2021年8月26日 (木)

文芸時評(東京新聞8月25日・夕刊)=伊藤氏貴氏

川崎徹「光の帝国」ーーフィクションでしか伝えられないこともーー戦争を語り起こす。
《対象作品》川崎徹「光の帝国」(「群像」9月号)/保坂正康インタビュー「戦争体験の継承とフィクションの地平」(同)/李龍徳「石を黙らせて」(同)/金原ひとみ「狩りをやめない賢者ども」(「文芸」秋号)

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2021年6月 1日 (火)

文芸時評5月(東京新聞・5・26夕刊)=伊藤氏貴氏

<「正しさ」と「多様性」>
朝井リョウ「正欲」(新潮社)/杉本裕孝「ピンク」(文學界)/西加奈子「体に関するエッセー」(文學界)/伊藤亜紗「セラフと新潟逃避行」(「文芸」ーもふもふ文学)/小山田浩子「心臓」(同)/朝比奈あすか「誰もいない教室」(「群像」5月号)。

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2021年3月 2日 (火)

文芸時評(東京新聞2021・2・21-夕刊)=伊藤氏貴氏

 児玉雨子(93年生まれ)「誰にも奪われたくない」愛憎のない関係求めて/瀬戸夏子(85年生まれ)「ウェンディ、才能という名前で生まれてきたかった?」性愛の嫉妬消しても…/山下紘加(94年生まれ)「エラー」-「女の役割」が私を壊す/李琴峰(89年生まれ)「彼岸花が咲く島」根の部分で繋がる差別ーー。
《対象作品》
児玉雨子「誰にも奪われたくない」(「文芸」春号)/瀬戸夏子「ウェンディ、才能という名前で生まれてきたかった?」(同)/李琴峰「彼岸花が咲く島」(「文学界」3月号)/ 山下紘加「エラー」(「文芸」春号)。

 

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2020年12月23日 (水)

文芸時評・東京新聞(12月23日・夕)=伊藤氏貴

見出し=【客観的になってきた「三島」/山中剛史「自分の人生を作品化」/平野敬一郎「日本社会の否定理解」

《対象作品》山中剛史「生身の死と再生」(「季刊文科」81号)/松本徹と佐藤秀明=対談(同)/小佐野弾、鴻池瑠衣、古川真人、水原涼=座談会(「すばる」10月号)/ジョン・ネイスン「三島の問題」(同)/田中慎也「橋づくし」(「文学界」12月号/平野啓一郎(「芸術新潮」12月号)/同「豊暁の海」についての論考(「新潮」12月号。

 

 

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2020年11月28日 (土)

文芸時評「東京新聞」(11月26日付)=伊藤氏貴

タイトル=仙田学「剥き合う」―セックスレスの先に/鴻池瑠衣「わがままのロマンサー」―恋愛、性、結婚が崩壊/李琴峰「地の果て、砂の祈り」-性行為抜きの同性愛。
《対象作品》
 仙田学「剥き合う」(「文学界」11月号)/鴻池瑠衣「わがままのロマンサー」(同12月号)/李琴峰(りことみ)「地の果て、砂の祈り」(「すばる」12月号)/竹林美佳「弱い愛」(「同」12月号)。
 時評の感想をいうと、対象作品は、性的な関係は男女の生殖と契約的な相互関係による結婚を軸に、社会がまとまっていきた。そのためLGBTに類する人たちが、文学作品か通俗小説などで少数派として描かれる現象を、普通のこととして描かれていることを浮き彫りにしているようだ。
 純文学が通俗小説のように面白くないのは、そうした概念の変化を前提としたものとして描くために、微細な感情を描くことで、成立しているからであろう。
 文芸時評はその社会性を指摘し、時代の変化への見方を啓蒙するところに、存在価値があるということにならないか。

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2020年7月 1日 (水)

文芸時評6月(東京新聞30日夕刊)=伊藤氏貴氏

 東裕紀「考えることを守る」割り切れない困難を/千葉雅也『清く正しくは安易』非常時の日記。
《対象作品》 東裕紀「考えることを守る」(「群像」7月号)批評特集。/高原到「戦争の『現在形』-70年生まれの作家たちのの戦争小説」(前掲誌」。/高橋弘希、宮内悠介、柴崎友香、古処誠二が、若い世代が戦争を描くことの意味を問う。(同)/。古谷田奈月「これは戦争ではないので、誰も戦士にも戦場記者にもならない」(「文学界」7月号)。千葉雅也「非常時の日記」(同)/岩城京子「『テント思考』と演劇」(スバル」7月号)。

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2020年4月28日 (火)

文芸時評5月(産経新聞)石原千秋教授

    それにしても-近未来は閉じこもる時代なのだろうか。近代の扉を開いた鉄道が、現代の扉を開いた飛行機がいまや過去のものになりつつある。国境や県境という過去の境界線がこれほど強固に作用する時代が来るとは思ってもみなかった。 文学界新人賞は三木三奈「アキちゃん」。問題提起的な作品であることはまちがいない。「わたしはアキちゃんが嫌いだった」で始まる。実は、アキちゃんはアキヒロ、つまり「男」。トランスジェンダーであることが、最後に明かされる。ミッカー(語り手)はアキちゃんに女として好きになってほしいのだが叶(かな)わない。それで「嫌い」なのだろう。このテーマに興奮しきっているのが川上未映子だが、いまさら感がある。あえて言うが、トランスジェンダーは小説の構成に利用されているだけで内実がない。「種明かしはこれだけ?」というのが、正直な感想だ。参照:【文芸時評】5月号 「コロナ世代」への責任 早稲田大学教授・石原千秋

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2020年4月 7日 (火)

文芸時評3月「東京新聞」(3月31日)=佐々木敦氏担当・最終回

(抜粋) 砂川文次「臆病な都市」(『群像』4月号)は「新型感染症」をめぐる物語である。だが今現在、世界中で猛威をふるっている新型コロナウイルスのことではない。舞台は今から数年後、「K」は「首都庁」に勤める若手官僚だが、現実とは組織の名称などが変えられており、一種のパラレルワールドのようである。物語は「鳧(けり)」が媒介する新型感染症の発生が疑われるところから始まる。早々に専門家から事実無根の風説であることが示され、Kたち役人も最初はことを軽視しているのだが、市民からは不安の声が次々と上がり、国と都の方針に反して或る自治体が独自の対策を打ち出したことから、行政も対処をせざるを得なくなる。その結果、存在しないはずの新型感染症が不気味なひとり歩きを始める。
 主人公の名前といい、官僚機構のナンセンスな駆動ぶりといい、現代版のカフカを志向した作品であることは間違いない。だが読み進んでゆくと、この小説が撃とうとしているのは、統治する側よりもむしろ「民意」の暴走であるらしいことがわかってくる。後半、状況はどんどんエスカレートしていき、ディストピア的な世界が現出する。私が考えてしまった「余計なこと」というのは、それが現在の状況を反転したネガのように見えてくるということである。この小説では存在しない病気が在ることになっていくのだが、この国では現在、明らかに存在している病気を見えにくくしようとするメカニズムが働いているように思われるからである。これは作者の意図したことではないかもしれないが。
 劇作家の松原俊太郎による文芸誌初小説「ほんとうのこといって」(同)を興奮しながら読んだ。松原は過去に「またのために」という短編小説を発表しているが、前作をアクロバティックな助走とすればこれは大胆不敵な跳躍である。「淀川河口付近の緑地の堤防」で「イヌ」が「発見」される。イヌというから犬だと思ってしまうが、イヌは年齢不詳の男性のヒトであり、駆けつけた警官の人差し指を顛(か)みちぎって現行犯逮捕される。イヌは右目の視力がなく、左目もほとんど見えていないようだ。取調室で「私」がイヌから聞く長い長い身の上話(?)が、この小説の内容である。
 岸田國士戯曲賞の代表作「山山」にも顕著だが、松原は物語の結構よりも「台詞(せりふ)=声=言葉」の濃度と速度と強度において際立った才能を発揮する劇作家である。その天分は小説にも遺憾なく披露されており、とりわけ前半、イヌが異常に猜疑心(さいぎしん)の強い恋人かさねとの顛末(てんまつ)を語るパートの壮絶にして切実な滑稽さには舌を巻いた。最後まで読んでも多くの謎や隙間が残されるが、そんなことは全然気にならない。こういうわけのわからない、だが凄(すさ)まじく面白い「小説」を、もっと読みたい。
◆「文芸誌」にこだわって
 さて、私が本欄を担当するのは今回が最後である。ちょうど丸五年間、私はこの時評を敢(あ)えて「文芸誌」の「小説」に対象をほぼ限定して執筆してきた。文芸時評にはいろいろなやり方があり得ると思うが、私が選んだのは、ある意味で最も狭いアプローチだった。なぜそうしたのかといえば、文芸誌(の小説)はなかなか読まれないからである。この選択にどれほどの効果があったかはわからないが、自分としてはこれでよかったと思っている。文芸時評を降りることにした理由は複数あるが、そのひとつは初めての小説「半睡」(『新潮』4月号)を発表したからである。さまざまなジャンルで長く批評をやってきたが、これをきっかけに私は今後、創作をしていくつもりでいる。つまり評する側から評される側になったのだ。だから文芸時評はひと区切りつけるべきだと考えたのである。ご愛読、ありがとうございました。(ささき・あつし=批評家)
 *佐々木敦さんの文芸時評は今回で終わり、四月からは文芸評論家で明治大文学部専任准教授の伊藤氏貴(うじたか)さん=写真=が執筆します。 伊藤さんは一九六八年、千葉県出身。二〇〇二年に「他者の在処(ありか)」で群像新人文学賞(評論部門)受賞。一四年から「高校生直木賞」実行委員会代表を務めている。著書に『同性愛文学の系譜』『告白の文学』『美の日本』など。
松原俊太郎「ほんとうのこといって」 砂川文次「臆病な都市」 佐々木敦

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2020年4月 4日 (土)

文芸時評4月(産経新聞)石原千秋氏

 今月どこか気になるところがあったのは田中慎弥「完全犯罪の恋」(群像)だ。小説で人を自殺に追い込む物語である。登場人物の田中は、上級生の森戸を、好きだった高校生の真木山緑の恋人だと思い込んだ。そこで次のように伝えろと言う。「ほんとに三島由紀夫が好きなんやったら、お前のことがほんとに好きなんやったら、三島とおんなじ死に方、してみいって」と。しかし、緑はそれを伝えず、後に自殺したのは緑自身だった。緑の娘である静という女子大生と作家になった田中とのやりとりが、というか田中の心を先取りするようにけんか腰で話す静がとても魅力的なだけに、後半になって、田中が郷里の下関での講演のあとに、聴きに来ていた森戸と話して種明かし気味になってしまうのは、残念だ。この小説の着想が、静を殺してしまったようだ。こっちが「完全犯罪」? まさかね。《参照:【文芸時評】4月号 民主主義を守るために 早稲田大学教授・石原千秋

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2020年3月23日 (月)

文芸時評・東京新聞(2月27日/夕刊)佐々木敦氏

 『群像』3月号に「背高泡立草(せいたかあわだちそう)」で芥川賞を受賞した古川真人の受賞第一作「生活は座らない」が早くも掲載されている。とある日曜日、大学時代の知人と久しぶりに会って上野の博物館に行き、神田、神保町と移動して酒を呑(の)んでいるところにもうひとりが合流し、更(さら)に二人加わって、三十代の男たち五人が延々とアルコールを摂取しながら他愛(たわい)ないお喋(しゃべ)りに興じるという、ただそれだけの話なのだが、これが非常に面白い。

 脳内モノローグのような主語を欠いた一人称の文体のだらだらとした軽快さからして、これまでの古川作品とはずいぶん感触が違う。語りの現在時の中に、いま一緒に呑んでいる誰某との過去の会話や、いまここには居ない誰某との記憶などが自在に入り込んできて、それらにはかなり深刻な内容も含まれているのだが、煮詰められることなくすぐに過ぎ去っていってしまう。複数で飲酒しているときの、あの独特な時間の流れ方、大事なことであったはずのあれやこれやが、あっけなく忘れられていってしまうさまが、見事に描き出されている。芥川賞受賞後に書かれたものかどうかはわからないが、この作家の真価はこういうタイプの小説のほうにあるのではないか。吹っ切れた感じが実に好ましい。

 『群像』には崔実(チェシル)の中編「pray human」も掲載されている。きわめて高い評価を得たデビュー作『ジニのパズル』以来、実に三年九カ月ぶりの第二作である。長くかかったが、大変に力のこもった作品だ。十年前に精神病院に入院していたことのある「わたし」の回想譚(たん)というかたちを取っているが、この「わたし」は誰とも口を利かなくなっており、頭の中で「君」と呼ぶ人物に想い出を語りかけ続ける。「わたし」が十七歳、体は男性だが心は女性の「君」が二十二歳のとき、精神病院で二人は出会った。「わたし」は「君」に、二人と同時期に入院していた年長の女性「安城さん」と二年前に再会したことを語る。「安城さん」は白血病で入院していた。「わたし」は「安城さん」に十三歳のときの親友だった「由香」の話をする。以下=《参照:古川真人「生活は座らない」 崔実「pray human」 高山羽根子「首里の馬」 佐々木敦

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