2017年8月 7日 (月)

文芸時評7月(東京新聞7月31日)=佐々木敦氏

沼田真佑「影裏」技術駆使確かな筆力
加藤秀行「海亀たち」独特のグローバルさ
≪対象作品≫沼田真佑「影裏」(「文学界」5月号)/加藤秀行「海亀たち」(「新潮」8月号)/「現代文学地図2000~2020」(「文藝」秋号)。

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2017年3月14日 (火)

又吉直樹「劇場」の評判の一例

 〈まぶたは薄い皮膚でしかないはずなのに、風景が透けて見えたことはまだない。もう少しで見えそうだと思ったりもするけど、眼を閉じた状態で見えているのは、まぶたの裏側の皮膚にすぎない。あきらめて、まぶたをあげると、あたりまえのことだけれど風景が見える〉
 「火花」は熱海の花火大会の情景から書き起こされていた。この「劇場」の冒頭は、ただ風景を切り取るのではなく、どこか内省的な印象。一編の詩のような味わいもあって、一気に引き込まれた。

産経新聞「芥川賞芸人”、又吉直樹さんの新作「劇場」 いつの時代の読者でもわが身を振り返る青春という永遠の普遍性」より。 

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2016年7月13日 (水)

川西正明「新・日本文壇史」(岩波・4巻)の誤りを金野氏が指摘

  【お詫びと訂正再掲載】本欄の記事は、過去に掲載したものですが、著者・金野文彦氏より下記のような誤記があることの指摘コメントをいただきました。
ーー紹介いただいた本人からです。「佐藤美千代」は「佐藤三千夫」で、「佐藤トシオ」は「佐藤トシヲ」です。これは簡単に訂正できます。しかし、川西本は、全編にわたって(紙数の関係で一部のみ指摘)、徳永直と壺井榮の「小説」を切り貼りし、歪んだコメントを織り込むという、文筆家がやってはならないことをしているのです。だから、岩波がすべきことは、訂正どころか、公の謝罪と絶版措置だけです。ーー
 ご指摘の通りで、誤りをお詫びします。申し訳ありませんでした。下記のように訂正し、再掲載いたします。
               ☆
  北村隆志( 「赤旗」の記者)編集による「星灯」3号が刊行されたことを《外狩雅巳のひろば》が紹介している。
このなかに、金野文彦氏(徳永直ら創立の佐藤三千夫記念館事務局長)が、川西正明「新・日本文壇史」(岩波書店・4巻)」を糾す」という評論で、徳永直の妻の佐藤トシヲの生地の記述や、徳永の経歴の不正確さが、あり事実と異なることがあると指摘している。また、佐藤三千夫に関しては、川西本に姉がいたとあるが、それは誤りで妹がいたとしている。史実の記録については、古いものは喪失し、新しい資料本が参考とされる。
 わたしは、大森の馬込文士村に関する資料を参照したことがあるが、関係者著作のなかに、それぞれ見解の相違と、事実証言のずれがかなりあるのに気付いたことがある。
 こうしたことは珍しくないので、岩波書店は事実関係を調べて、改版ごとに反映させるべきであろう。

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2013年2月27日 (水)

小説で学んだ人生(下) 川合清二

 さて、この辺でテーマである「花盛りの小説教室」に移りたいと思います。
以上は前置きです。
 小説の流れとして、いちばん顕著なのは出版社──雑誌社の編集部の権力の増大があります。権力というと語弊があるかもしれません。支配力というか、影響力といったほうがいいかもしれません。
小説が売れなくなった。
これが最大の理由でしょう。
一方で出版社はますます肥大し、15年まえの講談社でグループ3万人と言っていました。電機業界ならば、さしづめ日立か東芝か、自動車業界ならばトヨタか日産か、といったところでしょうか。既にマンモス企業です。当時、カルチャーセンターに講演に来た重役は、
「皆さん売れる小説を書いてください。そうでないと、うちはやってゆけません。」印象的な言葉、──売れる条件として、強調したのが
「一に題材、二にストーリー、三、四、がなくて、五に文章という言葉です。」
 つい先日の金曜日、カルチャーセンターの教室に来た協会の先生は、
「皆さんはこれからますます世に出にくくなるでしょう」
と宣告しています。
 何故なら、ここ一、二年のうちに再販制度が変わり、本の書店買取制度が敷かれる可能性が高いだろうからというのです。
 つまり、いまは書店は軒を貸しているだけで、売れない本は出版社に返していました。
返本の山はありましたが、一応可能性を試してはもらえたのです。書店にリスクはありません。いや、リスクがないとは言えないかもしれません。売れない本が場所を占拠するわけですから。
 法律の改正でそれがなくなれば、書店は売れそうな本を選んで、買い取らなければなりません。
 誰が、有名作家の本より、あなた方、無名の、海のものとも山のものとも分らない人の本を、買って並べますか。すでに売れている人が断然有利になる。
 もっともです。
 にもかかわらず、教室は満員で八十人ちかい生徒が居ます。六本木のシナリオ教室でも満員の盛況と言うことです。
 熱気が溢れています。
 向上心が第三者にまで影響を及ぼしています。月謝は決して安くありません。砂の会費の約十倍します。
 話はとびますが、文化の日に著名作家の米寿の祝いの会がありました。
 元気の良いのは農民文学の方たちで、文学の道のみを研鑽されている方は、総じて弱々しい。
 健康と活力は文学の源です。
 そして、面白さは、文学の大事な要素であることを認識しなくてはなりません。広い意味での面白さが文学を生き続けさせる、と信じます。
(2006年「砂の会」創作研究会講話「小説にも顔がある」文芸同志会資料より)

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2013年2月26日 (火)

小説で学んだ人生(上) 川合清二

 個性的な顔もあれば、万人の中に隠れてしまうような平凡な顔もある。
 しかし、平凡な顔もよくよく見詰めていくうちに眉、目、鼻、頬、唇、顎、頭髪などに、独特の特徴を備えている顔もある。
 私の小説の先生は夏目漱石です。
 漱石は言いました。〔人生はすべて喜劇である。ただひとつ、<生と死>これだけは悲劇である。すると、ロンドンに留学した主人公の手紙が到着する──こっちは喜劇ばかりが流行っている〕
また、こういう事も言っています。
 哲学に帰納法と演繹法がある。ごく大雑把に言えばキリスト教やイスラム教など教義にのっとって、この世界が収められているとするのも帰納法的な世界の見方でありましょう。これに対して、演繹法の説明として、ひとは自分の眼で見、耳で聞くものしか本当には理解できない。とする見方。自分の見る世界というのは、ある種、平面体である。
 何百、何千人を相手にする場合、一人一人は考える葦であろうとも、遠くから眺める限り、ひとも羊も牛や馬も、熊、猿、ライオンも平面的にはただの顔に過ぎない。いや、カボチャやナスとさえ変わらない。
人間がそう見ないのは、遺伝子や体験などから、あらかじめ教えられた方法で世界を整理し、把握して視ている からなのです。
 自慢でも卑下でもありませんが、私は学校に一日も行っておりません。よく冗談に幼稚園中退と称しておりますが、ふつうの人たちより、固定観念にはとらわれていないと思います。そして、多くのことを小説から学びました。
 こどものころ、我が家の本棚に並んでいたのは、漱石全集と吉川英治全集でした。
 夏目漱石からは多くのことを学びましたが、吉川英治から学んだのは、ただひとつ<小説の面白さ>だけです。
 偶然も飛躍も手の内に丸め込んで、読む人をわくわく、どきどきさせる『われを忘れる面白さ』です。
ただ、すでに漱石の洗礼を受けていた私は、筋立てが単純で都合がよすぎる。人間の動きが自然でない、などと子供なりの批評を加えながら読んでいました。
 宮本武蔵が立派過ぎて、本井田又八が、かわいそうなほど惨めに描かれている。作者の策略が透けて視えていました。善と悪の片付け方も不満でした。
 私が何を言いたいのか、といいますと、純文学とエンターティメントの違いも、実はこの辺にあると思うからです。
小説の面白さには<われを忘れる面白さ>と<身につまされる面白さ>があるといいます。私はそれを、むかし、新潮文庫の黄帯にはいっていたフォスターの<小説の諸相>から学びました。
 その中に世界の十大小説として、ドストエフスキーやコンラッド、サマセット・モーム、白鯨のメルヴィルなどがはいっていました。
 特徴として、エンター性のある純文学です。
(2006年「砂の会」創作研究会講話「小説にも顔がある」文芸同志会資料より)

注)川合清二氏は故人となりました。当初ミステリー作家志望で、江戸川乱歩に認められ雑誌「宝石」に笹沢佐保の同期生として執筆していました。その後、作家・伊藤桂一の門下生となり、通常は川口青二という筆名で同人誌活動をしていました。最近、遺稿の中から本評論を発見したので、発表してみることにしました。川合氏の生活については、氏の自伝をもとにした≪一部「詩人回廊」に発表「文芸の友と生活」 ≫「グループ桂」に連載があります。

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2012年11月29日 (木)

シンポジウム「ジャーナリズムの未来を語る」を12/20日開催=自由報道協会

 自由報道協会は公益法人移行を記念してシンポジウム「ジャーナリズムの未来を語る」を開催することになった。パネラー上杉隆、パネリスト・田原総一朗氏ほか。≪参照:自由報道協会
 作家で国会議員の田中康夫氏(新党日本代表)は、長野県知事の時に、市民が情報を発信することは「自己表現」であるとし、記者室を県民に開放し、情報が発信できるようしていたそうです。大手ジャーナリストの報道しない、出来ないことを情報発信してみませんか。どんな形でもニュースを流す人はフリージャーナリストであるという見方もできます。

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2012年2月24日 (金)

埴谷雄高の「自同律の不快」を考える 

 埴谷雄高は、『国家と革命』理論に説得されて、革命思想にかかわった。思索の世界の論理的合理性から、現実の政治活動の現場に赴いたのである。しかし、マルクスやレーニンの国家死滅説(眠り込むともいう)というものは、いわゆる夢、ロマンとしてのユートピア説の域を出ていないのではないか、と思う。
 夢はいつか叶う可能性がある。しかし、それはいつのことかはわからない。社会の変革には時間のかかるものと、早いものとの二種類がある。変革が実現しない段階でのビジョンはロマンである。宗教でいえば仏陀やキリストの思想は、当初はともかく、男女平等と階級差別を否定した。しかし、インドのカースト制やその他の国々の男女差別、人種差別はまだ存在する。それでも、そのビジョン向けた変革は続くであろう。
 これと同じに、国家の死滅というビジョンは、空想社会主義的で、ロマンの段階である。そういう意味で、埴谷雄高はロマンチストであった。
 国家死滅ビジョンは、もともと、羊を連れて国境を越える遊牧民の伝統を背負った思想の詩的インスピレーション反映のような気がしないでもない。
 マルクス・エンゲルスの国家死滅論は、国境意識を持たない遊牧民の神ヤハウェを源流とする宗教思想と表裏一体の関係にあるのではないだろうか。厳しい自然環境の乾燥地帯特有の生きるための論理の反映である。農耕民族への侵略、略奪の正当化させるのが、父なる神による選ばれた民族という選民意識である。ニーチェのキリスト教へのルサンチマン意識を持ち出すまでもなく、プロレタリーアートという存在の正当化の根拠への論調は手薄い。
 いずれにしても、人間の社会的関係のもとは、人間の自己中心的本質を制度的にどう調整するかというところにある。埴谷雄高は社会制度論よりも存在論に傾斜した。それが哲学的文学を形成した。

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2012年2月14日 (火)

埴谷雄高の「自同律の不快」を考える 

 「自同律の不快」について、埴谷雄高はこう語っている。
「『死霊』にも『不合理ゆえに吾信ず』にも出てきますが、自同律の不快ということがぼくの考えの底から離れないからです。これが、ぼくの根本問題ですね。思惟の前提がぼくにとって疑わしく、不快なので、どうしてもぼくの考え方は一種存在論的にならざるをえない。ぼくは『死霊』の解説みたいなことをせざるを得ないときは、必ず社会と存在に並べて、自身に向きあう自身、自分の中の自分といったようなことを持ち出すのですが、ぼくにとって一番問題になるのは、その自身に向きあう自身、自分の中の自分ですね。それを説明すれば、自身になろうとしてなかなかなれない、しかも、なろうとする、その間の凹所、ぼく流の言葉でいうと、跨ぎこし得ざる深淵、をどう埋めるか、飛翔するかの仕事が小説という作業になる」(現代作家入門叢書「埴谷雄高」冬樹社)。これが埴谷雄高の創作の源であった。
. 埴谷雄高の人生は、結核にかかって変化した。「結核の最大の収穫はニヒリズムです。結核が、どうしても死を考えさせるわけですね。その先は何か。少年時代は非常に簡単に結論を出してしまうんです、とにかく無ですね。何をしてもしょうがないじゃないかと思い、注射を打ちに行くといって映画を観に行ったりする。」(「埴谷雄高 生命・宇宙・人類」、角川春樹事務所)。
 『そしてスティルネルの「唯一者とその所有」に出会った。これが思想的な影響としては決定的ですね。スティネルの「エゴイスト」は普通のエゴイストと意味が全然違って、「創造的虚無」というのかな、虚無の中に浮いているエゴであって、この「唯一者」のエゴを、国家も宗教も人類も理想も、あらゆるものが支配できない。という考え方ですね。それが結核のぼくにぴったり入ってきて重なってしまった』(同書)。ニヒリズムから、スティルネル的アナーキズムへ移行したという。
 自らの学生時代をこう語る。
「そのころの学校は、60年安保時代と似ていて、非常の左翼的です。しかもぼくが入った日大は、方々の高等学校を追い出された左翼がたくさんいた。このような環境ですから、クラスの中でマルキシズムの研究会をやっているんです」(同書)
 そこで誘われてマルクス主義思想に関心をもった。
――スティルネルにとっての幽霊の最大なるものは国家で、ぼくの中にもその意識がたえずありました。ところが研究会でレーニンを読むと、アナーキストは国家そのものを即座に解体してしまうが、われわれは国家がなくなるまでの間に過渡期の国家を持つ、と言っている。で、本当に過渡期の国家というものはあり得るのかと思って、ぼくは珍しく勉強を始めた。その時に、レーニンの『国家と革命』のタイトルを引っ繰り返して『革命と国家』という論文を書きました。これはプルードンの『貧困の哲学』がマルクスの『哲学の貧困』になったのとちょっと似た関係ですけど。レーニンはうまいこと言ってるんですよ。『国家と革命』のいっとうしまいに、「あと党の大会を二回ほどやれば国家は死滅する。われわれの孫は死滅した国家をみるだろう」と言っている。その論証の仕方は非常に精密で、思索は飛躍的に奔放で、しかも説得的なんですね。――(同書)。

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2011年12月20日 (火)

埴谷雄高の「自同律の不快」を考える 

 埴谷雄高の作品で「『死霊』をのぞく全文学作品を集めたと吉本隆明が解説する短編小説集「虚空」(現代思潮社)の奥付には、一九六〇年十一月二十五日初版、一九八〇年一月三十一日第二十四刷発行とある。あとがきで埴谷雄高は、「最初の『洞窟』は戦前の同人誌にのせた古い作品でいまは絶版になった月曜書房刊行の「不合理ゆえに吾信ず」のなかにすでに収められていたものである。』と記している。
 吉本隆明は、現代思潮社「洞窟」の解説で「埴谷雄高の『死霊』をのぞいた中編・短編小説は、あらまし二つの系列にわけることができる。ひとつは、いわば意識の純粋経験ともいうべきもので、『洞窟』『意識』『標的者』などの作品がこの系列にぞくしている。もうひとつは『深淵』『標的者』のように政治思想を展開した作品である。」とする。
 さらに「このいずれの作品も、原体験となっているのは独房生活であり、それにつづく十五年戦争期の、もっとも優れた自殺の方法はじぶんが生まれてきたはずがないとおもいこむことだという現実体験にほかならない。日本のマルクス主義思想が、全現実を喪失し、一点にとじこめられたひとりの人間の意識内におかれたとき、それはどのような方法をあみだしたか。
 埴谷雄高の場合ひとつは、無限に想像世界を領有しようとする意識の実験に向った。『洞窟』では、壁に肩をつけると、左肩だけが急速度に冷えてゆき、その冷えが意識内部の凍ってゆくような冷えとかさなり、そのあいだじゅう熱病に冒されたような状態で本質的な不快感、存在がただ存在していることのために感ずる不快感を体験することからはじまっている。」と解説している。
 「洞窟」という短編では、吉本隆明の解説部分に続き、想念をつぎのように表現する。
「《壁のせいかな。いや、奇妙なことだ。》と彼は秘かに呟くのであった。《こいつが俺の思索をとめてしまった。――まあ、俺はそういいたいのだろう。ふむ、待て待て。自分でもしかといえぬ考え――いおうとしていい得なかったことども。こいつを俺はいつからひき摺っているのか。あっは、このろくでなし奴!》」
 「あっは」という間投詞はすでにここに使用されている。だいたいにおいて、人間の抽象概念への思索というのは、どれほど継続されるものなのか。その限界以上にこの主人公は思索をしつづけようとしているのではないか、という疑問を感じるところでもある。
 そのあと、作中の「俺」は、隣の十四、五歳の少女とぎこちない出会いをする。その少女が井戸端で唄を低い声で唄っているのを聞くと屈辱を感じる。
「《何て恥知らずな執拗な意志だろう。俺は思いき切り恥知らずなことがやってみたくなったぞ。ぷふい、行きどまりの迷小路につきあたって反省してみるということを知らないこの力に、思い切り頬うちを食わしてみたいのだ!》」
 こうして読むと、思索の過程において、なんら前進や展開の見通しがつかないときに、間投詞の「あっは」や「ぷふい」が飛び出すようだ。そうして、「俺」の存在観の記憶は子供の頃に高見の場所から飛び降りて、足が折れた時の幸福感にあるという話になる。その痛みこそ自己存在の確信なのだ。

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2011年12月14日 (水)

埴谷雄高の「自同律の不快」を考える 

 ここで浮き彫りにされている現象は、人間が社会的な存在であり、他者の存在によって自らが存在できるという特性である。母親から授乳される赤ん坊は、しっかりと母親の乳房を握って離さない。それは乳房が自分のものであり、他者に渡さないという自己所有の主張である。もし、この世界に自分だけが単一に存在しているならば、世界がすべて自己で、他者が存在しなかったならば、自己所有の主張をすることは意味をなさないであろう。
 その点で、埴谷雄高の表現した「自同律の不快」は、現在的な自己認識状況への道筋を欠いているものがある。
 「自同律の不快」という概念は、すでにかれの小説の習作の時期において、意識に存在していた。人間は「俺は俺である」という認識の在り方しかないために、人間存在の限界がある。未来への展望がこの単一的な認識に縛られ、人間の社会形成力の限界があるのではないか、と思い至る。埴谷雄高は、人間の利己主義に基盤を置いて、共生的な社会の形を発展段階的に捉えて構想するマルクス義思想をたどり、自らの思想を展開したのではないかと思う。
 埴谷雄高の『死霊』は、「この世界にあり得ぬ永久運動の時計台」の存在を示し、「nowhere,nobodyの場所から」「虚妄と真実が混沌たる一つにからみあった狭い、しかも底知れぬ灰色の領域」から出発する。
 その中に表現されている「あっは、俺は、俺達はそれを、存在の永劫の秘密をついに解き得ただろうか」「そうだ、ぷふい! 確かに解いたのだぜ」という、独特の表現は、同人誌「構想」に掲載された短編「洞窟」において採用さているのである。文芸評論家・沼野充義の評論によると、これは、ドイツ語の間投詞にあるものだそうである。

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