策な ども積極的に主題化する。その態度が輸入されたのかも。

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