2020年2月 5日 (水)

文芸時評1月「東京新聞」(1月30日)ー佐々木敦氏

 第百六十二回芥川賞は古川真人(まこと)「背高泡立草(せいたかあわだちそう)」(『すばる』2019年10月号)が受賞した。作品については初出時にこの欄で取り上げたので、あらためては述べない。古川氏は四度目の候補作での受賞であり、今回の中では最多ノミネート保持者だった。その意味では順当な結果と言えるかもしれない。
 話題にしたいのは、選考委員を代表して受賞作決定直後に会見に臨んだ島田雅彦氏が、あやうく受賞作なしになりそうだったのをなんとか回避できた、という主旨(しゅし)の発言をしていたことである。芥川賞の選考会では、審議に入る前にまず一回目の投票を行うのだが、今回はその結果が非常に厳しかった。それでも受賞作を出すべく議論を続け、どうにか最終的に「背高泡立草」に受賞を可とするだけの票が集まった、ということであった。
 実は同様のことは文芸各誌の新人賞の選考過程の説明でもしばしば述べられている。賞であるからには受賞作を出すことが基本的に望ましいことは確かである。選考会に至るまでには幾つもの審査の過程があり、そこをくぐり抜けて候補となった作品の中から相対的に最も優れた作品を選出するのが筋なので、受賞作なしは事前審査と最終選考の間の乖離(かいり)を示すことになる、という見方もあるだろう。もっとドライなことを言ってしまえば、賞に掛かる費用対効果的にも受賞作を出さないのは好ましくない。
 とはいえかつては芥川賞も「受賞作なし」は結構あった。一九八〇年代には全二十五回中、九回も「受賞作なし」だった。これが一九九〇年代になると三回に減り、二〇〇〇年代には一回、二〇一〇年代も一回となっている。第百四十五回以後「受賞作なし」は一度もない。これはやはり多少無理をしても受賞作を出すことを是としてきたという事実を示すものだろう。先の島田発言も、このような経緯を踏まえてのものだったと考えてよい。私も基本的に賛成である。
 「受賞作なし」がまずいのは、ひとたびそれをありにしてしまうと、ことによると連続しかねない、という暗黙の危惧があるからではないか。いや、実際にはそうはならないだろうが、しかし「受賞作なし」の次の受賞作は、理屈の上では前回の候補作全部との比較に晒(さら)されることになる。だからいったん受賞作を出さなくてもよい、という選択を認め始めると、自然と次第に選考は厳しくなっていかざるを得ない。
 考えるべきなのは、相対評価か絶対評価か、ということである。
 私の考えでは、文学などの芸術にかんして絶対評価を設けることは本当は不可能だし、設けるべきではない。だがそんなものはない、と言ってしまうことがむつかしいのも事実である。「受賞作なし」とは、候補作の中で相対的にはいちばん優れているとされた作品でさえ受賞には値しないと判断された、ということだから、絶対評価的な規準(きじゅん)がほの見えてくる。そして、そういう考え方が前面に出てきたら、受賞に値する、という評価は、どんどんハードルが高くなっていくことだろう。ある意味では、厳しくしようと思ったら、いくらだって厳しく出来るのだから。選考委員が全員一致で価値や才能を認めるぐらいでないと受賞に値しない、これが絶対評価である。問題は「賞」というものが、そういう文句なしの傑作のみを送り出すためにあるのかどうか、ということであり、これは意見が分かれるところだと思う。
 『すばる』2月号で「すばるクリティーク賞」が発表されている。結果は設立以来初の「受賞作なし」である。先々月になるが「群像新人評論賞」も「受賞作なし」で、それを承(う)けて『群像』2月号では選考委員の東浩紀、大澤真幸、山城むつみによる座談会が掲載されている。公募と候補選出は違うし、創作と評論では事情が異なるところもあるだろうが、「受賞作なし」が続いていることが気になる。芥川賞もそうなるところだったのだ。とはいえ「無理をして受賞作を出した」という島田氏の正直過ぎる発言には正直驚かされた。
《参照:芥川賞「受賞作なし」回避 そぐわぬ絶対評価 厳格化防ぐ判断は妥当 佐々木敦(ささき・あつし=批評家)》

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2020年1月29日 (水)

文芸時評・2月(産経新聞・1月26日付)石原千秋教授

  人は本当に悲しい体験は言葉にできないものだ。「悲しい」と言葉にすることで、その体験から自分だけにとって意味を持つ固有性が失われ、誰もが口にすることができるあの「悲しい」という凡庸な言葉になってしまうからだ。それは自分の人生が否定されるほど辛い。しかしそのことは、誰にも伝えることができないと信じていた体験を人に共有してもらうほとんど唯一の方法でもある。そして「悲しい」というとき、「悲しい」と口にするそれぞれの人がそれぞれ人には言えないほどの辛い体験があると身をもって知ることでもあり、「悲しみ」の固有性を諦め、「悲しみ」の共同体に参加することでもある。それでようやく社会の一員に復帰できる。それは自己治癒だと言ってもいい。事実、過去を話すアラムは限りない優しさと穏やかさを得たようだ。言葉、ことば、コトバ。言葉は人を傷つけ、諦めさせ、そして癒やす。文学に関わるほどの人なら誰でもわかっていることだが、それをみごとに舞台化したと思った。

 フランツ・カフカに未完の遺作がまだ残っていたらという設定の、ケラリーノ・サンドロヴィッチ作・演出「ドクター・ホフマンのサナトリウム」(神奈川芸術劇場)はこのうえなくよかった。主演の瀬戸康史は「関数ドミノ」がすばらしかったが、テレビではなく、舞台がいい。

《産経新聞:【文芸時評】2月号 早稲田大学教授・石原千秋 言葉は人を傷つけ、癒やす

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2020年1月10日 (金)

文芸時評1月号(産経新聞12月29日)石原千秋・生きるための悲しみ

村上春樹が群像新人文学賞贈呈式で、〈小説家になったら村上龍という筆名で書こうと思っていたが、先に村上龍がデビューしてしまったので村上春樹でいくしかなくなって残念だ〉という趣旨の「人を喰つた」受賞の挨拶(あいさつ)をしたと、丸谷才一が紹介している(『挨拶はむづかしい』)。村上春樹ファンなら誰でも知っているだろう。 その村上龍が春樹の向こうを張って『ねじまき鳥クロニクル』の書き直しに挑戦したのかと、一瞬わが目を疑った。「MISSING 失われているもの」(新潮)である。《参照:【文芸時評】1月号 早稲田大学教授・石原千秋 生きるための悲しみ

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2020年1月 4日 (土)

2019「文芸この1年」東京新聞(12月25日)佐々木敦さん×江南亜美子さん対談(下)

 佐々木 地球や人類レベルの問題をどう書くかという意味で、「世界文学」という言葉が使われるようになった。
 江南 リチャード・パワーズ『オーバーストーリー』は、人類すら超越した世界を描く。ミシェル・ウエルベック『セロトニン』はグローバル企業が人の心を殺す。
 佐々木 女性やアジア人種への蔑視とも取られかねない独特の視線を含め、ウエルベックの小説や登場人物の持つ心性が許し難いとの意見もある。なのに日本でも人気で、そのねじれに興味があった。
 江南 ウエルベック作品は必ず、欧州的な価値観で動く白人男性が主人公。でも彼の絶望を、アジアの女性である自分も共有できてしまう。属する国や民族を超えて、近代の終わりに生きる人類という共通点があるからなのか。
◆脱人類という視点
佐々木 脱人類、ポストヒューマンという視点も、いろんな文脈で出てくるようになった。そこで名前が挙がるのが村田沙耶香。これまでも『殺人出産』『地球星人』などで、人間が人間であるギリギリの紐帯(ちゅうたい)を切ったらどうなるかという実験をやってきたが、短編集『生命式』でも相当多くの人が受け入れ難いような倫理観や人間観というものを描いている。にもかかわらず、かなり大きな支持を得るという現象も興味深い。
江南 村田は「今あなたが持っている価値観はどこから来たのか」ということを常に問う人。「人間が空気読んで中道に、中庸に生きてどうする」「もっと野性を持て」というメッセージを感じる。
 佐々木 僕が千葉雅也『デッドライン』、江南さんがミヤギフトシ『ディスタント』を今年の十冊に挙げている。ある意味、好対照の作品。かたや哲学者、かたやアーティストの初の小説で、セクシャリティーの題材も絡む。
 江南 千葉は理解してくれるなという拒絶の切実さをキレのある言葉で描く。一方で、自己言及的で読者の誤読を許さない生硬さもある。同性愛者の性愛が徹底してあからさまに描かれるのも特徴。ミヤギは感情の揺れをひたすら繊細に描く。ともに青春小説だ。
 佐々木 千葉は文体への意識が高い書き手。論文を書くように精巧につくりあげている部分と、繊細で個人的な感情が一つになっている。デビュー作として非常にすばらしい。芥川賞候補にもなっている。本業はあくまで哲学者だろうが、これからも書いてほしい。それにしても一九九〇年代以降、異業種からの文学への参入が増えた。《参照:文芸この1年 佐々木敦さん×江南亜美子さん対談(下)

 

 

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2020年1月 3日 (金)

2019「文芸この1年」(東京新聞12月24日) 佐々木敦さん×江南亜美子さん対談(上)


 江南 今年を振り返り、翻訳小説がこれほど話題になった年は近年なかったと思う。特に東アジアの作家がメジャーな場で語られたのが大きな特徴。ブームになったチョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』が牽引(けんいん)し、韓国の現代文学が数多く邦訳された。SFでは中国の劉慈欣(りゅうじきん)『三体』もすごく売れた。

 佐々木 確かに欧米の小説はどこか異国の話という感じがあるのに対し、アジアの隣国の話は日本の問題にスライドできることが多い。

 江南 韓国の女性文学がこれだけ読まれたのは、欧米的なウーマンリブに比べて、日本の女性読者の「これは自分たちのことなんだ」というシンパシーが発動したから。家父長制という共通点がある。

 佐々木 #MeToo運動にリンクする形でフェミニズムが注目され、そこに日韓関係の問題がクロスした時、『キム・ジヨン』がコンパクトで読みやすい本として起爆剤になった。従来の「文学」は、その時代の社会と直接的にシンクロするよりも、個人の内面や自我を描くことが多かったが、その傾向が変わってきた。社会的・政治的な問題が「文学」の中にもいよいよ入ってきたという感じがある。

 江南 韓国の作家はセウォル号事故や経済をめぐる政府の失策な ども積極的に主題化する。その態度が輸入されたのかも。

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2019年12月 8日 (日)

【文芸時評】11月号(産経新聞11月29日) 早稲田大学教授・石原千秋氏

ーー後半部ーー「かか」はもちろん母親の意味。物語の中盤に「『かかのおなかに腫瘍ができて、子宮の摘出手術をしなきゃならん』と言い出しました。その顔色はわるかったけんど、どこか勝ち誇ったような顔でした」とあり、最後は「うーちゃんたちを産んだ子宮は、もうどこにもない」という一文で閉じられる。母であることはもう女性のアイデンティティーの証とはならないというテーマは古いが、それが子宮に局所化されて語られるところに現代が見えている。
 すばる文学賞受賞作は、高瀬隼子「犬のかたちをしているもの」。「わたし=薫」は子宮に病気を持っていて、同居する郁也と性交ができない。郁也はお金を払ってミナシロという女性とセックスをするが、ミナシロが郁也の子を妊娠してしまう。ミナシロは一度郁也と婚姻届を出して、その後すぐに離婚するから、子供は薫と郁也が育ててほしいと言う。この荒唐無稽な設定は、現代の女性にとって子宮とは何かという問いを突きつけており、先の「かか」と響き合う。ただ、作品としてはテーマが子宮なのか郁也との性交のない愛なのか薫の実家なのか、まとまっていない。タイトルを重視すれば郁也との性交のない愛がテーマとなるが、それは現代ではただの現実でしかない。
遠野遥「改良」は、タイトルが意味不明。少年時代に友人に「身体は男で心は女」と見破られて(?)しまったミヤベは大人になって女装するようになるが、「本番」をやらないデリバリーヘルス店のカオリと気があっていた。女装していたミヤベは男に襲われ、救いを求めるように美人ではない知人のつくねという女性の家に向かう。このラストでは、性の揺らぎの書き込みが弱くなる。
 新潮新人賞受賞作は中西智佐乃「尾を喰(く)う蛇」。介護施設に充満する歪(ゆが)んだ力と老人の満州体験を重ねるが、うまく構成されていない。とにかく退屈。早く終わってくれと思いながら読んだ。《【文芸時評】11月号 早稲田大学教授・石原千秋 「いま」を書いているか

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2019年11月 3日 (日)

文芸時評10月(東京新聞10月31日)=佐々木敦氏

◆難問どうなる?に関心

 今年も新人賞の季節がやってきた。すばる文学賞は高瀬隼子(じゅんこ)「犬のかたちをしているもの」(『すばる』11月号)。三十路(みそじ)を迎える女性の「わたし」には郁也という恋人がいる。もう三年付き合っているが、セックスレスになって久しい。「わたし」は男性と恋愛関係になって数カ月すると決まって性交が疎ましくなるのだ。過去の恋人たちはそれで去っていったが、郁也はそうではなかった。だが突然、ミナシロという女性が現れ、郁也の子を妊娠していると告げる。体だけの関係だった筈(はず)が誤って妊娠してしまったのだという。

 ミナシロは出産はするつもりだが子供を育てる気はないので「わたし」と郁也に育てて欲しいと言い出す。あまりに理不尽な申し出に当惑と憤慨を隠せない「わたし」だが、郁也もそれを望んでいるようだ。「わたし」は子宮に病気を抱えている。それが性交への嫌悪と関係があるのかどうかはともかく、降って湧いたような難問に「わたし」がどんな答えを出すのか、そして結局どうなるのか、という関心を維持しながら読み終えることが出来(でき)た。とはいえ、人物設定も物語の展開もかなり通俗的で予想の範囲を逸脱することがないまま進んでしまう。もっとも良いのは題名だが、犬という隠喩も内容的にはあまり効いていないような気がしてしまった。

◆中西智佐乃「尾を喰う蛇」 介護の切実さが伝わる

 新潮新人賞は中西智佐乃「尾を喰う蛇」(『新潮』11月号)。大阪の病院で介護福祉士として働く三十五歳の「興毅」の視点から、老人介護の実態がつぶさに描かれてゆく。興毅は家族との軋轢(あつれき)や将来への不安もあり、行き場のない焦燥を抱えている。綺麗(きれい)ごとでは済まない介護の現場のディテールは非常にリアルで、雰囲気に逃げない確実さを感じた。

 入院患者のひとり、年齢から採られた「89」というあだ名で呼ばれている老人は認知症が進んでおり、やたらと癇癪(かんしゃく)を起こしたり若い女性介護士の体に触れたり、時には暴力をふるったりする。興毅は「89」が時々口走る戦時の行為への謝罪とも取れる謎めいた言葉に興味を惹(ひ)かれるとともに、彼を力で屈服させることに密(ひそ)かなよろこびを感じるようになってゆく。主人公の鬱屈(うっくつ)が次第に歪(ゆが)みを帯びてゆくさまはよく書けているが、結末が物足りない。題名もありきたりである。ただし選考会で論議になったという「89がしたことは何だったのか」が最後まで明らかにされない点は私はむしろよいと思った。自分の意志ではなかった、仕方がなかったのだ、という自責と裏腹になった自己正当化が興毅に伝染してゆくのがこの小説の肝であるからだ。《参照:高瀬隼子「犬のかたちをしているもの」 ほか新人賞受賞作 佐々木敦

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2019年10月 4日 (金)

【文芸時評】10月(産経9月29日)早稲田大学教授・石原千秋 芥川賞に未来はない

 (文芸春秋9月)を読んだ。今回の芥川賞については、小谷野敦の発言に賛成する(倉本さおりとの対談「芥川賞について話をしよう」『週刊読書人』9月13日)。受賞作は今村夏子『むらさきのスカートの女』だが、この作品よりすぐれている『こちらあみ子』で受賞とすべきだった。最近「もう少し様子を見よう」という雰囲気が強すぎる。直木賞は人に与える賞だが、芥川賞は作品に与える賞だ。選考委員に「作品を歴史に刻み込む」という使命感がないのではないか。
 古市憲寿「百の夜は跳ねて」に関して小谷野敦は、いつも厳しい自分から見ても、「ちょっと厳しすぎます」と言う。木村友祐「天空の絵描きたち」(文学界・平成24年10月号)を「参考文献」に挙げ、同じ高層ビルの窓拭きをテーマとしていることに対して、山田詠美「真似(まね)や剽窃(ひょうせつ)に当たる訳(わけ)ではない。もちろん、オマージュでもない。ここにあるのは、もっと、ずっとずっと巧妙な、何か」だとか、川上弘美「ものを創り出そうとする者としての矜持(きょうじ)に欠ける行為」だとか、吉田修一「盗作とはまた別種のいやらしさ」だとか、堀江敏幸「参考文献にあげられた他者の小説の、最も重要な部分をかっぱいでも、ガラスは濁るだけではないか」だとか、ほとんど人格否定。奥泉光だけが、そもそも小説とは「外にあるさまざまな言葉をコラージュ」するものだとまっとうな論理を述べて支持している。人格否定論者にはミュシャ展でも観てきたらいいと言いたくなる。どんな芸術家でもはじめは誰かに似ているものだ。そのプロセスを全否定したら、芸術家など育たない。《参照:【文芸時評】10月号 早稲田大学教授・石原千秋 芥川賞に未来はない

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2019年10月 1日 (火)

文芸時評・東京新聞(9月26日・夕刊)佐々木敦氏

 阿部和重の最新長編『Orga(ni)sm[オーガ(ニ)ズム]』の刊行を記念して、同作の連載誌だった『文学界』10月号が特集を組んでいる。『オーガ(ニ)ズム』は、一九九九年に連載が開始され二〇〇三年に刊行された『シンセミア』、一〇年の『ピストルズ』に続く「神町(じんまち)トリロジー(三部作)」の第三部完結編である。山形県東根市に実在する自らの出生地でもある神町を舞台とする小説を、阿部はこれら三つの大長編の他にも複数発表してきた(その中には芥川賞受賞作『グランド・フィナーレ』も含まれる)。約二十年の歳月が執筆に費やされた、壮大なる「神町サーガ」の終わりを告げる『オーガ(ニ)ズム』の主人公は、なんと「阿部和重」である。彼はある夜突然、自宅に血塗(まみ)れで転がり込んできたCIAのケースオフィサー、ラリー・タイテルバウムに請われ、首都移転(!)によって日本の政治の中心地となり、いまや飛躍的な発展を遂げつつある故郷神町に、幼い息子を連れて舞い戻る。
 阿部は一作ごとに文体やスタイルを一変させる作家だが、今回も前二作とはまったく異なるタイプの小説となっている。特集は、ロング・インタビュー「アメリカ・天皇・日本」(聞き手は私が務めた)、精神科医の斎藤環、アメリカ文化研究の大和田俊之、小説家の樋口恭介、翻訳家・書評家の大森望、アメリカ文学者の越川芳明による作品論、小説家の小山田浩子、鴻池留衣らによる作家論、そして「『Orga(ni)sm』キーワードをめぐるよもやま話」という充実の内容となっている。阿部の小説は多くの意味で「日本文学」の閉域に留(とど)まらないハイブリッド性を有しているが、『オーガ(ニ)ズム』はその集大成である。阿部が書いた最長の小説だが、何より強調しておくべきことは無類に面白いということである。渾身(こんしん)の大作にふさわしい特集となった。
 特集といえば『すばる』10月号が「『お金』を問う」という企画をやっている。この雑誌は以前から社会的な問題と文学の現況を架橋するのが上手(うま)い。経済学者岩井克人インタビュー、社会学者の大澤真幸、評論家の山本貴光、編集者の若林恵の論考、総勢十五人によるエッセイ(『文学界』と小山田浩子と越川芳明が被(かぶ)っている)も読みごたえがあるが、企業経営者としての顔も持つ三人の作家、上田岳弘と小佐野彈と加藤秀行の鼎談(ていだん)がとても興味深い。上田は一足先に芥川賞を射止めたが、加藤も二度候補に挙げられており、小佐野は短歌で複数の賞を受賞してから小説家としてデビューした。いずれも実力派の新鋭である。ビジネスでも結果を出してきた彼らが、なぜわざわざ文学を志したのか、という当然の疑問に、ある程度まで答えてくれる。
 『すばる』に古川真人の中編「背高泡立草」が載っている。二十代後半の奈美は、母親・美穂の命により、高齢の祖母・敬子が住む母方の実家にある棄(す)て置かれた納屋周りの草刈りに駆り出される。伯母の加代子、その娘の知香、美穂と加代子の兄である伯父の哲雄と連れ立って、彼女は家に向かう。そこには<古か家>と<新しい方の家>がある。納屋は二十年も前から使われていないのに、どうして草を刈らねばならないのか、と奈美は疑問に思う。そこから小説は「家」と「家族」の過去にまつわる物語へと入っていく。捕鯨の刃刺(はざし)(鯨に銛(もり)を打つ者)の物語や酒飲みの父親にカヌーで海を渡ってこいと言われた少年の物語は、独立した短編としても読める。
 太田靖久の「アフロディーテの足」(『群像』10月号)は、画家崩れの中年男が、地下アイドルもやっている女子大生(の足)に心奪われる話である。主人公はとにかく情けなくて気色悪いし、ヒロインの言動もかなり支離滅裂なのだが、読み進めていくと、奇妙な、だがひどく切実な、怒濤(どとう)の感動が襲ってくる。これは文芸誌にはめったに載ることがない「泣ける物語」である。いや、これで泣けるひとはやや特殊かもしれないが、少なくとも私は読みながら涙が止まらなかった。(ささき・あつし=批評家)
《参照:阿部和重「Orga(ni)sm[オーガ(ニ)ズム]」 古川真人「背高泡立草」 太田靖久「アフロディーテの足」 佐々木敦》

 

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2019年8月31日 (土)

文芸時評・9月(産経新聞)石原千秋教授

 千葉雅也「デッドライン」(新潮)は、ゲイとして生きる「僕」が現代思想(ジル・ドゥルーズ)を学ぶまでを書いた一種の青春グラフィティーである。終わり近くの「僕は線になる。/自分自身が、自分のデッドラインになるのだ。」を読んだとき、ごく自然に次の一節が頭に浮かんだ。「血を縁に残したガラスの破片は夜明けの空気に染まりながら透明に近い。/限りなく透明に近いブルーだ。僕は立ち上がり、自分のアパートに向かって歩きながら、このガラスみたいになりたいと思った。」(村上龍『限りなく透明に近いブルー』)である。何かになりたいと思うこと、それが青春の終わりだと教えてくれる。しかし、「デッドライン」に『限りなく透明に近いブルー』の衝撃はない。

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