2008年9月 6日 (土)

「小説の読者」芥川龍之介・著

 僕の経験するところによれば、今の小説の読者といふものは、大抵(たいてい)はその小説の筋を読んでゐる。その次ぎには、その小説の中に描(か)かれた生活に憧憬(しようけい)を持つてゐる。これには時々不思議な気持がしないことはない。
 現に僕の知つてゐる或る人などは随分(ずいぶん)経済的に苦しい暮らしをしてゐながら、富豪や華族ばかり出て来る通俗小説を愛読してゐる。のみならず、この人の生活に近い生活を書いた小説には全然興味を持つてゐない。
 第三には、第二と反対に、その次ぎには読者自身の生活に近いものばかり求めてゐる。
 僕はこれらを必ずしも悪いこととは思つてゐない。この三つの心持ちは、同時に僕自身の中(うち)にも存在してゐる。僕は筋の面白い小説を愛読してゐる。それから僕自身の生活に遠い生活を書いた小説も愛読しないことはない。最後に、僕自身の生活に近い小説を愛読してゐることは勿論である。
 然し、それらの小説を鑑賞する時に、僕の評価を決定するものは必ずしも、それらの気持ではない。若し僕が(読者として)世間の小説の読者と違つてゐるとするならば、かう云ふ点にあると思つてゐる。では何が僕の評価を決定するかと云へば感銘(かんめい)の深さとでも云ふほかはない。それには筋の面白さとか、僕自身の生活に遠いこととか、或はまた僕自身の生活に近いこととか云ふことも勿論、幾分か影響してゐるだらう。然しそれらの影響のほかに未(ま)だ何かあることを信じてゐる。
 この何かに動かされる読者の一群(いちぐん)が、つまり読書階級と呼ばれるのである。或は文芸的知識階級と呼ばれるのである。
 かう云ふ階級は存外(ぞんぐわい)狭い。おそらくは、西洋よりも一層狭いだらう。僕は今、かう云ふ事実の善悪を論じてゐるのではない。唯事実として一寸(ちよつと)話すだけである。(昭和二年三月)=青空文庫より。

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2008年8月29日 (金)

優美な散文芸術 倉橋由美子作品再評価

 「小説はごちそうだと思っていますから、おいしくないのは嫌。遊び心地になれる楽しい話を書きたくなりました」
 そう語りながら死の直前まで小説を執筆した倉橋由美子さん(1935~2005)連作綺譚(きたん)『酔郷譚(すいきょうたん)』が、死後3年たって河出書房新社から出版された。
 「桜花変化」から「玉中交歓」まで7編。魔酒の効能で、主人公の慧(けい)君が、現世と冥界(めいかい)を往還、時に女性に変化し、「歓を尽くす」。
 明治大学在学中の1960年に前衛短編小説「パルタイ」で注目された倉橋さんは、『スミヤキストQの冒険』『アマノン国往還記』など精力的に小説を発表し、反リアリズムの旗手とされた。しかし、90年に左耳に自分の心拍音が聞こえる難病に見舞われ、死をおびえる年月が続いた。ようやく病気を容認できるようになってから書いた本作では、前衛さは影を潜め、理知とペーソスで死後の世界までからりと見つめる。
 今年に入って倉橋作品は、直木賞作家の桜庭一樹さんの解説で『聖少女』(新潮文庫)が出るなど3冊が復刊されている。今月1日には都内の書店で〈倉橋ルネサンス〉と題するイベントが開かれ、翻訳家の古屋美登里さんと作家で東京大教授の松浦寿輝さんが対談した。松浦さんは、「日本では文学というと、自堕落な情念や人生の苦悩などが重視されるが、倉橋作品は知性にあふれ、文章が洗練された散文芸術。日本が中流志向に向かう時代には優雅で優美な倉橋作品はあまり受け入れられなかったが、中流崩壊の現代では、むしろ再評価されるのでは」と語った。9月には『暗い旅』が河出文庫から復刊される。(鵜飼哲夫)(08年8月12日 読売新聞)

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2007年9月30日 (日)

文芸時評・9月(読売新聞)山内則史記者(3)

《対象作品》「風花」に始まり「下萌(したもえ)」で完結した川上弘美氏(49)の連作短編(すばる2004年1月号~07年10月号)は、結婚して7年になる〈のゆり〉と、浮気している夫との夫婦の危機、すれ違い、煮え切らない心理と行動を丁寧に描く。前作『真鶴』では非現実と現実の壁が溶解していたが、のゆりはあくまで日常にとどまり、生活感の中にある。その意味でも『真鶴』とこの連作を併せ読むと、川上ワールドのA/B面を味わえるのではないだろうか。

《対象作品》東浩紀氏(36)と桜坂洋氏(36)の合作「キャラクターズ」(新潮)は、東氏が主張する「ゲーム的リアリズム」を実践してみせた批評的小説。語りの主体がいつの間にかすり替わる前田司郎氏(30)「誰かが手を、握っているような気がしてならない」(群像)、二人称の距離感が効いている吉原清隆氏(36)「『行き先階釦(ボタン)を押してください』」(すばる)も、それぞれに面白かった。(山内則史)(2007年9月25日 読売新聞)

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2007年9月29日 (土)

文芸時評・9月(読売新聞)山内則史記者(2)

《対象作品》石原慎太郎氏(74)「火の島」(文学界)連載2年余に及んだものが完結した。三宅島の漁師の息子と、灯台に赴任してきた一家の娘は、噴火によって生き別れる。島でその少女の命を2度救った少年は壮年期を迎えて、不祥事をネタに企業をゆする凄腕(すごうで)の暴力団幹部に、少女は皮肉にも男に食い物にされるゼネコンの社長夫人におさまっている。そんな2人が再会したらどうなるか――。島での出来事こそ「人生の時の時」であったと知っている2人は、その場所と時間へ引き戻されるかのように、宿命的に破滅へひた走る。陰影鮮やかなヒーローとヒロイン、やや大時代的なロマンチシズムは時に劇画的ですらあるけれど、企業社会に巣くう悪、保身に右往左往する企業トップたちの醜い生態など、皮肉っぽい作家の視線が活写する背景の細部は確かで、引き込まれる。終盤、すべてをなげうつと決めた男が、老齢の暴力団の顧問弁護士と人生について語り合う場面はとりわけ印象深い。「小説を書く作業は、その小説を書くことを通じて、自分の死生観を作り変えながら生きて行く、そういうことでもあります」(『大江健三郎 作家自身を語る』)という言葉が想(おも)い起こされた。

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2007年7月22日 (日)

小泉今日子の7月書評[「おいしい庭」

 読売新聞7月22日の女優・小泉今日子書評は筒井ともみ「おいしい庭」(光文社)。作品については、作者の「筒井さんは、そんな心の庭を手入れしながらカッコイイ大人になったのだと、このエッセイを読んで思った。私の庭は時々大人になりきれない気持ちの隠し場所になってしまう。だから泣きたくなる」ーーと書く。
 今回は表現力豊かで、はじまりが
「私のマンションの部屋には小さな庭がついている。そこが気に入って住んでいる。日当たりが良く、土も良いらしく、たいして世話をしていないのに植物たちは元気に花を咲かせてくれる。この庭の草むしりをしてる時、私は自分の心の奥にひっそりと眠る少女心を手入れしているような気分になり、いつも少し泣きたくなる」である。
 出だしから、終わりまで見事な仕上がり。舞台の一幕をみせるように、こころの揺らぎを表現する。作家になってしまうかもね、この女優さんは。

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2007年5月27日 (日)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-27(完)-

 パスカルの「パンセ」には、次のような考察がある。
『……人間のそれらの不幸はいずれもたった一つの事から由来すること、その一つのことというのは部屋のうちに休んでいることができないということであることを発見した……』(慰戯一三九)そして、暮らしに不自由しない男が、家で楽しく暮らしてさえいれば、航海に出たり、城を攻めたりしなければ、悲劇は起きないであろう、とする。
 
他方、ショウペンハウエルは、人間は苦難と退屈の間を振り子のように行ったり来たりするものだと述べている。人間の退屈する性癖は、活動しないことへの警告だとする。つまり、行動を促し、定位置に存在しないことは、危険を分散するという利点があるということだ。
 その意味で、順子は人間の本質に自然に従った存在なのであった。秋声は順子のもつ情熱的性格にしばしば「真実」を見ているが、まさに的確であった。
 
小説「仮想人物」の書かれた意義は、庸三の苦悩は、秋声にとって、すでに過去であることによって、救済された苦悩に変わり、順子によって得られたその喜びは、失われた時の再現と定着であったろう。秋声は、最後の一行において『そして、その時分から埃塗れの彼女の幻影も次第に薄れてしまった。』と締めくくっているが、果たしてそうなのであろうか? 登場人物の鮮明な描写の数々を思うと、私にはそれは、彼の韜晦と照れがあるように思える。何故なら、それを書いている間は、意識は過ぎた時間の中を訪ね歩くからである。こうした意識の旅は、おおよそ現実の空虚さを克服し、創造的価値を生んでくれるものだ。            ( 完 )☆(著作・北 一郎)☆
  ーー 引用参考文献 ーー
徳田秋声「仮装人物」(講談社文芸文庫)
秋田魁新報社ホームペ-ジ「秋田・風と土のメッセージ・山田順子」
榊山潤「馬込文士村」(東都書房)
榊山雪「馬込文士村の人々と私(4)」/「季刊・わが町あれこれ」第十四号(南部文学ネットワーク)
山田順子「流るるままに」(ゆまに書房・復刻版)
木村毅「小説研究十二講」(新潮社)
パスカル「パンセ」(上)津田穣訳(新潮文庫)
デューウィ「哲学の改造」清水幾太郎・清水禮子訳(岩波文庫)

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2007年5月25日 (金)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-26-

順子は単純に、己の美貌を鼻にかけている軽薄な女ではなかったようだ。持てる情熱、情愛の精神、肉体すべてを総合して、傲慢ともみえるほど自分の存在に確信をもっている。
 これはおそらく彼女の生い立ちに、深い関係があるのだと思う。富裕な商家で、おそらく両親の豊かな愛に育まれたのであろう。大勢の使用人は彼女を大事扱ったであろう。そうして育った人間は、健康であれば、自己存在の尊厳に疑いを持たない傾向を持つ。厭味のない自己確信は、傲慢さや自惚れと紛らわしいところがある。性格として、根源的挫折感を持ちにくく、人生的に打たれ強いのである。また、この場面で、彼女が田舎訛りと東京弁を使い分けていたことがわかる。乙に澄ました美人でなく、時に田舎訛りをみせる意外性を持っていた。このようなタイプは、男には魅力的であっただろう。
 もう一つ、秋声は順子の本質を描いている。冒頭の序文にそれがある。

『ずっと前に一度、ふと舞踏場で、庸三は彼女と逢って、一度だけトロットを踊って見た時、「怡くない?」と彼女はいうのであったが……』

 楽しくないのか? 順子の相手の屈託を気にする場面を描いたのは、それが彼女の口癖であり、秋声はそこに彼女の本質を嗅ぎ取っていたのではないか。
 順子は、地方都市に一生住みついて、地味な生活を送ることの出来ない性格であった。派手で、気の浮き立つことが好きなのである。言って見れば、退屈拒否症なのである。自分が退屈を嫌うがゆえに、相手のそれが気になったのであろう。
 この「退屈する」というのは、人間的存在の根源にある。現在のメディアの発達、浸透ぶりはこの人間的特性から生まれたものだ。
 山田順子が後に、銀座でバ-「ジュンコ」のマダムをつとめたというのも、客の退屈を気遣う気質に合致していたであろう。

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2007年5月24日 (木)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-25-

 小説デビュ-の処女作品が「流るるままに」ということもあるのか、山田順子が、如何にも転々と遍歴や彷徨をしたように思われがちであるが、実際はそうではない。それは機転と自信に満ちた行動力の結果であったようだ。
 秋声の「仮装人物」の卓抜なのは、こうした彼女の根源的ところを見事に描出していることである。
 九の章で、庸三が葉子の実家に行った時のことである。葉子の前の夫(モデルは増川であるが作中は、松川)は、その後彼女の実家の召使いの女と結婚する。その女がやってきた時、葉子は自分の子供を増川が取り返しに来たと思い込む。その場面は次ぎのように描かれている。

『葉子はその時少し熱があって、面窶れがしていたが、子供のこととなると、仔猫を取られまいとする親猫のように、急いで下駄をつっかて、母屋の方へ駆け出していった。(中略)
 例の油紙に火のついたように、能弁に喋り立てる葉子の声が風に送られて、言葉の脈絡もわからないままに次第に耳に入ってきた。継母というのが、もと葉子が信用していた召使いであっただけに、
頭から莫迦にしてかゝっているものらしく、なにか松川の後妻としての相手と交渉するというよりも、奥さんが女中を叱っていると同じ態度であったが、憎悪とか反感とかいった刺や毒が微塵もないので、喧嘩にもならずに、継母は仕方なく俯き、書生達は書生達で、相かわらず遣っとる! ぐらいの気持ちで、笑いながら聞き流しているのであった。そうなると、恋愛小説の会話もどきの、あれほど流暢な都会弁も、すっかり田舎訛り剥き出しになって、お品の悪い言葉も薄い唇を衝いて、夫からそれへと果てしもなく連続するのであった。(中略)葉子は姐御のような風をして、炉側に片膝を立てゝ坐っていたが、
「おまえなんぞ松川さんが愛していると思ったら、飛んだ間違いだぞ。おれ今だって取ろうと思えば何時でも取ってみせる。」
 という言葉が彼の耳についた。(以下略)』

 なんとも大らかな自己確信がここに見られる

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2007年5月17日 (木)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-23-

 小説の最終は『そして其の時分から埃塗れの彼女の幻影も次第に薄れてしまった。』
となっている。しかし、順子をめぐる事件の回想と、物語を創る過程には、失われた順子との時が甦り、作者の晩年の空虚さを大きく埋め立てたに違いない。
 それは、常に冷徹さを装う彼の筆遣いが延々と順子の生態を書き記していることに証明されている(彼女との関係の本質は、自ら繰り返し明快に語っているにもかかわらず、である)。
 十四の章で、(ここで彼とあるのは庸三のこと)『恋愛も恋愛だが、葉子の建前からいえば、文学修業と世の中へ押し出してもらうことが彼女の兼々の願いなので、彼の文壇的名声が一朝失墜したとなれば、恋愛の焔もその瞬間消えてのも当然だったが……』とあるように、その後も機会あることに、そのことに触れる。
 葉子の功利的な態度への恨みを漂わせた物言いにも受け取れるこの表現は、庸三、つまり仮装人物の意識である。
 その意識を自虐的に描くことで、秋声は『真実』の表現に到達したという構図に読める。
 執拗にこれにこだわる秋声は、「物の見方によっては、真実は様々であるから、自分はそれを書くだけである」という、従来の態度保留から一歩踏み込んでいる。葉子の心を失ったことと、文壇的名声を失った気持ちの二重奏。その真実の程はわからないが、本心は後者の方に比重があったような気がしないでもない。
 もし、そうだとしたら、この作品で第一回菊池寛賞を受賞したのは、本望であったかも知れない。

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2007年5月13日 (日)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-24-

 小説「仮装人物」の梢葉子、モデルである山田順子の存在について、秋声は彼女への弁護的な視点を加えて、その特性のすべてを作中に描きだしている。
 彼女の男性遍歴について、世間の評判は良くない。だが、それは時代の見方による。前にも述べたが、地方の裕福な家庭で不自由なく育ち、メディアの発達によって、都市文化の動向を身近にした時、自己表現に意欲的な彼女が、地方に埋もれることを望まないのは、当然であったろう。
 順子の自伝的小説「流るるままに」には、次ぎのような部分がある。

『自己を開く、自己に合った運命の鍵を拾い当て得ずに懊々として生涯を終わる多くの人も有る。かかる人こそなんという哀れさ、不幸さであろう。(中略)しかし、機会は何時か屹度来る』

 時代を越えて、今にも通じる普遍的な欲望がここにある。この自分の人生に華やかなドラマの彩りを添えてみたいという欲望は、現代においても見られる根源的欲望である。現在、でも流行作家あるいは、芥川賞作家になることで、立身出世を果たした、という意識の作家は多いのではないだろうか。
 それにしても、結婚して小樽に行き二児をもうけ、さらに三人目が八か月という身重をもって、女流作家として売り込むため、亭主を連れて秋声を訪ねるという行動力には、驚きではあるが……。実に「翔んでる女性」だった。
 その後、離婚したあとも男遍歴が続く。それは生活をしながら、自分のロマンを実現するため美貌を武器とした遍歴であった。秋声の「仮装人物」には、母を亡くした庸三の幼い娘を可愛がり、懐かれる様子が描かれている。彼女は必ずしも好色や淫乱の女ではなかった。好色なのは、彼女の周り男達で、彼女は強かにそれを利用した。官能的な行動の奥には、違った生活をしたい、何かの中心になりたい。自分に注目をさせておきたいという欲望に動かされていた。どの男も彼女の主体性を奪うことは出来なかった。それは相手が秋声であっても同じである。自分を支援する力があるかどうか、男を選ぶにあったっては『いつも用心深く、抜け目がない』と秋声は作中に記している。

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2007年5月12日 (土)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-22-

 この時期、後にノ-ベル文学賞を受賞することになったジイドの「贋金づくり」が昭和二年に日本で紹介されている。これには「贋金づくり」という小説を創作している作家が作中に登場する。読者にその事実を知らせることによって、書くという行為に傾斜が生まれるという新手法がとられている。
 秋声がどれだけそれを意識していたかは不明だが、当時から日本の文壇が世界の文学的潮流と同期していることを示す一例である。
 その意味で、小説「仮装人物」は、その成立の背後に「事件性の内幕を期待する読者向け意識、書き手の過去から現在に至る存在様態の確認、新しい手法に挑戦する作家魂、この三要素の混在した稀書である。
 秋声は他に膨大な作品を産出する作家であったが、これは特別な意味をもつ作品であったろう。たとえば秋声は小説「縮図」において、強権側からの圧力がかかった時点で、ぱたりと筆を止め、その作家魂を後世に見せつけている。しかし、その作品がもし「仮装人物」であったら、どうだったであろうか。そんなことを考えさるさせる。つまり彼はすぐさま発表に結びつかない事態があっても、私的に書き継ぐ可能性をもった作品であったろうと思わせる。これが、この小説の特異性である。

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2007年5月 9日 (水)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-21-

 したがって、秋声のほかの作品と同じ作家的態度に納まっているように見えるし、彼の小説における「見た。だからそれを書く」こういう態度保留の姿勢はかえって顕著になっている。ーーその時点で見解を安易を述べないということは、後世の見解が変化しても、それに耐えられると考えていたのかもしれない。
 過去の出来事は当事者にとって、その時々の現在の未来の展望の姿勢によって、意義が変わることを、秋声はよく知っていたのである。こうした手法に紛れてしまうのではあるが、やはり当初の意気込みの成果は、中ごろまでにそれなりに挙げられており、作品としての独自性はゆるがない。
 十九の章の冒頭で、庸三は自分の存在をこう整理している。

『庸三がもしも物を書く人間でなかったら--言い換えれば常住人間を探究し、世の中の出来事に興味以上の関心をもつことが常習になっていない、普通そこいらの常道的な生活を大事にしている人間だったら、葉子に若い相手ができた後までも、こうも執拗に彼等成行きを探ろうとはしなかったであろうが、彼はこの事件もちょうどここいらで予期どおりの大詰めが来たのだし、自身の生活に立ち還るのに恰好の時期だと知って、心持ちの整理は八分どおりついていながら、まだ葉子の匂いが体から抜け切れないような、仄かな愛執もあって、それから夫へと新しい恋愛を求めて行く彼女を追跡したいような好奇心に駆られていた』

 ここでは、書くことを職業とするゆえに、それが日常の行動をも偏向させるのだという、ほとんど言い訳に近いのであるが、態度保留から抜け出た秋声の自己確認がある。

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2007年5月 4日 (金)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-20-

 だが、後半二十七の章以降、順子との関係が薄まるくだりからは、生彩がない。生彩がないといっても、手法的な観点からすれば、である。普通の自然主義的小説としては、それらしいのである。ちょうど庸三の葉子への情熱が褪め、倦怠を伴った状態については、葉子が男関係がうまくいかなくなり彼のところに一時的に舞い戻って来る場面では、彼女の肌着に汚れが見える様子を描きながら、三十の章では,

『庸三も、彼女が思っているほど葉子の文学にそう大して関心をもっている訳でもなかった。しかし風にも堪えない野の花のような其の情趣や感傷の純粋さは認めない訳には行かなかった』

などの言い回しは、リアルであり冷徹である。ここには、前半の仮装人物意識と真実への対応を描こうとする態度はない。自然主義的手法による物語の終息へ急ぐように読める。
 前半部と後半部の、この微妙な変化は、おそらく体調不良からくる中断の影響もあるであろう。人間にとって、過去というのは固定しきったものではない。常にその人の現在と未来への姿勢によって、意義を変えて姿を現すのである。秋声は前半部において、冒頭で意気込んだように、書き進めるにつれて真実を明らかにするという命題に忠実であった。執拗ないいまわしは、そうした態度のたまものである。しかし、ひとたび中断した後は、その命題をある程度達成したという意識があったのではなかろうか。
そうなると過去は文学的命題探求の意義を失い、物語の材料としての意義しか見出せなかったのではないだろうか。老練な手腕をもつ秋声は、この内面のギャップを巧みに埋めてしまっているような気がする。

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2007年4月28日 (土)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-19-

「私小説」で、これだけのややこしい書き方をするのは、異端的ですらある。だが進むうちに次第に持ち前の自然主義的手法に沿うようになり、文体の歯切れがよくなってくる。従来の小説手法とまぎれ、庸三の内面的な認識の不確定さの強調は薄れ、外面的な描写が多くなる。
 
それでもしかし、主人公庸三の記憶の出し入れは、恣意的であり、葉子やその他の人物の視点を取り入れ、事件の多面的観察感をつくりだしていく。これでメディアの報じた事件のもうひとつの側面を照らしている。作中で葉子の気紛れで利己的な様相を描きながら、彼女が時折示す真摯な情熱的姿勢に「真実」を見たように感じる庸三の視線がそれである。この真実という言葉を多用し、仮装との比較を意識させる手法は、いわゆる自然主義的小説とは、性質を異にしているのではないだろうか。

 読み進むうちに、庸三の心理に巻き込まれ、事件の意義づけが捉えにくい複雑なものになっていく。その捉え難さは、奇妙なことに、現実の出来事の捉え難さに似てくるのである。
 これが果たして秋声の当初からの目論見であるのか、それとも文学的追及の結果としてそうなったのか、判別に迷うところである。
 
小説として「仮装人物」の仕上がりぶりを評すると、中ごろからからは、文学的探求心の低下及び喪失が著しい。単なる事件の裏話を語るにとどまっている。二十の章あたりで、庸三と葉子の関係を新聞に暴露される。葉子は自分が悪く書かれていることに腹を立て、それが庸三の口から出ているのだからという理由で、彼に訂正の発言をしに新聞社に行かせようとするところがあり、ここが破局のクライマックスになっているのだが、ここで、葉子の飼っていたカナリアが鳥籠から逃げ出し、鳥を葉子が追い掛けたという出来事を思い出す。失われた幸福な関係への郷愁を描くところなど、まだ工夫の意欲が見られる。

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2007年4月25日 (水)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-18-

 ちなみに、この白山のモナリザといわれる女は、順子ではない。問題はそれではなく、秋声がポーを高く評価していたことである。
 秋声は恋愛事件以後、そうした新しい外国文学の潮流をにらみながら、時間をかけて「仮装人物の」腹案を練っていたのではないだろうか。
 したがって「仮装人物」の冒頭部は、自然主義作家としての秋声というより、方法意識を剥き出しにした作家、秋声の姿がうかがえる。読みにくいながらも、濃霧のなかを船が進むような、独特の奥行きの深い世界が指し示めされている印象を受ける。少なくとも、出発点にみられたその方法論意識は、書き起こすバネにはなっていた筈だ。
 当時のヨーロッパの文学動向をみると、プルーストの「失われた時を求めて」は大正二年に発表され、その影響をうけて日本では堀 辰雄が昭和八年に小説を手がけて「美しき村」を発表。その後の 「風立ちぬ」は「仮装人物」と同年の昭和十年発表である。
  欧州ではさらにジョイス「ユリシーズ」が大正十一年、ジイド 「贋金づくり」が昭和元年に。ウルフ「燈台へ」、カフカ「アメリカ」が昭和二年にそれぞれ登場してきている。いわゆる前衛的といわれる小説手法の作家が続々と登場している時期なのだ。
 秋声はそのすべての作品を読まないまでも、その手法の噂は知っていたにちがいない。
 そうした手法意識の高まりのなかで、秋声なりに「仮装人物」の構想が練られたのではないかと推測する。作中においても、二十二の章に『その頃葉子は子供が海岸に行っている間を、庸三の古い六畳を居間にして、プルウストやコレットの翻訳などを読み耽り、その隙には我が家のように部屋を掃除したり、庭石に水を打ったりして、楽しげな毎日を送っていたが、子供たちが海岸から帰って来ると彼女の気分もがらりと変わるのだった』とある。他の部分でも、葉子が庸三を相手に文学の話題を情熱的に語るのは、当初は新鮮で魅力的であったとしている。目新しいものを見つける葉子との接触によって海外文学のなかでも、新しい手法の作家の動向を把握していたに違いない。
 プルーストや、ジョイスがいまだに前衛的作家だとすれば「仮装人物」の手法もまた前衛的ではないのだろうか。

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2007年4月23日 (月)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-17-

 文学にミステリ-を取り入れた先駆者といえば、エドガー・アラン・ポーである。
 秋声の海外作家の関心の強さについては、次のような資料がある。 前出の作家、榊山潤は最初の夫人が大森で酒場を経営していたが、夫婦仲がうまくいかなかった。そのことは「馬込文士村」に書いている。その後、雪という女性と結婚する。榊山雪夫人の回想記「馬込文士村の人々と私」(「季刊・わが町あれこれ」十四号=南部文学ネットワーク発行)に次ぎのような箇所がある。
          ☆
(前略)徳田先生は私たちにとって、本当の意味でのお仲人でした。先生がある日、榊山が今までの生活からぬけ出して新しい人生に一歩踏み出すために是非手をかしてやってくくれ、私から頼むと、両手をついて下さったので、私もほぼ決まりかけてかけていた話を捨てる決心をいたしました。(中略)
 その頃先生は通称モナリザと呼ばれていた白山の女の人がおそばにいました。ある日、先生のお宅にお邪魔しますと、その頃流行した円本、新潮社の世界文学全集の中のホーソンの、スカ-レット・レター、緋文字というのと、ポーのうずしおや、モルグ街などが一冊になったのが、先生の机の上においてありました。彼女は”せんせ、ホーソンはとても面白いですね、ポーはつまらないけど″といいます。先生はニコニコしながら、そうですねと相槌を打っていらっしゃるのです。女の人が席をはずすと、先生は急に坐り直してホーソンなど通俗作家ですよ。ポーはやはりいい、と手の平をかえすようなことを臆面もなくおっしゃるのです。女の人の意見を正面切手こわすまいというお心づかいがよく分かって、おかしくもあり、なんとなく先生らしいなあ、などと思ったものです。
          ☆

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2007年4月21日 (土)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-16-

 この恋愛事件は過去のものであるから、すべて思い出の中にある。しかし、秋声はそれを時系列で語らない。思い浮かぶまま、回想を重層させて、書きついでゆく手法である。
 これは、海外の作家、プルーストやジョイスの存在を十分に意識してのことではないだろうか。秋声は、手のうちの出来事を材料に、そうした意識の流れを取り入れる実験を試みている。そう考えると、この小説の異常に歯切れ悪い文体に、納得がゆくというものだ。
 
しかも、これが単に意識の流れの手法の導入に止まらず、もう一工夫の仕込みがあると読むことができる。それが、前の方で指摘した、説明保留、態度保留の表現である。当事者なのに、「どれが本当なのかわからない」と言われれば、読者にすれば「それは、何故だ?」という疑問をもつ。
 私はこれを自己探求になぞらえた「謎の設定」と読むのだ。つまり意識の流れの手法で人間追及を狙い、それにミステリアスな謎の追及の要素を加味したのではないだろうか。

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2007年4月17日 (火)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-15-

 小説でそのテ-マに関わる「仮装」という「真実」という言葉が早々と出現するのも、テ-マ意識が先行していて、意外に思えるところである。
葉子は出版社の一色と関係しながら、庸三に接近してくると、『執れにしてもそこは庸三に思案の余地が十分ある筈なのに、仮装の登場人物は既に引込みがつかなかった』と書く。この事件での人間のどのような、有様が「仮装人物」であると語る前に、自身を仮装人物として紹介するのである。
 このような経緯を考慮し、小説手法の面から「仮装人物」の冒頭部を読んで見る。
          ☆
『庸三はその後、ふとした事から踊り場なぞへ入ることになって、クリスマスの仮装舞踏会へも幾度か出たが、或る時のダンス・パアテイの幹事から否応なしにサンタクロオスの仮面を被せられて当惑
しながら、煙草を吸おうとして面から顎を少し出して、不図マッチを摺ると、その火が鬚の綿毛に移って、めらめらと燃えあがった事があった。その時も彼は、これから茲に敲き出そうとする、心の皺のなかの埃塗れの甘い夢や苦い汁の古滓について、人知れず其の頃の真面目くさい道化姿を思い出させられて、苦笑せずにはいられなかったくらい、粉飾され歪曲された――或はそれが自身の真実の姿だかもしれない。執っが執っちだかわからない自身を照れくさく思うのであった。』

 これは、メディアに知られた恋愛事件の当事者として、まずその現実の見解がまだ、不確定であることの念をいれた宣言である。すでに事実は決まっているわけだが、その真実は自分でもわからないので、それをこの小説で追及しようということになる。
 その後にも序文が続き、次の一行で物語がはじまる。
          ☆
『今庸三は文字どおり胸の時めくるような或る一夜を思い出した』
          ☆

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2007年4月13日 (金)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-14-

 順子は竹久夢二(作中は、夢路)と足立(作中は、一色)の間を縫ったあと、二人の男からプロポ-ズをされていることを庸三に告げにきた。それを受けて田舎に引っ込むか、作家修業に専念するか相談する。
 庸三が結婚して田舎に落ち着いた方が良いと答える。すると順子(作中、葉子)は、結婚なんかしない、と反発する。
『そういう葉子の言葉には、なにか鬱勃とした田舎ものゝ気概と情熱が籠っていた。そして話しているうちになにか新たに真実の彼女を発見したようにも、思ったが、ちょっと口には出せない欲求も汲めないこともなかった』と書く。
 ここで、順子はもともと田舎に引っ込む気などなくて、秋声に作家として世に出られるように、後押しをして欲しかったのであろう。そういうことが出来たのかどうかは、我々には判らないが、暗黙の頼みを、このとき秋声は断った。しかし順子との関係は続けたい。彼女の本音を予感しながら、縁を切れなかった自分を、仮装人物と考えたらしい。
 作品にはこの「仮装」対応するものとして「真実」が用いられているように読める。作中の自己像は「仮装人物」であるが、仮装の下の素顔の作者は「真実」を見つめて語るのだ、という自負があったらしい。

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2007年4月10日 (火)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-13-

 経歴のなかに「前記の病身の父親に孫をみせるという役目」を果たすために結婚したとある。親というのものは、自己を全的に受容する重要な存在であり、その期待に応えようするのは、平凡であると同時に、自然であった。
 ラジオ放送や、週刊雑誌の創刊など、メディアの発達しつつあった当時、美人コンテストで一等を獲得した彼女が、都会の表舞台に出て活躍してみたいと、思うのは自然である。それが文学芸術「私小説」と結びついたのは、私小説が純文学として隆盛していた時代であったからだろう。私小説が「私」を語ることであるならば、彼女は材料にこと欠かないと思ったのであろう。まさに美貌の肉体の「価値」は、男に対しては貨幣のように共通の流通性を持つ。男遍歴は、その証明であり、その経過を描くことで、彼女は主体的立場も確保できるのであった。美人はどの地域にも幾人かは存在したはずで彼女だけではない。この時代では順子は美貌を活用するずば抜けたセンスと行動力を持っていた。心の流れからすると、順子は普通の意味で自然主義である。情況への適応力は抜群であった。
 ただ、それが必ずしも「私小説作家」の能力を保証するとは限らなかった。自己の存在が「美貌の肉体」として価値つけられたことに意識が蔽われ、内面的な存在認識への考察が不足しがちだったのかも知れない。「仮装人物」のなかで、庸三は妻を病気で失くした後、もっと文学的に才能のある内面の豊かな女性が頭にあったと記している。順子に心を奪われたものの、彼女が自分の妻に相応しいとは思っていなかった。

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2007年4月 9日 (月)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-12-

 秋声との恋におちるのは翌十五年。夢二との一時の同棲生活が終わって間もない頃で、秋声の妻・はまが急逝した直後でもあった。「自然主義の大家」と「日本のノラ」との恋愛模様は、新聞の格好のゴシップネタとなった。特に他の男性との艶聞も尽きなかった順子への風当たりは強かった。二人の関係は曲折を経ながらも二年近く続くが、結婚を目前にして終止符が打たれる。
 それから約十年後の昭和十三年。秋声の代表作となる「仮装人物」が刊行された。順子との恋愛体験の全容を描いたこの傑作は「自然主義の極致」と評され、この作品によって第一回菊池寛賞を受賞する。そこにはかつて訪れた本荘の情景も描写されている。「山田順子研究」の著者である高野喜代一さん(七十六歳)=本荘市石脇=はその意義について「順子に対する評価はスキャンダラスなものでしかなかったが、『仮装人物』は彼女が残してくれた貴重な財産だ」と強調する。
 秋声はいわゆる「順子もの」と呼ばれる約二十編の作品群を残している。昭和十年に筆を執った「仮装人物」は「順子もの」の集大成と言われている。秋声の作家人生もまた順子なくして語れないのだ。
 一方、順子は秋声と別れた後、文壇の表舞台から遠ざかっても書き続けた。銀座で小さなバ-「ジュンコ」を開いていた時も、仏教に帰依した晩年も、文学への執着心が途切れることはなかった。順子のおいに当たる山田寛さん(七十四歳)=歯科医師、本荘市中堅町=は、順子が終戦間近の昭和二十年に本荘に疎開して来たことを覚えている。「あか抜けた人だった。家では、ほとんど原稿用紙に向かっていた」
 昭和三十一年夏にも前触れもなく本荘に帰省しているが、その際、市役所に同じ古雪出身の佐藤憲一市長(八十三歳)=当時=を訪ねている。佐藤さんは「順子は古里を懐かしがっていた」と述懐する。 昭和三十六年八月、順子の波乱に富んだ人生は六十歳で幕を閉じた。最後まで書くことに執念を燃やし続けたものの、ついに開花することはなかった。晩年は決して恵まれた境涯ではなかったが、「自分の思う通りに生きた人だと思う」と寛さんは言う。
          ☆
 前記の経歴からすると、山田順子が経済的に余裕のある家庭に育ったこと、本荘の男友達と同人誌を発行、リ-ダ-的存在であったことがわかる。この時期に村で噂の種になるほどの恋愛ごとをし、自らの美貌の威力とその「価値」を実感する出来事でもあったのであろう。「仮装人物」なかにも、それを示唆する話が折り込まれている。

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2007年4月 8日 (日)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-11-

          ☆
 山田順子の経歴を、秋田魁新報社のホ-ムペ-ジから紹介したが、同新聞社が順子を取り上げているのは、秋田県が彼女の出身地だからである。いわば地元の作家、文化人である。郷土の有名人を、そう一方的な見解だけで紹介していない。「事実」としての彼女の生涯を、豊富なデ-タをもとに簡略に記述、紹介している。そこで、その大概を示してみたい。
          ☆
【山田順子】《妻の座を捨て文学へ―自由奔放に生き抜く》
 徳田秋声と山田順子。「自然主義の大家」と称された、時の文壇の大御所と女流作家にあこがれて上京し、その大家に師事した弟子。当時、秋声五十五歳、順子二十五歳。親子ほどの年の差がある二人は、深い恋愛関係にあった。
 順子は本荘町古雪の裕福な回船問屋に生まれ、不自由なく育った。やがて、当時、本荘からはごく一部の素封家の子女しか入れなかった秋田市の県立秋田高校女学校(現秋田北高校)に進んだ。
 だが幼い頃は虚弱児だったため、外で遊ぶよりも絵を描くことが好きな子だった。しかし、小学一年の時、大好きだった祖母が川で入水したことをきっかけに、芸術的興味は絵から文学へと移っていく。順子は著書「女弟子」の中でこう記している。
「―病身な父に孫をみせるという役目がなかったなら結婚などせず、絵の道を歩むつもりでした。(中略)祖母が挫折した…女心のする人生を、探求する心の仕事の方へと、次第に私は傾いて行ったのです」
 また、処女作「流るるままに」の中には「此の因襲の根深い、窮屈な生まれ故郷を、永久に抜け出す事」とある。文学への傾倒の根底には、閉鎖的な古里の風土から逃れたいとの思いがあったのかもしれない。
 秋田高女時代には、本荘の男友達とともに機関紙(同人誌)「ひどいわ」を編集するなど、創作にいそしんだ。
 当時、既に美人の誉れも高かった。秋田高女卒業後は小樽に嫁いだが、「小樽新聞の素人美人投票には一等に當選」(大正十四年四月十三日付秋田魁新報)している。
 秋声との邂逅は大正十三年三月。順子は小樽で書き上げた長編小説「水は流るる」を携えて夫ともに上京。秋声を訪ねた。二子をもうけてなお、文学への憧憬を抑えられずに書いたその作品は、家庭と文学への夢の間で苦悩する女性を描いた自伝的小説だった。
 いったんは小樽にもどるが出産を経て再度上京。夫の経営破綻をきっかけに離婚し「妻であり母親である前に、一個の人間として生きる」ことを望んだ、イプセンの戯曲「人形の家」の主人公ノラになぞらえて、順子は「日本のノラ」とあだ名された。
「水は流るる」は大正十四年三月、「流るるままに」と改題、出版され、評判となった。しかし、注目されたのは作品の内容ではなく、出版協力者のそうそうたる顔ぶれ。装丁に大正ロマンを代表する画家の竹久夢二、序文に秋声、久米正男、土岐善麿、菊池寛。秋声の口添えで実現した出版だったが、無名の新人作家の処女出版としては破格の扱いだった。

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2007年4月 3日 (火)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-10-

 当時、真、善、美の価値観に沿った生き方に関心がある人が居たとする(若い人ほどそうではないだろうか)。すると、他人の事例情報を得るのに、周囲の人々の生き方を観察するだけでなく、メディアを利用するのではなかろうか。その場合私小説作家は、効率のよい情報発信者であったろう。彼らは、自分の身の上と比較しやすく、手本のとなったのである。
 人は過去を土台として未来に臨んでいる。過去の意味付けと価値付けには、自分の経験だけに頼るより、他者の意味付け、価値付けと照合した方が、より明確な判断が可能になる。人生勉強になるわけである。
 その意味で、当時の私小説は、選択肢の多い(迷う世代の)若者層に生活指標となる効用があったのではないか。
 現代において、私小説が衰退したと思わせているのは、単にこうした効用を他のメディアにとって代わられたためなのではないだろうか。
 文学の芸術的価値というのは、私小説であろうが、そうでなかろうが定まったものがあり、昔から文学的読者は一定していると考えられる。当時の私小説のなかには、単なる貧乏生活のレポ-トの域を出ず、芸術的センスの失われた作品があるが、それはもっぱら、メデア与える情報としてのみ価値があった筈である。これらの読者層の剥落した現在、私小説は芸術性を論じる文芸評論家とその理解者、つまり公共図書館の蔵書需要に対応する程度になってしまうのは、やむを得ないところであろう。
 たとえば、最近のTV番組で、巷の夫婦喧嘩や、若いカップルの実態を放映するものが増えた。すると、新聞の視聴者の欄に、ヤラセの疑惑があると抗議が出たのがあった。
 いまどき、TV番組の幾つかが、ヤラセであることは当然あり得ることで、何を今更、それが事実でなければならないのか理解ができず首を傾げたものだ。しかし、もしそれが同世代の人々が、生き方の事例情報として真剣に見ていたとしたらどうであろう。それが、フィクションであったなら、さぞかし、興を殺がれたに違いない。そのことに思い当たった。彼らにはそれが絵空ごとでなく、事実であるということが、重要なのだ。人間は自己の存在の情況確認のために、自己の過去以外に、事例として他者の事実と照合しようとするものである。彼らのライフスタイルに手本とすべき指標を提供する可能性があれば、私小説でも読者がついてくる。最近では柳美里や飯島愛の私小説の売れ行きが、がそれを証明しているではないか。

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2007年4月 1日 (日)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-9-

          ☆
 この時、大正末期。不況でジリ貧経済といわれたなか、関東大地震に見舞われた。復興まもなく、世界恐慌にみまわれ、エロ、グゴロ、ナンセンス、労働運動、言論弾圧と、不安の時代に入りつつあった。
 出版の世界では大正十一年「週刊朝日」、「サンデ-毎日」が創刊され、翌十二年には菊池寛が文芸春秋社を創設。ラジオ、映画などメディアの発達が著しい時期である。
 この時期、改造社や講談社などによる大衆文学の市場拡大がはかられた。それに、付随して純文学のなかでは、私小説という分野が育っていたのである。
 メディアの発展状態と私小説の隆盛は関係があるように思う。これは私の仮説であるが、私小説にはただの芸術小説とちがって、それに付加された効用があったのではないだろうか。
 日本の文学における「私小説」の根底には、作品の成立に何らかの実体験的な裏付けがあるという、約束事、ル-ルのようなものがあった。作者と主人公の経験とを密接な関係をもって読むからこそ、地味なストーリーの随筆に近いような作品でも、小説として扱われていた。それは、俳句や短歌が形式に制約があって、それを前提として成立していると同様の形式的制約として読者に浸透していた。
 私小説の読者の中には、作家がどんな生活をしているのかという関心をもっている人も多かった。生き方への人間的興味のために、私小説の読者が拡大していった。作家という文化的自由人の生活、意見、人生実感の披露を味わうことは、読者にとって芸術鑑賞以上の効用があったのではないだろうか。

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2007年3月30日 (金)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-8-

 当時の順子に対する世間の評判は良くない。
榊山潤は、「順子はたしかに美しかった。あの時期の美女伝を書くとしたら、彼女は筆頭十人のなかに入れなくてはなるまい。自分の美貌を十二分に意識していたから、どんな男でも誘いこむ自信はあったろう。相手が徳田さんであろうと、そういう魂胆を持った以上、尻込みするする女ではない。彼女が徳田さんをほしがったのは、文壇進出の足場としての、利用価値であった」(前掲書)
とし、徳田夫人として納まりたいという虚栄心があった、とする。だから、彼女が小説「女弟子」で、まるで自分が被害者のように書いているのは、阿保らしく読め、秋声はワナに落ちたのだと語る。

当時、ジャ-ナリストで身近にいた榊山がそう言うのであるから、世論というものもそうであったに違いない。榊山は、秋声を尊敬しており、順子と関わり合うことで秋声の名声に傷がつくことを心配していた。それだけに、傍からみた順子の真意を、事実と真実のズレなど生じようもないと思わせるほど明解に観察している。
 いったい当事者であった秋声は、こんな単純そうな「恋愛事件」の真実をどう描くのか、興味がわくのではないだろうか。「仮装人物」の「恋愛事件」は、私小説という形態に束縛されていたからこそ生れた。小説の主人公としての葉子は、現実の順子の言動に制約されており、当事者がその中の真実を見出して、読者に提示するというのは、結構大変なことであろう。自分の意図した人物像を、思想や感性で作り上げるのと、根本的にちがう。

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2007年3月25日 (日)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-7-

  当然のことであるかも知れないが、秋声はここで、この小説によって 『事実』より『真実』の姿を描く可能性を示唆している。事件をただ語るのでなく、仮装的存在の人間像を描いて、文学的成果を上げようという意図が見える。

 同時に、秋声の表現には〈物にはいろいろの見方があるので、どれが真実かは判然としない〉という姿勢が反映されている。多様な見方のいれにも与せず、態度保留をするのである。「事件の粉飾され歪曲された――或はそれが自身の真実だかも知れない」としながら、自分の視点で書くのである。(自分の視点に真実があるかも知れない、と自信をもっているらしい)。これが作家としての資質でもあるようだ。その文体は、考えを手さぐりに進めながら、曖昧さのなかに主旨をいくつも盛り込んでゆくのに適している。

 これをもし、ハ-ドボイルド的に短文を積み重ねたならば、細部のニュアンスが削げ落ちて、語り手の曖昧さが目立つことになるだけかも知れない。

 この時代には、文学的追及によって、人間の真実が明らかにされるという思想が根本にあり、秋声は自分の文学に対して一面的であることを認めながら、そこに真実の姿を見いだせないか、挑戦しているとも読める。
 そうだとすると、真実は事件の当事者それぞれの立場から、多層的に存在すると言うことになる。
          ☆
「仮装人物」で秋声が「真実」を描くことを狙いに入れていたとすると、そこに、事実に対して誇張や省略があっておかしくない。

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2007年3月24日 (土)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-6-

 この「或はそれが自身の真実の姿だかも知れない」における『真実』という言葉に注目しよう。作品にはこの真実という言葉が多用されている。先に、この序章のなかで、葉子との出来事を秋声が『事件』としていることに触れた。もしそれが、事件を純粋に語るのであるなら『事実』の姿でなければならない。
 裁判における争点に代表されるがごとく、世俗の事件は「事実認定」をもって、判断の基準とするのである。
 では「事件」についての「事実」と「真実」とは、どこが違うのか。

 木村毅という文学博士がそのことに関し、次のような説を述べていたと記憶する。
『たとえば、少しも精神に異常のない男が勤め先がひけて家に帰ると、いきなり妻を射殺したというような事件の生じたとき、新聞はただそれだけの記事を掲げる。

 しかし、正気な男がそんなことをする筈がないということは常識でも判断がつくから、この記事だけみたのではその男の心理に対して一種の疑念の起きるのを抑えることが出来ない。この疑念を抱かせる限り、その報道はたとえその事実を語ったものだということは出来ても、断じて真実を語ったということは出来ない。この話を真実とするつもりならば、書き手は、まず事件をこのような結末に導かざるを得なかった原因のすべてを究明することがなにより大切である。事実が我々にしっくりと合点がゆくまで了解されて、はじめて真実となる』

 この項は、木村毅著「小説研究十二講」という古い本にあったと記憶している。その本の旧さからして、おそらくこの考えは、徳田秋声が活躍していたのと同時代の見識であったろうと推測した。
また、これも記憶によるが、モーパッサンは頼まれて、作家志望者の作品を読んで指導をすることがあったらしい。その時、あまり感心しない浮いた部分があらうと「これは、さぞかし実際にあったことなので、このように書いたののでしょうな」と皮肉を言ったというエピソードを読んだことがある。 
 
 物事において、起きた現象の『事実』があるとすれば、それは変化しない。しかし、『真実』は時代や環境によって変化する可能性がある。ある人にとって、神や霊魂の存在は「真実」であるかもしれないが、事実かどうかはわからない。ガリレオ以前の地球は宇宙の中心にありそれは皆が納得する『真実』であった。しかし、現在はそれを「真実」とはしていない。
 とにかく『現代では『真実』の定義が難しいので、ここではとりあえず『その時代における』という前提のついたものとしたい。

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2007年3月23日 (金)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-5-

 文が重層しているので、その意を分けて考えてみよう。
 第一にこの事件は、語らない方が望ましいのである。なぜ望ましいかは、はっきり示されていない。また、それなのに、(それを語らないのは)惜しいのである。何が惜しいのかは書いてない。
 そのことは察してくれというのか。とにかく、ここは読んだ人間の推察まかせるということになる。一九三五年頃の六十五歳の作者の言い分を、いま忖渡するとどうなるか。
 A、何故、語らないのが望ましいのか?
一、過ぎ去った事件だから、水に流さなければいけないことを今更のように堀り返し、公表するのは作家のエゴであると非難される可能性がある。
二、事件当時非難された経緯のあることを、後年言い訳がましく披露するのは、みっともないと言われる可能性がある。
 B、何故、惜しいのか
一、自分の身に実際に起きた折角の花のある恋愛事件を、黙っているのは惜しい。いい思い出もあるので語ってみたい。読者もさぞかし知りたいであろう。(普段は生活に追われ、地味な暮らしをしている我々と同じに見た場合)。
二、小説の材料として、取材不要な自分がモデルそのままの事件、華やかな小説的題材であり、自分の文学的手腕をもってすれば、意欲的な芸術作品にできる可能性がある。これで、文学的に人間の真実追及ができるはずである。それに使わないのは惜しい。
 まあ、こんなところか。
 こうした心境を示しておいて、作者はその後、彼女に会いダンスをした時の気持ちを記す。
『彼は癒えきってしまった古創の痕に触られるような、心持ちの痛痒いような感じで、すっかり巷の女に成り切ってしまって、悪くぶくぶくしている彼女の体を引っ張っているのが物憂いかった』とし、
この物語にはっきりとした終わりがあることを示しつつ、序章に区切りをつけている。

 ここでは、モデル順子のその後の変貌を示し、作者は、もう彼女には未練がありませんよ、ということか。
 ここで秋声は、私小説作家として、周囲に気配りし、そのうえ更に、文学的野心をも満足させようという作家魂を示している。言い切ったかと思わせて、ひるがえし、また言ったかと思うと別の主旨を語る。政治家的で、いまなら、食えない男である。(その点、現代の私小説作家、柳美里は単純で、モデルともろにガチンコして、裁判沙汰になっているのは、直接的で判りやすい)。
 しかし、その一方で、作品の手法に注目すると、秋声のこうした姿勢には、文学的にかなり考え抜いたところがある。それは「仮装人物」の序章に「粉飾され歪曲された―― 或はそれが自身の真実の姿だかも知れない」と示されているところに読みとれる。

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2007年3月22日 (木)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-4-

 小説の冒頭で『庸三はその後、ふとしたことから踊り場なぞへ入ることになって……』とある。いきなり「その後」とあるので、何の後かと思うと、この小説の題材になった『事件』の後らしい。いかにも、読者の先入観を意識している書き出しである。

『庸三はダンスホ-ルのクリスマスで仮装舞踏会へ幾度も出て、幹事から否応なしにサンタクロ-スの仮面を被せられ当惑しながら煙草を吸おうとしたら、マッチの火が髭の綿毛に移って、めらめらと燃え上がったことがある』。

このような、ちょっとした機会があるたびに、しばしば思い起こす印象的な事件なのである。凝りに凝った、非常に象徴的なイメ-ジだ。いま、読んでも力んでいるのがわかる。その後に、これからその事件を語ろうとすると、粉飾され歪曲された――どっちがどっちだか分からない、真面目くさい道化姿の自分を思い浮かべ、苦笑せざるを得ない、というのだ。要するに自分の恋愛事件は、いま考えれば莫迦げた道化であったかも知れない、と照れているとする。のっけから韜晦な文脈で展開される。

なお,『その事件について語ろうとするのは、何もそれが楽しい思い出になるからでもなければ、現在の彼の生活に差し障りをもっている訳でもないようだから、そっと引出しの隅でも押し込めておくことが望ましいのであるが……』とし、
『だがそのまま埋ずもらせてしまうのは、正直なところ惜しいような気もする』という。

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2007年3月21日 (水)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-3-

 何故なら、小説「仮装人物」の物語は一つの「事件」をもとにしているからだ。この『事件』という表現は「其の事件について語ろうとするのは」と作中にある。つまり、秋声の頭の中には、このとき既に「事件」意識があったのである。この辺について、時事新報の新聞記者から作家になった榊山潤は、次のように記録している。
『政治部に小野敏夫という記者がいた。山田順子が結婚した増川才吉とは東大法科で一緒だった。小樽で増川と暮らしていた順子が、自伝小説「流るるままに」を持って上京した時、最初に小野に頼ったのは、そういう関係によるものである』。ところが無名作家の長編をおいそれと出してくれる出版社など、めったにないのであった。『小野は困って妹の美智子に相談した。美智子は作家を志して、順子流にいえば、徳田さんの女弟子の一人であった。「流るるままに」は美智子から徳田さんの手に渡り、徳田さんから、徳田家に出入りしていた聚芳閣の社長足立欣一に渡った』〈榊山潤著「馬込文士村」(東都書房)〉。
 この足立社長の力添えで大正十四年、それは出版された。
 順子は「女弟子」のなかで足立が役得のように順子の身体を要求したと書いているが、「作品を出版するという約束で、聚芳閣社長と関係を結んだ」というのが、榊山や当時の周囲の見方のようだ。浅見淵著「昭和文壇側面史」、野口富士男「徳田秋声伝」にもそう書かれているという。
「流れるままに」が出版される過程で、順子の夫増川は破産、順子は離婚し、秋声とも恋愛関係が出来ていたようだ。翌年の大正十五年、秋声夫人はま子が脳溢血で急死。それを知って直ちに順子が駆けつけてきた。
 その間の順子と秋声との関係を朝日新聞が記事にし、巷間の話題になっている。時事新報の記者であった榊山は、二人の関係を目前にしながら、秋声に親しかったあまり、記事にしなかったので社内の立場が失われた(前掲書)とある。
「仮装人物」においては、ここで過去に世間を賑わした『事件』の真相を語ってやろうという姿勢を見せ、読者の興味をそそろうとしたと読める。

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2007年3月20日 (火)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-2-

 徳田秋声といえば、日本近代文学史でも自然主義作家の代表的存在である。したがって彼の作品に関する評論は多い。
 しかし、私はそれらに評論について殆ど読んでいない。第一にそれらの著作物は、今や書店に姿はなく、大きな図書館でも行かなければ、読めないであろう。例外として、大杉重男著「小説家の起源―徳田秋聲論」(講談社刊)が昨年に出版されている。この書の第四章に「自然主義の荘厳について―『仮装人物論』がある。日本近代文学全般を俯瞰した上での評論である。本書に眼を通したが、正直なところ、難しくてよくわからなかった。本稿はもっと単純平俗な話なので、他の高邁な論の後追いになることはないであろうという、妙な自信をもったのであった。
 一方、作品「仮装人物」そのものは、今も岩波文庫と講談社文芸文庫で発売されている。本文においては、講談社文芸文庫によった。新かなづかいとふりがな付加版である。
 我々、同人誌に書く者は、自分の過去をたどたどしくなぞることが少なくない。秋声の老練な表現力は、学んであり余るところがある。なにしろ六十五歳でこの重厚な作品を創りあげたのだ。書店の棚になければ、取り寄せてもらってでも、読む価値はある。とにかく第一頁だけでも、熟読してみることを薦める。
 ここでは、山田順子が美人で男遍歴の激しかった女流作家であるから、面白い存在であろうという、TVのワイドショ-番組的興味を付加してまず論じてみようと思う。それでは当初の志において、いささか格調が低いのではあるが、こうした視点による「仮装人物」の読み方は、必ずしも不当ではないのである。

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2007年3月19日 (月)

徳田秋声「仮装人物」と山田順子-1-

――人間が過去の記憶を再生するのは、そのままでは空虚な現在のレジャ-に興味を添えるためであるから、記憶の本来の働きは、正確な想起というより、空想や想像の働きである。結局大切なのは、物語であり、ドラマである――ジョン・デュ-ウィ著「哲学の改造」清水幾太郎、清水禮子訳(岩波文庫)。

 人間は、獣に追われるとか、子孫の繁殖とかの欲望の虜になっていない時、それは空虚な余暇であった。嵐の日に洞穴でじっと天候の回復待つ。さぞかし過去の記憶が自己の存在の空虚さを埋めたのに違いない。当然、なかには成功体験や失敗体験がある。それを将来の教訓にできるという効用があった。そうした過去の経験を幻想や白日夢を交えて、浮かび上った記憶を自分の胸だけに止めず、人に伝えた時から「私」の表現が始まる。
 人間は原初から、自分の物語をもつ存在であった。人が物語を書き、読者を欲するのは人間的存在の要求するところであろう。
 本誌のような同人雑誌の存在の根源もそこにあるとみる。そこで、ここでは存在論的な視点から「私」の表現と物語の関係を研究してみようと思い立った。その手始めが徳田秋声「仮装人物」の考察である。まずそこに描かれたモデル、山田順子に注目した。
          ☆
 山田順子は大正から昭和にかけて活躍した女流作家である。「秋田魁新報社」インタ-ネットHPによると、【山田順子(やまだ・ゆきこ)】本名・ユキ。明治三十四年六月二十五日、秋田県本荘町古雪の回船問屋の長女として生まれる。県立秋田高等女学校を卒業後、大正九年に亀田町(現岩城町亀田)出身で小樽在住の弁護士・増川才吉と結婚。三人の子をもうけるが離婚、上京して女流作家を目指す。処女作「流るるままに」のほか、「神の火を盗んだ女」「欲望と愛情の書」「愛と受苦」「十七歳の傾斜」「私たちの観音さま」「女弟子」などがの著書がある。昭和三十六年八月二十七日、六十歳で死去。
  彼女は大変な美人で、一時竹久夢二の愛人となり、自分の小説 「流るるままに」の装丁画を描いてもらっている。
その後、徳田秋声の愛人となった。秋声の「仮装人物」は順子との恋愛を描いた作品である。これは徳田秋声の晩年の作品で、昭和十年、秋声六十五歳の時に雑誌「経済往来」に連載開始、途中病気中断があって昭和十三年完結。その年第一回菊池寛賞を受賞している。作品では冒頭から作者をモデルとした庸三という主人公が五十五歳の折、順子をモデルとした梢葉子について語ろうとするところからはじまる。

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