2008年3月25日 (火)

「辞める理由、続ける理由」(9・完) 麻葉佳那史

 八月にはいって、配膳会から五十代の男性が夜担当ではいった。二十五年間、某一流ホテルで洗い場を勤めていたが、婚礼が激減してリストラされたという。
 九月には外国人用の職安の紹介で洗い場経験のある中国人の女性が夜担当ではいった。
 これでもう通しをすることはなくなった。
 ホール係の人が昼だけでも、というとき、自分の意志を通して辞めなかったのは、辞めて新らしいバイトが見つかるかどうか不安だったからだ。いままでその困難を身をもって体験し、こんど失業の日が続いたら失業給付が受けられないので生活ができなくなってしまう。
 失業していたころ、またバイトで働き出したころ、そして昼夜通しで仕事をしていたころ、夢見ていたのは早く住宅ローンを完済し、再び原稿を書きたいということだった。そのためにはいくらかの時間とかねのゆとりが必要だったのだ。その夢の一端がようやく実現できた。
 年金受給手続きの通知が届き、その金額の提示を見た時、バイトを続けざるを得ないと覚悟した。年金だけで生活をしてゆくにはあまりに少ない金額であり、また蓄えもないためだ。
 無料の就職情報誌をもらって、もうこの年齢では新しくバイトで雇ってくれるところのないのを知るだけだ。まれにあっても時給は少ないし、労働時間も短い。
 バイト先に不満がないでもないが、いって辞めるのもつまらない。昼食は摂れ、ホール係の人と仕事以外のお喋りをできるようになり、いくらか居心地がよくなってきた。
 健康に留意し、シフト制の休日を有効活用し、そうして一日でも長く働けていけたらと願ってやまない。
(注記)配膳会は客に料理を運ぶ人の他に、洗い場や調理補助などの仕事を登録して紹介する会社で数社あるようです。「ホール係の人」は一括して書いたが、洗い場のようすを主に書きたかったために、そうしました。ホール係の人も出入りが多く、洗い場に指示する人、その上司など、いままで数人が辞めているので、いちいちそこまで書いたら煩雑になるので省略しました。(2007年6月)。(文芸同人「砂」の会07年度「作品賞」受賞エッセイ)。

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2008年3月24日 (月)

「辞める理由、続ける理由」(8) 麻葉佳那史

 配膳会から五十代の女性が、土日祝日の手伝いに来てくれた。毎週同じ人なので、仕事が日を追って馴れ、昼と夜のあいだの休憩がやがてとれるようになった。また洗浄機に入れる皿類やナイフ等をのせるラツクのそののせ方の工夫をその女性が教えてくれた。いままでカレーショップや社員食堂などで働いていたとのことだ。
 休憩のときその女性は、「時給千二百円というから暇かなと思ってきたのに、この忙しさでは時給が安すぎる」と文句をいう。「私は時給千円ですよ」というと、「あなたは専属で、長時間働いているからいいの、わたしは臨時で来ているのだもの」とわかったようなわからないようなことをいう。
 そういうこともあり、疲れはさらに蓄積してゆく。
 その女性は平日の私の休日のときにも出勤するようになったが、病気で入院手術をし、退院して復帰してくれたが、体調が思わしくなく、ホール係の人が不親切だといって辞めた。入院まえと変りない仕事を望まれたのが回復期の体によくなかったようだ。
 配膳会から新しい女性が来てくれた。
 十一月になっていた。ホール係の人に今年いっぱいで辞めたいといった。後日、新年から昼だけでもしてもらえないかと提案されたので、受け入れた。
 十二月二十一日から二十五日のクリスマスの書き入れ時は、毎夜配膳会から別の人が来た。二、三十代の男女も来て、このような単発の仕事を転々としているという。フリーターの存在を知っていたが、実際一緒に仕事をすると、彼等の生き方に不安を感じた。
 新年になって大学四年の男性がバイトで夜を担当したが、三月初めに就職先が決まると辞めた。
 配膳会の女性が突然の病気で辞め、別の女性が来た。六十七歳の血色のよい人だ。
 再び忙しい日だけという条件で夜もするようになったが、いつか毎日になったので、七月にまた辞めたいというと、昼だけにしてくれた。(つづく)

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2008年3月23日 (日)

「辞める理由、続ける理由」(7) 麻葉佳那史

 火曜に出勤すると、「土曜に来た人から、もう来ないと電話があったのですが、よかったら新人が来るまで、昼夜通しでしてもらえませんか」とホール係の人に頼まれた。私は富田さんが来ないのはわかっていたので別になんとも思わなかった。それに昼夜通しの件については承諾した。
 昼だけではたいして疲れなかったし、夜もすれば収入も増え、また夕食も摂れる。いままで新人は早く来てくれたからそれまでの辛抱だとたかをくくっていた。
 二千一年(平成十三年)六月に、生れてから住んでいた鳥越の長屋の借家を引っ越し、蔵前のマンションに移った。住宅ローンを組み、早期退職金はすべてその返済にあてたが、まだかなりローンが残っていた。その返済と生活費を稼がねばならなかった。住宅ローンを組んだ時は、定年後は嘱託として給料は下っても働けるものと予定していた。リストラされるとは思ってもみなかったのだ。
 引っ越しの時、両親はすでに他界し、妹は嫁いでいて、私は一人暮らしなので身軽だった。
 昼夜通しになり、はじめはラクに感じたが、しだいにツラくなってきた。家は寝るだけ、休日は洗濯、掃除、炊事、そして晩酌で終った。脚がきつくなった。階段の昇り降りにらせん階段以外の場所には手摺りがない。緊張しているから脚をあげさげしていられるが仕事を終え外に出ると歩みがのろくなる。足裏が痛くなり、信号の所や駅で障害者用の突起の出ている箇所に万一そこを踏むと飛び上った。仕事場から電車の駅までゆるい上り坂になっているので、暗いまちをゆっくり歩いて行った。
 土日祝日の婚礼のある日は朝四時に起床するが、前の晩、仕事を終えて帰宅すると零時前後になるので寝る間がいくらもない。出勤の電車で仮眠をし、乗り越してしまったこともあった。
 だからといって時給はかわらない。朝六時ごろタイムカードを打とうと、また二十三時ごろ仕事を終えても割増給があるわけでもない。昼と夜のあいだに休憩のとれない日があろうと給料計算上では休憩をとったことになっている。そういうことを考えると、肉体の疲れのほかに精神の疲れがじわじわ背中にひろがってゆくのを感じた。(つづく)

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2008年3月22日 (土)

「 辞める理由、続ける理由」(6) 麻葉佳那史

二、三日して土曜日がきた。昼夜、婚礼のある日である。午前十時半ごろホール係の人が若そうな男性を連れて来た。「きょうあした一緒に通しでやり、月曜はこの人が通しでします。そして火曜からは夜を担当するので、この二日間でいろいろ教えてあげてもらいたい」といわれた。新人は富田ですと名乗った。
月曜は私が休みなので、かわりに新人がしてくれるという。
そこで富田さんに洗浄機の準備からはじまり仕事の流れを教えながら、一緒に作業をした。若いだけあって積極的に動いてくれた。
十五時を過ぎて一緒にトイレ掃除にゆくと、
「え、こんなことまでするの」と驚いていた。
 それを終えて洗い場に戻ると十六時で、もう従業員の夕食だ。食器と料理道具を洗って片付けていたら、披露宴の料理開始になる。
 富田さんが「休憩は?」と聞くので「もうスタートだから、休憩はない」と答えた。すると「そりゃおかしいよ、どこだって昼と夜の営業のあいだには最低でも一時間は休憩するものだよ。それがないだなんて、ああ、疲れたよ、いつになったら帰れるんだよ」と喚く。「九時ごろには終ると思う」と返事をする。「え、そんなにするの。疲れたよ。早く上ろうよ」という。若いように見えるが、じつはけっこう年をくっているのだろうか。それともいまどきの若い人は体力がないのかな、と考えながら、もう答えることばのないまま黙った。
 二十一時に洗い場を上り、更衣室に行った。着替えながら富田さんが「このような仕事をするのなら、もっといい店があります。百円の就職情報誌があって、そこにはいいところが紹介されてますから、そういう所に移ることをすすめます」といって急いで去っていった。四十一歳だと年齢をいって。それは私が五十八歳といったからだ。
 翌日、ホール係の人から富田さんはかぜで来られないと電話があったといわれた。また「月曜日は、富田さんが来るかどうかわかりませんが、麻葉さんは休日なので、休まれてかまいません」といってくれた。(つづく)

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2008年3月21日 (金)

「辞める理由、続ける理由」(5) 麻葉佳那史

 年が明け一月は客の少ない日が続いたが、二月になると土日は婚礼がはいっている日がある。従業員の昼食ののち披露宴の料理開始までの少し間のある時、安藤さんが、「こないだ、ナイフやフォークの拭きが甘いといわれて、洗い直すようにいわれたが、タオルが少ないからすぐ濡れちまってしょうがねえじゃねえかなあ」とぼやくので、「ほんとですね、私もいわれたんで、タオルを増やしてもらいたいっていったんです。そしたらホールで使う布を寄越したんですが、その布は地が厚いんで拭き辛いですよ」と同意のつもりでいった。すると「ホール係はわかってねえなあ、なんでも文句をいえばいいって思ってがる」と憤慨のようすだ。私はうなずいた。
 昼の仕事が終り、夕食までの休憩のとき、安藤さんは更衣室で休まず、外に出かけた。一時間でも気晴らしに歩いてくるという。少しのあいだでも建物内にいるのが鬱陶しくなったのだろうか。
 三月半ばになって、夜に立食パーティがある日、昼の仕事が済んで更衣室で休んでいると安藤さんが出勤して来た。「おふくろの具合が悪いんで、今夜、仕事ができないっていいに来たんだ。医者が親戚を呼ぶように、というから、どうなるかわからない」といい、部屋を出た。ホール係の人にその旨を伝えて帰るという。
 翌日ホール係の人が「安藤さん、来てくれますかね」と聞くから「さあ、わからないですね」と答えた。「でも、もう来ないんじゃないかなあ」と胸の内でいった。なにかそのような気がした。
 電話番で椅子をあたためていた人が、四、五時間から八時間の立ち仕事にかわったら体がよほどきつかろうと想像できた。ましてや六十歳になってからではなおさらだろう。
 母親がいい口実になった。
 それにしてもナイフやフォークの拭きの甘さを指摘されたことが、安藤さんの中で強く響いたのだとすれば、私にいわなかったか、聞き流してしまった不満がもっとあったのかも知れない。約六か月の勤務ががまんの限界だったのだろうか。(つづく)

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2008年3月20日 (木)

「辞める理由、続ける理由」(4) 麻葉佳那史

「岡本さんが、ホール係の人が命令ばかりだというのは分からないでもないです。私にだって仕事の件のほか、いまはなにも言わないから。岡本さんは仕事のことのほかの会話をしたうえで、心の流れをつくって、それで仕事の命令を、というのはだれもそうしてもらいたいのかも知れない。
 でもいわせてもらえれば、出勤したとき黙ってはいってくるし、年齢のホール係の人たちは二十代からせいぜい四十代で、彼らにすれば話しずらいのではないのですか。仕事以外の会話を望むのは、こっちから共通するような話題を振らないと無理かも知れませんよ」
 私は喋ろうとしてじつはなにも言えず、ただ煙の流れを眺めながら、胸の内で話しかけているのに過ぎなかった。
 十月にホール係の人から岡本さんが十五日で辞めるが、新らしく次の人がはいるから心配しないようにいわれた。
 シフト表は十六日から翌月十五日までで、それが給料計算の基にもなっていた。支給は二十五日に銀行口座にはいる。明細書はその日ぐらいにシェフから渡される。
 新人はすぐにはいった。安藤さんという六十歳の男性だ。バス一停留所だけ乗ってくるという近さからくるという。約一時間かけてくる私には羨ましい限りだ。新聞販売店に勤めていたが定年で辞めた。はじめは配置を自転車やオートバイでしていたが、この一、二年はもっぱら電話番をしていたようだ。岡本さんと違って挨拶はきちんとするし、まわりの人びとに客の状況を尋ねて、仕事の段取りをつけてゆく。皿類の収納場所も懸命に覚えようとしている。よい人が来たとよろこんだ。奥さんと九十八.九歳の母親と三人暮らしで、こどもはいないという。
 やはり土日の婚礼のある日、馴れてきて休憩のとき、そのころは外気が寒くなってきたので更衣室で休んだ。安藤さんはたばこを吸いながら話した。
「家にいても体がナマってしまうから働こうと来たが、いゃあ忙しい所だね」というので「体がきつくてたいへんでしょう」と慰めるともなくいうと、「いゃあ、これぐらいたいしたことないさ」と強がりをいう。(つづく)

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2008年3月19日 (水)

「辞める理由、続ける理由」(3) 麻葉佳那史

 九月になると土日祝日は婚礼があり、そういう日は昼夜を通して岡本さんと一緒に仕事をした。私は朝六時十五分ごろ出勤し、まず二階の客室から掃除をする。新郎新婦や両親、親戚の方々の化粧や着替えの室となり、広いバーラウンジは式がはじまるまえの招待客の控え室になるのだ。それから洗い場にはいる。岡本さんは十時四十五分ごろやってくる。十一時から従業員昼食になり、十一時半ごろから披露宴の食事開始になる。
 十五時ごろ私はトイレ掃除にゆき、岡本さんが洗い物の残りをする。そして十六時から従業員夕食である。十五時から十六時の一時間が休憩なのだが、馴れないうちは休憩もとれずに働き続けなければならない。二十一時に終ったとして、約十五時間、立ち働きをすると、さすがにぐったりと疲れる。
 それでもやがて馴れてくると、休憩がとれるようになる。ゴミ置場が休憩場所で、まだ暑さを含んだ風をうけながら、岡本さんはたばこを吸う。はじめ話をしているが、私は疲れて首がまえに垂れる。
 岡本さんは、「ホール係の人は命令ばかりするだろ、だがおれは自販機でもロボットでもない。なぜ、ふだんの会話もしないで、仕事のことしかいわないのかな。それがいやでしょうがないよ」と不満をいう。私は、はいったばかりなので仕事を覚えるのにいっぱいである。「はいってどのくらいになるんですか」と聞くと、「去年の十月にはいったから、もうすぐ一年だよ」と答えた。「私は五十七歳ですが、岡本さんは?」「おれは五十五だよ」「同じ五十代だし、一緒に仕事をしているから話が合うんですね」
 岡本さんはいぜんどのような仕事をしていたのか、と考えた。じつは岡本さんの出勤は、私が仕事をしていると、ぬうとまわりの人たちになんの挨拶もなくはいってくるのだ。この職場ではその日、出勤すると時間帯に関わりなく「おはようございます」と互いに言い合っている。ところが岡本さんは無言なので、私がシンクで皿をスポンジで洗いラツクに並べ、洗浄機に入れ体を動かすと、そこに岡本さんがいるので慌てて、「おはようございます」というと、「やっ、おはよう」と返事をくれる。そこでまえの職場でもそのように無言でもよかったのかな、と推察したのだ。私のいぜんの職場では「おはようございます」といいかわしていた。(つづく)

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2008年3月18日 (火)

「 辞める理由、続ける理由」(2) 麻葉佳那史

 岡本さんに十六時まで教えてもらいながら一緒にできるのかと思っていたら、十時半ごろホール係の人が岡本さんに上るようにいい、あとは私一人になった。岡本さんは夜担当なので十六時ごろ再び出勤するといって帰って行かれた。
 十一時から従業員の昼食がはじまる。プラスチック製の皿や椀などが戻り、また調理道具の鍋やボール、おたまなどが来、それらを洗う。洗っているうちに、客の前菜の皿や銀製のフォーク、スプーンが来る。営業が始ったのだ。
 額に汗をためて作業をし、食器や道具の収納場所をホール係の人に聞きながら片附ける。段差の多い床のうえに、高所にある棚もあって、いちいち椅子や台に乗らねばならない。
 従業員通用口をはいると、そこは地下一階で、客用正面玄関が一階にあり、調理場は一階にあるが、その一階も平坦ではない。
 皿を収納する場所を探すのと歩くのとの両方に緊張させられる作業だ。
 だが失業の一年間、交通費を浮かそうとなるべく歩いていたので、脚にはやや自信があった。
 十六時ごろ、ホール係の人に呼ばれ、翌朝出勤してからの仕事の順序を教えられた。それからタイムカードを打って上った。たいして疲れていない。前の会社では倉庫で入出庫作業で動きまわっていたので、それがよかったようだ。
 翌朝の仕事のことを考え、八時半ごろ出勤することにした。
 翌朝は、だが一人ですると思った以上に時間がかかり、あくせくしなければならなかった。洗浄機が動くよう準備してから、掃除機で階段を二階に上り、廊下、客室を掃除し、次にトイレ掃除をする。掃除が済み洗い場にはいったら十時半になっており、前夜の分の皿やコーヒーカップ、ナイフやフォークも多く、十一時になっても食事どころではないが、急いで食事を済ませ、下がってくる食器や調理道具も洗いかつ拭かねばならない。そうして収納だ。こういうことではたしてこれから続けていけるのか心配になった。
 だから十六時に上ってタイムカードを打ったときはほっとひと息ついた。
 営業は昼は十一時半から十五時半まで。夕食は十八時から二十四時までと分かり、岡本さんが上ったあと食器やナイフなどが多く戻るのだ。
 また会社は年末年始のほか休日はなく、従業員が交代に休むシフト制で、その出勤表が壁に貼ってあり、それを見て私も休日をとるよう岡本さんに教えられた。休日は一日で、朝ゆっくり起きて、家事などしたらたちまち終ってしまうのだった。それでも仕事をしているからこその休日の有難さを感じた。(つづく)

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2008年3月17日 (月)

「 辞める理由、続ける理由」(1) 麻葉佳那史

 フランス料理のレストランで掃除と洗い場の仕事を、アルバイトで勤めている。二千四年(平成十六年)八月二日にはいって、この八月で丸三年になる。よく続けてこられた、と思う。またこれからもひき続き働いてゆきたいものだ。
 一緒に働いていた人が数人、辞めていった。その人たちのことを振り返ってみたい。
 二千三年(平成十五年)七月末で、約三十年勤めた会社をリストラされた。五十六歳だった。それから失業給付を受けながら再就職活動をした。正社員で雇ってくれる会社を職安の端末で探す。
 翌二千四年(平成十六年)七月はじめの就職相談のとき、「正社員になろうとするのは困難です。パート、アルバイトでも厳しい。でもまだやや採用され易いです」といわれた。「そういうことは、もっと早くいってくれればいいのに、また若いのだから見つかります、とずっといっておいたくせに。なにも、一年経っていわなくても……」と言いたかった。しかし、いえないで、失業給付が今月はじめで打ち切りになるので、早く仕事を探さなくては、パート、アルバイトでもかまわないという、切実さの方に気持ちを向けている。そういう自分に腹を立てた。
 それで面接を四社受け、いまの職場の採用をもらうことができた。このときは嬉しかった。またほっとした。ようやく仕事ができる、そして収入を得ることができる、と。
 さてそれが求人票を見て、仕事は先に書いたが、時間給は千円、「その他の手当等付記事項」の欄に「食事付」とあるのが独身者としては魅力であった。
「就業時間」は選択になっており、「九時~十六時」と「十六時~二十時」とあるので、長く働ける前の方を選んだ。
 八月二日の月曜から働いた。その日、十時出勤といわれたので九時半ごろゆくと、ホール係の人が更衣室とロッカーを教えてくれ、そして作業着を渡してくれたので、下着の上に黒ズボンと白いコートを着た。上下共調理師さんと同じものだ。白いコートは地の厚い布地で長袖、ボタンはダブルの背広のようになっている。袖をまくり上げて洗い場に連れてゆかれた。掃除を終えてきた岡本さんを紹介され、仕事を教えられた。洗浄機を動かすための準備から始まり、皿をシンクに移し、水道の蛇口をひねって湯を出しながら液体洗剤をしみ込ませたスポンジで皿を洗いラックに並べ、ラックを洗浄機に入れ、機械が止まるとラックの皿にシャワーを浴びせてラックを出し、皿をタオルで拭く。そして皿をそれぞれの大きさや柄によって収納してゆく。(つづく)

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2006年8月17日 (木)

鶴樹の「肉体の変奏」-43-

「おお、どうしたんだ。ゴリラが変だぞ。博士、おとなしくさせろ」 鈴木が、あわてて叫んだ。モーリスが、由美をかばって、後ろにまわし、おれに銃口を向けた。どういうわけか。奴は由美にぞっこんらしい。

 椿博士は興奮に眼を光らせて、おれに言った。

「おい、銀太郎。この連中はわたしの研究を盗もうとしている。なに、かまうものか。こいつらを叩きつぶしてやれ。それ、いけ!」 おれは、しばし動かなかった。それから鈴木とモーリスを威嚇しながら、椿博士の喉に手を伸ばした。枯れ草より脆い椿博士の喉をしっかりと掴んだ。

「なにする。狂ったか。おまえ……」博士が苦しそうに、もがいた。

「おい、モーリス。博士を殺されたらまずい。 ゴリラを撃て。撃て!」と鈴木。

 ガーンという銃声が部屋に響き、脇腹に衝撃が走った。同時に、おれの腕に力が入り、椿博士の首の骨が砕けた感触が伝わった。彼の眼が飛び出し、鼻と口から血が吐き出た。

「くそ。博士を殺しちまったぞ。撃ち殺せ」

 鈴木は、自分も拳銃をかまえ、乱射してきた。胸に衝撃が走り、頬骨に弾丸が抜けた。左眼が見えなくなった。

 おれは両腕で顔をかばいながら、鈴木を追った。あわてた彼は、無駄撃ちをしすぎて、弾丸はもうなかった。そこで、外に逃げようと、玄関のドアの方へまわった。おれは、先回りしてドアの前に立ちふさがった。そして、鈴木を突き飛ばした。かれは大きな植木鉢にぶつかり、反動でもんどり打って床に倒れた。

 モーリスがそれを見て、発砲してきた。おれは今度は、モーリスに向かった。銃弾が腹と胸にめり込むのもかまわず、彼を腕で打ちのめした。床にふっとんだモーリスを見て、由美が悲鳴を上げた。全身がわなわなと震えている。

「やめて、殺さないで。誰も殺さないで。あなた、泰幸さんなんでしょう。あなたは、わたしのすることすべてを認めてくれたわ。誰よりも、わたしに優しかった。椿博士の言うことは、少しも当たっていないわ。お願いだから、もう一度わたしの言うことをきいて。これ以上誰も傷つけずに、逃げてちょうだい」

 おれは、脚を止めた。いつになく殊勝な言葉ではないか。由美がおれに望んだことの一つは、叶えてやれそうだった。血がおれの喉にあふれ、息苦しくなり、膝を折って、前にのめって倒れてしまったからだ。もう、誰とも戦えないし、傷つけることもない。だが、もう一つの逃げて欲しいという頼みはきいてやれそうもない。瞼の裏に暗い闇が広がりはじめたからだ。

                           (完)

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