2019年10月 4日 (金)

【文芸時評】10月(産経9月29日)早稲田大学教授・石原千秋 芥川賞に未来はない

 (文芸春秋9月)を読んだ。今回の芥川賞については、小谷野敦の発言に賛成する(倉本さおりとの対談「芥川賞について話をしよう」『週刊読書人』9月13日)。受賞作は今村夏子『むらさきのスカートの女』だが、この作品よりすぐれている『こちらあみ子』で受賞とすべきだった。最近「もう少し様子を見よう」という雰囲気が強すぎる。直木賞は人に与える賞だが、芥川賞は作品に与える賞だ。選考委員に「作品を歴史に刻み込む」という使命感がないのではないか。
 古市憲寿「百の夜は跳ねて」に関して小谷野敦は、いつも厳しい自分から見ても、「ちょっと厳しすぎます」と言う。木村友祐「天空の絵描きたち」(文学界・平成24年10月号)を「参考文献」に挙げ、同じ高層ビルの窓拭きをテーマとしていることに対して、山田詠美「真似(まね)や剽窃(ひょうせつ)に当たる訳(わけ)ではない。もちろん、オマージュでもない。ここにあるのは、もっと、ずっとずっと巧妙な、何か」だとか、川上弘美「ものを創り出そうとする者としての矜持(きょうじ)に欠ける行為」だとか、吉田修一「盗作とはまた別種のいやらしさ」だとか、堀江敏幸「参考文献にあげられた他者の小説の、最も重要な部分をかっぱいでも、ガラスは濁るだけではないか」だとか、ほとんど人格否定。奥泉光だけが、そもそも小説とは「外にあるさまざまな言葉をコラージュ」するものだとまっとうな論理を述べて支持している。人格否定論者にはミュシャ展でも観てきたらいいと言いたくなる。どんな芸術家でもはじめは誰かに似ているものだ。そのプロセスを全否定したら、芸術家など育たない。《参照:【文芸時評】10月号 早稲田大学教授・石原千秋 芥川賞に未来はない

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2019年10月 1日 (火)

文芸時評・東京新聞(9月26日・夕刊)佐々木敦氏

 阿部和重の最新長編『Orga(ni)sm[オーガ(ニ)ズム]』の刊行を記念して、同作の連載誌だった『文学界』10月号が特集を組んでいる。『オーガ(ニ)ズム』は、一九九九年に連載が開始され二〇〇三年に刊行された『シンセミア』、一〇年の『ピストルズ』に続く「神町(じんまち)トリロジー(三部作)」の第三部完結編である。山形県東根市に実在する自らの出生地でもある神町を舞台とする小説を、阿部はこれら三つの大長編の他にも複数発表してきた(その中には芥川賞受賞作『グランド・フィナーレ』も含まれる)。約二十年の歳月が執筆に費やされた、壮大なる「神町サーガ」の終わりを告げる『オーガ(ニ)ズム』の主人公は、なんと「阿部和重」である。彼はある夜突然、自宅に血塗(まみ)れで転がり込んできたCIAのケースオフィサー、ラリー・タイテルバウムに請われ、首都移転(!)によって日本の政治の中心地となり、いまや飛躍的な発展を遂げつつある故郷神町に、幼い息子を連れて舞い戻る。
 阿部は一作ごとに文体やスタイルを一変させる作家だが、今回も前二作とはまったく異なるタイプの小説となっている。特集は、ロング・インタビュー「アメリカ・天皇・日本」(聞き手は私が務めた)、精神科医の斎藤環、アメリカ文化研究の大和田俊之、小説家の樋口恭介、翻訳家・書評家の大森望、アメリカ文学者の越川芳明による作品論、小説家の小山田浩子、鴻池留衣らによる作家論、そして「『Orga(ni)sm』キーワードをめぐるよもやま話」という充実の内容となっている。阿部の小説は多くの意味で「日本文学」の閉域に留(とど)まらないハイブリッド性を有しているが、『オーガ(ニ)ズム』はその集大成である。阿部が書いた最長の小説だが、何より強調しておくべきことは無類に面白いということである。渾身(こんしん)の大作にふさわしい特集となった。
 特集といえば『すばる』10月号が「『お金』を問う」という企画をやっている。この雑誌は以前から社会的な問題と文学の現況を架橋するのが上手(うま)い。経済学者岩井克人インタビュー、社会学者の大澤真幸、評論家の山本貴光、編集者の若林恵の論考、総勢十五人によるエッセイ(『文学界』と小山田浩子と越川芳明が被(かぶ)っている)も読みごたえがあるが、企業経営者としての顔も持つ三人の作家、上田岳弘と小佐野彈と加藤秀行の鼎談(ていだん)がとても興味深い。上田は一足先に芥川賞を射止めたが、加藤も二度候補に挙げられており、小佐野は短歌で複数の賞を受賞してから小説家としてデビューした。いずれも実力派の新鋭である。ビジネスでも結果を出してきた彼らが、なぜわざわざ文学を志したのか、という当然の疑問に、ある程度まで答えてくれる。
 『すばる』に古川真人の中編「背高泡立草」が載っている。二十代後半の奈美は、母親・美穂の命により、高齢の祖母・敬子が住む母方の実家にある棄(す)て置かれた納屋周りの草刈りに駆り出される。伯母の加代子、その娘の知香、美穂と加代子の兄である伯父の哲雄と連れ立って、彼女は家に向かう。そこには<古か家>と<新しい方の家>がある。納屋は二十年も前から使われていないのに、どうして草を刈らねばならないのか、と奈美は疑問に思う。そこから小説は「家」と「家族」の過去にまつわる物語へと入っていく。捕鯨の刃刺(はざし)(鯨に銛(もり)を打つ者)の物語や酒飲みの父親にカヌーで海を渡ってこいと言われた少年の物語は、独立した短編としても読める。
 太田靖久の「アフロディーテの足」(『群像』10月号)は、画家崩れの中年男が、地下アイドルもやっている女子大生(の足)に心奪われる話である。主人公はとにかく情けなくて気色悪いし、ヒロインの言動もかなり支離滅裂なのだが、読み進めていくと、奇妙な、だがひどく切実な、怒濤(どとう)の感動が襲ってくる。これは文芸誌にはめったに載ることがない「泣ける物語」である。いや、これで泣けるひとはやや特殊かもしれないが、少なくとも私は読みながら涙が止まらなかった。(ささき・あつし=批評家)
《参照:阿部和重「Orga(ni)sm[オーガ(ニ)ズム]」 古川真人「背高泡立草」 太田靖久「アフロディーテの足」 佐々木敦》

 

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2019年8月31日 (土)

文芸時評・9月(産経新聞)石原千秋教授

 千葉雅也「デッドライン」(新潮)は、ゲイとして生きる「僕」が現代思想(ジル・ドゥルーズ)を学ぶまでを書いた一種の青春グラフィティーである。終わり近くの「僕は線になる。/自分自身が、自分のデッドラインになるのだ。」を読んだとき、ごく自然に次の一節が頭に浮かんだ。「血を縁に残したガラスの破片は夜明けの空気に染まりながら透明に近い。/限りなく透明に近いブルーだ。僕は立ち上がり、自分のアパートに向かって歩きながら、このガラスみたいになりたいと思った。」(村上龍『限りなく透明に近いブルー』)である。何かになりたいと思うこと、それが青春の終わりだと教えてくれる。しかし、「デッドライン」に『限りなく透明に近いブルー』の衝撃はない。

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2019年8月 9日 (金)

文芸時評8月(産経新聞7月28日)石原千秋教授・村上春樹と文学の老い

 半期15回の村上春樹の授業を終えた。読み直すたびに僕の作品の評価が上がっていくのがわかる。『騎士団長殺し』(新潮社)ならば、第1部が「イデア」であり、第2部が「メタファー」。イデアはある概念であり、その具体的な姿が騎士団長である。メタファーというレトリックはあるものと別のあるものが似ていることで成り立つ。これはラングとパロールとの関係で説明できそうだ。 ラングとはたとえば日本語のような概念であって姿はないから、イデアに相当する。パロールは現実に話し、書かれる日本語だから具体的でそれぞれがちがう姿をしている。では、あの人の話す言葉とこの人が話す言葉がなぜどちらも日本語だと「わかる」のかといえば、それはその2つの言葉が似ているからだ。つまりメタファー。騎士団長が1つのパロールならば、この世界にはそれに似たパロールがたくさんあるはずだ。この世界は騎士団長に似たものであふれているにちがいない。

《参照:【文芸時評】8月号 早稲田大学教授・石原千秋 村上春樹と文学の老い

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2019年8月 6日 (火)

文芸時評8月(東京新聞8月1日)佐々木敦氏

 今村夏子の最初の芥川賞候補作「あひる」は、先ごろ終刊となった文学ムック『たべるのがおそい』の掲載作だった。つまり今村は既存の文芸誌=純文学専門誌の掲載作では一度も芥川賞候補に挙げられていないのである。それがどうしたと言われそうだが、私にはこの事実はとても興味深いことに思える。何度か書いていることだが、考えれば考えるほど定義が困難に思えてくる「文学」は、今や実質的に「芥川賞」に紐(ひも)づけられている。『小説トリッパー』のようなマルチな小説誌から遂(つい)に芥川賞が出たということは、そのまま「文学」の地殻変動を示しているとも言えるのだ。

 村上春樹はデビュー作『風の歌を聴け』と第二作『1973年のピンボール』が芥川賞候補となったが、受賞はせず、その後は候補に挙げられることはなかった。その村上の最新短編二作が『文学界』8月号に掲載されている。約一年前に同じ雑誌に発表された「三つの短い話」(『文学界』2018年7月号)の続編だが、連作短編「一人称単数」という前にはなかった総題が附(ふ)されている。「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」は、もちろんビートルズの想(おも)い出話から始まるのだが、やがて一九六五年、高校二年生だった「僕」と、その夏に初めて出来(でき)たガールフレンド、そして今の言葉で言えば「引きこもり」に近い生活を送っていたと思われる彼女の兄との、俄(にわか)には信じがたい物語に入っていく。もうひとつの「ヤクルト・スワローズ詩集」は、ヤクルト・スワローズ(旧サンケイ・アトムズ)と神宮球場をこよなく愛する作家のエッセイ的な作品だが、題名通り途中に自作の野球詩(?)が何度も挟み込まれるのが面白い。注目すべきは、この小説の語り手が、はっきり「村上春樹」と名乗ってみせるということである。つまり「一人称単数」とは要するに「私小説」ということなのだろうか。更(さら)なる続編があるのかどうかはわからないが、これまでになく作家自身の素が表れているように読めるのは確かである。

《参照:今村夏子「むらさきのスカートの女」 村上春樹連作短編 『文藝』秋号二度の増刷 佐々木敦

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2019年7月 9日 (火)

文芸時評6月(東京新聞6月27日)「如何様」、「ラップ 最後の旅」、「花束と水葬」=佐々木敦氏

 物語の舞台は先の戦争が終わって間もない頃、記者をしながら探偵のようなこともやっている女性の「私」は、知り合いの榎田から奇妙な仕事を依頼される。

 榎田がよく仕事を頼んでいた画家の平泉貫一が、大戦末期に兵隊に取られ、終戦を迎えてからもしばらく捕虜として収容されたのち、復員した。貫一の両親と、手違いで貫一とは一度も顔を合わせることなく嫁入りした妻のタエはよろこんで息子であり夫である男を迎えたが、やがて貫一は行方知れずになってしまった。しかも貫一の人相は、戦争に行く前と帰ってきてからでは、似ても似つかないほどに違っていた。

 榎田は別人が貫一に成り済ましているのではないかと疑い、事の真偽を調査するよう「私」を雇ったのだった。「私」はタエや貫一とかかわりのあった人たちを訪ね、失踪した男の正体を探っていく。

 高山の小説はいつも、明らかに故意に選び取られている読者に対する説明の抑制が、ただでさえ謎めいた物語を、より不可解に、それゆえ魅惑的にしていくのだが、この作品も途中から迷宮に入り込んでゆく。

 戦前と戦後の貫一の二枚の写真は、どう見ても別の男なのだが、証言者たちの話を総合すると、それでもやはり同じ人物であるかのように思えてくる。そして「私」は、貫一が極めて腕の良い贋作(がんさく)画家であり、自分自身も変装の名手であったということを知る…。

 題名の「如何様」には「イカサマ」とルビが振られているが、「いかよう」とも読める。まさにこれはいかようにも読める小説である。超常的な描写は一度も出てこないが、これは一種の幻想譚(たん)でもある。本物と瓜(うり)二つの贋(にせ)物、本物の代わりを完璧に務めている贋物は、もはや贋ではないのではないか。そもそも「本物」とは何か? 「本物」であることにどれほどの意味があるというのか? 作者はこんな問いを発しているように思われる。

 仏文学者で文芸評論家の芳川泰久による小説「ラップ 最後の旅」(『文学界』7月号)は、私小説のような体裁を取っているが、かなり野心的な作品である。

 五十五歳を迎えた大学教授の「おれ」は、自分は五十五歳で死ぬと予言して実際その通りになった母親のことを思い出す。母が亡くなってまもなく生まれた娘も今は二十三歳で、クマのような男と結婚すると言っている。「おれ」は母親が死ぬ前に口にした「また生まれてきたら、おまえを生みたい」という言葉がひどく気になり始める。

 それからもう一つ、なんと母方の一族が松尾芭蕉の血筋を引いているという妄想めいた話も。母親の遺(のこ)したノートには俳句が記されていた。「おれ」も俳句を始めようと思うが、実は娘も小学校の時に俳句を詠んでいたことが発覚する。その娘が妊娠した。ということは娘は母親の生まれ変わりで、生まれてくる子は「おれ」の生まれ変わりになるのか?

 テーマは「輪廻(りんね)」である。亡き母親の過剰な愛情の記憶に衝(つ)き動かされるように右往左往する「おれ」の姿は笑いを誘うが、更(さら)には題名通り、俳句だったはずが、なぜか後半今風のラップ調になってしまうのが面白い。本気なのか巫山戯(ふざけ)ているのかわからない、妙な味のある小説である。ラストも綺麗(きれい)に決まっている。

 高橋弘希「花束と水葬」(『すばる』7月号)は、学生時代にインドに短期留学をした「私」がその後に体験した、衝撃的といっていい出来事を、しごく淡々とした筆致で綴(つづ)った短編である。偶然だが、この作品でも「輪廻」という考え方(をどう捉えるか)が重要な意味を持っている。書き込めばもっと長くなる内容を、敢(あ)えてこの分量に留(とど)めることによって、却(かえ)って小説としての密度が増している。芥川賞受賞後、高橋は少しずつ作風を変えつつあるようだ。この路線は支持したい。(ささき・あつし=批評家)

 

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2019年7月 6日 (土)

文芸時評・7月号・文学するのをやめる勇気 早稲田大学教授・石原千秋

 文学がこうだ。本が売れなくなったと言うが、人文書の売れ行きの落ち方より文芸書の売れ行きの落ち方の方がはるかに大きい。人文書はむしろしっかりした本が増えたようにさえ感じる。客層に合わせて書き方を変えている感じもする。文学はそうなっていない。もちろんファッションとはちがって、文学はパッと見て変わったことがわかるわけではないから、10年間も迷走しながら実験するわけにもいかない。それができるのはコムデギャルソンのような強いブランド力がある作家だけだ。もちろん村上春樹。村上春樹は『1Q84』から確実に作風を変えててきたセカイ系」という人もいるが、それは村上春樹が客層の変化に合わせて作風を変えた証拠でもある。村上春樹が村上春樹するのをやめてもやはり村上春樹なのは、初期からほとんど変わらない文体の一貫性にある。つまりこうだ。文学が生き残るためには文学するのをやめる勇気がいるということだ。

 【文芸時評・7月号】文学するのをやめる勇気 早稲田大学教授・石原千秋(産経2019・6・30)

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2019年6月10日 (月)

【文芸時評】6月(産経新聞5月26日)石原千秋氏

   (抜粋)ーそれで、十数年前に作った講義メモがあまり役に立たなくなった。たとえば、村上春樹自身が語っているように、『ノルウェイの森』の大ヒットは予想外の出来事だったのだろう。『ダンス・ダンス・ダンス』は『ノルウェイの森』の呪縛から逃れるために書かれた小説で、単行本の「あとがき」には、主人公の「僕」は初期三部作の「僕」と同一人物だとあるが、文庫にするときにこの「あとがき」を削除した。なぜそれができたのか。それは『国境の南、太陽の西』で、村上文学が決定的に変質したからだろう。こういう講義になっているわけだ。

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2019年6月 3日 (月)

文芸時評(東京新聞5月29日付夕刊)佐々木敦氏

 第三十二回三島由紀夫賞は、三国美千子『いかれころ』(『新潮』2018年11月号)に決まった。この作品については初出時に取り上げたので詳しくは触れないが、昭和五十八(一九八三)年の大阪、河内を舞台に、長年農業を営む旧家の四歳の娘の視点から、家族や親類の悲喜こもごもの挿話が瑞々(みずみず)しい筆致で語られる。この作品は新潮新人賞受賞作、つまりデビュー作である。

 三島賞を新人賞受賞作が貰(もら)ったのは、第二十四回の今村夏子の太宰治賞『こちらあみ子』以来であり、候補になったことも二〇一〇年代に入ってからだと、小山田浩子『工場』(『新潮』)、上田岳弘『太陽』(『新潮』)、町屋良平『青が破れる』(『文藝』)の三作しかない(三島賞は単行本単位でも候補になるので厳密に言うと新人賞受賞作とイコールではないものもある)。

 芥川賞に目を向けると、二〇一七年に第百五十七回が沼田真佑(しんすけ)『影裏(えいり)』(『文学界』)、第百五十八回が石井遊佳『百年泥』(『新潮』)と若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』(『文藝』)の同時受賞と、新人賞受賞作のみで占められたことがある。

 毎回ではないが候補作に新人賞受賞作が含まれていることも三島賞よりずっと多い(芥川賞は「新人に与えられる賞」なので当然とも言えるが)。全ての文芸誌は新人賞を設けているので、芥川賞候補に「新人賞枠」で誰が入るだろうと毎回推測してみるのだが、一本入れるなら『いかれころ』だろうと思っていたら前回は新人賞受賞作はひとつも候補にならなかった。文学賞の予想はむつかしい。

 前にも書いたことがあるが、私は基本的に新人賞受賞作をそのまま芥川賞に選ぶことは好ましくないと思っている。せめて二作目を読んでからでないと、その作家に何が書けるのかを見極められないのではないかと思うし、当の作家自身にもあまり良い結果を生まないような気がするからだ。しばらくするとまた芥川賞の季節がやってくるが、次回は候補に新人賞は含まれているだろうか。

 群像新人文学賞受賞作の石倉真帆「そこどけあほが通るさかい」(『群像』6月号)は、幾つかの点で『いかれころ』と共通する要素を持った作品である。舞台はおそらく関西、三つの名字の家ばかりがある「ムラ」で、おそろしく性格の捻(ねじ)曲がった祖母=「婆」と同居する家族のぎりぎりの姿が、娘=「うち」の視点から描かれる。

 「うち」が十九歳の時に「婆」は亡くなったことが冒頭で語られ、回想へと入っていく。嫁と孫たちを日々口汚く罵(ののし)る「婆」と、一緒になって「うち」の家族を詰(なじ)りながらも「婆」を引き取ろうとはしない親戚の醜さはすさまじく、無口だが優秀な頭脳を持った「お兄」も、勉強が出来ず将来何をしたらいいのかもわからない「うち」も、長きにわたって姑(しゅうとめ)の悪口雑言を耐え忍んできた「お母ちゃん」も、やがて感情を爆発させる。方言で語られる「うち」の一人称は素朴で読みやすく、そのせいで却(かえ)って起きていることの酷(ひど)さが際立つ。描写にしても構成にしても、もう少し工夫があってもいいような気もするが、新人賞らしい熱量を持った作品である。

 古市憲寿(ふるいちのりとし)「百の夜は跳ねて」(『新潮』6月号)は、物議を醸した前作『平成くん、さようなら』とは打って変わって、有名大学を卒業しながら就職活動に失敗し、ひょんなことからビルのガラス清掃の会社で働くようになった「僕」が、高層マンションの広大な部屋に独居する大金持ちの老婆に依頼され、無数の窓の向こう側に広がる他人たちの生活を盗撮する、という物語である。

 仕事に就いてまもなく職場の先輩が事故で命を落とした。「僕」には今も彼の声が耳元で聞こえることがある。老婆のマンションには大小沢山(たくさん)の箱が置かれている。彼女には彼女の物語があるようだ。「僕」は老婆と親しくなっていくとともに、自分自身を新たな視線で見るようになっていく。結末がやや甘い気もするが、この極めて現在形の叙情は魅力的である。力作だと思う。

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2019年5月21日 (火)

文芸時評5月(産経新聞4月28日) 早稲田大学教授・石原千秋 「社会貢献」

 保坂和志と郡司ペギオ幸夫の対談「芸術を憧れる哲学」(群像)が面白い。郡司ペギオ幸夫は『天然知能』(講談社選書メチエ)で、何事も数値化して世界に働きかけるAIに対して、「徹底した受動性の肯定的転回」を主張しようと考えたと言う。郡司ペギオ幸夫の話はほとんど現代思想の良質の解説を読んでいるような趣があるが、なかに科学の社会貢献の話題が出る。物理学の社会貢献をずっと考えてきたという学生に、こう語ったのだと言う。「物理がいいといっても、カップに水を入れると、水はカップの形になりますね。そうすると、水はカップの形をしたものだと。自分の観測装置だとか認識様式に応じて物事を決めて、あとはできるだけ徹底してそれだけを見るという形にすれば、水はカップの形をしているのが正しいということになりますね。それは極端な言い方に聞こえるけれども、結局、科学の正しさというのはそういうもので、それを全面的に展開しているだけなんです。外部に対する違和感だとかいうものを考えることは全く関係がない話だと、僕は言ったんですね」と。

今月は文学界新人賞発表の月。受賞作は奥野紗世子「逃げ水は街の血潮」と田村広済「レンファント」。どちらも見かけ倒しの尻すぼみで、読んでいて「小説をなめるな!」と腹が立ってきた。

 奥野紗世子「逃げ水は町の血潮」は、もう26歳なのにまだゴアゴアガールズというグループで地下アイドルをやっている工藤朝子が、まあそれなりにセックスややんちゃをやって、最後は同じグループの星島ミグと少しだけ遠出をして、2人で朝風呂に入る。染めたばかりの髪を洗うとピンクのお湯が流れて、「視界がピンク一色に染まっていた。結露したガラス越しに星島ミグがこちらを見た。/地団駄(じだんだ)を踏むように大きく『はやく』と言ったのがわかった。」でおしまい。はい、いかにも小説らしく少しおセンチに終われました。セックスややんちゃが既視感バリバリで、「限りなく透明に近いピンク」にはまったくなっていない。参照《文芸時評】5月号 早稲田大学教授・石原千秋 「社会貢献」

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