2017年4月27日 (木)

文芸時評4月(東京新聞4月27日付)=佐々木敦氏

 村上春樹「騎士団長殺し」=論じやすいところが罠
 ミヤギフトシ「アメリカの風景」=文体、慕情、技巧そろう
《対象作品》村上春樹「騎士団長殺し」(新潮社)/文学界新人賞受賞作・沼田真佑「影利」(「文学界」5月号)/、ミヤギフトシ「アメリカの風景」(「文藝」夏号)。

☆ 村上春樹「騎士団長殺し」については、「新潮」が椹木野依と上田岳弘(同誌は先月号にもいしいしんじが長めの書評を寄せていた)、「群像」が清水良典、「すばる」が杉田俊介、「文学界」が小山鉄郎と鈴村和成と山崎ナオコーラと佐々木敦、「文藝」通常の書評枠だが田村文とさんがら「騎士団長殺し」バトルロイヤル状態…とある。

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2017年4月 6日 (木)

文芸月評4月(読売新聞4月6日)文化部 待田晋哉記者

《対象作品》村上春樹さん(68)長編『騎士団長殺し』(新潮社)/又吉直樹さん(36)「劇場」(新潮)/温又柔おんゆうじゅうさん(36)「真ん中の子どもたち」(すばる)/今村夏子さん(37)「星の子」(小説トリッパー春季号)。
 元の記事を読むThe Yomiuri Shimbun《【文芸月評】自己確立の難しさ》

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2017年4月 2日 (日)

文芸時評3月(毎日新聞3月29日)=田中和生氏

 <一部抜粋>森友学園の問題は、わたしが見るところ現政権に近い思想信条をもつ者が、特別な便宜を図ってもらえると感じていたこと、またそのことに対するチェックが、公的機関でもマスメディアでも甘くなることに本質がある。現在の日本では報道の自由だけでなく、公的機関の公平さが失われつつあることを示す、象徴的な出来事と言っていい。力作揃(ぞろ)いの今月の作品で、そこまで想像力が届いていると思ったのは、黒川創の長篇(ちょうへん)『岩場の上から』(新潮社)である。
 作品は戦後百年の「平和維持」を訴える少数派となった人々と、殺し殺される戦場を目前に基地から脱走を企てる若者たちの、偶然と必然の出会いを追う。その蝶番(ちょうつがい)となる、原発事故後の放射能汚染の問題、世界規模で結びつく戦場と貧困の問題は驚くほど生々しく、岩場に上がってそれを指摘しようとする者がいなくなるなか、ついに日本は戦争状態に突入する。登場人物の生活ひとつひとつにリアリティがあり、小説として非常に読みごたえがあることが怖くなる、傑作という以上に黙示録的な作品だ。
 笙野頼子の長篇「さあ、文学で戦争を止めよう 猫キッチン荒神」(『群像』)。猫の意識をもつ「荒神」が作品全体の語り手となっていることに特徴がある。それは飼っていた猫の死後に、実は「私」の方が見守られてきたと信じるからだが、そのことはそこで語られる苦しい家族史や病歴に強い説得力をあたえている。その「私」が、女性作家たちの拠点であったキッチンから「戦争を止めよう」とする言葉を引き出している。
 ドン・キホーテ的な意図とサンチョ・パンサ的な世俗性が混在する作品だが、時代に訴えようとする長篇を書いているうちに、前提となる「舞台が壊れてしまう」という「私」の切実な危機感を評価したい。これらの作品に示された鋭い感覚から考えたとき、大きな話題となっている村上春樹の長篇『騎士団長殺し』(新潮社)や又吉直樹の長篇「劇場」(『新潮』)は、いわば「奇妙に平穏な日常」に収まっている安全な作品だと言える。
  いずれの主人公も、女性にもたれながら自分の世界を追求するが、ここには日本人が好きな「母子の濃密な情緒」(江藤淳『成熟と喪失』)が生きている。かつて江藤淳は、それが六〇年代に崩壊したと論じたが、だからそれは小説でしか成立しない安全な世界である。だとすれば、そうした情緒が存在しない場所から作品が書きはじめられているという意味で、今村夏子の長篇「星の子」(『小説トリッパー』)が注目に値する。
 作者は病弱だった「わたし」を語り手に、中学生になるまでの出来事を辿(たど)る。次第にわかってくるのは、両親が「わたし」の治癒と引き替えに新興宗教らしきものに入ったことで、我慢強い「わたし」の語り口から、崩壊した家族の空間が宗教の原理で満たされた世界が見えてくる。オウム真理教事件が起きた、九〇年代以降の日本の現実に、ようやく正面から立ち向かう作者が現われた。(文芸評論家)
《参照:想像力の先の現実 作家の切実な危機感=田中和生

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2017年3月31日 (金)

文芸時評3月(東京新聞3月30日)佐々木敦氏

又吉直樹「劇場」屈折する自意識の極み
温又柔「真ん中のこどもたち」複雑な境遇を生きる
《対象作品》又吉直樹「劇場」(「新潮」4月号)/温又柔「真ん中のこどもたち」(「すばる」4月号)/青木淳悟「私、高校には行かない」(「文学界」4月号。

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2017年3月28日 (火)

文芸時評4月号 早稲田大学教授・石原千秋氏

 (一部抜粋)『騎士団長殺し』の宛先はおそらく日本人ではない。いや、正確に言おう。『騎士団長殺し』の宛先はおそらく日本語を母語とする人ではない。村上春樹はこれまでもそれを試みてきたではないか。
《産経=文芸時評4月号 早稲田大学教授・石原千秋 『騎士団長殺し』の宛先》より。

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2017年3月 5日 (日)

文芸時評2月(東京新聞17年2月28日)佐々木敦氏

≪対象作品≫
滝口悠生「高架線」(「群像」3月号)/同「今日の記念」(「新潮」3月号/関口涼子「声は現れる」(「文学界」3月号)。
(一部抜粋)
 滝口悠生(ゆうしょう)の書き下ろし長編「高架線」(『群像』3月号)が、とてもこの作家らしい飄々(ひょうひょう)とした佇(たたず)まいの好作だった。かつて存在した「かたばみ荘」の住人たち、およびその周りの人物たちによる、一種の群像劇である。
 小説はまず「新井田千一」のひとり語りから始まる。話途切れると「*」が挟まって、ふたたび「新井田千一です。」と名乗り直して語りは続けられる。それが何度か繰り返されて、起こったことの様相がおおよそわかってきたあたりで、突然、語り手は「七見歩」に変わる。
 七見も新井田同様「七見歩です。」と名乗ってから話し出す。「片川三郎」をめぐって展開していくのかといえば、必ずしもそうではなくて、その後も何人かの語り手が出てきてさまざまなことを語り、いつの間にか「かたばみ荘」を中心とするおおらかで豊かな時間の流れのようなもの、人と人のかかわりの色とりどりの数珠繋(じゅずつな)ぎのようなものが、ゆっくりと、鮮やかに立ち上がってくる。
  瑣末(さまつ)なエピソードや些細(ささい)なディテールがとりわけ面白い。これはもちろん誉(ほ)め言葉として書くのだが、なんだか地味だが妙に心に残る映画かドラマかマンガのような読後感だ。

 関口涼子による「声は現れる」(『文学界』3月号)は、目次には「散文」と銘打たれている。長短さまざまな断片が六十ページにわたって続く。主題は題名にも冠された「声」である。「大切な人の声を録音してください。この本は、ただそう言うために書かれた」。亡くなった祖父の声。留守番電話に録音されていた筈(はず)なのに、いつのまにか消去されてしまっていた、もう二度と聴くことのかなわない、彼女を呼ぶ祖父の声。
 非常に抽象度の高い文章だが、はじめの方にはこんな記述がある。「これから書かれるのは個人的な物語」。そう、これは「物語」なのだ。「散文」とされているが、一種の「小説」としても読める。この分量の一挙掲載は文芸誌としては異例とも思えるが、価値ある試みだと思う。
《参照:滝口悠生「高架線」 関口涼子「声は現れる」 佐々木敦

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2017年2月27日 (月)

文芸時評2月毎日新聞(17年2月22日) 田中和生氏

「現代に通じる三島 肉体と言葉の葛藤=田中和生」
《対象作品》
 高橋睦郎評論集『在りし、在らまほしかりし三島由紀夫』(平凡社)/木村紅美の中篇「夢を泳ぐ少年」(『すばる』)/山崎ナオコーラの中篇「父乳の夢」(同前)/、荻野アンナの短篇「ダクト」(『文学界』)/
(一部抜粋)「文学は人生を素材にするのではなく、言葉を素材にしなくてはならないこと。そうした指摘をする背景には、演劇でも言葉でも古典的な教養が失われ、伝統と切れたところで文学作品が書かれていることに対する危機感がある。」
 「白眉(はくび)は一昨年行われた講演で、少年愛者である三島は自らの肉体に劣等感があり、表現する者として生き延びるのではなく表現される者としてその肉体を滅ぼすことを選んだと指摘する。言葉が軽んじられる時代を肉体という現実で覆そうとした点で、三島由紀夫は「戦後日本」を象徴する文学者だったと言えるだろうか。
 そうした肉体と言葉の葛藤は、現在では女性の書き手たちのものである。」
 

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2017年2月 5日 (日)

産経【文芸時評2月】 早稲田大学教授・石原千秋

 松浦理英子「最愛の子ども」(文学界)は、おそらく横浜にあるだろう私立玉藻学園高等部(若い頃、フェリス女学院大学の『玉藻』という国文学系の雑誌論文を何編もコピーしたものだ)が舞台で、いきなり今里真汐(いまざと・ましお)の「女子高校生らしさとは何かというテーマで作文を書くようにと言われましたが」ではじまる作文が提示されて、白けた。保守的な「らしさ」への批判はもう昭和初期からはじまっているので、「なにをいまさら」と思ったからだ。フェミニズム系のテーマとしても「女らしさ批判」はもう古くさい。

 そう思って読み進めたら、不思議なことに気づいた。今里真汐たちのグループの少しばかり知的で少しばかり刺激的な女子高生活は、同級の「わたしたち」から見られ、語られる構成となっているのだ。「放課後わたしたちは、担任の唐津緑郎(ろくろう)先生に呼び出された今里真汐が職員室から戻ってくるのを、教室で待つともなく待っていた」というふうに。それでいて、「わたしたち」が誰なのかわからない。「わたしたち」は、すっかり成長したワセジョでもあり、まだ「言ってみたい~」と授業中に声にしてしまうワセジョの卵でもあるような不安定なポジション。そのポジションが今里真汐たちの揺れをみごとに読者に伝える。見て、語るポジションを「わたしたち」として抽象化し、それを同級生から少しずらしながら動かす方法があるとは思いもつかなかった。素直に感服した。
文芸時評2月号】不安定なポジションの妙 早稲田大学教授・石原千秋

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2017年2月 3日 (金)

文芸時評(東京新聞2017年1月31日)評・佐々木敦氏

「三田文学」特集「保坂和志」孤立の文学 強力な磁場
松本理英子「最愛のこども」超絶技巧で描く愛の姿
≪対象作品≫
第156回芥川賞・山下澄人「しんせかい」(「新潮」2016年7月号・新潮社刊)/特集「保坂和志」―保坂和志「ある講演原稿」、エッセイ「TELL TALE SIGNS」、「地鳴き、孤鳥みたいな」ほか対談(「三田文学」冬季号)/松本理英子「最愛のこども」(「文学界」3月号)。

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2017年1月29日 (日)

文芸時評(東京新聞2016・12月) 上田岳弘「塔と重力」=評・佐々木敦氏

  『すばる』1月号の特集「17」には驚かされた。もちろん2017年にちなんでいるのだが、とにかく「17」という数にこだわって、谷川俊太郎、角田光代、平野啓一郎、吉本ばななら総勢十四名によるエッセイ「十七歳のとき」、青山七恵、滝口悠生(ゆうしょう)、上田岳弘(たかひろ)の鼎談(ていだん)「『十七歳小説』を読む」、一九一七年に立ち返って夏目漱石没後一〇〇年にかんする水村美苗と小森陽一の対談、ロシア革命一〇〇年をめぐる亀山郁夫、島田雅彦、前田和泉の鼎談、さらには俳人の堀本裕樹の「十七音の遠き海」、数学者・森田真生(まさお)の「数をめぐる十七の断章」など、ヴァラエティに富み過ぎとも思える記事が並んでいる。
  特集といえば『群像』1月号では「五〇人が考える『美しい日本語』」をやっている。蓮實(はすみ)重彦、吉増剛造、橋本治、内田樹(たつる)、リービ英雄、穂村弘、堀江敏幸、村田沙耶香、等々が各々(おのおの)「美しい日本語」を選び、エッセイを寄せている。私も書いている。このタイミングでの特集の企画意図については特に誌面では触れられていないのだが、私も含めた何人もの寄稿者が「美しい」と「日本語」の接続に微妙な違和感を表明しているのがなかなか興味深い。そういう反・ナショナリズム的な反応自体も今や紋切り型ではないかと思いつつ、ついつい留保をつけたくなってしまうということだろう。
 その中で、佐佐木信綱「夏は来ぬ」を挙げた片岡義男の「美しい日本語は、言葉としては残っている。活字で本のなかに印刷された言葉だ。僕がそのような言葉のほんの一端を知ったとき、そのような言葉が描いたはずの日本の風物は、とっくに消えていたと僕は思う。実体はかたっぱしから消えていき、言葉だけが残る」という述懐が心に残った。
 上田岳弘の中編「塔と重力」(『新潮』1月号)は、デビュー作品集『太陽・惑星』、三島由紀夫賞受賞作『私の恋人』、芥川賞候補となった『異郷の友人』と、人類史を丸ごと相手取った極端にマクロな世界観のもとに荒唐無稽な物語を紡いできた注目作家の「種明かし」のような作品として読んだ。なにしろこの小説には、上田作品ではお馴染(なじ)みのSF的にぶっ飛んだ設定は出てこない。
 フェイスブックをはじめとするSNSが物語の中枢に置かれている。「神ポジション」という言葉が出てきて、文字通り「あたかも神のごときポジションからやたらと壮大な視点で語ること」なのだが、それを実体化させると過去の上田作品になるわけだ。「僕」の経歴は作家自身のそれと意識的に重ねられている。上田岳弘という小説家は、どうしてあのような奇妙な小説ばかり書いてきたのかという問いへの、もちろんフィクションではあるのだが、切実な返答らしきものが、この作品のそこかしこに覗(のぞ)いている。「種明かし」とはそういう意味である。これを書くのはかなり大変な、ある意味でしんどい作業だったのではないか。しかしそれに見合う力作に仕上がっている。
 (ささき・あつし=批評家)
《参照: 「すばる」1月号特集「17」 上田岳弘「塔と重力」 佐々木敦

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