個性的な顔もあれば、万人の中に隠れてしまうような平凡な顔もある。
しかし、平凡な顔もよくよく見詰めていくうちに眉、目、鼻、頬、唇、顎、頭髪などに、独特の特徴を備えている顔もある。
私の小説の先生は夏目漱石です。
漱石は言いました。〔人生はすべて喜劇である。ただひとつ、<生と死>これだけは悲劇である。すると、ロンドンに留学した主人公の手紙が到着する──こっちは喜劇ばかりが流行っている〕
また、こういう事も言っています。
哲学に帰納法と演繹法がある。ごく大雑把に言えばキリスト教やイスラム教など教義にのっとって、この世界が収められているとするのも帰納法的な世界の見方でありましょう。これに対して、演繹法の説明として、ひとは自分の眼で見、耳で聞くものしか本当には理解できない。とする見方。自分の見る世界というのは、ある種、平面体である。
何百、何千人を相手にする場合、一人一人は考える葦であろうとも、遠くから眺める限り、ひとも羊も牛や馬も、熊、猿、ライオンも平面的にはただの顔に過ぎない。いや、カボチャやナスとさえ変わらない。
人間がそう見ないのは、遺伝子や体験などから、あらかじめ教えられた方法で世界を整理し、把握して視ている からなのです。
自慢でも卑下でもありませんが、私は学校に一日も行っておりません。よく冗談に幼稚園中退と称しておりますが、ふつうの人たちより、固定観念にはとらわれていないと思います。そして、多くのことを小説から学びました。
こどものころ、我が家の本棚に並んでいたのは、漱石全集と吉川英治全集でした。
夏目漱石からは多くのことを学びましたが、吉川英治から学んだのは、ただひとつ<小説の面白さ>だけです。
偶然も飛躍も手の内に丸め込んで、読む人をわくわく、どきどきさせる『われを忘れる面白さ』です。
ただ、すでに漱石の洗礼を受けていた私は、筋立てが単純で都合がよすぎる。人間の動きが自然でない、などと子供なりの批評を加えながら読んでいました。
宮本武蔵が立派過ぎて、本井田又八が、かわいそうなほど惨めに描かれている。作者の策略が透けて視えていました。善と悪の片付け方も不満でした。
私が何を言いたいのか、といいますと、純文学とエンターティメントの違いも、実はこの辺にあると思うからです。
小説の面白さには<われを忘れる面白さ>と<身につまされる面白さ>があるといいます。私はそれを、むかし、新潮文庫の黄帯にはいっていたフォスターの<小説の諸相>から学びました。
その中に世界の十大小説として、ドストエフスキーやコンラッド、サマセット・モーム、白鯨のメルヴィルなどがはいっていました。
特徴として、エンター性のある純文学です。
(2006年「砂の会」創作研究会講話「小説にも顔がある」文芸同志会資料より)
注)川合清二氏は故人となりました。当初ミステリー作家志望で、江戸川乱歩に認められ雑誌「宝石」に笹沢佐保の同期生として執筆していました。その後、作家・伊藤桂一の門下生となり、通常は川口青二という筆名で同人誌活動をしていました。最近、遺稿の中から本評論を発見したので、発表してみることにしました。川合氏の生活については、氏の自伝をもとにした≪一部「詩人回廊」に発表「文芸の友と生活」 ≫「グループ桂」に連載があります。
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