2017年5月19日 (金)

文芸月評5月(読売新聞5/4・文化部) 待田晋哉記者

《対象作品》
 松家仁之さん(58)の「光の犬」(新潮、2015年9月号~)は読後、しばらく黙っていたくなる小説だ。物語の静寂の中に、たたずんでいたくなる。
 物語の最終盤、町の人口は往時の半分になり、始は父親やおばたちを介護する。日本の人口が6年連続で減少したと伝えた、総務省の14日の発表を象徴するような光景だ。だが、町が静けさに包まれるほど、老いた人々の混濁した意識の中でかつて生きた人々の言葉が冴さえ返り、営まれた生の記憶は美しく輝くのだ。
 今年の文学界新人賞に決まった沼田真佑しんすけさん(38)の「影裏えいり」の主人公は、同性の恋人と別れ、東京から岩手に異動して2年になる男性会社員だ。社内に遊び仲間もできた。だが、会社をやめたその友人は生活が乱れ、東日本大震災の津波に巻き込まれたのか行方不明になる。2人が自分の心の揺れを抑え込むように熱中する釣りの様子、豊かな自然の描写に精彩がある。
 太田靖久さん(41)の「リバーサイド」(群像)は、大学を出て銀行員になった青年と、小学校のサッカーチームの仲間で、高校を卒業して派遣の仕事につく男との関わりを描く。面倒くさいけれど、変に「正しい」ことを語る男の存在が主人公は気になる。丁寧な筆致で出来事や感情の流れをたどり、男の突然の死がやりきれない影を落とす。
 今月の文芸誌では、旦敬介さん(57)の「アフリカの愛人」(新潮)も注目作だ。南米やアフリカなど各地に暮らし、『旅立つ理由』で読売文学賞を受賞した著者の小説である。日本人の妻とケニアに滞在する<K介>が、ナイトクラブで知り合ったアミーナを愛するようになる話だ。
 ベテランの森内俊雄さん(80)は、「新潮」2013年11月号から始めた計6本の連作小説「道の向こうの道」を終えた。1956年、大阪から上京して早稲田大の露文科に入学した大学生の青春をつづる。「いいかね、きみたち。露文科の学生になったからには、もはや就職はあきらめたまえ」。1年生の最初の専修科目の授業で高らかに、教授は学生たちに言い放つ。かつての大学には、紛れもない本物の文学があった。
 二瓶哲也さん(48)の「墓じまい」(文学界)は顔にやけどの痕を負いながら、5人の子どもを育てる女性の造形に型破りな活力がみなぎる。(文化部 待田晋哉)
  ポール・オースター回想録
 米国を代表する作家の一人、ポール・オースターの回想録『冬の日誌』と『内面からの報告書』(いずれも柴田元幸訳、新潮社)が刊行された。子どものころにボールを一人で高く投げて遊んでいて大けがをしたこと、性に目覚めて彼女と唇がひび割れるまでキスしたこと……。時間が行きつ戻りつする文章に、人間の記憶とは過去から現在へ真っすぐには流れず、波打つように揺らぐものだと改めて感じる。
【文芸月評】三代記 一瞬一瞬で描く

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2017年5月11日 (木)

文芸時評4月(毎日新聞4月26日)=田中和生氏

『実況中継 トランプのアメリカ征服』(文芸春秋)=反トランプのデモ「ウィメンズ・マーチ」などで多くの女性たちが声を上げている。
/英語圏で活躍するナイジェリア出身の作家チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの、二〇一二年に行われた講演録『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』(くぼたのぞみ訳・河出書房新社)=女性の社会進出は正しいことであっても、それを阻む現実はいつでもありうる。そんな現実に対し、アディーチェはしなやかな言葉で、フェミニストを男女の別なく「そう、ジェンダーについては今日だって問題があるよね、だから改善しなきゃね」と考える人と定義し直す。
/桐野夏生の長篇(ちょうへん)『夜の谷を行く』(文芸春秋)=連合赤軍のメンバーを取り上げたフェミニスト的な作品だ。作者が三人称で描き出す主人公の「西田啓子」は、一九七二年にあさま山荘事件を起こす直前の連合赤軍から脱走し、逮捕された経歴をもつ。内ゲバで殺人をくり返した組織にいた「啓子」に親族も世間も厳しく、正体を隠して塾講師として生きてきて、年金暮らしの晩年を迎えている。行き来があるのは、妹と姪(めい)だけだ。
 リーダーで死刑囚だった永田洋子が一一年に亡くなったことをきっかけに、かつての同志から連絡が入ることも重なり、次第に「啓子」は過去の記憶に向きあうことを強いられていく。正しさを求める「啓子」の言動と孤独な生活ぶりが怖(おそ)ろしいほどリアルで、それを強いる日本社会のあり方もあぶり出されるが、重要なのは女性の視点から連合赤軍が語り直されていくことである。背後にあるのはなぜ女性たちが、とりわけ妊娠中の女性が連合赤軍に参加したのか、という問いだ。
 殺人ができる女性兵士だったから、というのが「啓子」に突きつけられてきた理解であり、孤独の原因である。しかし作者は「啓子」の記憶を掘り起こしながら、子どもを産める女性だからこそもつことのできた理想が、そこにあったことを明らかにする。永田洋子に象徴される、男性の視点で裁かれた女性を別の側面から照らし出し、連合赤軍のイメージを更新することを迫る快作だ。
/旦敬介の中篇「アフリカの愛人」(『新潮』)は、ホテルで働く女性と結婚してケニアのナイロビで生活するようになった、フリーのジャーナリスト「K介」を描く。日本円の力で、植民地的な乱痴気騒ぎを楽しむ「K介」は、妻の目を逃れるため取材と称し、ウガンダ生まれの若い女性「アミーナ」と逃避行する。
 作品が興味深いのは、語り手の「僕」が「K介」と愛人「アミーナ」の両方を記述していくところだ。その「僕」は「アミーナ」が怖れる悪霊のように「K介」たちにつきまとい、舞台であるアフリカ的な世界をありありと描き出す。そのことに必然性があるのは、浮気がばれた「K介」が妻ではなく「アミーナ」と暮らすことを選んだという結末が示されるからだが、そうして日本語の記述とアフリカ的な感覚が結びつき「僕」が出現する。
/中原清一郎の中篇「消えたダークマン」(『文芸』)は、新聞社に勤めるカメラマン「矢崎晃」を主人公にして、一九九九年までつづいたコソボ紛争を取り上げる。表題のダークマンとは現像の担当者だが、一九九一年に起きた湾岸戦争ぐらいからカメラはデジタル化され、ダークマンが姿を消すと同時に戦争報道の管理化が進み、システムの一部として報道内容は横並びになった。
 そのことに違和感を抱く「矢崎」は、写真の力を信じて安全なベオグラードから最前線のコソボへと向かう。そうして記録されるのは、紛争に巻き込まれたセルビア人の生活であり、管理された戦争報道では見えないコソボの現実だ。しかし末尾でシステムに敗北していることを思い知った「矢崎」は、唐突に同僚を「それでも日本人か」と詰(なじ)る。おそらくそれはかつて日本も戦場だったからであり、その「日本人」という言葉は、くり返し戦争の記憶に突き当たる、古井由吉の最新作『ゆらぐ玉の緒』(新潮社)に通じている。
連合赤軍事件 女性の視点から描き直す=田中和生】
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2017年5月 3日 (水)

文芸時評5月号(産経) 早稲田大学教授・石原千秋氏

 (引用2/3ページ目) 文学界新人賞は、沼田真佑「影裏」に受賞が決まった。松浦理英子の選評は「受賞作『影裏』はきわめて上質なマイノリティ文学である」と、きっぱり言い切ってからはじまる。みごとな評価宣言である。
  「影裏」は、首都圏から岩手は盛岡に移り住んだ今野秋一が、釣り仲間だった日浅との体験を語る小説である。今野自身が「性的マイノリティー」であることがそれとなく語られ、日浅のやや破綻気味な性格と体験、そして東日本大震災の経験も書き込まれる。森の木々や生き物の名前がきちんと書き込まれ、その森の中にこれらの出来事も埋め込まれていく。都会派のお気軽な田舎暮らしとはまったくちがった生活がそこにあることが、これらの名前の数々が雄弁に物語っている。
《参照:公共図書館に未来はあるか 5月号 早稲田大学教授・石原千秋

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2017年4月27日 (木)

文芸時評4月(東京新聞4月27日付)=佐々木敦氏

 村上春樹「騎士団長殺し」=論じやすいところが罠
 ミヤギフトシ「アメリカの風景」=文体、慕情、技巧そろう
《対象作品》村上春樹「騎士団長殺し」(新潮社)/文学界新人賞受賞作・沼田真佑「影利」(「文学界」5月号)/、ミヤギフトシ「アメリカの風景」(「文藝」夏号)。

☆ 村上春樹「騎士団長殺し」については、「新潮」が椹木野依と上田岳弘(同誌は先月号にもいしいしんじが長めの書評を寄せていた)、「群像」が清水良典、「すばる」が杉田俊介、「文学界」が小山鉄郎と鈴村和成と山崎ナオコーラと佐々木敦、「文藝」通常の書評枠だが田村文とさんがら「騎士団長殺し」バトルロイヤル状態…とある。

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2017年4月 6日 (木)

文芸月評4月(読売新聞4月6日)文化部 待田晋哉記者

《対象作品》村上春樹さん(68)長編『騎士団長殺し』(新潮社)/又吉直樹さん(36)「劇場」(新潮)/温又柔おんゆうじゅうさん(36)「真ん中の子どもたち」(すばる)/今村夏子さん(37)「星の子」(小説トリッパー春季号)。
 元の記事を読むThe Yomiuri Shimbun《【文芸月評】自己確立の難しさ》

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2017年4月 2日 (日)

文芸時評3月(毎日新聞3月29日)=田中和生氏

 <一部抜粋>森友学園の問題は、わたしが見るところ現政権に近い思想信条をもつ者が、特別な便宜を図ってもらえると感じていたこと、またそのことに対するチェックが、公的機関でもマスメディアでも甘くなることに本質がある。現在の日本では報道の自由だけでなく、公的機関の公平さが失われつつあることを示す、象徴的な出来事と言っていい。力作揃(ぞろ)いの今月の作品で、そこまで想像力が届いていると思ったのは、黒川創の長篇(ちょうへん)『岩場の上から』(新潮社)である。
 作品は戦後百年の「平和維持」を訴える少数派となった人々と、殺し殺される戦場を目前に基地から脱走を企てる若者たちの、偶然と必然の出会いを追う。その蝶番(ちょうつがい)となる、原発事故後の放射能汚染の問題、世界規模で結びつく戦場と貧困の問題は驚くほど生々しく、岩場に上がってそれを指摘しようとする者がいなくなるなか、ついに日本は戦争状態に突入する。登場人物の生活ひとつひとつにリアリティがあり、小説として非常に読みごたえがあることが怖くなる、傑作という以上に黙示録的な作品だ。
 笙野頼子の長篇「さあ、文学で戦争を止めよう 猫キッチン荒神」(『群像』)。猫の意識をもつ「荒神」が作品全体の語り手となっていることに特徴がある。それは飼っていた猫の死後に、実は「私」の方が見守られてきたと信じるからだが、そのことはそこで語られる苦しい家族史や病歴に強い説得力をあたえている。その「私」が、女性作家たちの拠点であったキッチンから「戦争を止めよう」とする言葉を引き出している。
 ドン・キホーテ的な意図とサンチョ・パンサ的な世俗性が混在する作品だが、時代に訴えようとする長篇を書いているうちに、前提となる「舞台が壊れてしまう」という「私」の切実な危機感を評価したい。これらの作品に示された鋭い感覚から考えたとき、大きな話題となっている村上春樹の長篇『騎士団長殺し』(新潮社)や又吉直樹の長篇「劇場」(『新潮』)は、いわば「奇妙に平穏な日常」に収まっている安全な作品だと言える。
  いずれの主人公も、女性にもたれながら自分の世界を追求するが、ここには日本人が好きな「母子の濃密な情緒」(江藤淳『成熟と喪失』)が生きている。かつて江藤淳は、それが六〇年代に崩壊したと論じたが、だからそれは小説でしか成立しない安全な世界である。だとすれば、そうした情緒が存在しない場所から作品が書きはじめられているという意味で、今村夏子の長篇「星の子」(『小説トリッパー』)が注目に値する。
 作者は病弱だった「わたし」を語り手に、中学生になるまでの出来事を辿(たど)る。次第にわかってくるのは、両親が「わたし」の治癒と引き替えに新興宗教らしきものに入ったことで、我慢強い「わたし」の語り口から、崩壊した家族の空間が宗教の原理で満たされた世界が見えてくる。オウム真理教事件が起きた、九〇年代以降の日本の現実に、ようやく正面から立ち向かう作者が現われた。(文芸評論家)
《参照:想像力の先の現実 作家の切実な危機感=田中和生

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2017年3月31日 (金)

文芸時評3月(東京新聞3月30日)佐々木敦氏

又吉直樹「劇場」屈折する自意識の極み
温又柔「真ん中のこどもたち」複雑な境遇を生きる
《対象作品》又吉直樹「劇場」(「新潮」4月号)/温又柔「真ん中のこどもたち」(「すばる」4月号)/青木淳悟「私、高校には行かない」(「文学界」4月号。

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2017年3月28日 (火)

文芸時評4月号 早稲田大学教授・石原千秋氏

 (一部抜粋)『騎士団長殺し』の宛先はおそらく日本人ではない。いや、正確に言おう。『騎士団長殺し』の宛先はおそらく日本語を母語とする人ではない。村上春樹はこれまでもそれを試みてきたではないか。
《産経=文芸時評4月号 早稲田大学教授・石原千秋 『騎士団長殺し』の宛先》より。

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2017年3月 5日 (日)

文芸時評2月(東京新聞17年2月28日)佐々木敦氏

≪対象作品≫
滝口悠生「高架線」(「群像」3月号)/同「今日の記念」(「新潮」3月号/関口涼子「声は現れる」(「文学界」3月号)。
(一部抜粋)
 滝口悠生(ゆうしょう)の書き下ろし長編「高架線」(『群像』3月号)が、とてもこの作家らしい飄々(ひょうひょう)とした佇(たたず)まいの好作だった。かつて存在した「かたばみ荘」の住人たち、およびその周りの人物たちによる、一種の群像劇である。
 小説はまず「新井田千一」のひとり語りから始まる。話途切れると「*」が挟まって、ふたたび「新井田千一です。」と名乗り直して語りは続けられる。それが何度か繰り返されて、起こったことの様相がおおよそわかってきたあたりで、突然、語り手は「七見歩」に変わる。
 七見も新井田同様「七見歩です。」と名乗ってから話し出す。「片川三郎」をめぐって展開していくのかといえば、必ずしもそうではなくて、その後も何人かの語り手が出てきてさまざまなことを語り、いつの間にか「かたばみ荘」を中心とするおおらかで豊かな時間の流れのようなもの、人と人のかかわりの色とりどりの数珠繋(じゅずつな)ぎのようなものが、ゆっくりと、鮮やかに立ち上がってくる。
  瑣末(さまつ)なエピソードや些細(ささい)なディテールがとりわけ面白い。これはもちろん誉(ほ)め言葉として書くのだが、なんだか地味だが妙に心に残る映画かドラマかマンガのような読後感だ。

 関口涼子による「声は現れる」(『文学界』3月号)は、目次には「散文」と銘打たれている。長短さまざまな断片が六十ページにわたって続く。主題は題名にも冠された「声」である。「大切な人の声を録音してください。この本は、ただそう言うために書かれた」。亡くなった祖父の声。留守番電話に録音されていた筈(はず)なのに、いつのまにか消去されてしまっていた、もう二度と聴くことのかなわない、彼女を呼ぶ祖父の声。
 非常に抽象度の高い文章だが、はじめの方にはこんな記述がある。「これから書かれるのは個人的な物語」。そう、これは「物語」なのだ。「散文」とされているが、一種の「小説」としても読める。この分量の一挙掲載は文芸誌としては異例とも思えるが、価値ある試みだと思う。
《参照:滝口悠生「高架線」 関口涼子「声は現れる」 佐々木敦

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2017年2月27日 (月)

文芸時評2月毎日新聞(17年2月22日) 田中和生氏

「現代に通じる三島 肉体と言葉の葛藤=田中和生」
《対象作品》
 高橋睦郎評論集『在りし、在らまほしかりし三島由紀夫』(平凡社)/木村紅美の中篇「夢を泳ぐ少年」(『すばる』)/山崎ナオコーラの中篇「父乳の夢」(同前)/、荻野アンナの短篇「ダクト」(『文学界』)/
(一部抜粋)「文学は人生を素材にするのではなく、言葉を素材にしなくてはならないこと。そうした指摘をする背景には、演劇でも言葉でも古典的な教養が失われ、伝統と切れたところで文学作品が書かれていることに対する危機感がある。」
 「白眉(はくび)は一昨年行われた講演で、少年愛者である三島は自らの肉体に劣等感があり、表現する者として生き延びるのではなく表現される者としてその肉体を滅ぼすことを選んだと指摘する。言葉が軽んじられる時代を肉体という現実で覆そうとした点で、三島由紀夫は「戦後日本」を象徴する文学者だったと言えるだろうか。
 そうした肉体と言葉の葛藤は、現在では女性の書き手たちのものである。」
 

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