2008年3月25日 (火)

「辞める理由、続ける理由」(9・完) 麻葉佳那史

 八月にはいって、配膳会から五十代の男性が夜担当ではいった。二十五年間、某一流ホテルで洗い場を勤めていたが、婚礼が激減してリストラされたという。
 九月には外国人用の職安の紹介で洗い場経験のある中国人の女性が夜担当ではいった。
 これでもう通しをすることはなくなった。
 ホール係の人が昼だけでも、というとき、自分の意志を通して辞めなかったのは、辞めて新らしいバイトが見つかるかどうか不安だったからだ。いままでその困難を身をもって体験し、こんど失業の日が続いたら失業給付が受けられないので生活ができなくなってしまう。
 失業していたころ、またバイトで働き出したころ、そして昼夜通しで仕事をしていたころ、夢見ていたのは早く住宅ローンを完済し、再び原稿を書きたいということだった。そのためにはいくらかの時間とかねのゆとりが必要だったのだ。その夢の一端がようやく実現できた。
 年金受給手続きの通知が届き、その金額の提示を見た時、バイトを続けざるを得ないと覚悟した。年金だけで生活をしてゆくにはあまりに少ない金額であり、また蓄えもないためだ。
 無料の就職情報誌をもらって、もうこの年齢では新しくバイトで雇ってくれるところのないのを知るだけだ。まれにあっても時給は少ないし、労働時間も短い。
 バイト先に不満がないでもないが、いって辞めるのもつまらない。昼食は摂れ、ホール係の人と仕事以外のお喋りをできるようになり、いくらか居心地がよくなってきた。
 健康に留意し、シフト制の休日を有効活用し、そうして一日でも長く働けていけたらと願ってやまない。
(注記)配膳会は客に料理を運ぶ人の他に、洗い場や調理補助などの仕事を登録して紹介する会社で数社あるようです。「ホール係の人」は一括して書いたが、洗い場のようすを主に書きたかったために、そうしました。ホール係の人も出入りが多く、洗い場に指示する人、その上司など、いままで数人が辞めているので、いちいちそこまで書いたら煩雑になるので省略しました。(2007年6月)。(文芸同人「砂」の会07年度「作品賞」受賞エッセイ)。

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2008年3月24日 (月)

「辞める理由、続ける理由」(8) 麻葉佳那史

 配膳会から五十代の女性が、土日祝日の手伝いに来てくれた。毎週同じ人なので、仕事が日を追って馴れ、昼と夜のあいだの休憩がやがてとれるようになった。また洗浄機に入れる皿類やナイフ等をのせるラツクのそののせ方の工夫をその女性が教えてくれた。いままでカレーショップや社員食堂などで働いていたとのことだ。
 休憩のときその女性は、「時給千二百円というから暇かなと思ってきたのに、この忙しさでは時給が安すぎる」と文句をいう。「私は時給千円ですよ」というと、「あなたは専属で、長時間働いているからいいの、わたしは臨時で来ているのだもの」とわかったようなわからないようなことをいう。
 そういうこともあり、疲れはさらに蓄積してゆく。
 その女性は平日の私の休日のときにも出勤するようになったが、病気で入院手術をし、退院して復帰してくれたが、体調が思わしくなく、ホール係の人が不親切だといって辞めた。入院まえと変りない仕事を望まれたのが回復期の体によくなかったようだ。
 配膳会から新しい女性が来てくれた。
 十一月になっていた。ホール係の人に今年いっぱいで辞めたいといった。後日、新年から昼だけでもしてもらえないかと提案されたので、受け入れた。
 十二月二十一日から二十五日のクリスマスの書き入れ時は、毎夜配膳会から別の人が来た。二、三十代の男女も来て、このような単発の仕事を転々としているという。フリーターの存在を知っていたが、実際一緒に仕事をすると、彼等の生き方に不安を感じた。
 新年になって大学四年の男性がバイトで夜を担当したが、三月初めに就職先が決まると辞めた。
 配膳会の女性が突然の病気で辞め、別の女性が来た。六十七歳の血色のよい人だ。
 再び忙しい日だけという条件で夜もするようになったが、いつか毎日になったので、七月にまた辞めたいというと、昼だけにしてくれた。(つづく)

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2008年3月23日 (日)

「辞める理由、続ける理由」(7) 麻葉佳那史

 火曜に出勤すると、「土曜に来た人から、もう来ないと電話があったのですが、よかったら新人が来るまで、昼夜通しでしてもらえませんか」とホール係の人に頼まれた。私は富田さんが来ないのはわかっていたので別になんとも思わなかった。それに昼夜通しの件については承諾した。
 昼だけではたいして疲れなかったし、夜もすれば収入も増え、また夕食も摂れる。いままで新人は早く来てくれたからそれまでの辛抱だとたかをくくっていた。
 二千一年(平成十三年)六月に、生れてから住んでいた鳥越の長屋の借家を引っ越し、蔵前のマンションに移った。住宅ローンを組み、早期退職金はすべてその返済にあてたが、まだかなりローンが残っていた。その返済と生活費を稼がねばならなかった。住宅ローンを組んだ時は、定年後は嘱託として給料は下っても働けるものと予定していた。リストラされるとは思ってもみなかったのだ。
 引っ越しの時、両親はすでに他界し、妹は嫁いでいて、私は一人暮らしなので身軽だった。
 昼夜通しになり、はじめはラクに感じたが、しだいにツラくなってきた。家は寝るだけ、休日は洗濯、掃除、炊事、そして晩酌で終った。脚がきつくなった。階段の昇り降りにらせん階段以外の場所には手摺りがない。緊張しているから脚をあげさげしていられるが仕事を終え外に出ると歩みがのろくなる。足裏が痛くなり、信号の所や駅で障害者用の突起の出ている箇所に万一そこを踏むと飛び上った。仕事場から電車の駅までゆるい上り坂になっているので、暗いまちをゆっくり歩いて行った。
 土日祝日の婚礼のある日は朝四時に起床するが、前の晩、仕事を終えて帰宅すると零時前後になるので寝る間がいくらもない。出勤の電車で仮眠をし、乗り越してしまったこともあった。
 だからといって時給はかわらない。朝六時ごろタイムカードを打とうと、また二十三時ごろ仕事を終えても割増給があるわけでもない。昼と夜のあいだに休憩のとれない日があろうと給料計算上では休憩をとったことになっている。そういうことを考えると、肉体の疲れのほかに精神の疲れがじわじわ背中にひろがってゆくのを感じた。(つづく)

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2008年3月22日 (土)

「 辞める理由、続ける理由」(6) 麻葉佳那史

二、三日して土曜日がきた。昼夜、婚礼のある日である。午前十時半ごろホール係の人が若そうな男性を連れて来た。「きょうあした一緒に通しでやり、月曜はこの人が通しでします。そして火曜からは夜を担当するので、この二日間でいろいろ教えてあげてもらいたい」といわれた。新人は富田ですと名乗った。
月曜は私が休みなので、かわりに新人がしてくれるという。
そこで富田さんに洗浄機の準備からはじまり仕事の流れを教えながら、一緒に作業をした。若いだけあって積極的に動いてくれた。
十五時を過ぎて一緒にトイレ掃除にゆくと、
「え、こんなことまでするの」と驚いていた。
 それを終えて洗い場に戻ると十六時で、もう従業員の夕食だ。食器と料理道具を洗って片付けていたら、披露宴の料理開始になる。
 富田さんが「休憩は?」と聞くので「もうスタートだから、休憩はない」と答えた。すると「そりゃおかしいよ、どこだって昼と夜の営業のあいだには最低でも一時間は休憩するものだよ。それがないだなんて、ああ、疲れたよ、いつになったら帰れるんだよ」と喚く。「九時ごろには終ると思う」と返事をする。「え、そんなにするの。疲れたよ。早く上ろうよ」という。若いように見えるが、じつはけっこう年をくっているのだろうか。それともいまどきの若い人は体力がないのかな、と考えながら、もう答えることばのないまま黙った。
 二十一時に洗い場を上り、更衣室に行った。着替えながら富田さんが「このような仕事をするのなら、もっといい店があります。百円の就職情報誌があって、そこにはいいところが紹介されてますから、そういう所に移ることをすすめます」といって急いで去っていった。四十一歳だと年齢をいって。それは私が五十八歳といったからだ。
 翌日、ホール係の人から富田さんはかぜで来られないと電話があったといわれた。また「月曜日は、富田さんが来るかどうかわかりませんが、麻葉さんは休日なので、休まれてかまいません」といってくれた。(つづく)

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2008年3月21日 (金)

「辞める理由、続ける理由」(5) 麻葉佳那史

 年が明け一月は客の少ない日が続いたが、二月になると土日は婚礼がはいっている日がある。従業員の昼食ののち披露宴の料理開始までの少し間のある時、安藤さんが、「こないだ、ナイフやフォークの拭きが甘いといわれて、洗い直すようにいわれたが、タオルが少ないからすぐ濡れちまってしょうがねえじゃねえかなあ」とぼやくので、「ほんとですね、私もいわれたんで、タオルを増やしてもらいたいっていったんです。そしたらホールで使う布を寄越したんですが、その布は地が厚いんで拭き辛いですよ」と同意のつもりでいった。すると「ホール係はわかってねえなあ、なんでも文句をいえばいいって思ってがる」と憤慨のようすだ。私はうなずいた。
 昼の仕事が終り、夕食までの休憩のとき、安藤さんは更衣室で休まず、外に出かけた。一時間でも気晴らしに歩いてくるという。少しのあいだでも建物内にいるのが鬱陶しくなったのだろうか。
 三月半ばになって、夜に立食パーティがある日、昼の仕事が済んで更衣室で休んでいると安藤さんが出勤して来た。「おふくろの具合が悪いんで、今夜、仕事ができないっていいに来たんだ。医者が親戚を呼ぶように、というから、どうなるかわからない」といい、部屋を出た。ホール係の人にその旨を伝えて帰るという。
 翌日ホール係の人が「安藤さん、来てくれますかね」と聞くから「さあ、わからないですね」と答えた。「でも、もう来ないんじゃないかなあ」と胸の内でいった。なにかそのような気がした。
 電話番で椅子をあたためていた人が、四、五時間から八時間の立ち仕事にかわったら体がよほどきつかろうと想像できた。ましてや六十歳になってからではなおさらだろう。
 母親がいい口実になった。
 それにしてもナイフやフォークの拭きの甘さを指摘されたことが、安藤さんの中で強く響いたのだとすれば、私にいわなかったか、聞き流してしまった不満がもっとあったのかも知れない。約六か月の勤務ががまんの限界だったのだろうか。(つづく)

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2008年3月20日 (木)

「辞める理由、続ける理由」(4) 麻葉佳那史

「岡本さんが、ホール係の人が命令ばかりだというのは分からないでもないです。私にだって仕事の件のほか、いまはなにも言わないから。岡本さんは仕事のことのほかの会話をしたうえで、心の流れをつくって、それで仕事の命令を、というのはだれもそうしてもらいたいのかも知れない。
 でもいわせてもらえれば、出勤したとき黙ってはいってくるし、年齢のホール係の人たちは二十代からせいぜい四十代で、彼らにすれば話しずらいのではないのですか。仕事以外の会話を望むのは、こっちから共通するような話題を振らないと無理かも知れませんよ」
 私は喋ろうとしてじつはなにも言えず、ただ煙の流れを眺めながら、胸の内で話しかけているのに過ぎなかった。
 十月にホール係の人から岡本さんが十五日で辞めるが、新らしく次の人がはいるから心配しないようにいわれた。
 シフト表は十六日から翌月十五日までで、それが給料計算の基にもなっていた。支給は二十五日に銀行口座にはいる。明細書はその日ぐらいにシェフから渡される。
 新人はすぐにはいった。安藤さんという六十歳の男性だ。バス一停留所だけ乗ってくるという近さからくるという。約一時間かけてくる私には羨ましい限りだ。新聞販売店に勤めていたが定年で辞めた。はじめは配置を自転車やオートバイでしていたが、この一、二年はもっぱら電話番をしていたようだ。岡本さんと違って挨拶はきちんとするし、まわりの人びとに客の状況を尋ねて、仕事の段取りをつけてゆく。皿類の収納場所も懸命に覚えようとしている。よい人が来たとよろこんだ。奥さんと九十八.九歳の母親と三人暮らしで、こどもはいないという。
 やはり土日の婚礼のある日、馴れてきて休憩のとき、そのころは外気が寒くなってきたので更衣室で休んだ。安藤さんはたばこを吸いながら話した。
「家にいても体がナマってしまうから働こうと来たが、いゃあ忙しい所だね」というので「体がきつくてたいへんでしょう」と慰めるともなくいうと、「いゃあ、これぐらいたいしたことないさ」と強がりをいう。(つづく)

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2008年3月19日 (水)

「辞める理由、続ける理由」(3) 麻葉佳那史

 九月になると土日祝日は婚礼があり、そういう日は昼夜を通して岡本さんと一緒に仕事をした。私は朝六時十五分ごろ出勤し、まず二階の客室から掃除をする。新郎新婦や両親、親戚の方々の化粧や着替えの室となり、広いバーラウンジは式がはじまるまえの招待客の控え室になるのだ。それから洗い場にはいる。岡本さんは十時四十五分ごろやってくる。十一時から従業員昼食になり、十一時半ごろから披露宴の食事開始になる。
 十五時ごろ私はトイレ掃除にゆき、岡本さんが洗い物の残りをする。そして十六時から従業員夕食である。十五時から十六時の一時間が休憩なのだが、馴れないうちは休憩もとれずに働き続けなければならない。二十一時に終ったとして、約十五時間、立ち働きをすると、さすがにぐったりと疲れる。
 それでもやがて馴れてくると、休憩がとれるようになる。ゴミ置場が休憩場所で、まだ暑さを含んだ風をうけながら、岡本さんはたばこを吸う。はじめ話をしているが、私は疲れて首がまえに垂れる。
 岡本さんは、「ホール係の人は命令ばかりするだろ、だがおれは自販機でもロボットでもない。なぜ、ふだんの会話もしないで、仕事のことしかいわないのかな。それがいやでしょうがないよ」と不満をいう。私は、はいったばかりなので仕事を覚えるのにいっぱいである。「はいってどのくらいになるんですか」と聞くと、「去年の十月にはいったから、もうすぐ一年だよ」と答えた。「私は五十七歳ですが、岡本さんは?」「おれは五十五だよ」「同じ五十代だし、一緒に仕事をしているから話が合うんですね」
 岡本さんはいぜんどのような仕事をしていたのか、と考えた。じつは岡本さんの出勤は、私が仕事をしていると、ぬうとまわりの人たちになんの挨拶もなくはいってくるのだ。この職場ではその日、出勤すると時間帯に関わりなく「おはようございます」と互いに言い合っている。ところが岡本さんは無言なので、私がシンクで皿をスポンジで洗いラツクに並べ、洗浄機に入れ体を動かすと、そこに岡本さんがいるので慌てて、「おはようございます」というと、「やっ、おはよう」と返事をくれる。そこでまえの職場でもそのように無言でもよかったのかな、と推察したのだ。私のいぜんの職場では「おはようございます」といいかわしていた。(つづく)

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2008年3月18日 (火)

「 辞める理由、続ける理由」(2) 麻葉佳那史

 岡本さんに十六時まで教えてもらいながら一緒にできるのかと思っていたら、十時半ごろホール係の人が岡本さんに上るようにいい、あとは私一人になった。岡本さんは夜担当なので十六時ごろ再び出勤するといって帰って行かれた。
 十一時から従業員の昼食がはじまる。プラスチック製の皿や椀などが戻り、また調理道具の鍋やボール、おたまなどが来、それらを洗う。洗っているうちに、客の前菜の皿や銀製のフォーク、スプーンが来る。営業が始ったのだ。
 額に汗をためて作業をし、食器や道具の収納場所をホール係の人に聞きながら片附ける。段差の多い床のうえに、高所にある棚もあって、いちいち椅子や台に乗らねばならない。
 従業員通用口をはいると、そこは地下一階で、客用正面玄関が一階にあり、調理場は一階にあるが、その一階も平坦ではない。
 皿を収納する場所を探すのと歩くのとの両方に緊張させられる作業だ。
 だが失業の一年間、交通費を浮かそうとなるべく歩いていたので、脚にはやや自信があった。
 十六時ごろ、ホール係の人に呼ばれ、翌朝出勤してからの仕事の順序を教えられた。それからタイムカードを打って上った。たいして疲れていない。前の会社では倉庫で入出庫作業で動きまわっていたので、それがよかったようだ。
 翌朝の仕事のことを考え、八時半ごろ出勤することにした。
 翌朝は、だが一人ですると思った以上に時間がかかり、あくせくしなければならなかった。洗浄機が動くよう準備してから、掃除機で階段を二階に上り、廊下、客室を掃除し、次にトイレ掃除をする。掃除が済み洗い場にはいったら十時半になっており、前夜の分の皿やコーヒーカップ、ナイフやフォークも多く、十一時になっても食事どころではないが、急いで食事を済ませ、下がってくる食器や調理道具も洗いかつ拭かねばならない。そうして収納だ。こういうことではたしてこれから続けていけるのか心配になった。
 だから十六時に上ってタイムカードを打ったときはほっとひと息ついた。
 営業は昼は十一時半から十五時半まで。夕食は十八時から二十四時までと分かり、岡本さんが上ったあと食器やナイフなどが多く戻るのだ。
 また会社は年末年始のほか休日はなく、従業員が交代に休むシフト制で、その出勤表が壁に貼ってあり、それを見て私も休日をとるよう岡本さんに教えられた。休日は一日で、朝ゆっくり起きて、家事などしたらたちまち終ってしまうのだった。それでも仕事をしているからこその休日の有難さを感じた。(つづく)

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2008年3月17日 (月)

「 辞める理由、続ける理由」(1) 麻葉佳那史

 フランス料理のレストランで掃除と洗い場の仕事を、アルバイトで勤めている。二千四年(平成十六年)八月二日にはいって、この八月で丸三年になる。よく続けてこられた、と思う。またこれからもひき続き働いてゆきたいものだ。
 一緒に働いていた人が数人、辞めていった。その人たちのことを振り返ってみたい。
 二千三年(平成十五年)七月末で、約三十年勤めた会社をリストラされた。五十六歳だった。それから失業給付を受けながら再就職活動をした。正社員で雇ってくれる会社を職安の端末で探す。
 翌二千四年(平成十六年)七月はじめの就職相談のとき、「正社員になろうとするのは困難です。パート、アルバイトでも厳しい。でもまだやや採用され易いです」といわれた。「そういうことは、もっと早くいってくれればいいのに、また若いのだから見つかります、とずっといっておいたくせに。なにも、一年経っていわなくても……」と言いたかった。しかし、いえないで、失業給付が今月はじめで打ち切りになるので、早く仕事を探さなくては、パート、アルバイトでもかまわないという、切実さの方に気持ちを向けている。そういう自分に腹を立てた。
 それで面接を四社受け、いまの職場の採用をもらうことができた。このときは嬉しかった。またほっとした。ようやく仕事ができる、そして収入を得ることができる、と。
 さてそれが求人票を見て、仕事は先に書いたが、時間給は千円、「その他の手当等付記事項」の欄に「食事付」とあるのが独身者としては魅力であった。
「就業時間」は選択になっており、「九時~十六時」と「十六時~二十時」とあるので、長く働ける前の方を選んだ。
 八月二日の月曜から働いた。その日、十時出勤といわれたので九時半ごろゆくと、ホール係の人が更衣室とロッカーを教えてくれ、そして作業着を渡してくれたので、下着の上に黒ズボンと白いコートを着た。上下共調理師さんと同じものだ。白いコートは地の厚い布地で長袖、ボタンはダブルの背広のようになっている。袖をまくり上げて洗い場に連れてゆかれた。掃除を終えてきた岡本さんを紹介され、仕事を教えられた。洗浄機を動かすための準備から始まり、皿をシンクに移し、水道の蛇口をひねって湯を出しながら液体洗剤をしみ込ませたスポンジで皿を洗いラックに並べ、ラックを洗浄機に入れ、機械が止まるとラックの皿にシャワーを浴びせてラックを出し、皿をタオルで拭く。そして皿をそれぞれの大きさや柄によって収納してゆく。(つづく)

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2006年8月17日 (木)

鶴樹の「肉体の変奏」-43-

「おお、どうしたんだ。ゴリラが変だぞ。博士、おとなしくさせろ」 鈴木が、あわてて叫んだ。モーリスが、由美をかばって、後ろにまわし、おれに銃口を向けた。どういうわけか。奴は由美にぞっこんらしい。

 椿博士は興奮に眼を光らせて、おれに言った。

「おい、銀太郎。この連中はわたしの研究を盗もうとしている。なに、かまうものか。こいつらを叩きつぶしてやれ。それ、いけ!」 おれは、しばし動かなかった。それから鈴木とモーリスを威嚇しながら、椿博士の喉に手を伸ばした。枯れ草より脆い椿博士の喉をしっかりと掴んだ。

「なにする。狂ったか。おまえ……」博士が苦しそうに、もがいた。

「おい、モーリス。博士を殺されたらまずい。 ゴリラを撃て。撃て!」と鈴木。

 ガーンという銃声が部屋に響き、脇腹に衝撃が走った。同時に、おれの腕に力が入り、椿博士の首の骨が砕けた感触が伝わった。彼の眼が飛び出し、鼻と口から血が吐き出た。

「くそ。博士を殺しちまったぞ。撃ち殺せ」

 鈴木は、自分も拳銃をかまえ、乱射してきた。胸に衝撃が走り、頬骨に弾丸が抜けた。左眼が見えなくなった。

 おれは両腕で顔をかばいながら、鈴木を追った。あわてた彼は、無駄撃ちをしすぎて、弾丸はもうなかった。そこで、外に逃げようと、玄関のドアの方へまわった。おれは、先回りしてドアの前に立ちふさがった。そして、鈴木を突き飛ばした。かれは大きな植木鉢にぶつかり、反動でもんどり打って床に倒れた。

 モーリスがそれを見て、発砲してきた。おれは今度は、モーリスに向かった。銃弾が腹と胸にめり込むのもかまわず、彼を腕で打ちのめした。床にふっとんだモーリスを見て、由美が悲鳴を上げた。全身がわなわなと震えている。

「やめて、殺さないで。誰も殺さないで。あなた、泰幸さんなんでしょう。あなたは、わたしのすることすべてを認めてくれたわ。誰よりも、わたしに優しかった。椿博士の言うことは、少しも当たっていないわ。お願いだから、もう一度わたしの言うことをきいて。これ以上誰も傷つけずに、逃げてちょうだい」

 おれは、脚を止めた。いつになく殊勝な言葉ではないか。由美がおれに望んだことの一つは、叶えてやれそうだった。血がおれの喉にあふれ、息苦しくなり、膝を折って、前にのめって倒れてしまったからだ。もう、誰とも戦えないし、傷つけることもない。だが、もう一つの逃げて欲しいという頼みはきいてやれそうもない。瞼の裏に暗い闇が広がりはじめたからだ。

                           (完)

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2006年8月15日 (火)

鶴樹の「肉体の変奏」-43-

 おれは、椿博士をみつめた。だぶついた白衣に、前かがみになった姿勢。小刻みにふるえる身体。血管の浮きでた皺だらけの腕。最高の頭脳を自負する。最低の肉体。どんなに知能を誇ろうとも、頭脳もまた肉体の一部なのだ。椿博士は、あまりにも頭脳や知能を買いかぶり過ぎてはいないか? 老いぼれて、憂欝病にとりつかれたその姿は、何かに復讐された邪悪な動物のようだ。

 たしかに、人間でいるときのおれは、ろくな奴ではなかったかも知れない。だが、無意味、無価値とは思わない。おれが役立たずな人間だとしても、大きなお世話だ。それこそ、おれはお前らの注文でつくられた料理ではないのだ。他人の道具でもない。お前らの都合にあわせて、価値を決められてたまるか。エリート面もいいかげんにしろ。おれが、この世に生まれた意味や価値など誰にもわからない。分からないでいいのだ。しかも、そんな奴だって何百年も生きて、この世に迷惑をかけるわけではない。いずれは自然の摂理で土に埋められる運命なのだ。そんなはかないものに価値づけをしたからといって、どうなるものか。おれの全身の血が駆けめぐり、そう叫んでいた。

 デラ夫人だってきっと、それまでの研究者としての人生をゴリラになってまで続けたいとは思っていなかったのではないか。椿博士はこうした人間の気持ちが判らない。奴が何に苦しもうが、おれの知ったことか。死ぬまで憂欝症に苦しんだらいいのだ。当然の報いだ。

 そう考えると、腹の底から怒りが込み上げてきた。突然、喉が震えた。咆吼が出た。知らず胸をたたき、ポコポコというドラミングをしていた。

「おお、どうしたんだ。ゴリラが変だぞ。博士、おとなしくさせろ」 鈴木が、あわてて叫んだ。モーリスが、由美をかばって、後ろにまわし、おれに銃口を向けた。どういうわけか。奴は由美にぞっこんらしい。

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2006年8月12日 (土)

鶴樹の「肉体の変奏」-42-

「デラ夫人が死んだ? どういうことだ。召し使いをつくるほど、準備をしていたのに」

 椿博士はファイルの頁を繰ると、そのなかからワープロで打った英語のメモを示した。

 鈴木はそれに眼をやった。

「なんだ? これは遺書じゃないか」

「なんて書いてあるの? 」と由美。

 鈴木がそれを読み上げた。

「私は、自分の意思で、死を選ぶ、そういう意味だ。要するに、自分が死んだのは、事故や不注意ではなく、自殺であるというメッセージだ。なんでだろうな。彼女は飛び降り自殺でもしたのか?」

「いや、二月の渓流に身を投じて、凍死していたのだ」椿博士の声は悲嘆に暮れ、押し潰されていた。

「理由は?」

「わからん。わからんのだ」吐き捨てるように博士が答えた。

「変だな。デラ夫人はあなたの頭脳交換手術法を成功に導き、それを自ら確認し検証できたはずだ。これから、どれだけその応用技術が発達させられるか、無限の可能性がある。素人のわたしにだって、そのくらいは判る」

「そうなのだ。それなのに彼女は、手術後わたしの呼びかけを無視し、瞑想にふけるようになった。その姿には威厳がないでもなかったが、それでは本当のゴリラそのものだ。わたしは、手術がどこかで失敗し、デラの知能が破壊されてしまったのだと思った。

 だが、実際はデラは何かの考えにとりつかれ、沈黙を押し通していたらしい。そして、自殺したのだ。自分で発明した第二の生命を否定したのだ。すべてが無に帰する結果を選んでしまった」博士は今にも泣きだしそうになり、息をついた。「そんなことはすべきではなかった。そうではないかね? それは、営々として築いてきた、わたしの研究に対する裏切り行為なのだ」

 話しているうちに、悲しみが憤りに変わったようだ。

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2006年8月10日 (木)

鶴樹の「肉体の変奏」-41-

「何を言っているの……? あの人がゴミのように無価値だとでもいうの。あんた、おかしいわよ。気がつかなかったわ。このじいさん、おかしいわよ。ぼけているの?……」

 由美が叫んだ。

「うるさい。この博士の言うことは一理ある。おい、モーリス。この女を黙らせろ」鈴木が苛立って言った。

「事のいきさつは判った。それじゃ、博士よ、最高の頭脳をもったゴリラ、デラ夫人に会わせてもらおうか。彼女は何処に居るのだ? もうそろそろトラックが来る頃だ。それを使って皆を移動させる」

「そうはいかない。彼女は死んだよ。頭脳交換の技術は、門外不出だ。オードリン博士がこの資料を入手しても、われわれのレベルに達するには4、5年はかかるだろうな。肝心なところは、わたしの頭の中にある。彼の動機は不純だ。見そこなっていたよ」椿博士は、急に不機嫌になった。

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2006年8月 7日 (月)

鶴樹の「肉体の変奏」-40-

「聞こえは悪いが、そんなところだ。生田目という男は、ほかの病院をタライまわしにされて、死んで運ばれてきたのだ。わたし以外に誰も彼を助けようとはしなかった。いや、ほかの医師では助けられなかつたろう。かれの生命はわたしのものだ。捨てられた物を拾ったのだ。だいいち、彼がこの世に居なくなって、誰が困るというのかね」

博士は唇を醜くゆがめて、苦笑いをした。

「この男は、金のあるのが取り柄の俗物だ。高級車を乗りまわすしか他に能がないのだ。女をかかえて、威張りくさって、高いレストランに出入りする。なぜ食事をするのに、高いレストランでなければならないのか。理由は言うまでもない。金の価値が、本人の価値だと他人が錯覚してくれるのを、期待しているのだ。無理もない。実際、世間というものは、額に札束を貼り付けて歩く人間を尊敬するからね」

 そこで博士は、復讐心が満たされたような表情になった。

「そうではないかね。生田目君の元夫人。あなた彼に金があったから結婚した。その彼は、遺産目当ての親族からは、死ぬことを望まれているだけの人間だったのだろう。実にこの世界には、そんなやつが、掃いて捨てるほどいる。彼はまったく無意味な連中のひとりだった。……それにくらべて、私の家内はどうだ。デラは世界でたった一人の、かけがえのない存在だ。彼女の頭脳とひらめきは、人類の財産なのだ。生田目君はかつては無価値な人間の肉体だったが、デラの存在を支えることで、人類科学の向上に貢献できるはずだった。その当時より、今のほうがよっぽど人間的で、尊厳のある生活をしているのだ」

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2006年8月 5日 (土)

鶴樹の「肉体の変奏」-39-

「では、マダム・クレバーは今どこに? まさか、森のなかで自活しているわけでもないだろうに……」

 鈴木が、けげんそうに尋ねた。

「そうだったらいいのだがな」博士はため息をついた。

「その後、移植に成功したことはしたのだが、手術の後のデラは体調がすぐれず、拒絶反応制御薬の副作用に悩まされていたのだ。……。しばらくは介護する者が必要だ。わたしはもう歳をとりすぎていて、それが充分できない。彼女は体重が百キロ近いのだ。また、場合によれば、彼女を残して、わたしが死んでしまうかも知れない。それも心配だった。……その頃、近くで自動車事故が起きた。三十歳代の若い男が、救急車で運ばれてきた。その時はショック状態で心臓が止まっていた。死んでいたのだ。ところが、わたしの蘇生治療で、偶然というか、奇跡的というか、とにかく生命はとりとめた。……そこへ、たまたま君たちがゴリラの密輸入に使った業者が、雄のゴリラを売り込んできた。そこで、決断したのだ。デラのために、護衛というか、共生というか、協力し合えるゴリラをつくろうとな」

「それじゃ何よ。泰幸さんをゴリラにしたのは、メスゴリラの召し使いにしようとしたわけ?」

 由美が悲痛な声を上げた。

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2006年8月 3日 (木)

鶴樹の「肉体の変奏」-38-

         10

 ところが、それにまして驚いたのは、背景になっている部屋のことだった。がらんとしたフローリングの部屋。椅子のない机が隅にある。その上にはワープロが置いてある。それは、いまおれが使っている三階の部屋そのものだ。写真の日付を見ると、六月から七月にかけての時期だ。

「それ、どこにあった? 紛失してしまっていた。それで探していたのだ」

 椿博士は重くなった口をやっと開いた。博士は習慣で、書き上げた書類を次々と積上げる。さらに、その上に物を置く。そんなことだから、いつも探し物をしている始末だ。これも書類の間に落とし込み、見付けられなくなっていたのだろう。

「これは、家内のデラなのだ」

 と、愛しげに写真を指でなでた。

「ほんとうに聡明な女だった。科学者としても、わたしより優れていたくらいだ」博士は声をつまらせていた。

「ということは? やっぱり、そうか。オードリン博士の見ぬいたように、頭脳交換はとっくに成功させていたのだな」

 鈴木が感嘆したように声を上げた。

「いまさら、嘘はいわんよ。われわれ夫婦は、細胞の遺伝子と免疫特性をマッチングさせる細胞融合法を発見した。家内がアイディアをつくり、わたしが実用化させた。それまでは、わたしの着眼で実験をしていたのだが、ことごとく失敗していた。そうした行きづまりを打開する発想力はデラは天才的だった。生物学者であった彼女は、わたしの助手として忠実なあまり、その優れた才能に、自分でも気づかなかったのだ。

 彼女はその頭脳に多くの可能性を残しながら、肉体を癌に侵されてしまった。もうすこし期間があれば、癌細胞など撃退できるのが判っていながら、実用化が間に合わなかったのだ。……とにかく、わたしは彼女の心と彼女の頭脳を愛した。失うにはあまりにも惜しかった。デラの病状が最悪の事態になったとき、わたしは、彼女の肉体を諦め、そのかわりあなた方が、支給してくれたマダム・クレバーという牝ゴリラに頭脳を移植したのだ。彼女の研究が、その優れた頭脳をこの世に残したのだ。それはまさに私達の研究の勝利だった」

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2006年8月 1日 (火)

鶴樹の「肉体の変奏」-38-

 鈴木の額には汗が吹きでていた。あれこれ、戸棚をさぐっていたらしい。

「思ったとおり、訳のわからない資料がわんさとあるぞ。さっきトラックを手配しておいた。全部積み込め」鈴木はモーリスに命じた。「全部を、か?」モーリスが訊いた。

「そうだ。道具でもなんでも、できる限りオードリン博士にわたすんだ。向こうは、専門家だ。いらなきゃ捨てればいい。おい、それから、椿博士をよく見張っていろよ。……とんでもない、じいさんだ。洞穴に人骨がごろごろしてやがる。幾人、実験で殺しているかわかりゃしない。頭がおかしいのかも知れんぞ」

「へえ、そりゃ、ゴリラの骨じゃないのか」

「ばか。骨の大きさがちがうわ。おれだって、そのくらいわかる。だいち、ゴリラの骨は隣の穴にきちんと整理して、分別してあるんだ」

 いやに、長く居たと思っていたら、相当丁寧に地下を調べていたらしい。そのことはおれも気付かなかった。

 由美は、ソファに腰掛けて、ファイルのベージを繰って、じっくり見比べている。ときどき顔を上げ、おれの方を見、またファイルに眼をおとす。気分が悪いのかハンカチを口元にもっていったりする。

「あった。これだわ」由美がファイルの一頁を見て叫んだ。

「あったか。そら見ろ。ひとの言うことを信じないやつだな。これで判ったろう」

 おれは由美の頭越しに、そのファイルを覗いて見た。由美は興奮で手がふるえており、おれのことは眼中になかった。

 ファイルにあるのは、おれが手術台にのせられている写真だった。日付が十月五日から、日を経て記録されている。上からや、横から写したのなど、十数枚。いずれの写真も裸体である。胸や肩に黒い痣や、切り傷があるが、手や脚は普通に付いている。それが、赤いマーカーで、首から下の胴体を分断する線を引いた写真にかわる。あと、まるでマネキンを分解するように、切り離されていくおれの肢体―。悪魔の仕業というしかない。

「どうしてこの状態の泰幸さんが、あんな首だけの、姿になってしまったの?」

 由美が、半信半疑の様子で椿博士に訊く。

「これには世間には判ってもらえない事情があるんだ……」

 椿博士はむっつりした顔で、それしか言わない。

「こっちの写真は、ゴリラだ。これはここにいるゴリラより小さいようだぞ。何だね。これは?」

 鈴木が、別のファイルを博士につきつけた。博士はしばし無言でそれを見つめていた。確かにそこには一頭のゴリラが、幾枚も写されていた。ゴリラはいかにも、もの悲しげ天を仰いだり、力なく、うなだれたりしている。壁に向いて寝転び、顔だけカメラに向いたのもある。うらめしげな、その眼。どの姿態からも苦悩する心情が滲み出ていた。このゴリラ、まちがいなく人間の心を持っていると思えた。

 だが、それは鈴木の言ったように、おれではない。小柄だし、背中に銀色のシルバーバックもない。おそらく牝のゴリラだろう。

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2006年7月28日 (金)

鶴樹の「肉体の変奏」-37-

「KQテレビ局が、銀太郎の特集を組むために、事前打合せをやりたい、と言ってきた。急ぐので今日の夕方に来るかも知れんと言ってたな」

「なんで、もっと強く断らないんだ。くそ、事を急ごう。モーリスその女をよこせ。地下室へ案内させるんだ」

「わたしだって、一、二度来ただけよ。でも、泰幸さんが、ゴリラになったなんて信じられない」

 鈴木は、由美の頭を小突き、引き立たせながら地下室へ入っていった。どうも、由美を殴ったのは、鈴木らしい。モーリスは見張りに残された。ちらちらと地下室への入口を見ている。由美のことを気にかけているのだろう。

 おれにしてみれば、奴らの銃の脅しなどは少しも怖くなかった。至近距離なら、腕の一振りで彼らの首根っこをへし折るのは簡単だ。だが、もっと彼らの情報が欲しかった。おれがこんな目に会っている裏には、どんな陰謀があるのか、知る権利がある。椿博士はおれに一面的なことしか教えてくれていない。

 由美と鈴木はおそらく、地下室のさらに下に部屋があるのを見つけるだろう。薬品収納戸棚の裏に階段があるのだ。椿博士もそう思っているらしく落ち着きがない。

 研究所のなかの騒ぎをよそに、窓の外にはのどかな春の陽が射しはじめていた。

 樹木の若葉が風に揺れ、光って見えた。

 ただでさえ眠気をもよおすような昼の光景であった。おれの頭の奥に、深い森の緑が蔽いかぶさってきた。眼の裏に濃い霧がまわりこみ、全身がそれにつつまれる。このところ昼間に一回は睡魔が襲ってくる。これは脳がゴリラの肉体に侵食されている兆候なのか。ふだんの時なら、睡魔に抵抗できず、意識は霧のなかに沈んでいくところだ。

 だが、今はそんな場合ではない。おれは、必死に眠気をこらえた。 鈴木が、地下室の階段から上がってきた。由美は厚いファイルを抱えて、後ろからついてきた。顔色が蒼ざめている。

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2006年7月25日 (火)

鶴樹の「肉体の変奏」-36-

 口元が自由になった由美は、大きく深呼吸した。

「手も自由にしてよ。歩いたら転びそうだわ。いまさら、逃げもかくれもしないわよ。ミスタ、モーリス」つんけんとした口調だ。

 モーリスは、軽く鼻をならした。由美に掛けてあったコートをとってやり、後ろ手に縛った紐をほどいた。それから、彼女の手首をマッサージしてやっている。

「ばか。なにをしているんだ、モーリス。こいつ等を連れて地下室へ行こうじゃないか。お前はゴリラを見張れ」

「由美がトイレットだと言っている。それを済ませてからだ。車のなかに長く居たからね。仕方がないよ」

「くそっ。はやくしろ」

 そう言ってから鈴木は、椿博士のデスクのところに行き電話を使いはじめた。英語である。意味がとれない。トラックとかフライト・スケジュールとか、トーキョウ、アツギなどの地名が話の合間に入っている。

 由美は黄色いブラウスに、赤いスカートという派手な格好だった。身をひるがえして、応接セットの背後の洗面所に入った。ドアを引きながら、青痣のある眼でちらりとおれの方を見た。困り切ったような、いまの出来事が信じられない、といった顔だった。

 電話が鳴った。椿博士が出ようとしたが、鈴木がそれをおさえて、受話器をとった。受話器を耳に当て、やがて黙って切ってしまった。「相手は誰だったのだ?」

 椿博士が訊いた。

「なんだか、テレビ局の水井とかいっていた。そんなもの。どうでもいい」

 すると、また電話が鳴った。

「出ないと、変に思われるぞ」と椿博士。

「いま、たて混んでいると言え。なんでもいいから、断れ」鈴木は椿博士に銃を突きつけて言った。

「いま、お客が来ているのだ。何の用だね。次の放送の打合せ? それなら明日にしよう。明日なら大丈夫だ。ああ、いいとも、動物学者でも誰でも、連れてきていいさ。だから、今日はだめだ。もしー。もしもしーー」

 向こうで切ったらしい。椿医師は、電話を終わらせた。

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2006年7月22日 (土)

鶴樹の「肉体の変奏」-35-

 女は離婚した妻、由美だった。眼の下から頬にかけて青黒い痣ができている。殴られたのだろう。おれと由美の関係をよく調べたものだ。連中は、かなり大かがりな組織の一員らしい。由美が傷つけられたのは、おれとの秘密の約束を守ろうと、自分の見た事実を言うのに抵抗したためだろうか。どういう訳か、おれの胸に熱いものが胸に込みあげてきた。

だが、今は事の成り行きを見るしかない。おれはこらえた。

「彼女は生田目泰幸の妻だった。ここで、彼に会ったことを教えてくれたよ。椿博士、彼女を知らないとは言わせませんよ。彼女は頭部だけの生田目泰幸と話しをしている。あれは頭脳交換をするまえに、細胞の免疫力を調整する段階らしいな。オードリン博士がその仕組みを教えてくれたよ。われわれは、知っているのだ。そこにいるゴリラが、生田目泰幸だということをね」

 鈴木はおれを指差し、さらにこう言った。

「おい、君の身体は事故の時は、たいした怪我ではなかったはずだぞ。そのことを知らないだろう。椿博士はな、意識不明の君を頭脳交換の材料に利用したのだ」

「ばかを言うな。わたしはそんなことをするわけがない」

 椿博士が振り向いて言った。

 これは、どういうことだ。まったく、何が問題なのだろう。それに、どっちが本当のことを言っているのか、わからない。しかし、これではゴリラがおれであることを白状したことになる。鈴木が、してやったり、という顔をした。

「よし、いいだろう。これではっきりした」鈴木が満足げに言った。「それじゃ、どのように脳移植の手術をしたのか、その記録を出してもらおうか。椿博士」

 鈴木はコートのポケットから拳銃をとり出し、椿博士の胸元に突きつけた。小型のピストルだ。

「地下の手術室の本棚にデータがたくさんある。それを由美が知っていた」

 モーリスが、流暢な日本語で言った。そして、由美の口をふさいでいたガムテープをむしりとった。

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2006年7月20日 (木)

鶴樹の「肉体の変奏」-34-

          9

 このところ、ぼんやりしがちな、おれの頭では、なかなかややこしい話だった。

 椿医師。いや、椿博士はおれに何も教えてくれてはいなかった。オードリン博士というのは何者だ。南アフリカといえば世界で最初の心臓移植が実行された国だ。生体実験がやりやすい環境でもあるのだろうか。いずれにしても、おれは、彼らの陰謀に巻き込まれた

ものらしい。いままで、おれはゴリラの肉体を借りることで、延命されたと思っていた。しかし、ここにいる連中は、そんなことは問題にしていない。彼らはゴリラと人間との頭脳交換の技術だけを問題にしているらしい。

 頭脳の交換だって? ゴリラと人間の交換が可能ならば、人間同士の交換も可能なはずだ。これは考え過ぎだろうか。南アフリカ。アパルトヘイト。黒人と白人の対立。黒人大統領の誕生。いや、それだけではない。中近東や東アジアの独裁者たちに敵意を持つ大国が、これら国家指導者の頭脳交換を秘密裡に実行しようという連中がここにいたとしたら──。いや、どこ国であろうとも権力者の失墜を計るやつはいる。そういう連中なら、この技術を高く買うにちがいない。

 そんなことを思いめぐらせているうちに、鈴木という男が、押し問答にしびれをきらせ、声を荒げてはじめた。

「うそだ。椿博士。どこまで、しらをきるつもりだ。わたしだって、いつまでも甘い顔をしている訳にもいかないんだ。おい、モーリス。あの女を連れてこい」

 モーリスは、外に出た。車にもどると、後部座席から、白いコートに全身を包んだ小柄な女を連れだした。雨は上がり、薄日が濡れた道路を照らしていた。

 モーリスが抱えるように、連れてきた女は、口にガムテープを張られていた。コートのなかでは後ろ手に縛られているようだった。身を反らせ、見開いた眼でこっちを睨んでいる。その眼をみてそれが誰かわかった。

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2006年7月17日 (月)

鶴樹の「肉体の変奏」-33-

 鈴木が目を大きくして、反論した。

「あなたは、われわれとの契約をまったく無視している。生体臓器交換の基本技術をオードリン博士から伝授されながら、あなたが開発した実用化技術を教えようとしない。完全なものでなくてもよいのだ。これ以上、この研究が外部に知られたら、あなたも命を狙われますよ。すでにヨハネスブルグには秘密組織の奴らが来ているそうだ。CIAやKGBくずれの連中もそのうちに嗅ぎつけてくるのは時間の問題になってきた」

「KGBだのCIAだのと何を時代遅れなことを言っておるのだ。もう冷戦時代は終っているのに。そんな話は脅かしにもならん」

「とんでもない。彼らは、企業秘密や先端技術の情報を各国に売り込み、以前より活発な活動をつづけているのだ。とくにCIAはこの技術を、喉から手が出るほど欲しがるだろう」

「だれが欲しがろうと、生体交換の実用化はオードリン博士や、わたしでもまだ成功させていない。その資料は、すべてIASAに提供してあるさ。君たちは、勘ぐりすぎだよ」

「椿博士。そこまで、言い切るのなら、あなたの奥さんの最後の手術の記録をIASAに提出して欲しい。それをいま、ここで受け取りましょう。……それと、昨年この近くで、乗用車の転落事故がありましたね。運転していたのはは生田目泰幸という男だ。この男が

あなたの医院で治療を受けたきり消息不明になっている。彼はいま、どうなっているのか? 事故後の手術経過と現状を報告しなさい」

「なんで、そんなことを……。あの男は回復して、とっくに退院している。どこでなにをしているかなどまでは、知らん」

 椿医師は、うわずった声で抗弁した。

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2006年7月15日 (土)

鶴樹の「肉体の変奏」-32-

 椿博士の表情が急に険しくなった。

「なにをいうのかね。二つのことがらは、まったく無関係だ。雌ゴリラは、人間のインフルエンザにやられて、命をおとしただけだ。近くの川のほとりに埋葬してある。あとで、調べてみたら判る。いまのゴリラは、闇取り引きの業者に虐待されていたゴリラを買い取ったのだ。かつてわたしの実験の犠牲となったゴリラへの罪滅ぼしの気持ちでな。……いま、この研究室にいるのは、わたしと、ゴリラの銀太郎だけだ。以前に居た二人の研究協力者たちは、研究を中断した時点で解雇した。もちろん、秘密を守るという約束をしてだ。その後間もなく、二人とも新しく就職した研究所で、劇症肝炎ウイルスに感染するという事故で急死したらしいじゃないか。そのいきさつは、事故を仕組んだ君たちの方が、くわしいのではないかね。わたしには判っているのだ。……そこの銃をもったきみ。きみは口髭をつけて、このあたりの写真を撮って、うろうろしていたな。外国人観光客のように見せかけてね。見張り役だな。見張られるのは、かまわないがね。もし、わたしと銀太郎に危害を加えたりしたら、マスコミの注目を浴びると思いたまえ。なにしろテレビ出演をしている、有名人なのだからな」

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2006年7月11日 (火)

鶴樹の「肉体の変奏」-31-

「ああ、いつもあなたの助手をされていたデラ夫人のことですね。じつにお気の毒でした。それで、思い出したのですが、あの方はたしか癌で亡くなられていますね」

「そうだ。あれほどわたしに尽くしてくれたのに、医者でありながら、なにもしてやれなかった。あれが、どれだけわたしを支えてくれていたか、いなくなって思い知ったのだ。他人のことなどより、自分の妻の健康を気づかうべきだった」

「これは、われわれが後になって調べたことなんですがね。夫人が全身を癌におかされた末期に、あなたは夫人に手術をしているんです。余命短いと判っている患者にどんな手術がいるんですか? しかも、それから間もなく二頭のうち、雌のゴリラの方が、地下の飼育場から連れだされ、翌日にはもとのところにもどされたと推測できる痕跡がある。もしかしたら、あなたはデラ夫人の脳をそれに移植したのではないですか? そのあと間もなく、雌ゴリラはあなたの飼育場から姿を消してしまいました。これは何を意味しているのでしょうかね」

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2006年7月 9日 (日)

鶴樹の「肉体の変奏」-30-

「それは、誤解だ。わたしは、約束どおり研究費で得た成果はすべて、アフリカ・ヨハネスブルクのオードリン博士に伝えてある。オードリン博士だって、その結果について納得していたではないか。彼の動物生体交換理論は大変画期的ですぐれたものだ。しかし、応用がむずかしい。わたしも、全力をつくして、臨床実験をした。が、ある決定的なハードルが越えられなかった。それで、五年前に実験用に譲り受けた二頭のゴリラはすべて、死んでしまったのだ。

 それに、あなたがたも、二十億円の資金の提供を約束していながら、実際には八億円しかくれていない。わたしは、その後も自費で研究をつづけ、問題点を発見し実用化につながる可能性を開いた。そこで、この研究を打ち切ったのだ。このあとの研究はオードリン博士が引き継いで、実用化が可能なはずだ」

「資金の不足分については、IASAの日本支社が、あなたに渡すべき資金を無断で使い込んでしまっていたのだ。彼らは、すでに処分されている。これについては、ペナルティの分をふくめて、倍額払いましょう。問題なのは、研究成果だ。オードリン博士は、あなたの応用技術を取り入れている。だが、生体交換の実用に成功していない。

 ところが、こっちでその後の動向をしらべると、これまでの段階ですでに、生体交換に必要な技術を開発していると思われるフシがある。そこにいるゴリラがその成果のはずだ。ならば、その技術をわれわれは譲り受ける権利がある。その記録を出してください」

 奴らは、何を言いだすのだ。おれは、彼らの会話を理解しようと必死に聞き入った。

「記録、そんなものはない。オードリン博士が出来ないでいるのとまったく同じレベルで、わたしの研究も行きづまり、中断しているのだ。とくに、あの時期は、妻を病気でなくして気落ちしていたからな。とてもそんな実験を続ける気にはならなかった」

 椿医師の声は沈んでいた。

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2006年7月 6日 (木)

鶴樹の「肉体の変奏」-29-

 モーリスという白人は、用心しながらソファに腰掛けた。銃を膝の上に置いたままだ。眼はおれを睨んでいる。

「さっき、手術が失敗に終わったと言いましたな、椿博士。あなたは、ほんとうは手術に成功していながら、我々には不成功だったと、嘘をついていたんじゃありませんか」

 鈴木が疑わしげにおれのそばに寄ってきた。おれはいきなりウォーと咆吼してやった。

「あぶない。それ以上近寄るな。そら、腕力にかけて君たちに負けないぞ。この銀太郎は、わたしの命令に忠実なんだ。ここでの行動には、気をつけたまえ」

 椿医師が、脅しをかけるように言った。鈴木も、さすがに怯んだようだ。

 どうも、危険な連中のようだ。おれは椿医師の後ろに座って彼らを監視した。

「わかりましたよ。穏便にやろうじゃないですか。一度は同士になった仲だ。われわれ国際動物科学研究財団(IASA)は、その基金であなたに生体交換移植の研究を依頼した。いいですか。IASAはあなたの研究成果とその技術をすべて、受け取る権利があるのです。それも秘密裡にですぞ。ところが、最近になってあなたが研究成果を隠し、われわれに報告していないのではないかという、疑いがでてきました。

 おまけに、その研究成果を外部に知られてしまいそうな危険な行動をしている。そう、その疑惑のきっかけとなったのは、あのゴリラのテレビ出演ですよ。IASAとの契約は厳正ですよ。違反者はこの世から抹殺されることもあります。どうも、日本の方は契約の意味を甘く考え過ぎるので、困りますね」

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2006年7月 4日 (火)

鶴樹の「肉体の変奏」-28-

          8

 二日前から雨が降っていた。春寒の日というのだろうか。それでも、森は濡れて緑葉の色を濃くしていた。

 その日の早朝、表の通りに一台のベンツがとまった。トレンチコートの襟を立てた男が二人、車から降りて、足ばやに研究所に入ってきた。

 おれは、警戒心をかきたてられ、三階から地階に降りていった。彼らは衝立ての向こう側の応接セットに腰掛けていた。おれの姿をみて、二人が同時に立ち上がった。右側の男は、日本人のようだ。左の男は白人だ。白人が一瞬身構え、コートの内ふところに手が動いたのを、おれは見逃さなかった。至近距離でのグリース油の臭いがした。

「やあ、こいつが例のゴリラだな。元気そうじゃないか」

 日本人の方が、言った。色が浅黒く、異様に鋭い眼光をしている。面長で額の奥まで禿げ上がっていた。もしかしたら、砂漠や乾燥地帯にいる人種とのハーフかも知れない。

「いや、鈴木さん。それはあなた方の支給したクレバー・ジョンじゃない。これは、べつのゴリラだ。クレバー・ジョンは手術の失敗で三年前に死んでいるよ」

 椿医師が彼らの後ろでそう言った。医師はおれに親指を立てて示した。これは、怒って見せろという合図だ。おれは低く唸り声をだしてみせた。

 白人は恐怖に灰色の眼をむき、ついに懐から拳銃をとりだした。銃のことはよく知らないが、四十五口径はあるだろう。かなり大きい。

「おい、モーリス。落ち着け。本気じゃない。これは挨拶みたいなものだ」

 鈴木と呼ばれた日本人が言った。

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2006年7月 1日 (土)

-鶴樹の「肉体の変奏」-27

「そのちょっと変な感じのするところが、いいみたいだな。じつはこのゴリラを放映してから、撮影場所や、撮影時期を正確におしえて欲しいという問い合わせがふえているんだ。マニアックなオタク族が熱心な安定視聴者となっているらしい」

「でも、連中に正確な場所は教えていないんでしょうね。椿医師との約束ですもの。撮影を室内に限ったのも、周囲の風景で場所が知られることを避けたかったからなのよ」

「もちろんだ。それに、取材ソースをわれわれで、いつまでも独占できる体勢にしておく必要がある。なにしろ、こいつは必ず10%以上の視聴率がとれる隠し玉だからな」

 話しながら、水井プロデューサーの手がさり気なく、律子の茶色スラックスの尻のあたりに触れた。

 律子は腕を組んで、考えを集中したままだった。プロデューサーは、その手を尻の片側にぺたりと這わせた。律子は彼の手の甲に爪を立て、それを撃退した。

 水井という男もしつこい。仕事はやれる男のようだが、かなり好色だ。おれはつい苦笑した。そのとき、あることに気付いて、ぎくりとした。おれもまた、以前は女好きだったのだが……。

 あらためて畠山律子の容姿をみた。すらりとした体躯で、腰がほそい。尻がやや平らで、左右に広い。胸はやや小さく、ブラウスの下の固い乳房が想像できる。切れ長の目元にきりっと締まった唇。つややかな髪が肩にかかっている。かつて、おれがもっとも好んだタイプの美女だった。以前のおれなら水井という男ほどでないにしても、律子に対してもっと性的な関心をもっていた筈だ。それなのに、彼女の色気に無反応なこの気持ちはどういうことなのだろう。おれの脳は、ゴリラの肉体の影響をうけて、ゴリラと同化しつつあるのではないだろうか。どうやら、今のおれは生田目泰幸とは別の生き物になってきているようだ。

 椿医師がおれの精神の変化を、克明に記録しているのは、このためだったのだ。

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2006年6月30日 (金)

鶴樹の「肉体の変奏」-26-

「わたし、むずかしいことは判らない。でも、気になるのよ」

 律子は、床を指さして言った。

「見てよ。ここの家の電気コード、すごいタコ足配線だわ」

 たしかに、カーペット、ポット、ワープロ、テレビ、ラジカセなどが、コンセントにコンセントを差し継ぎして乱雑にコードが引きまわしてある。

「いい? ここのゴリラは、この継ぎ足しだらけのコンセントを一度も踏み潰さないのよ。ねえ。椿先生ですら、ときどきコードに躓きそうになるのに、ゴリラはまるでその位置を感覚的に知っているようだわ。妙にセンスがあるの。まさか、ゴリラのいた森にタコ足配線があって、それをよける歩き方を経験している訳でもないでしょうに」

「なんだって? きみは変なことを気にするんだな」椿医師は、返答に窮し、だまってしまった。

 おれも、そばで聞いていておどろいた。たしかに、由美と生活していたころ、彼女のタコ足配線の癖に、おれは慣らされていたのだった。いままで、おれなりにゴリラの癖を研究し、習得していたつもりだった。しかしそこまで、気がまわるわけがない。

 やがて、椿医師がおもむろに口を開いた。

「いや、それはだね。このマウンテン・ゴリラというのは、足の形が人間にいちばん近いのだ。おなじゴリラでも低地に住むローランド・ゴリラはもっと平べったく、未発達な足をしている。類人猿の進化は足から起きているというのが定説だ。マウンテン・ゴリラは、進化がすすんでいる方なのだ。それくらいだから、家の中のコード配列を足の感覚でおぼえるのは、簡単なんだろうよ」

「そうなんですか」律子はあまり納得したようではなかった。が、それ以上追及はしなかった。

 しかし、撮影機材を片付けているとき、水井プロデューサーに、彼女は囁いていた。

「椿医師はあんなことを言っていますけど、わたし、これはなにか大変なことなんだという予感がするのよ。でも、それが何なのか今イチ判らない。じれったいわ。なんなのこれの意味するものは?」

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2006年6月28日 (水)

鶴樹の「肉体の変奏」-25-

 テレビ局の取材が、その後、数回あって、断続的に放映されたが、医師はあたかもただの動物愛好家のように振舞っている。地階がおもてむきの研究室。二階が書斎を兼ねた寝室。小さな台所もある。三階がおれの部屋だ。おれの部屋の窓と扉には、鉄格子がはめてある。鍵は付いているが、かけたことがない。いちどテレビに映ったあと、視聴者から「完全な野放しは、いくらなんでも危険だ」という意見があったらしい。とにかく世間体のために形ばかりの格子を取り付けたのだ。

 テレビ局は、おれが椿医師のために洗濯機を使ったり、目玉焼きを作ったりしているところをビデオ収録した。

 リポーターの畠山律子が「ウッソウ。これじゃ、家事をしたことのない、わたしより役にたつわ」と目を丸くした。

「椿先生。これは動物学的に、画期的な発見になりません? 専門の学者に見せて研究してもらった方がいいと思いますけど?」

「そんなこと、見せるまでもない。訓練と教育さえすれば動物が、相当の能力を発揮するのは、専門家は良く知っている。人間だけが高級な生き物だと思うのは、キリスト教文化圏の人種が捏造した迷信なのだ」

「ええっ、そうなんですか。それにしても利口すぎるわ。もしアフリカのゴリラがみんなこれだけの知能を持っているとしたら大変なことじゃないの」

「なにが大変なんだ。そういうのは傲慢と言うものだ」度の強いメガネの奥で、椿医師の目が光った。

「いいかね。ゴリラは元来、自由に暮らして居たんだ。自由だよ。戒厳令や、権力に抑圧されることのない自由だよ。近親相姦もなければ、大量虐殺もない。高度の平和的な社会を構成していたのだ。人間が愚かな知能をふりまわして、森や大地を荒廃させる以前にはね。もちろん、ゴリラ世界にもまれに、争いや小児虐待的なものはある。しかし、それには意味がある。いや、意味を見失っていないというべきか。それにくらべ、人間は生きる意味を取り違えている」

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2006年6月26日 (月)

鶴樹の「肉体の変奏」-24-

鶴樹の「肉体の変奏」-24

 頭脳細胞が記憶をもつということは、当然とされる。肉体の細胞がその何百分の一の記憶のかけらを持つことは考えられないことではない。特に、ゴリラの肉体の質量とおれの頭脳細胞の質量を較べたら、圧倒的にゴリラの肉体のほうが優る。肉体細胞が頭脳細胞を侵食して来ているのかも知れない。

 それ以来、医師はおれに意識の変化をワープロノートに入力するように指示してきている。椿医師はなんでも記録する。地下室の書庫には、膨大な量の大学ノートが、累積していた。その中におれとの会話がわりに打ち出したプリントなどが、はじめから保存してあるのを見つけた。

 研究用の机には、乱雑に資料が重ねられている。医師は狭くなったわずかなスペースを使ってよく書き物をする。その片隅に小さな写真額が立て掛けてあった。白衣を着た男女が椿医院の玄関前に並んで立っている。男は椿医師である。四十歳くらいか、まだ若い。女性は白人の外国人である。椿医師より背が高く、痩せぎみで、思慮深そうな瞳がカメラのレンズに向けられている。医院開設の記念写真らしい。女性は同僚の医師なのか、研究者なのか。よく判らない。

 研究室の地下二階は、奥が昔の鉱山かなにかの採掘坑道跡につづいていた。出口は小さな渓谷の河原につながっていた。

 椿医師は、ふだん地下室があることは他人には秘密にしていた。

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2006年6月24日 (土)

鶴樹の「肉体の変奏」-23-

一方、日中の間、おれは椿医師の生活の手助けをせざるを得ない。重い物の運搬や高いところの物の出し入れは、老人にむりだからだ。椿医師は、ときおり夜陰にまぎれて、精密な機械のようなものを例の地下室に運んだりする。そのときには、おれのばか力がものをいう。地下一階には手術室がふたつあり、あいたスペースには、顕微鏡や測定器などがところ狭しとばかりに置いてある。

 

おれの生首がついた人工臓器システムは、地下二階にあった。循環器系統がしきりに動いていた。かつての自分の顔を見るのは不気味で、落ち着かない気がした。おれは無意識のうちに過去のことを忘れたがっているらしい。過去の記憶につながるものに出会うと、妙にいらだつことがある。とくに最近は、アフリカの森の夢を良く見る。ゴリラの過去がよみがえり、おれ自身の過去と交錯してきているような気がする。

 椿医師はそのことを書いたおれのメモを見て驚いていた。

「なに? それはゴリラの肉体が、記憶を残しているってことだな。ふうむ。そんな現象が起きるのか」と熱心にメモをとっていた。

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2006年6月22日 (木)

鶴樹の「肉体の変奏」-22-

          7

 春になった。喰い物が豊富になったのはありがたい。おれは箱根周辺の山谷を跳梁し、植物分布や、火山脈の経路をおぼえた。行動範囲もひろくなった。といっても夜明け前の山中だから、人と出会うことはない。食物の採取は、だいたい見た目と香りで、身体が選択してくれる。毒草などには食欲がわかないのだ。木や草は根絶やしにするほど喰い尽くさないかぎり、幾度でも葉や芽を提供してくれる。およそ草食動物は山野草の生命を奪うことなく、共に生き延びる余地を残した食生活を可能にしているのだ。

 おれの肉体は、見事に自然の霊気に呼応し、こころを躍動させる。水の匂い、樹々と草々呼吸がゴリラの肉体を躍動させるのだ。いや、そうではないな。肉体がこころなのだ。

 これは動物にならなければ、分からない境地だろう。

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2006年6月20日 (火)

鶴樹の「肉体の変奏」-21-

 人間だって動物だ。ただ生きるだけで、何が悪いというのだ。理想だとか、役に立つとか、立たないとか、くだらないこと考えて勝手に苦しむから、博士のようになってしまうのだ。おれは博士がノイローゼになっているのがわかった。難しい理想などというものを勝手につくりあげて、出来もしないことを、無理にやろうとするから、そうなるのだ。

とにかくこの医師のいうことを気にしていると、じつに疲れる。おれはばかばかしくなって、また床に寝ころんだ。外の散歩(といっても、ほとんど草や樹の皮、新芽などを食うためのものだが)の後、一眠りしたくなる。ゴリラの身体というやつは、無用なことをしないように出来ている。食えば寝る。全身にそれで満足感が伝わってくる。人間からすれば、怠惰なのだろうが、不満がなくなるというのは、気持ちを和ませる。おれの意識がそれに馴らされていくのがわかる。

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2006年6月18日 (日)

鶴樹の「肉体の変奏」-20-

「いいかね。純粋な理想をいだいて生きる人間が、この世界にどれだけいるのだ。君は知っているかね。いまにも死にそうなやつを必死の努力で助けても、当人はその手当てを当然のごとく思い、次の日からまた自堕落な、その日暮らしをはじめるのだ。生命があるからただ生きる。それだけじゃないか。わたしも若い頃は、人の命は地球より重いというたわごとを漠然と信じていたものだ。だが、人間のどこにそんな高邁な論理を裏づける根拠があるのかね……。

わたしはきみの頭脳をゴリラの肉体に移し替えた。ゴリラの寿命は長くても三十年そこそこだ。きみに肉体を提供したゴリラは、十歳を過ぎていたから、あと十五年くらいの生命だ。……だが、きみの場合、ゴリラだろうが、生田目泰幸という人間だろうが、その生涯に大きな違いがないのじゃないかね? かつて、きみは誰かこれという人の役に立ったことがあったのか? 誰がきみの存在に感謝したかね。これまでも、他人に尽くすチャンスはあったのに、それを、きみは生かせなかった。役立たずだよ、きみは。いや、きみだけではない。みんなそうだ。理想を持たずに自分勝手な、安っぽい夢を語る輩ばかりだ。夢を語ることに苦痛はないが、理想を持つと苦しいものだぞ。きみにはわかるまいがね」

 椿医師の人間嫌いも相当なものだ。人間という性質に、実際以上の期待をもち過ぎていたのだろう。無反省な人々を差別なく治療し、命を救ったことに疑問をもっているらしい。

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2006年6月16日 (金)

鶴樹の「肉体の変奏」-19-

 帰りぎわにリポーターの律子が、

「でも、この銀太郎ってほんとうに利口ね。わたし、このゴリラが何か考えているような気がしてならないわ。不気味なくらいだわ」という。

「うん。ふしぎな雰囲気をもっているゴリラだ。こいつは人気が上がるぜ。もっと本格的なスペシャル番組で紹介してもいいな」

「そのときも、わたしをリポーターにつかってね。それまでに、ゴリラをもっと研究しておくわ」

「それは、きみの今後の努力次第だよ」

 プロデューサーは意味ありげに、律子の腰に手をまわした。

「水井プロデューサー。わたしに仕事以外の努力を強要しないで欲しいの。こう見えても、自分の才能に自信を持っていますのよ」律子は、水井という男の手をはらいのけ、足早に車のほうへ行ってしまった。

「おい、おい。勘違いするなよ。ぼくをそんな男だと思っているのか。それにしても、もう少し可愛げがあったほうが、才能も生かせるってもんだぜ」と、男は律子を追っていく。

 長いビデオ撮りに疲れたおれは、床に寝そべって、しばらくうとうとした。

 そのうち、椿医師の独り言が始まった。

「ふん、やつらめ。テレビで銀太郎を売りだすつもりだな。まあ、悪くはあるまい。ただのゴリラだと思っているようだから、ひとつおどろかせてやろうじゃないか。だが、許せないのはあの自警団のやつらだ。藪医者だとぬかしおった。わたしが、若い頃どれだけ理想に燃えた心で、医学に志したか、知るまい。わかるか? 理想だぞ」

 老医師は突然大声をあげ、おれを指差し、燃える眼なざしで、迫った。

 おれはいっぺんに眠気が醒めてしまった。

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2006年6月14日 (水)

鶴樹の「肉体の変奏」-18-

猟銃を片にかけた連中の言い分は、ゴリラを放し飼いにせず檻に入れるという約束を、椿博士が破ったというのだ。そのことを抗議しにきたのだった。

「人に危害を加えないよう、よく教育してあるという安全の保証はしたが、檻に入れるだの、鎖につなぐだのという約束は、していないぞ」椿医師は反論した。

「安全なのは、檻に入れるってことだろうが」

 肩から銃を下ろしながら、ハンターのひとりが、そう詰めよった。

「わたしのゴリラは安全だ。危険なのはあんた達じゃないか。自分の面を鏡でみてみろ。銃を撃ちたくてうずうずしている顔だぞ。檻に入れなきゃいけないのは、あんた達だよ」

「なんだと、この藪医者めが、いままで幾人の人間を死なせてきたんだ。いつも夜中に、何かをやっているので、気味が悪いと評判だ。今度はばか力のあるゴリラなど飼いやがって、近所迷惑もたいていにしやがれ」

 そう言われて椿博士は、怒りで全身を震わせはじめた。

「おまえなんぞは、口をきけば人の悪口を言うだけだ。嘘をいう分、言葉を使わない猿より劣る。こんど盲腸にでもなってみろ。口と肛門をつけかえて、尻から物を喰い、口から屁がでるようにしてやるぞ」

 これは興奮のしすぎだ。おれは彼を後ろから掴み上げ、身を引かせた。

 周囲から「おお」という驚きの声があがり、一瞬静かになった。

 するとリポーターの律子が、

「そうよ、椿先生のいう通りだわ。この人たちこそ、銃をふりまわして動物を虐待する張本人なのよ。カメラさん。あの銃を写しておいて」

「なに、あなた達はテレビ局なのか。ちょっとまてよ。おれはここの自警団の連中が猛獣がいるというので、確かめにきただけだ。ゴリラとなると、どうしたらいいかわからん。上司に相談するから、俺を映すのはやめてくれ」顎紐の警官が逃げ腰になった。

 ほかのハンター姿の連中も、動物虐待者ときめつけられて、すっかり意気が上がらなくなった。ぶつぶつ言いながら、帰ってしまった。テレビ局の連中も思わぬハプニングが収録できたと、満足して引き上げていった。

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2006年6月12日 (月)

鶴樹の「肉体の変奏」-17-

 おれは、あわてて後ろを向き、床に腰をおろした。

これからはゴリラの生態を研究し、ゴリラらしさというのを身につけないと、具合が悪そうだ。とりあえず手元にあるバナナを喰って見せた。うっかり皮をむいて食べてしまったが、ゴリラは果たしてバナナの皮をむくものなのだろうか? さいわい、テレビ局の連中は、あたりまえのように見ているので、かまわないだろう。

「それじゃ、リハーサルだ。椿先生、リポーターが、質問したときは臨機応変に答えてください」

 スタッフのひとりが声を掛けた。

 するとさっきの若い女のレポーターがカメラの前に立った。

「はーい。みなさん。レポーターの畠山律子でーす。きょうの動物家族は、なんとゴリラなんですね。……ここは箱根です。飼い主はお医者さんの椿先生です。話を聞いてみましょう。このゴリラ、名前は?」

「銀太郎です」

「あら、箱根で足柄山の金太郎というのは有名ですが、銀太郎とつけたのは何故?」

「このゴリラは、ほら背中の毛が銀色になっているだろう。これはシルバーバックといって、ゴリラの指導者の資格を持っている印なのだよ」

椿医師は上機嫌で応対している。おれの名が銀太郎だなんて、初めて聞いた。

 そのとき、玄関のあたりで騒がしい気配がしはじめた。

みると帽子に顎紐をかけた警官を先頭にして、ハンターの格好をした男が数人押しかけてきている。

さっき山のなかでおれを追いかけてきた奴らだった。

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2006年6月10日 (土)

鶴樹の「肉体の変奏」-16-

取材に押しかけてきたTV局のスタッフは、てっきり動物園でやっているようにおれが檻にでも入っていると思ったらしい。椿医師がカメラに向かっている。山野におれを放し飼いにするまでのいきさつを説明していた。

「さる筋よりだな、情報が入ったのだよ……。悪徳な動物輸入業者がゴリラを密輸入したものの、あまりの高値で買手がつかないでいるというのを教えられた。私はゴリラをどこまで人間に近づけられるか、という実験のため、大金をはたいて手にいれたのだ」

「へえ、どこの業者から、いくらで?」

 プロデューサーらしい男がきいた。

 おれの肉体となっているゴリラの入手先については、おれも大いに興味があった。しかし、

「具体的なことは一切言えない。秘密を守るのを前提で買ったのだ。さる業者からさるルートを経て……。としかいえないな」

 その話になると、椿医師の説明はしどろもどろだ。

「なるほど、ゴリラのことだから、肝心なことは、さるになるわけだ。いいじゃないか、我々は詮索をするのが目的ではない。見ろ、この見事なゴリラを。マウンテン・ゴリラと寝食を共にするのは、世界の動物学者の夢だと聞いたことがある。それをペットにしているのだからな。うけるぜ。これは」

「だけど、このゴリラ。妙な気配をしていると思わない? もしかしたら、私達の話を聞いて、内容が理解できているのじゃないの?」

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2006年6月 8日 (木)

鶴樹の「肉体の変奏」-15-

          6

 林のなかでは雪割草や馬酔木が白い可憐な花を咲かせている。蕗のとうも芽を出しはじめた。

 日の出前の散歩を楽しんでいたおれは、嫌な気配を感じて、周囲を見回した。低い木立の陰に人が隠れて、こちらの様子を窺っている。かすかだがグリース油と鉄のにおいがただよってくる。葉陰から突き出している黒いものはあきらかに銃身である。

 しかも一人ではない。右にも左に誰かが息をこらしている。

 おれは後ずさりをし、威嚇の咆哮をすると身をひるがえして藪のなかに逃げ込んだ。

「逃げたぞ。追え、追え!」

「写真は撮ったか?」

 わめきたてる声を後ろに、おれは茨の雑木林を抜け、山の斜面を走って彼らを撒いてしまった。

 最初からおれを狙っていたのか、猪でも追っていたところに、おれを見つけたのか、わからない。

 いつもやっているように崖の上から椿医師の研究所の屋上におりた。そのとき建物の前にテレビ局の中継車がいるのが見えた。車体にKQTVという文字がある。

 外の階段をつたい部屋に戻ると、ビデオカメラや照明装置を担いだ男達がいて、椿医師をとりかこんでいた。台本を手にした女のリポーターがいた。部屋のあちこちを指差しながら喋りの稽古をしている。おれがドアを開けてぬっと現れたのを見て、ひと騒ぎがおき

た。

 彼らは「動物家族」という番組のシリーズ化のため、珍しい動物をペットにしている椿医師を録画取材していたのだ。

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2006年6月 6日 (火)

鶴樹の「肉体の変奏」-14-

 椿医師はしきりに独り言をいう。ほとんどおれに語りかけているのだ。おれはそれに返事をできないし、しようともしない。どうしても会話が必要なときは、ワープロをつかう。旧式の大きなキーボードを、箸のような棒をつかってタイピングする方法を博士が用意してくれていた。

 彼はおれの身体の健康診断をするのが、いまのところの日課だ。なんでも、ゴリラは体内寄生虫に弱く、風邪も引きやすいのだという。おれの肉体を分析し、機能を完全化することに夢中である。それが孤独と虚無の恐怖から彼をまもっているようだ。

 しかし、彼の内面では、常に何かの葛藤があるらしかった。机に向かって熱心に記録を取っていたかとおもうと、突然ペンを放りだし「これが何になるのだ」と、ため息をつくことが、しばしばあった。頭を垂れてしばらく、すすり泣くこともある。それから、なにやら呟きながら気をとり直し、研究の記録を続けるのであった。

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2006年6月 5日 (月)

鶴樹の「肉体の変奏」-13-

 窓の外は雪景色である。部屋のなかは空調機器や、テレビの発散する電子イオンの匂いが常に漂っている。隅にあるオリズルランやサボテンも匂う。椿医師の体臭もわかる。絨毯は化学繊維の臭いを発している。おれは周りにある物ひとつひとつの匂いを嗅ぎ分けて飽きなかった。

 この異常な感覚は本来のおれのものではない。ひらべったい大きな鼻のゴリラのものだ。本来のおれは死んだ。椿医師は地下室に横たわる、以前のおれを見せてくれた。それはもはや生命をもたない頭部の彫像にすぎない。じっさいは、ゴリラの脳が入れられ、首から下は人体人形をつけ、毛布で覆って、戸籍上でのおれの生存を偽装しているらしい。

 椿医院は宮の下温泉の上を通る道路沿いにあった。医院の反対側、道路をへだてた向かいに椿文蔵の私邸兼研究室がある。おれと椿医師はここに住んでいる。鉄筋コンクリートの三階建てのビルだ。屋上に行けば、上からつづいている崖の斜面にすぐ移れる。

 おれは早朝に、雪のなかを散歩した。雑木の山はシダ類や、竹、山芋などが豊富で春になれば、食い物に困らないだろう。身体が食欲の信号を送って、おれに教えてくれた。じっさいに手元の木の葉を手でしごいて口にいれてみた。かなり堅い葉だったが、頑丈な歯はたやすくそれを噛み砕いた。

 力に満ちた太い手足、あたたかく丈夫な黒い毛。おれはひとり野山を跳梁し、ゴリラの肉体の感覚をためした。腕力、脚力、臭覚、触覚。どれをとっても文句はなかった。これで充分だった。完璧な肉体に思えた。

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2006年6月 4日 (日)

鶴樹の「肉体の変奏」-12-

          5

 再び意識をとりもどした時、椿医師はまだそこにいた。心配そうな頼りない眼差しだ。彼の顔は白いものがまじった髭でおおわれていた。それが長い時間の経過を物語っていた。

 強い衝撃がおれの全身をかけめぐった。おれは、がばっと身を起こした。が、実際はのっそりとしていたようだ。

「おお、正気にもどったか。意識のしっかりしたとこれで、見てみなさい。きみの前の鏡を……」

 彼の示した姿見には、黒ぐろとした毛に蔽われた一頭のゴリラが映っている。身長が百九十センチ、体重は百五十キロを超えていそうだ。

 おれは、驚いて悲鳴をあげた。しかし、喉から出たのは動物的な低いうなり声だった。 

「落ち着け、相手は鏡だぞ。それが君の姿だとわからないのか?」

何だと……。これがおれの新しい肉体だというのか。おれは驚きの声を上げた。が、喉から発せられたのは、またも低い唸り声だった。話そうとしても、言葉にならない。おれは口元に手をやり、椿医師に示した。

「やむをえんな。ゴリラの顎はしゃべるようには出来ていないのだ」

 そう言って、彼はいままでの経過を話してくれた。

 それによると、あれから椿医師は不調になった人工臓器の機能回復をあきらめ、ただちにゴリラの肉体におれの脳を移植した。それは成功したのだが、まもなくおれは原因不明の錯乱を起こした。一種の拒絶反応だったようだ。

 ゴリラになったおれは研究室を飛び出し、この辺の野山を逃げ歩いたのだという。やがて箱根の山にゴリラが出没するという話が世間に広まった。警察や警備団が出動し、テレビのニュースにもなった。またその逃げっぷりが、西へ行ったと見せて東に行き、北へ向かったと見せて南に向かい、実に頭脳的だというので、マスコミに面白がられたらしい。

 結局、おれは椿医師のもとに帰り、彼の飼育しているゴリラが逃げ出したということで騒ぎはおさまった。

 その間のことを、おれはまったく覚えていない。以後、椿医師はおれの意識の錯乱を治療することに、専念してきたのだという。そして、やっとのことでおれの意識の回復に成功したのだ。このとき、事故以来すでに半年近く経っていた。

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2006年5月28日 (日)

鶴樹の「肉体の変奏」-9-

 それから幾日かは、おれだけが知る孤独なときを過ごした。椿医師の言ったことはほとんど間違っていなかった。昼と夜の区別はラジオでも聞いていないかぎりわからない。食事はない。眠りは椿医師の判断によってその都度、調整卓でセッティングしてくれた。彼は昼夜にわたっておれにかかりきりだった。老齢者には、苛酷な作業だ。さすがにおれにもこんな状態を、長く続けることはできないのが判った。おれのような存在のしかたは、しょせん無理なのだ。

「せっかく命拾いをしたのに、残念だ。どうも限界みたいですね。先生も疲れがひどくなっているようじゃないですか」

「うん、私が倒れたときが、君の命の終わるときだ。だが、わたしは、希望を持っている。心配するな。これしきのことで、今までの研究の成果を無駄にするわけにはいかない」

そこで、椿医師は、思案顔になった。

「じつは、きみの奥さんがしばしば訪ねて来ているのだ。いまのところ、身内にとっては残酷な事態になっているので面会謝絶といってある。だが、いつまでも会わせて貰えないのはおかしいと言い出している。秘密を保つのに、わたしは困っているのだ」

「ああ、由美がねえ。それなら心配はいりませんよ。あいつは、なんでも金で解決することしか、思い浮かばない性格です」

おれは、由美に必ず秘密を守らせるから、会っても大丈夫だと保証した。

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2006年5月26日 (金)

鶴樹の「肉体の変奏」-8-

「結局のところ君。若いうちはだな、明日こそ明日こそと時間の流れるのを楽しみにして、その日その日を過ごしているが、あるときその明日というのが、何ももたらさなかったことに気づくのだ。人生の意義などというのは、まやかしなのだ。あたかも明日に大いなる希望があるがごとく思い込んで苦しみに耐え、いたずらに死を恐れ、生きることに執着させられているのだ。君だって知っているだろう。

人間は幸福だった時こそは幻のように思えるが、苦しい時のことは生々しく心に残る。

あるいは他人から受けた屈辱は忘れ難いが、恩恵についてはほとんど意識しないで暮らすのだ。だが、それも若いうちはいい。私のように老いてみたまえ。夏の陽光は目をくらまし、冬の風は肺を痛めつける。舌は味覚を捉えそこない、官能の歓びは失われ、苦痛にしかならない。かつて気晴らしであったはずのものが、ただ疲れるだけの空虚な行為に変わるのだ」

 語りながらおれを見下ろす椿医師の瞳は、憂いに満ちていた。

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2006年5月22日 (月)

鶴樹の「肉体の変奏」-6-

 翌日、ひさしぶりにゆっくりとした時を過ごしていたが、それもその日の午後までだった。得意先からの緊急呼び出しで夕方には会社に戻らなければならなくなった。

 一緒に東京に戻るといっていた由美に、宿泊予約の消化をするように言った。おれひとりシトロエンをころがしてホテルを出たのだった。神野というやつがどんな乗りかたをしたのか知らないが、まさかブレーキがいかれているとは、夢にも思っていなかった。

          4

「一応、参考のためにきみの肉体のかわりをしている装置を見せてあげよう」

 医師の椿文蔵は、首の動かせないおれのために、鏡で全体の姿を写しだしてくれた。

 まず、眼に入ったのはベッド状になった台の下の鉄製のボンベである。台の上には点滴用の容器に似た卵型のカプセル、液体の通過するパイプ、長方形のステンレスの容器など、まるでプラント工場のミニチュアのようだ。モーターやピストンが規則的なリズムで作動している。そこから伸びた無数の細い管や、コードが太いコネクターとなったおれの生首に接続されていた。

 平行して置かれた制御卓をべつにしても全長三メートルをこえる装置であった。

 それを見せられて、自分が奇妙に冷静なのにおどろいた。妙に実感がない。

「これいつまで正確に働くのです」

 おれは訊いた。

「わからん。なにしろはじめて使ったものだから、今後どんなトラブルが発生するか、見当もつかない。もっとも私は、少なくとも半年や一年は完全に作動させるつもりで造ったものだがね。生きた細胞を使っていないから、拒絶反応を招かない。内蔵をメカニズム化したメリットがここにある」

「なるほど、しかしそれが人工装置である以上、いつ故障してもおかしくないな。宇宙ロケットだって、幾度かの失敗がある。宇宙飛行士が犠牲になったような、予測不可能な事故もあった。事故や故障が出た時は、おれの命の終わりなのだね」

「そうだ。しかし、そう危ぶむこともないだろう。街を走っていたとしても、すでにきみが経験したように、交通事故に会って死ぬ確率の方が高いかも知れないのだ。それよりも重要なのは、きみの生死の鍵は私の手にあるということだよ。いまここで私が装置のスイッチを切る決心をすれば、君の存在は終わるのだ」

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2006年5月20日 (土)

鶴樹の「肉体の変奏」-5-

 おれは怒りと同時にある失望感のようなものに、おそわれた。たとえがふさわしくないかもしれないが、自分の車を他人が勝手にのりまわしているのを、はじめて知ったようなものだ。

 だが、正直言って我を見失うほどではなかった。神野という若者が、おれの商売となにか関係があるのではないか? もっとはっきりいえば、ここで下手に立ち回ったらなんらかの損失をまねくのではないか? という思惑が頭をかすめていた。

 この若者は同業者のなかでも急成長をしている会社の社長の息子なのである。ついさきごろ、大手デベロッパーの住宅地開発の一部をダミー会社のかわりに買収する話をもってきてくれたのは、この男の部下だった。簡単に儲けることができて、運がいいと思っていたが、それなりに裏があったわけだ。

 おれは今後とも機会があれば、取り引きをして欲しいと神野に告げ、その場は引き取ってもらった。

「疲れた。ビールをだしてくれ」とおれは言った。彼女は突然涙をながした。嗚咽しながら、冷蔵庫をあけビールを用意し、これからシャワーを浴びていいかときいた。

「ああ、そうしろ」おれは言った。

 由美は、離婚させられて一文無しでほうり出されると思ったのだろう。夕食も口にしなかった。

 ベッドのなかで、こんなことになったいきさつを聞いた。同業者の記念パーティで由美を連れて出席したとき、神野は妻に目をつけたものらしい。また、由美も男のあしらいにかなりの自信をもっていたのが、よくなかった。そこにうまくつけこまれる結果になったようだ。

 その夜、おれは頭のなかでは由美に指一本ふれずにいたかった。そのことで、彼女を罰してやりたかった。そうすれば由美は朝までまんじりともせず、いまの贅沢な暮らしから追放される恐怖をあじわったに違いない。だが、おれは由美を抱きたいという自分の欲望に勝てなかった。おれがその気配をみせると由美は忠誠心を試された牝犬のように性技をつくしてきた。由美の一時的裏切りは不快であるが、つまるところ一円の損失もないのだ。快楽にひたりながら、おれはそう考えていた。

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2006年5月18日 (木)

鶴樹の「肉体の変奏」-4-

          3

 ことしの春ごろから、由美は月に一度箱根の仙石原ホテルに一週間ほど滞在し、テニスやゴルフを楽しむようになっていた。もちろん、最初はおれが一緒だった(たしか提案したのもおれだったはずだ)。が、仕事の都合でそうそう付き合っていることはできない。あとから行くと約束したものの、守らなかったことがしばしばあった。

 今月はやっと仕事のやりくりがついて、おれは由美のいるホテルへ行った。

 午後の四時過ぎだった。駐車場にはおれのシトロエンがあった。まだ、テニスでもしているのだろうと、フロントでキイをもらおうとしたところ、彼女は五階にとった部屋にもどっているという。

 エレベータが降りるのを待っているとき、フロントのホテルマンが何気ない動作で、素早く電話をしているのがチラッとみえた。部屋の前に行ってドアをノックした。しばらくしてドアが開き、由美がぼんやりした表情で立っていた。後に若い男が立っている。

「たまたま神野さんが、こっちにくる用事があるというので、東京から車の運転を引き受けてくれたの」

 言い訳をする由美は、どうしてこんなに事態になったのか信じられないといった風だ。その言いまわしの語尾もはっきりしない。

「ええと、あなたには以前に……」

「ほら、水戸産業の開発部長をされている……。取手の土地買収のはなしを紹介してくださった会社の……」

 由美は、肚をきめたようで、説明しながら部屋の窓を開けた。こもった空気が、冷たい風に吹きはらわれ、三人の気分を落ちつかせた。

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2006年5月17日 (水)

鶴樹の「肉体の変奏」-3-

 由美は好き勝手に浪費をしていながら、

「あなた。お金まだあるんでしょうね」と突然不安にかられたように訊くのだった。

「あるさ。なんだってそんなことを気にするんだ」

 おれが不審に思って訊くと、

「じゃあ、見せてよ。あした一度見せてよ」とせがむ。顔は微笑んでいたが、眼は真剣だった。おれは、銀行に適当に言いつくろって三億円を家に持ってこさせた。おれも、帳簿のなかはともかく、それだけの現金をじかに手にしたことがなかった。

「ほんとだわ。あるのね。ちゃんと…」由美は、美術品を鑑賞するように札束の感触をしばし楽しんだ。しかし、所詮それは紙の束だ。「また、いつか見せてね」彼女すぐ退屈してしまった。「思ったより見がいがないわ」と自分が退屈したことに驚いているようだった。おれは、それをプラスチックの透明な収納箱に移し、押し入れに放りこんでおくことにした。そうすれば、いつでも手に出来る。利子がつかないし、担保にもならないが、それも由美の贅沢であるなら仕方がない。

 彼女はベッドのなかでも、「お金のないあなたって、ぜんぜん魅力がないのよ。だからお金儲けをたくさんしなきゃだめ」といったものだ。おれは正直、気を悪くし、快感が苦痛に変わるまで、彼女を責めたてた。「どうだ。おれには金だけでなくこんなにも情熱があるんだ」おれは意地になっていってやった。だが、彼女は「お金のない情熱なんて、意味がないわ」と呟き、すぐにいびきをもらしていた。おれはシャワーを浴びてから、汗ばんだまま眠ってしまった由美の身体をタオルで拭ってやった。彼女はときどき過度の官能の余波なのか、全身をひくひくと痙攣させて眠り続けた。おれは由美を所有していることの満足感を味わいながら、なぜか孤独を感じていた。

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2006年5月15日 (月)

鶴樹の「肉体の変奏」-2-

          2

 おれの命を救ったという老医師は椿文蔵といい、小さな医院の院長だった。すでに六十歳をこえている。

 おれの名は生田目泰幸。東京・葛飾区の下町で不動産屋を経営していた。

 三十二歳のこの時、十四、五億の資産を手中にしていた。とりたてて商才があったわけではない。資格を取って脱サラをした後に、たまたま土地高騰の波に乗っただけだ。

 おれは五年前に由美という女と結婚した。彼女は贅沢を好んだ。由美はおれの資産に恋したのだった。おれはそのことを充分知っていた。教養がなく、虚栄心のつよい女だった。友達は多かったが、親しくつきあっている者はいない。友達といわれる連中は、おそらく陰で由美を悪趣味な女だと言い合っているにちがいない。おれは彼女の直情的とも思える性格が嫌いでなかった。

 いまでも覚えているのは、シトロエンを彼女に運転させてドライブしてた時のことだ。

 前を走っていた小型トラックを追い抜くとそいつが幅寄せしてきた。彼女は窓から思い切りどなった。

「貧乏人め。いいかげんにしやがれ」と。

 二十四歳になる由美は、品性に欠けていたが、反面、少女のようなあどけない表情を持っていた。肉体は豊満で男を悦ばせることに長けていた。顔と肉体のアンバランスなところもまた奇妙な魅力があった。

「わたしってね、面白いように男の人に気に入れられちゃうの」

 あっけらかんとそう言って、よく他人を鼻白ませたものだが、言っていることは事実だった。

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2006年5月13日 (土)

鶴樹の「肉体の変奏」

    1

 静かだ。規則的な音がする。心臓の鼓動と肺の呼吸に似たリズムの音だ。長い灰色の時間が過ぎたことを感じていた。

 天井を見ると、殺風景な蛍光燈が光っている。見える範囲の壁はコンクリートがむきだしになっている。倉庫のような天井の明かりをさえぎり、白衣の男が頭上に立った。

「意識がもどったようだね。気分はどうかな?」

 返事をしようとしたが、声がでない。

「ああ、そうだ。発声補助装置のスイッチを入れ忘れてたな」

 男は、なにかを操作したあと、「どうかね? 声を出してみたまえ」と言った。

 あまった肉が首にさがり、頬のこけた顔が目の前にせまってきた。度の強い眼鏡をかけている。憂欝そうな顔だ。

「ここは、どこ? どうなっているんだ?」自分の声が耳に低くこもって響いた。

「病院に付属しているわたしの研究室だ」

「研究室……。なぜだ?」

「きみは自動車事故をおこして、わたしの医院に運び込まれてきた。このあたりには大病院がないからな。だが、どんな大きな病院でも、きみの命を救うことはできなかっただろう。それほど肉体の損傷はひどかった。むだと知りつつ、心臓マッサージと人工呼吸をしてみた。しかし、いつまで続けても蘇生しなかった。だれがやっても結果はおなじだったろう。きみは死ぬ運命にあったのだ」

「なにを言ってるんだ。おれはこうして生きているじゃないか」

 おれは、そう言いながらも、この男が話によく聞く、あの地獄の死神という奴ではないのかと思い、ぞっとしていた。

「じつはきみはもう肉体がない。ここにあるのは精巧な人工臓器システムだ。きみの頭脳は、わたしが仕事の合間にこつこつと造り上げた臓器の集合によって、生命が維持されている……」

「えっ、なんですって……。肉体がない?」

「いや、話をさせてくれ。無断でこのようなことをしたのは、よくないことだ。しかし、本人は意識がないし、親類をさがして許可を得るには時間がかかる。その間に、きみの若い頭脳も死んでしまう。わたしだって若くはない。再びいつこんな機会にめぐまれるかわからない。そこで、医院の連中には、別館の集中治療室に移すということでわたしの家の研究室の臓器システムにきみの頭部を接続したのだ」

 男はおれの思惑をよそに、言い訳をするように説明した。

 彼の語っている意味を理解するのには、えらく時間がかかった。頭だけで生き残ったおれ……。なんということだ。おれは気分が悪くなり吐きたくなった。だが、それはただ喉が鳴ったにすぎなかった。

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2006年5月 1日 (月)

鶴樹の「肉体の変奏」-11-

 そこで、椿医師が望んでいたように、おれの手術の詳細については、他人に話さないという約束を由美からとりつけた。そして押し入れにしまってあった現金の全部を分与し、離婚をした。

 整理して残ったのは四億円強であった。すでにバブルがはじけてきていた。おれは、半分を椿医師の研究費に寄付することにした。

 そのころから、人工臓器の調子が悪くなって、おれは幾度か意識を失うようになっていた。血液循環システムに人工血液のカスがたまり、血栓をおこすのだという。

 いよいよ、最期のときが来たらしい。覚悟をきめていると、医師があらたまって、「生田目君。以前に君の妻君から受け取った一億円は、何に使ったと思うね?」ときいてきた。「治療費でしょう」

「それほんの一部だよ。じつは極秘のうちにゴリラを買ったのだ」

「ゴリラって、生きているのを?」

「もちろん。しかもマウンテンゴリラだ。こいつはそこいらの動物園で見られるロウランドゴリラより進化している種類なのだよ」

「それが、何か……?」

「君は肉体が欲しくはないのかね。私はゴリラやチンパンジーを動物実験をしていた時によく考えたものだ。動物の臓器を人間に使えたら……と。だが、いまの君にはもっと飛躍した発想が必要だ。君の頭脳をゴリラの肉体に供給するのだ」

 椿医師は目を輝かせた。すっかり憂欝病から脱けだしているようだ。

「そうなると、おれはどうなるんです?」

 そう言ってから、またおれは気を失ってしまった。

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