2014年3月 3日 (月)

外狩雅巳「大地の記憶」(8)解説・古代東北と日本歴史

 私の実家は仙台市です。太白区富沢です。沢とは丘陵地からの水の流れ下る谷で河に続きます。近くには,金剛沢とか金洗いなどの地名が残っています。金を掘ったり洗ったりしたようです。
 大和政府が成立後短期間に強国になった一つに経済的な基盤があったと思います。
 東北征服は経済から考えると資源の獲得でしょう。馬と鉄と金は当時の東北の特産品でした。未開地が広がるので放牧に適しています。あまり寒くない南東北や関東は名馬の産地です。
 那須地方の豪族・那須与一は馬上からの弓が得意です。馬と武将の話は多く残っています。
 鉄は武器製造の必需品です。古代に行ったたたら製鉄の痕跡が多く残されています。
 白村江敗戦で大陸からの輸入が困難になり国産を急ぐ事は国防の緊急課題でした。現在でも変わらず金は世界共通の通貨価値があり保有量は国家経済の象徴となっています。
 かっては紙幣は兌換券と刷り込まれていて国立銀行が金との交換を保障していました。宮城県から金が産出したという国家の慶事で大伴家持の記念歌は万葉集に残っています。律令支配体制を確立させて税金として馬や金や鉄を大量に保有し強国になる予定なのです。
 そこに無理があります。軍事の経済の民政の無理を強権で推し進める歴史がありました。648年に磐船の柵を作り武装移民で守らせて以来百年間の国家プロジェクトが続きます。
 唐帝国の日本征服を恐れ多くの蝦夷兵士を九州防衛に移住させました。強い蝦夷に頼りました。現地人を強制退去させ砦を作り武装移民を送り込むと、田畑を作り自給自足させます。
 追われた現地民や負けた捕虜をドンドン南日本に移します。百万人移民計画の記録もあります。
 百済の応援で唐と戦ったのは大和政府の失策でした。二万人以上の兵士を失ったのです。当時四百万程度の人口の中での二万人です。今なら五十万人です自衛隊の倍です。
 艦隊も全滅です。国内の予備艦隊は大切に使いました。東北征服の虎の子です。北の新天地開拓の為に北陸から北海道までも何度か戦闘航海した記録も残っています。坂上田村麻呂はその総仕上げの大将でしょう。青森まで征服してしまいます。
 802年に胆沢城・803年に志波城建設と岩手北部から青森にかけて制圧しました。そんな百年戦争の中での特筆する日本軍敗戦である紀古佐美将軍の北上川戦記です。
 白村江の戦では追撃戦で伸び切った隊列を分断され包囲殲滅戦の敗北となりました。蝦夷兵も沢山捕虜として長安に送られました。彼らは日本軍敗北の実態を知っています。
 沿海州から北海道まわりで帰還した蝦夷兵がその戦訓を持ち帰ったと仮定しました。その仮定の上での789年の古佐美軍撃破作品を書いてみました。
■参考≪外狩雅巳のひろば


| | コメント (0)

2014年2月26日 (水)

外狩雅巳・歴史小説「大地の記憶」(7)敗退、岸辺の惨状

「戦死者25とはあまりにも少ない、せめて百余名にならぬものか」「獲った首は百を下らぬと言うではないか」
「はたしてそれが事実か、素裸で逃げ帰った者の言い分は通らぬ」「ならば、せめて村を焼くこと14は記帳して欲しい」
「その他の村とで八百戸。これだけ書けば帝への聞こえも多少は通ずると」
「なら良きに計らえ、後は予が上手くやる」
 広成を囲む談義は盛り上がらない。戦果報告の作成が課題になっている。逃げ帰った岸ではもうその為の場が作られている。
 応急の小屋には負傷者が溢れ薬草の数も不足している。水内際で引き上げられる溺死者は穴に埋葬される。
 「広成様の御帰還さえ叶えば良しとするべきだ」「御盾殿の活躍こそ記録に値する、それが無ければ今の我らはこの世にいない」
 あの時、対岸で敗走する広成を守り多くの戦士が命を賭けて蝦夷軍を迎え撃った。そして勇士は還らず異郷の土になった。
 四千の政府軍精鋭。その中心戦力は降伏蝦夷の族長の兵と坂東からの武装移民の軍団。都の貴族と近畿・東海の兵は本営に残った。
 そして,分散進撃。別働隊は村々を焼き荒らした。主力は伸び切った隊列を分断され各個撃破され戦意を失い岸に向けて敗走した。
「御盾殿、仁成様を向こう岸にお守りしろ、ここは吾らが防ぐ」「頼むぞ、道成・壮麻呂・五百継。命を惜しめよ」
 青年将校達が手勢を率いて反撃する。矢襖の中で次々に落馬する。別将五人が戦死、二百五十名が毒矢で負傷した。
 ようやくこちら岸に引き上げた広成が振り返る川の流れ。そこには敗走する多勢の兵士が半裸で泳ぐ中、降り注ぐ蝦夷の矢の雨。
 千二百五十七名がなんとか泳ぎ着いた。多くが溺死して流される。矢傷で生還したものと合わせても千五百名足らずである。
 点呼する将校・下士官の声も弱々しい。未帰還者二千五百余名、戦死の状況すらほとんどわからず報告書にも書けない敗戦である。
 「功無きは良将の恥ずるところ、国家に大損害を与えた。と言う割には古佐美大将軍は何も勘問されぬわ、さもあらんかな」
「わかり切ったことよ大盾殿は武運の強さで今後も陸奥経営の柱になられよ、わしは一段落したら入間で隠居する」
 北上川を渡り攻め入った大作戦。入間郡からの兵士も二十人程が溺死した。秋には刈入がある、遺族への補償が大問題である。
 裸馬を乗りこなしながら弓を射、やりを繰り出す荒蝦夷の戦士達、防戦する円陣に乗り入れかき乱し走り去る身軽さ。
 風のように襲いかかる兵士の残像が今も広成の脳裏に焼き付いている。武器も防具も投げ捨てて河に逃げ溺死する政府軍の兵士たち。
 流れに漂う溺死者。瀕死の負傷者の叫び。仁成は悪夢のようなあの光景。もう二度と蝦夷討伐には参加したくなかった。
■参考≪外狩雅巳のひろば

| | コメント (0)

2014年2月24日 (月)

外狩雅巳「大地の記憶」(6)解説・政(まつりごと)の要(かなめ)軍事なり―天武天皇

 軍事力が国力だったのは歴史を見ればわかります。強力な軍事力は内政にも外交にも効果があります。
 弱肉強食の世界情勢に対抗して国家の自立を守るのは軍事力が有効な時代は長く続いていました。
 小さな日本列島に国を樹立しそれを守り続けた人々は短期間で強力な国家を作り上げる事に長けています。
 五世紀頃に建国し百年ほどで東アジアの覇権争いに参加した手腕は戦後復興の速さに引き継がれましたね。
 六六二年白村江で新羅と唐の連合軍に敗れても直ちに内政充実に切り替える器用な政策転換にも長けています。
 国家整備を先進国の中国の制度に学びました。漢字を起用に日本語に応用し律令国家体制も応用しました。
 七〇一年の大宝律令を整備し手直しして20年後には養老律令として完成します。軍防令はこの中にあります。
 軍隊の基本法です。五人が基礎人数で伍長が率います。二つ合わせて火にします。五火で隊になります。
  その上には旅や軍もあります。軍は一万人程度で将軍が率います。三つ合わせた三軍は大将軍が率います。
 兵器も充実整備しました。弩という大きな弓は大砲のような威力が有ります。鎧も単甲や兜を装備します。五月人形の武者が着ける鎧は鉄片を綴り合せ動作に影響を少なくした優れものですが単甲は旧式です。足軽が着ける胴丸のようなものです。兜も前立てはありませんが可動式眉庇や首筋防御のしころは有ります。
 勤務体制も規則正しく決められ田装備や宿舎もあります。訓練も厳しく、兵器や部隊行動を習熟させられます。
 その費用は基本的には国家が持ちます。兵士に食糧の持参などの負担はあるものの精勤すれば隊長になれます。
 首長の私兵が基準の蝦夷軍に対しては団体行動では強く用兵も戦術も優位であるはずなのになぜ負けたのか。
 「えみしはひたりもものひと」とうたわれた百人力の暴れ者で個人戦に長け死にもの狂いで戦う蝦夷軍です。
 圧倒的な兵力差での団体戦が出来ないとなかなか勝てないので味方になった蝦夷軍を手先に使うのが一番です。
 降伏させて九州防衛隊にしました。そこに大和から武装移民を入れて耕作地にしてしまい大和国家の地にします。
 丸太を立て並べてた砦を拠点に周りに住ませ村を作ります。722年に百万町歩開墾プロジェクトを作りました。
 大将軍の紀古佐美は参議と言う内閣の大臣なのです。国家的な一大事業としての東北大和化を進めたのです。
 リベンジで名を知られる坂上田村麻呂は征夷大将軍です。家康も征夷大将軍です。蝦夷征伐こそ国政の要です。
■参考≪外狩雅巳のひろば


| | コメント (0)

2014年2月 4日 (火)

外狩雅巳・歴史小説「大地の記憶」(5)傲慢と略奪

「とまれ・とまれ。深追いするな」分断された大和軍前衛は円陣で防戦し、後方の軍は散を乱して敗走する。
「アザマロ、さらばだ」留まる蝦夷の中から抜き出た五十騎と徒歩の兵百五十。河に向かって突進する。彼らは皆、敗走する官軍と同じ単甲冑と兜、そして蕨手刀である。
「あの者たちに生き残る道はない」
 入間広成の退却を守る五百継と兵たちは岸に伏せ矢を番え剣を振り上げて決死の面持ちで待ち受ける。
「犬め、大和の犬は死ね」
「死ぬのはお前らだ裏切り者め、上毛野一族の恥晒者達に帰る土地は無い」
 岸辺で繰り広げられる死闘、大和に従うものも討たれるものも武蔵の民である。広成は既に対岸に着いた。
 「大盾を仕留めたお前だ、蝦夷の星として胆沢を守るのだ」イサシコの残した言葉を胸にしまい込む。
 道嶋の大盾を討ち、多賀城を炎上させ胆沢侵略を中断させたあの日。アザマロには道は一つしかないのだ。
「物見の死は無駄ではなかった」
「ここで河を渡ると岸から知らせ斬られても我らに勝ちをもたらしたのだ」
 配下の兵たちの喜びの声。円陣を崩されて川に敗走する大和軍の絶叫。完全な勝利が広がっている。
「村を焼かれ、妻子を殺されての勝ち戦だ、これで大和に我らを認めさせれば阿弖流為様の思う壺だ」
「いや、そうはなるまい。紀広純を戻したが大和は吾を許さず紀古佐美の軍が来た。戦うしかないのだ」
 配下の兵と言い交わす。夷を以て夷を制す大和の仕打ちは充分に知っていたが、立たねばならぬ時もある。
 伊治郡大領として大和の手先を務め献身した。伊治城建設にも郡民を挙げて土木工事に邁進したのだ。
 それなのに、要領の良い大盾に手柄は攫われた。彼の叔父は中央の高官である。陸奥守も親戚である。
「蝦夷の子は蝦夷。卑しい血は争えぬものよ」祖父と父とで築きあげた地位に血筋の誇りがある。土木作業員ごとき、との蔑視がある。
 大納言広純の前で屈辱の嘲り、多賀城の政務を取り仕切るその傲慢さ。古くは道嶋とて蝦夷ではないか。
 夜中に密かに配下を集め反乱は成功した。寝入りに襲われ半裸の大盾を逆さ吊りにして首を刎ねた。
 広純は都の貴人。帝に叛意の無いことを伝え逃がしたのだ。陸奥から手を引かせようと多賀城は焼いた。
 甘かった。結果はこうなった。阿弖流為の考えに従い戦勝しても我ら蝦夷の自由な生活は得られまい。
 吉弥候部伊佐西古は蘇我氏の部の民、岩代で使えていることが出来なかったのか蝦夷の血が騒いだのか。
「上流でも逃げ帰っている。打ち取らぬとは惜しい」村を焼き略奪した一軍も鎧を捨て泳ぎ逃げてゆく。
■参考≪外狩雅巳のひろば

| | コメント (0)

2014年1月26日 (日)

外狩雅巳・歴史小説「大地の記憶」(4)解説編・倭国・和国の成立

 ―金鳩輝く日本の―で始まり――紀元は二千六百年――で終わる歌を少し覚えています。
 私が生まれた昭和十七年の二年前がその記念の年です。つまり、我が国の歴史開始日です。
 前回書きましたが天皇家は朝鮮半島よりの渡来人の末裔かもしれないと言う疑問です。歴史書には紀元前の中国と朝鮮半島の事が記載されています。古朝鮮国家についても記されています。
 伝説に近い部分もありますが二千六百年も前にここに中国文化の影響で国家があったようです。その流れで三韓という国家群も栄え、その一つが百済国となったとも言われています。
 百済と日本の縁が深いのもそういう訳なのでしょうか。まず北九州に小国家群が発生しています。漢帝国から下された金の印鑑の話も学校の歴史で学びました。色々推測出来ますね。
 で、北上して大和盆地に定着しますがその事を歌ったのがこの歌みたいですね。神武天皇の籏に、金鳩が留まり賊が敗走した―のが日本紀元の始まりだと言う歌ですね。
 歴史書で中国王朝の一族が朝鮮に原始国家を建国したと言う伝説も読みました。その流れなら倭国・そして大和国も中国王朝を見習った事と考えても良いと思いますよ。
 白村江の敗戦で北を攻め取る事に最終決定したのは幸運ですね。北には強敵が少ないのです。
 奈良・京都などに首都を定め遠征軍を繰り出します。その前にも日本武尊命なども居ます。
 焼津や遠州灘での事や、蝦夷の事も伝わっています。「陸奥国風土記」にある話だそう
です。―陸奥や津軽の蝦夷連合軍と戦い槻木の弓と矢を使い八発で勝ったので八槻郷と言われるー
 地名の由来などにも日本武尊からの話が多く残っていますね。天皇の皇子様の征伐記です。敵との境界線には砦や関所を構えて厳重に見張ります。白川の関は東北の入り口です。
 天武天皇は「凡そ政の要は軍事なり」と言って軍備を整えました。敵は蝦夷です。規律と訓練で鍛えた軍は蝦夷との戦いで勝てたのか。大地の記憶で書き進めてみましょう。
 本には捕虜の蝦夷が部落民の元祖かもしれないとありましたが定説では無いですね。大宝律令等の法律整備で中国から学び高度な制度国家・軍事国家を建設しました。
 恭順すれば外位の称号を与えます。頭に外がついても従五位なら貴族並の高位です。敵わないと知れば原住民は恭順します。良い政治をすればドンドン大和化します。坂上田村麻呂は征夷大将軍として東北を征伐し占領統治が良いと慕われました。
■参考≪外狩雅巳のひろば

| | コメント (0)

2014年1月19日 (日)

外狩雅巳・歴史小説「大地の記憶」(3)東北の攻防

「夫れ兵は拙速を貴ぶ、と叱責されたとか?」
 長く伸びた隊列の先頭を見つめる広成に脇の将が問いかける。
 北上川の急流を渡り切った部隊からの先陣二千名は既に前方の林に入り込んでいた。
「坂東の安危この一戦にあり、将軍宜しくこれを勉むべし、と勅旨を受けた時は喜色満面だったがな」仁成は答えて更に続ける。
「いつまでも五万の兵を岸に留めて己は多賀で遊び惚けていては当然よ」
「で、仁成様の出番に?」
 抜身の蕨手刀を持て余しながら浮軍の長・道嶋御盾が納得したように言う。知り尽くしているがここは仁成を立てている。
「道嶋殿は山手の賊の村を焼き尽くしながら行かれよ」
 副将軍の一人として入間広成は先陣を率いている。大将軍と都人達は多賀城から動かない。天皇からの叱責を受けようやく四千の先陣を渡河させ蝦夷の集落を焼き絶滅させる事になった。
「五百継どの広成様の守りを任せるぞ」渡河の先陣をきった大友五百継に一言残し御盾は行く。
「あれも道嶋一族よ、やがては陸奥の一角を仕切り、外位も受ける身だ、やる気満々よ」
「女子供も焼き尽くし蝦夷には戻れまい、ならば、命がけで戦い身を立てる」五百継は言い切る。
 入間郡内四郷、一合平均三里、一里五十戸。一軒から男一人、六百の兵が直属の部下である。大切な働き手が無ければ今年の収穫が心配だが蝦夷征伐は国家事業だ。報奨も多いはずである。
 昇る朝日に向かい隊列が進む。やがて山手の各処から煙が上がる。虐殺と略奪が始まった。
「[何事だっ」はるか先頭で喚声がする。間もなく、伝令が駆けてくる。
「敵は約千余り進めません」
「丈部善理さまが討たれました」
「会津壮麻呂さまが苦戦しています」前線で戦いの火ぶたがきられた。
「とまれ止まれ、岩の裏に馬を隠せ。ここで迎え撃つぞ散れ」アザマロが叫ぶ。「頼むぞイサシコ、命を惜しめよ」
「来たな、犬ども、阿弖流為様の謀に嵌るぞ、一人残らず生きて返すな」森の奥で官軍の隊列を待伏せるイサシコ。
 先ず、八百が先頭から挑む。続いて二百が伸び切った途中を切り裂く。そして後方から三百の追い討ち。
 包み込まれた官軍がうろたえる。毒矢を使う蝦夷。かすり傷でも痺れて戦闘力を無くす官兵たち。
「まるまれ、まるまれ、仁成様を囲むのだ。なんとしても仁成様を討たすな」
 絶叫する五百継。浮足立つ官軍。
■参考≪外狩雅巳のひろば

| | コメント (0)

2014年1月14日 (火)

外狩雅巳・歴史小説「大地の記憶」(2)解説編その時代背景

~作者の解説~
 私は仙台市で少年期を過ごしました。郊外の西多賀と言う場所です。市域を挟み多賀城の手前、東京寄りです。民家と畑が点在する丘陵地帯です。父と山菜取りの散策中に山肌の崖で土器や石器を見つけ持ち帰りました。
 教職の父は歴史に詳しいので説明してくれます。黒曜石の鏃とか縄文式土器の破片でした。大量に収集しました。こうして古代史に親しんだ事で東北の過去に興味を持ちました。多賀城跡地見学も行いました。
 地政学的にも北日本は中国大陸に接近しています。カムチャツカ半島から島伝いに北
海道に続きます。はるか有史前から文化が発達した大陸に漢や唐の巨大国家の制覇が続いています。広域な影響力がありました。
 膨張する歴代の中国王朝文化は北の果てまで広まりました。沿海州の中国文化は北海道からも来土したと思います。北海道や東北にはその名残の遺物が出土します。北からも日本文化の夜明けは有ったことでしょう。
 しかし、朝鮮半島からの流入ははるかに多く、渡来人の力が古代日本の歴史に大きな影響を与えました。
 「皇帝の柵封を受けた外臣としてこの地を治めています。西に66ヶ国を、北は海を渡り95ヶ国を征しました。東は毛人を攻め55ヶ国を征しました。こんなに大きな帝国となりました。」
これは中国の南朝に奉った上表文です。
 大和に勢力を広げ日本の覇権を獲得した古代国家の長の一人、雄略天皇からの使者が持参したものです。
 「東には山中に夷がいます。無知非礼な野蛮人で日高見国と言うのがあります。穴に住み生肉を食べ血を飲みます。親子、男女間の礼儀はなく雑魚寝します。略奪者です。でも、土地は肥え広いので武力制圧のチャンスです。」
 これは、景行天皇に臣下の竹内宿祢が東北視察報告で語った事です。日本書紀に書いてあります。
 旧縁のある朝鮮半島の百済と結託し唐の手先の新羅征伐を行いました。そして、返り討ちされました。
 六六三年の事です。敗戦で怯え、北九州沿岸に防壁を巡らせ守りに入りました。北を攻め取る事に変更しました。
 この大和の東北侵略をもとにしたお話が現在進行中の「北の大地の記憶」です。数回の連続とします。
 時々、資料による説明を挟みながら進行してゆきます。
■参考≪外狩雅巳のひろば

| | コメント (0)

2014年1月 9日 (木)

外狩雅巳・連載歴史小説「大地の記憶」(1)まつろわぬ東北の民

 若い男が川面をみつめている。「どこから流れてくるのだ。」
 後ろの年長者は荒縄で縛った現地民を伴っている。
「湧いてくるのだ、地の底から。」
 縛られた半裸の男が訛りの強い言葉で呟く。捕らわれ引き立てられる途中か。俯いて呟く。
「またか、お前か。思慮するとこいつが答える。今は物見中だ。向こう岸に気配はないのか。」短甲で武装した年長の男が叱咤する。
 若い男も剣を持っている。対岸は静まり返っているが、何故か捕らわれの原住民は一所を一瞥すると微かに笑みを浮かべ又俯いた。
―― その河の名は ――
 はるかに壁のように連なる奥羽山脈が雪を頂いて朝日を反射している。その雪解け水で溢れた奔流が大地を切り離している。
 岸に並ぶ大和の軍勢は渡河の用意を開始する。その数は、五万二千八百。紀朝臣古佐美征東将軍は帝の忠臣として知られる猛将だ。
 参議左大弁正四位下兼春宮太夫中衛中将としてまつりごとの一端に連なる高官だ。大和朝廷が総力を挙げて蝦夷討伐を開始した。
 まつろわぬ東北の民、日本武尊以来幾度も討伐を受けている。関東から東海地方までは北の民が暮らし、大和から半独立していたのだ。
「しびれを切らし、出て来たな、裏切り者達め。」
 渡河を始めた大和の軍勢を睨む髭に覆われた大男は木陰で仲間達に合図する。
 馬筏を組み奔流を押し渡る坂東軍勢は四千。はるか昔、大和に服従した蝦夷たち。大和の貴族たちの持つ牧で馬の飼育をさせられている。
 更には徒歩立ちの兵士千人も続く。髭に覆われた蝦夷である。多賀城に属する降伏した蝦夷軍は族長・道嶋御盾に率いられている。
 「やはりゆくのか、お前に死なれては困る。」
 岸からの知らせで林の中に二百の兵を揃えて出陣用意にかかる初老の男に若者が肥を掛ける。
「伊佐西古、なぜお前は死に急ぐのだ。」岸で偵察していた若い大男の蝦夷は首領としての貫録を備えて初老の大和化した男を止める。
「囮になるには格好の我らだ、岩代より俺についてきた者共も大和に弓引いて死ねる時をじっと待っていたのだ。」馬上の老将は微笑む。
「伊治砦麻呂、お前様は全ての蝦夷の希望の星だ、この戦を始めたのもお前様だ、見届けるのだ北の民の行く末を…、頼んだぞ!」
 急流にさらわれた者もいるが、さすが坂東武者達、見事な馬あしらいでこちら岸に辿り着いた。隊伍を整え森を進み始める。
「イサシコを憎む官軍の気持ちも良く分かるが、俺にはお前の死は心底辛いのだ、心を許しあえたお前だ。」呼びかける若者。
「くどい、アザマロ。俺の死に様をよく見てくれ。」
 服従し蘇我氏の部の民としての名を受け取り苦渋の日からの脱出がこの死である。

(注)まつろう=1、 相手に付き従う。「順応(じゅんのう)/帰順・恭順」2、人に逆らわない―という意味があることから、まつろわぬは素直に従わないという意。
(注)イサシコ=エミシ(蝦夷)の長の名
■参考≪外狩雅巳のひろば

| | コメント (0)

2008年3月25日 (火)

「辞める理由、続ける理由」(9・完) 麻葉佳那史

 八月にはいって、配膳会から五十代の男性が夜担当ではいった。二十五年間、某一流ホテルで洗い場を勤めていたが、婚礼が激減してリストラされたという。
 九月には外国人用の職安の紹介で洗い場経験のある中国人の女性が夜担当ではいった。
 これでもう通しをすることはなくなった。
 ホール係の人が昼だけでも、というとき、自分の意志を通して辞めなかったのは、辞めて新らしいバイトが見つかるかどうか不安だったからだ。いままでその困難を身をもって体験し、こんど失業の日が続いたら失業給付が受けられないので生活ができなくなってしまう。
 失業していたころ、またバイトで働き出したころ、そして昼夜通しで仕事をしていたころ、夢見ていたのは早く住宅ローンを完済し、再び原稿を書きたいということだった。そのためにはいくらかの時間とかねのゆとりが必要だったのだ。その夢の一端がようやく実現できた。
 年金受給手続きの通知が届き、その金額の提示を見た時、バイトを続けざるを得ないと覚悟した。年金だけで生活をしてゆくにはあまりに少ない金額であり、また蓄えもないためだ。
 無料の就職情報誌をもらって、もうこの年齢では新しくバイトで雇ってくれるところのないのを知るだけだ。まれにあっても時給は少ないし、労働時間も短い。
 バイト先に不満がないでもないが、いって辞めるのもつまらない。昼食は摂れ、ホール係の人と仕事以外のお喋りをできるようになり、いくらか居心地がよくなってきた。
 健康に留意し、シフト制の休日を有効活用し、そうして一日でも長く働けていけたらと願ってやまない。
(注記)配膳会は客に料理を運ぶ人の他に、洗い場や調理補助などの仕事を登録して紹介する会社で数社あるようです。「ホール係の人」は一括して書いたが、洗い場のようすを主に書きたかったために、そうしました。ホール係の人も出入りが多く、洗い場に指示する人、その上司など、いままで数人が辞めているので、いちいちそこまで書いたら煩雑になるので省略しました。(2007年6月)。(文芸同人「砂」の会07年度「作品賞」受賞エッセイ)。

| | コメント (0)

2008年3月24日 (月)

「辞める理由、続ける理由」(8) 麻葉佳那史

 配膳会から五十代の女性が、土日祝日の手伝いに来てくれた。毎週同じ人なので、仕事が日を追って馴れ、昼と夜のあいだの休憩がやがてとれるようになった。また洗浄機に入れる皿類やナイフ等をのせるラツクのそののせ方の工夫をその女性が教えてくれた。いままでカレーショップや社員食堂などで働いていたとのことだ。
 休憩のときその女性は、「時給千二百円というから暇かなと思ってきたのに、この忙しさでは時給が安すぎる」と文句をいう。「私は時給千円ですよ」というと、「あなたは専属で、長時間働いているからいいの、わたしは臨時で来ているのだもの」とわかったようなわからないようなことをいう。
 そういうこともあり、疲れはさらに蓄積してゆく。
 その女性は平日の私の休日のときにも出勤するようになったが、病気で入院手術をし、退院して復帰してくれたが、体調が思わしくなく、ホール係の人が不親切だといって辞めた。入院まえと変りない仕事を望まれたのが回復期の体によくなかったようだ。
 配膳会から新しい女性が来てくれた。
 十一月になっていた。ホール係の人に今年いっぱいで辞めたいといった。後日、新年から昼だけでもしてもらえないかと提案されたので、受け入れた。
 十二月二十一日から二十五日のクリスマスの書き入れ時は、毎夜配膳会から別の人が来た。二、三十代の男女も来て、このような単発の仕事を転々としているという。フリーターの存在を知っていたが、実際一緒に仕事をすると、彼等の生き方に不安を感じた。
 新年になって大学四年の男性がバイトで夜を担当したが、三月初めに就職先が決まると辞めた。
 配膳会の女性が突然の病気で辞め、別の女性が来た。六十七歳の血色のよい人だ。
 再び忙しい日だけという条件で夜もするようになったが、いつか毎日になったので、七月にまた辞めたいというと、昼だけにしてくれた。(つづく)

| | コメント (0)

より以前の記事一覧