2019年4月 3日 (水)

文芸時評3月(東京新聞3月28日・夕刊)町屋良平、今村夏子作品=佐々木敦氏

 『新潮』4月号に早くも町屋良平の芥川賞受賞第一作「ショパンゾンビ・コンテスタント」が掲載されている。とはいえ長さとタイミングからしておそらく受賞以前に書き進められていたものだろう。ピアニストとしての自分の才能に見切りをつけ、音楽大学を中退して今は小説家を目指している「ぼく」、その親友で気まぐれな性格ながらピアノの天賦のセンスを持つ源元、源元の恋人で「ぼく」が片想いしている潮里、「ぼく」と潮里とはファミレスのバイトが一緒の、何かと頼りになる寺田くんの四人の物語である。

 自分たちをモデルにした「ぼく」の小説の書き出しが何度も挿入されるのが面白い。そういえば町屋と一緒に芥川賞を受賞した上田岳弘の「ニムロッド」にも同様の設定があった。小説の中で小説が書かれる、という趣向が、かつてのような前衛的な文学実験としてではなく、もっとナチュラルに行われていることが興味深い。

 小説が読まれなくなったと言われて久しいが、その一方で各種新人賞への応募は増加しており、インターネットの小説投稿サイトも大流行している。「小説を書くこと」の意味が変質してきているのかもしれない。町屋と上田の最新作に「小説家志望者」が出てきたことは、このことと関係があるような気もする。

 今村夏子が、以前の極端な寡作が嘘(うそ)のように次々と新作を書いている。作品集『父と私の桜尾通り商店街』が出たと思ったら新作中編「むらさきのスカートの女」(『小説トリッパー』春号)が発表された。

 この作品も同じだが、隙だらけのようで油断のならない筆捌(さば)きはもはや名人芸の域に達している。物語は後半、思いも寄らぬ展開となる。読む側の心持ちによって、ユーモア小説にも、不気味な話にも、痛ましい物語にも姿を変える、今村にしか書けない作品である。

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2019年4月 2日 (火)

【文芸時評】4月号(3月31日)産経新聞 石原千秋 早稲田大学教授

    いや僕が問いたいのは、なぜ人類はそんなに変化を加速させたがっているのかだった。もちろん欲望がそうさせるのである。それは誰の欲望で、その欲望に宛先(あてさき)はあるのだろうか。

 川上未映子「夏物語」(文学界)千枚が、先月と今月で完結した。精子提供で生まれた人が連鎖する人工授精をめぐる物語。作家になった夏目夏子は若い頃からセックスに拒絶反応があり、未婚のままAID(配偶者の関係にない者同士の人工授精)を選ぶ。相手は、AIDの会合で運命のように出会ったフリーの医師・逢沢潤。彼もAIDで生まれた人である。

  こうしたストーリーを踏まえると、終わり近くのこの文章をどう読めばいいのか途方に暮れる。「逢沢さんと子どもを作ることを決めたのは二〇一七年の暮れで、わたしたちはいくつかの約束をした。」。問題は「と」だ。「逢沢さんと」「作る」のか、「逢沢さんと」「決めた」のか。「逢沢さんと」「決めた」ことはまちがいない。しかし、これを「逢沢さんと」「作る」と言えるのだろうか。だとすると、「と」だろうか。それに、二人は互いに好意を持っている。だとすれば、このAIDは夏目夏子のセックスへの拒絶だけが理由になる。そういう恋愛小説なのか。かつては「借り腹」という残酷な言葉があった。それなら、夏目夏子が逢沢潤に精子を提供されて子どもを生むのではなく、逢沢潤が夏目夏子の腹を借りるのではないのか。「精子提供で生まれた人が連鎖する人工授精をめぐる物語」と読むなら、主人公は夏目夏子ではなく逢沢潤であって、その方が筋が通っている。

【文芸時評】4月号 早稲田大学教授・石原千秋 宛先のな い欲望

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2019年3月 7日 (木)

文気時評2月(東京新聞2月28日)=佐々木敦氏

  まず『文学界』3月号に「シリーズ『平成考』3」として哲学者の千葉雅也による論考「平成の身体」が載っている。千葉は一九七八年、昭和五十三年生まれ。彼は「昭和末期の約十年間、すなわちバブルの八〇年代に幼稚園から小学校の時期をすごし」た自分の「身体」には「平成的な軽さ」よりも「昭和的な重さ」があると言う。とはいえ彼の人生の大半は平成だったわけで、つまり千葉の世代は「昭和的」から「平成的」への過渡的な存在なのだ。
 千葉は自分は「重さの残滓(ざんし)を抱え込みながら、それに足を取られることもありながら、軽薄化の享楽を生きてきた」のだと続ける。そして千葉は、平成という時代を「インターネット以前/以後」に分割し、彼の世代はその意味においても過渡的だったのだと述べる。このように自分自身の半生と重ね合わせながら、千葉は主にマンガやゲームなどのサブカルチャーの平成という時代を通した変質と、その背景となる、もっと深い次元での「身体/性」の変容を、エッセイと批評の混交のような柔軟な文章で語っていく。
 最終的に彼が「平成の身体」に与える定義は「資本主義的無意味とは『別の無意味』に依拠する身体」というものである。資本主義は加速に加速を重ねて遂(つい)に「無意味」へと突破したが、それとは異なる、より「意味がない無意味」(これは千葉の論集の題名でもある)にこそ「平成」の可能性があったのではないか、と千葉は主張する。
 これに合わせるように『すばる』3月号が「平成とカルチャー」と銘打った小特集を組んでいる。倉本さおりの少年ジャンプ論、清田隆之のさくらももこ論、矢野利裕の小室哲哉論。
 三人とも千葉より若いが昭和生まれであり、結果としてやはり「過渡期」感が滲出(しんしゅつ)している。この中では小室がもっとも「平成的」だと私は思うが、そもそも平成は三十年もあるのだから一点に的を絞って論じるのはむつかしいのではないか。
◆小説家しか書けぬ批評 古川日出男「三たび文学に-」
 『新潮』3月号に古川日出男が「三たび文学に着陸する」を発表している。三たび、の意味は副題で説明される。「古事記・銀河鉄道の夜・豊饒の海」。これは小説家にしか書けない想像的/創造的な文芸批評であり、古川にしか書けない大胆な洞察と張り詰めた文体による文芸批評である。三たび問われる問いは、それぞれに巨大かつ複雑な三つの作品は、何故そのように書かれなくてはならなかったのか、という問いである。古川は三つの、しかし煎じ詰めれば一つの問いに答えるべく、いわばそれらを書き直してみせる。書き直すことによって読み直そうとする。小説家にしか書けない、というのは、そういう意味である。しかし自らも巨大かつ複雑な小説を次々と書き続けながら戯曲や評論まで発表してしまう古川のエネルギーには今更ながら感嘆せざるを得ない。これは欲望というよりも使命感の賜物(たまもの)だと私には思える。何による使命か、これはもう「文学」の、としか言いようがない。
《参照: 「平成論」が続々と にじみ出る「過渡期」感 佐々木敦

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2019年3月 4日 (月)

【文芸時評】2月号(《産経1・27) 早稲田大学教授・石原千秋 

 (頁2)村田沙耶香「信仰」(文学界)は、買い物をするときにはすぐに「原価」を気にしてしまう「現実」主義者の永岡が語り手。浄水器カルトで失敗したかつての同級生・斉川が石毛と組んで「リベンジ」するために、今度は「天動説セラピー」を始めるのに引き込まれていく様子を書いた。小説の構成からは、永岡こそが現実というカルトにはまっているだけではないかという皮肉が浮かび上がるが、それはありふれたテーマにすぎない。僕が興味を持ったのは、前半に頻出する「馬鹿」という言葉である。「石毛は馬鹿だから勧誘されても別に自分は引っかからないだろう」とか、「今からその馬鹿を騙(だま)そうとしてるんじゃん」などなど。これを後半まで持ち込めば、マルチ商法的カルトがマウンティング(自分の優位性を誇示する)競争として見えてくる。
 青木淳悟「憧れの世界」(同)は、タイトルとは裏腹に、多摩ニュータウンへの挽歌である。もうジブリ「耳をすませば」の郊外の時代は終わったと。それは近代が終わったということだ。
《参照:【文芸時評】2月号 早稲田大学教授・石原千秋 現代のマウンティング競争



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2019年2月 4日 (月)

文芸時評1月(東京新聞2019年1月31日)=佐々木敦氏

 (一部抜粋)
 三度目の候補で芥川賞の栄冠に輝いた上田の『ニムロッド』は、私は会心の出来だと思ったが何故(なぜ)か芥川賞の候補にならなかった秀作『塔と重力』に続く、リアリズム路線の作品である(以前の上田は時空を超える荒唐無稽な設定が多かった)。
 物語の鍵となっているのはビットコイン(仮想通貨)で、インターネットのサーバー保守会社に勤務する中本哲史が、ある日社長からビットコイン採掘(マイニング)の新規事業をたった一人で任されたところから物語は始まる。主人公の名前はビットコインを発明した人物の名前サトシ・ナカモトと同じである。
 ニムロッドとは中本の元同僚、現在は遠方に住む友人のあだ名で、小説家になる夢を抱き続けている。中本の恋人で、過去に別の男との中絶と離婚の経験がある紀子が三人目の登場人物である。中本の物語、中本と紀子の物語、ニムロッドが中本に送ってくる小説の断片が並走しながら話は進んでいく。
 町屋は前回(第百五十九回)『しき』で初めて候補となったのに続く二度目の芥川賞候補での受賞である。「純文学」らしくない題材を進んで扱うことで注目されてきた(たとえば『しき』ではネットの“踊ってみた”動画が物語の中心に置かれている)作家だが、タイトルからもわかるように『1R1分34秒』はボクシング小説である。
 とにかく理屈っぽくて自意識過剰な「ぼく」はウメキチというトレーナーと出会うことで変わっていくのだが、小説はボクシングという肉体の戦いを描きつつ、「ぼく」とウメキチの思考のやりとりが主眼となっていく。作品数からすると受賞はまだ早いような気もしていたのだが、上田とはまた違ったタイプの「新しい文学」の担い手であることは疑いない。
 「すばるクリティーク賞」が発表された。受賞作は赤井浩太「日本語ラップfeat.平岡正明」(『すばる』2月号)。タイトル通り、先鋭的なジャズ評論家だった平岡正明と、すでに長い歴史を持ち、ヒップホップ/ラップを生んだ国アメリカとはまた異なる進化を遂げていると言ってよい「日本語ラップ」を縦横に掛け合わせてゆくことで、現在の日本におけるオルタナティヴ(既存のものに代わる)な政治性と運動論の契機を見出(みいだ)そうとする、一種の「革命」論である。
 赤井は二十五歳で、この年齢が若いと言えるのかどうかはともかく、文体はやたらと威勢が良い。青臭いと言ってもいいかもしれない。挑発を通り越して悪罵と思えなくもない先行者への批判の舌鋒(ぜっぽう)や、言いっぱなし的な脇の甘さも気にはなる。
《参照:上田岳弘「ニムロッド」 町屋良平「1R1分34秒」 佐々木敦

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2019年1月 8日 (火)

【文芸時評】東京新聞(2018・12・27)佐々木敦

   今月はまず『新潮』1月号が「読むことは、想像力」と題した「創作大特集」を組んでいる。ヤマザキマリ+とり・みきの人気マンガ『プリニウス』の連載が『新潮45』の休刊に伴い移ってきたことも話題だが、他にも瀬戸内寂聴、町田康、松浦寿輝の新連載が開始され、華やかな新年号と言っていい内容となっている。特集には総勢二十六人が参加しており、「創作大特集」と言いつつ「特別原稿」としてエッセイや対談、写真作品(杉本博司)なども混じっている。
 自らが率いる劇団の名前を題名に冠した山下澄人の「FICTION 01」は、左半身不随の実在の劇団員オギタをモデルにした自由奔放な書きっぷりに引き込まれるが、あらゆる者に容赦なく訪れる「死」に対する透徹した視線は悲劇性を増している。円城塔の「歌束」はごく短い作品だが、『文字渦』の「文字」に続いて「和歌」をめぐる連作が始まるのかもしれないと期待させられる。宮内悠介「ローパス・フィルター」は芥川賞候補になった『ディレイ・エフェクト』と同じく、SF的発想を用いて倫理的な問題に迫る好作。朝吹真理子「mameのブルゾンください」は『TIMELESS』の番外編的な掌編だが、言葉の凝縮度と突然に時空を超える跳躍の力はこちらの方が上かもしれない。「特別原稿」も含め、特集名にある「想像力」が緩やかな全体のテーマになっているようだ。
 『すばる』の特集は「本を読む」。インタビュー、ルポ、論考、アンケートなど、創作以外のヴァラエティに富んだ記事が並んでいる。アンケートの問いは「どうやって本を読んでいますか」で、諸分野で活躍する三十人の回答が寄せられているのだが、文芸雑誌でわざわざ「本を読む」ことが特集のテーマにされるというのはいささかアイロニカルではある。
 『群像』は特集「文学にできることを」。「I<短篇創作>」とあるので次号に続くようだ(「II」では何をするのだろう)。瀬戸内寂聴、笙野頼子、日和聡子、高橋弘希、小山田浩子の短編が掲載されている。その他、新年号らしいのは多和田葉子の『地球にちりばめられて』に続く新連載「星に仄(ほの)めかされて」が始まっていることだろうか。ちなみに今月、四誌全てに多和田は登場している。『すばる』はリービ英雄との対談、『新潮』は「特別原稿」の「沈黙のほころびる時」(このエッセイは『新潮45』問題へのレスポンスにもなっており、重要な内容である)、『文学界』は温又柔(おんゆうじゅう)との対談。今年は満谷マーガレットによって英訳された『献灯使』での全米図書賞翻訳文学部門受賞もあり、ベルリン在住の二言語作家である多和田の存在感はいや増している。そして近年、手を替え品を替え、さまざまな(時には文芸雑誌らしからぬ)特集を組んでいる『文学界』が、今月に限って特集をやっていないのがなかなか興味深い。これは明らかに他誌との差異化を狙ってのことだろう。
 その『文学界』では、磯崎憲一郎の新連載「日本蒙昧(もうまい)前史」が始まっている。他は多和田×温の対談と、メディアアーティストの落合陽一と『平成くん、さようなら』で芥川賞候補になっている社会学者の古市憲寿の対談。しかしここでは古川真人の中編「ラッコの家」に触れておこう。芥川、三島両賞の候補に挙げられた『四時過ぎの船』にも現実を不分明にさせる老境の印象的な描写があったが、この小説は視力の弱った八十近い叔母と二人の姪(めい)の話から始まる。古川のこれまでの作品と似通った世界ではあるが、うねるような語りがほとんど改行なしに延々と連ねられてゆく魅力的な文体は新たな局面に入ったようであり、結末も大変に鮮やかである。力作だと思う。
《参照: 古川真人「ラッコの家」 小山田浩子「小島」「夜神楽の子供」 佐々木敦

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2018年12月28日 (金)

【文芸時評】1月号(産経新聞12月23日) 石原千秋教授

--2頁から抜粋ー
もし近代国家も崩壊した果てに、AIが物語を作ったらどうなるだろうか。AIが物語を作ることそれ自体が問題なのではない。AIが作った物語を人々が物語だと心から信じたときが、人類が人間ではなくなるときだ。ミシェル・フーコーは、世界の主体としての人間の終焉(しゅうえん)を説いたが、それとはちがった意味での人間の終焉がはじまっているようだ。僕たちは自らを理解するために、「人間」とはちがった言葉を用意した方がいい時期にさしかかっている。
 河出新書再始動第1号の橋爪大三郎と大澤真幸との対談『アメリカ』は、アメリカの政治から思想までをも縦横に語った読み応えのある本だが、このアメリカは明らかにトランプ以後のアメリカである。大澤は、いまのアメリカは本気でキリスト教を信じている一握りの人々がいるから、まあアメリカはキリスト教国家としておこうという「なんちゃって」キリスト教国家だと言うのだ。僕たちは、これまで自らを人間と呼んできたから、まあこれからも人間と呼んでおこうという「なんちゃって人間」になってはいないだろうか。
《参照: 【文芸時評】1月号 僕ら「なんちゃって人間」?! 早稲田大学教授・石原千秋 》

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2018年12月24日 (月)

【文芸時評】12月(東京新聞)文芸この1年(下)佐々木敦さん×安藤礼二さん

◆反現実的小説の時代(佐々木)
 佐々木 第百五十九回芥川賞の候補作「美しい顔」の問題にも触れたい。東日本大震災で家族を失った少女を主人公にした小説で、ノンフィクション作品との類似表現が問題になりました。デビュー作だった北条裕子に脇が甘いところがあったのは事実。この作家は二作目が書けるかどうかが勝負でしょう。
 安藤 震災を題材にしたのが全ての原因だと思います。歴史を描くか、フィクションを描くか、位置取りが明確でなかった。震災は非常に強いリアルなので、題材にするにはたいへんな覚悟が必要。
 佐々木 確かに、本人も被災地に行かずに書いたと公言していて、盗作疑惑がなくても批判される可能性はありました。ただ、それでも擁護したいと僕が思うのは、あれが新人の第一作だったからです。推測するに、彼女はテレビ報道で震災ポルノ的なものを見て、心の底からムカついたんだと思う。だから主人公の少女はやっぱり作者自身なんです。その個としての切実さは認めたい。
 安藤 でも、震災を文学に利用しては駄目ですよ。確かに、文学作品は究極の反社会性を持たざるを得ないところがある。笙野頼子(しょうのよりこ)の『ウラミズモ奴隷選挙』には、男性の痴漢する自由が、『新潮45』問題の起きる前にパロディー的に嘲笑されています。ただ、彼女は自分が言葉の暴力を行使しているということに自覚的。作家は言葉の暴力にあらがうと同時に、その主体であることを踏まえ、それに伴う責任を引き受けなければいけない。
◆言葉の暴力に自覚を(安藤)
 安藤 今の作家たちが未知なるものに挑む力をすごいと思う一方で、どこか既視感もある。例えば人間にとって性的な欲望とは何かという問題。かつては性を正面から描くのがある種の解放でしたが、今はむしろ性の交わりがない中で、どうやってコミュニケーションを取るかという主題が目立ちます。
 佐々木 その問題をはっきりリアルに描いているのが村田沙耶香。性や生殖が人間の営みの基本になっているという人間観自体にノーを突きつけている。『地球星人』というタイトルも秀逸。『殺人出産』『消滅世界』、そして本作と、家族とか人間関係とか、常識だと思われていたことを全部壊していく。一方で、「日本」を徹底的に相対化し、ドメスティックな問題自体を無効化するという立場を取るのが多和田葉子です。『地球にちりばめられて』では、日本という国そのものがなくなっている。
 安藤 多和田と書き方も主題も対極的に見えるのが平野啓一郎の『ある男』。主人公は在日三世の弁護士で、戸籍を交換した男を追ううち、彼自身もアイデンティティーを失っていくという話。ストーリーテラーとしてうまい。多和田作品が外側に開かれているとしたら、平野は内側に同じような問題を追っている気がしました。
(後半省略)
<ささき・あつし> 1964年生まれ。批評家。著書に『新しい小説のために』『ニッポンの文学』『シチュエーションズ』など。
<あんどう・れいじ> 1967年生まれ。文芸評論家、多摩美術大教授。2015年、『折口信夫』でサントリー学芸賞。近著は『大拙』。
《参照: 文芸この1年 佐々木敦さん×安藤礼二さん 対談(下)》


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2018年12月23日 (日)

【文芸時評】12月(東京新聞)文芸この1年(上)佐々木敦さん×安藤礼二さん

   文芸時評を執筆している批評家の佐々木敦さんと、文芸評論家で多摩美大教授の安藤礼二さんが2018年の文学について語り合いました。(文中敬称略)ー一部抜粋ー
◆奥泉、巧さの極致に(佐々木)
 安藤 今年を振り返ると、歴史と物語の関係を再考するものが多かったと思います。平成が終わることが決まり、もう一度、作家が歴史をどう解釈し、自分なりの物語として書くかが問われました。
 佐々木 新書でも歴史ものがベストセラーになっており、歴史への関心が無意識的なレベルで高まっていると感じます。その点で今年を代表する作品としてまず挙げたいのが、戦前の昭和を舞台にした奥泉光の『雪の階(きざはし)』です。彼のお家芸ともいうべきパターンですが、ミステリーの形式を取りながらどんどん話が混沌(こんとん)としていく。普通のミステリーのように結末で物語が収束することなく、読者を異世界に連れていく。今作では文章も語り口も巧(うま)さの極致に来ている。
 安藤 奥泉は、この本で三島由紀夫と松本清張とを一つにしたかったのかなという気がします。
 佐々木 それは明らかにありますね。僕は先日「豊饒(ほうじょう)の海」の舞台を見たのですが、昨年は「美しい星」が映画化され、今年も大澤真幸が新書(『三島由紀夫 ふたつの謎』)を出すなど、三島のプチブームが来ている。古川日出男の最新の戯曲も「ローマ帝国の三島由紀夫」だし。これも平成の終わりと関係があって、三島というスクリーンの向こう側に見えるのは天皇なんです。
◆異質排除する論壇(安藤)
 安藤 女性作家が増えたとはいえ、やはり文学界は根本的に男社会だったことが露呈したのが、早稲田大の文学学術院で起きたセクハラ問題。大学の問題と文学の問題が連動している面があります。教育現場では、教える側と教わる側が非対称で、権力関係が醸成されやすい。そして、文学というものを本当に教えられるのかという点も問われました。誰もが作家になれるわけではない。小説を書きたい学生が大学の教員から学ぶのは、不幸な出会いではないかと以前から感じていました。
 佐々木 あの案件については一切擁護できない。被害を申し立てた元大学院生の勇気ある行為によって問題が表面化したことはたいへん良かったし、再発に対する歯止めにもなり得る。また、寄稿がLGBT(性的少数者)への差別的表現だと批判され、『新潮45』が廃刊になった問題では、文芸誌が意外なほどビビッドに反応しました。そうしないわけにもいかないということもあったでしょうが。
 安藤 右と左に分かれがちな論壇誌を見ると、どちら側も異質の意見を入れる余地が全くなく、うんざりします。
《参照:文芸この1年 佐々木敦さん×安藤礼二さん 対談(上)》

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2018年12月 3日 (月)

文芸時評(東京新聞11月29日)=佐々木敦氏

 「アジサイ」(『新潮』12月号)は、『送り火』で第百五十九回芥川龍之介賞を射止めた高橋弘希の受賞第一作である。「妻が家を出てから、庭にアジサイが咲いた」という一文から始まるのだが、ある意味で物語はこの最初の文章を延々と堂々巡りして終わる。証券会社の営業マンである主人公は、三十代にして庭付き一戸建ての自宅を持ち、十分な蓄えもあるというのだから、勝ち組と言っていいだろう。結婚して三年になる妻との間にまだ子どもはないが、夫婦仲は何ら問題がない、少なくとも彼の方はそう思っていた。ところがある日とつぜん、妻は家を出て実家に戻ってしまった。彼には思い当たることが何もない。妻の置き手紙にも理由は一切書かれていない。妻の実家に電話を入れてみるが、気に入られていると思っていた義父母も妙に冷淡で、妻は電話に出ない。携帯にメールしてみても、返信はない。
 ごく短い作品である。主人公にとっては甚だ不条理な状況だが、けっきょく妻の家出の謎は最後まで解かれることはない。終始、夫の側から描かれているので、彼が気づいていない重大な問題や落ち度があるのかもしれないが、読者がそれを推し量るには材料が決定的に足りない。そのように書かれている。答えを得るためのカギというわけではないが、題名に選ばれたアジサイは意味ありげである。その花は妻がいなくなるのと入れ替わりに咲き出したようであり、色彩を変化させつつ、あれからずっと庭に存在している。
 不穏な気配がじわじわと高まってくる様子は、この作家の真骨頂と言ってよいが、いわば結末を欠いたミステリアスな短編としてさすがによく書けてはいるものの、やや技巧が目立つ感もなくはない。
 『新潮』には社会学者の岸政彦による三作目の小説「図書室」も載っている。一作目の『ビニール傘』は芥川賞候補になった。今回の舞台も作家自身の暮らす大阪である。五十歳になる女性の「私」は、十年前に十年一緒に暮らした男と別れてひとり暮らしを始めた。堅い仕事に就いており、生活に不安はない。だが最近、子どもの頃のようにまた猫を飼いたくなってきた。そして「私」は小学生の時を思い出す。物心ついた時点で父親はおらず、母親はひとり娘を育てるために夜の仕事をしていた。家には何匹も猫がいて、毎晩「私」は猫たちと一緒に寝ていた。「私」は別の小学校の同い年の男子と知り合い、親しくなる。
 何と言っても、この作品の読みどころは、小学生の「私」と、その男の子が交わす大阪弁の会話である。子どもらしい他愛(たわい)ない話ばかりなのだが、まるで漫才のような活(い)き活きとしたテンポがあり、おかしみとともに不思議な幸福感が滲(にじ)んでくる。岸の社会学者としての研究スタイルは、取材対象からの聞き取りを基盤とする「質的社会調査」と呼ばれるもので、要は相手の喋(しゃべ)りを丹念に記録するところから始まるのだが、『ビニール傘』と同様に、小説家としての岸はそこで得た感触を最大限に活用している。物語は回想を終えて現在に戻ってくるのだが、小説として綺麗(きれい)にまとめようとしないで、いっそ次は会話だけで書いてみたらどうか? 岸の筆力なら、それだけで十二分に魅力的な「小説」になると思うのだが。
 第六十二回群像新人評論賞は長崎健吾の「故郷と未来」(『群像』12月号)に決まった。長崎は東京大学大学院の日本史学博士課程に在籍中で、当選作は柳田国男論である。一見素朴とも思える題名と同じく、まず論を紡ぐ文章の平易でありながら品のある佇(たたず)まいが良い。ケレン味や鋭さはないが、じっくりと一歩一歩、足元を踏みしめてゆくような文章である。大澤真幸、熊野純彦、鷲田清一の三人の選考委員も、内容以前にそこに惹(ひ)かれたのではないか。これはまぎれもなく「文学」の文体である。
《参照:岸政彦「図書室」 長崎健吾「故郷と未来」 佐々木敦










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