2021年12月26日 (日)

間島康子さんが、詩集「六月の雨」と随想集「ハユラコ」

  間島康子さんが、詩集「六月の雨」と随想集「ハユラコ」を刊行した。おそらく批評専門同人誌「群系」の送付者名簿から送られて来たのであろう。記憶があっていれば、「群系」の樋口一葉の評論に高品質なものを感じていたが、「ハユラコ」には、梶井基次郎の評論があるので、興味をそそられた。梶井は同人誌に発表していながら、すでに文壇で知名度があったというのは、珍しいことであろう。時の流れを現象と心の動きと結びつけて、明瞭に捉える文章が文学の本質の何かを示している。伊豆の川に題材をとっている作品が多いのも、それを示唆している。梶井の本質に沿った評論は多くないなかで、よくそれに寄り添った部分があって、なかなか読めるものが収録されている。《参照:間島康子随想集「ハユラコ」と詩集「六月の雨」

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2019年3月10日 (日)

「廃園」(井本元義)を読むことと「詩人回廊」

 「廃園」の井本元義氏とは、面識はないが「詩人回廊」のポリシーに似合った作品なのでここで、紹介した。
 西脇順三郎は、萩原朔太郎を好評価していた。彼の「ボードレールと私」という著書で述べている。「詩とか芸術は宗教的な美辞をもってすれば永遠的な考え方を発見することである。詩は人間の最後の考え方であって、それはつぶした植物の汁みたいなものである。これ以上考えられない考え方である」。
 同署には、さまざま西洋詩人、哲学者の詩論が引用されている。たとえばーーペーターは「ロマン主義的美」という論文で、ロマン主義は「美の欲求」と「奇を求める好奇心」とが結合したものであると定義している。--稀代
美術では、この調和が破れて、奇を求めるばかりであり、ほとんどグロテスクな美というように発展。「悪の花」というのは、グロテスクな花と言っても良い。醜悪と花の美は、遠いものが連結されていることになる。相反するmのが結合して調和するということは、ーー換言すれば遠いものが連結されて調和するということができる。--
  このような現象は、弁証的な変化としても理解できる。

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2019年2月19日 (火)

「社協を問う」(小野友貴枝)の読みどころ(2)

 本書の書評が神奈川新聞に掲載されたという。そこには普段は、知ることのない「社協」内部事情に対する興味が指摘されている。≪参照: 「社協を問う」書評など多方面で好反響
 ここでは、難しい立場から新会長が、行った体質改善の事例を取り上げてみる。フクション形式であるが、事情は事実に近いであろう。
 まず、民間団体の建前であるが、実質的に市の支援があるので、職員には公務員的意識がある。そこで、新会長は、業務への住民のためという意識改革に、職員バッジを作ることを考える。これは、職務の本質を再認することで、クレーマーの対応などに、適切に対応する心構えに役立つ。
 クレーマーは、応対者の言質をもとにさらにクレームを重ねてくる可能性があるので、対応対策の時間を稼ぐために、相手の言葉をオーム返しに繰り返すことも一つの手段である。「〇〇なのはけしからん」といったら、「〇〇なのはけしからん、とおっしゃるので?」、と、自らの言葉を発しない工夫をするのである。
 また、本書では、新会長が、オフィスのレイアウトを変更する。これは、従来の延長ではなくなるということを、職員に強く認識してもらう意味で、有効である。ビジネス界では、管理職が配属替えで、新部署に就任した場合の常套手段とも言える。
 その他、バスの運営の廃止などコストカットの方向付けや、地域の町内会が「社協」の会費を負担することが多く、町内会との事情調査の事柄がある。本書にはないが、他地域では事情の説明不足で、町内会員から疑義が生まれている場合もあるようで、「社協」のへの認識を新たにさせてくれる。(北一郎)


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2019年2月12日 (火)

「社協を問う」(小野友貴枝)の読みどころ(1)

 本書は、公益社団法人「日本看護協会」の常任理事をしていた英田真希(はなだまき)が、地域の「社会福祉法人「社会福祉協議会」(通称「社協」)の会長に任じられ、その改革に力を尽くした記録である。タイトルの「社協を問う」はそこから来ている。≪参照:地域住民と共に「社協を問う」刊行の意義
 地味な存在ではあるが、原則として、民間の立場から社会福祉活動をしているのが、「社会福祉協議会」である。最近は、高齢者社会になって、介護されるものと、する立場の人たちが増えたので、何らかの形で地元の「社協」を知る人も少なくないであろう。
 もとは戦後米国GHQによって発案され、住民による住民のため福祉活動の「社協」が建前だが、実態は自治体の事情に合わせて、その内情は様々である。
 本書は、はからずもそうした各地の比較対象となるような、有益な具体的事例が、語られている。この小説化した舞台は、大山市のケースになっている。
 本書でもまた、ーー市民からは、「社協」はなにをしているのか分からない」とよく言われるとているーーと指摘している。そのたびに「あんないー市社居」ガイドブックを見せるが、「要は市役所の下請け?」と言い返されるというのだ。昔は、低所得者に救援物資を配った時代ならば具体的で分かりやすかったが、今は独り暮らし高齢者支援や、福祉相談、福祉教育、ボランティアの養成などが重要で、なかなか理解されにくいという。
 これでわかるように、市役所の支援の予算が資金の大勢を占めている公務員的なのだ。市長の女性の活躍の方針の具体化に、彼女に白羽の矢が立ったのだ。
 英田は、看護師の世界で地道に努力してきた経歴により、外からの抜擢であったが、組織内では「会長、ナースあがりなんだって?」といわれたそうである。そこには、ナース(保健師助産師看護師)という職業に対する皮肉や侮蔑のニュアンスがあるのだという。
 大山市の「社協」はもとは市の運営であったものを、独立組織にしたのだという。非営利組織であるから、モチベーションが弱い。そこを、地域住民のためにという意識に、緊張感とやりがいをもって働けるようにするか、その改革の具体例が描かれている。
 ここに描かれた幾つかの事例は、ビジネス人にも参考になる、気付いたところをピックアップしていこう。(つづく)(北 一郎)
 

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2018年2月 5日 (月)

紙と電子の推定販売金額、前年比4.2%減の1兆5916億円に

2017年の紙版の推定販売金額は1兆3701億円で13年連続減少。減少幅は過去最大の6.9%、前年より約1000億円減少した。「書籍」は7152億円(前年比3.0%減)、「雑誌」は6548億円(同10.8%減)。雑誌分野では、定期誌が同9%減、ムックが同10%減、単行本コミックスが同13%減と落ち込んだ。
一方、電子版の市場は2215億円(同16.0%増)と伸長した。「電子コミック」1711億円(同17.2%増)、「電子書籍」290億円(同12.4%増)、「電子雑誌」214億(同12.0%増)。紙と電子を合わせた市場規模は1兆5916億円(同4.2%減)。電子コミックと電子雑誌の伸長率は鈍化している。(1月25日、出版科学研究所)(新文化)

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2017年8月28日 (月)

小説新潮、創刊70周年で記念号と環境の変化

新潮社の文芸誌「小説新潮」が8月22日発売の9月号で創刊70周年を迎えた。記念号となる9月号では、「日本の小説」を振り返る特集を100頁に渡って掲載する。巻頭は「文士レアショットアルバム」と題したグラビアを収録。70年の歩みをビジュアルで紹介する年表は14頁にわたって掲載した。井上ひさし、獅子文六、黒岩重吾らが同誌に初めて書いたときの小説やエッセイを収録もする。
同誌の元編集長、川野黎子氏のインタビューや、同誌に最も多く登場した作家、最も長く連載した作品をランキング形式にしたコーナーもある。本体1030円。
編集長は、時代は変わり、新しい作家、若い書き手も次々に現れます。変わらないのは「小説を読む楽しみ」を大切にすること。現代小説、時代小説、ミステリー、恋愛、官能……。ジャンルにこだわらず、クオリティの高い、心を揺り動かされる小説を掲載していきます。ーーとしている。
 たしかに、手軽な値段で、娯楽の時間を過ごせるものとして、長年にわたる役割の大きさはある。年代層にはかつての読者層がデーターベースになっている。
 もうひとつ、小説公募に応募をする作家志望者が読者であった。それが、一時期、雑誌の発行部数よりも多い小説公募数があったり、読まないで公募する人が増えたという現象もある。
  さらに、小説の公募がネットで行われるようになると、公募層の読者が減る。
  若い層は、ライトノベル系の読み物に傾斜するなど、こうした年代層のギャップをどううめるのであろうか。環境の変化に対応するのは大変であろう。

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2017年6月11日 (日)

『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』村上春樹著

小説執筆の傍ら、世に送り出した翻訳書は約70冊。作家の村上春樹さんが自らの翻訳家としての36年の歩みを振り返る。3月刊で2刷2万8000部。主な読者層は20~50代の男女と幅広い。
 小説やノンフィクション、音楽についての文章まで、手がけた一点一点が丁寧に紹介される。J・D・サリンジャーの永遠の青春小説『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の項では〈その魔術的なまでの巧妙な語り口〉に正面から挑んだ感慨をつづる。
 全集を訳した同時代の米作家レイモンド・カーヴァーについてこう書いている。〈僕が彼から学んだいちばん大事なことは、「小説家は黙って小説を書け」ということだったと思う。小説家にとっては作品が全てなのだ。それがそのまま僕の規範ともなった〉。若い書き手が世界的な人気作家へと成長していく道程の、精緻で心揺さぶる記録がここにある。(中央公論新社・1500円+税)
《産経新聞6月10日:世界的作家を育んだ膨大な訳業『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』村上春樹著》より。

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2016年8月15日 (月)

「法政文芸」第12号(2016)2作品に読む時代精神

 本号の特集「表現規制と文学」については《暮らしのノートITO「法政文芸」(第12号)特集「表現規制と文学」で問題提起》にその意義を社会的視点から記した。現在と大東亜戦争前と戦時中の言論統制の歴史的事実を否定的に学んでのこと思える。だが、文学的には、当時のメディアの大本営発表までの経過は、国民が自ら陶酔状態から求めた結果、という視点もある。戦場体験を積んだ作家・伊藤桂一は戦争への反省に足りないものがあると、語ったことがある。
 ところで、掲載された小説の収穫は「僕の兄」(工藤はる花)であろう。作者は女性のようだが、作中の語り手は「僕」である。幼年時代に、兄に連れられて、自転車で見知らぬ遠い場所に連れていかれた記憶が語れる。その時の心細さと恐怖感を味わう。心配した両親のもとに戻るのだが、なぜ兄がそんな冒険をしたか、わからない。「僕は時々、子供と大人が地続きであるということがどうしても信じられない」と記す。ここに、人間の人格形成へのみずみずしい感覚の問題提起が行われている。
 しかも、その作品構成力には、修練された技量をしのばせているようだ。話は、兄が若くして死んだことを葬儀の場を描くことで、読者に示す。弟という立場からそこに至るまでの出来事を思い越す。父母と息子の兄弟の4人家族。兄は、は中学、高校と思春期の成長の過程でつまずき、家出、引きこもりの問題行動を起こす。弟の僕はそれを横目で眺めて、成長過程を問題なく通過する。世間的に普通の「僕」に対し、普通でなくなっていく兄。自死とも事故死とも判然としない自滅死をする。その兄を見る視線は、なかなか普通を超えて、兄の苦しみを不可解のまま、それを否定しきれない心情を描き出している。僕の兄は何が問題だったのか、そこに現代的な家族関係の一般的な自然な姿を浮き彫りにさせる。
 日本が成熟社会に入る以前は、引きこもりをする余地はなかった。経済的にも社会成長のためにも、僕の兄のような存在は、是非もない否定的な問題であった。
 成熟社会を迎えた今、「僕」は兄のことを考え、なにかを理解しようとすることで、心の整理をつけようとする。かつての、前肯定でなければ全否定という対立関係での発想でなく、相手のなにかを理解をしようとする存在否定をしない社会文化の変化を感じさせるものがある。
 小説「人生コーディネーター」(中橋風馬)は、まさにITアプリケーション技術の発達が素材になっている。真人は、何事にも「ニーズに対応したシステム化」が日常生活に応用され、何事にも問題や不利益を回避し、順調にいくアプリを使う。ところが、アプリ使用の終了後も、独自にアプリケーションは、真人の行動を情報収集し続けて、彼の行動をコントロールしていることがわかる。
 多かれ少なかれ、我々は自分のために多くのシステムを活用し、そのなかで生活している。それが、地球温暖化現象となって、何事にも破綻があることを示している。しかし、それを押しとどめることができない人間性を浮きただせる話になっている。
紹介者=「詩人回廊」伊藤昭一。

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2015年8月18日 (火)

文芸誌「法政文芸」第11号(東京)

 法政大学の国文学科の別冊である。読みどころは「暮らしのノートITO」で紹介した。文芸コースから大学院の文芸創作プログラムに進んだ修了生・くぼ田あずさ氏が、第9回小説宝石新人賞を受賞したという。基礎的な文章表現力では、洗練されていて当然だが、娯楽物系への対応性も見せるというのは興味深い。
【「マリアへ捧ぐ眼」飯村桃子】
 主人公の学生「私」は、モスクワに短期留学する。現地での教会のマリア像の詳細なイメージと、生々しい存在感と美。「私」は、宗教に詳しくない、とあるのでクリスチャンではない。そこで見たキリストか、とも想わせる汚れにまみれた男との出会い。この観察的な表現と、心象イメージの拡張は何なのか。孤独と不安の実存的なイメージが感じられる。そして、帰国すると認知症になってしまった祖母。きめ細かい感覚の表現力は読ませる。具体的な生活上の細部でてくるが、それで「私」の実存的な存在感が高まるかというと、そうでもない。存在の危うさや孤独への内面的追及性が軽くなっているような気がする。
 とはいえ、人間の実存的な存在感の表現にせまろうとした作品に読めた。ちょっと、形でいえばリルケの「マルテの手記」を感じさせるところも。
【「群青の石」北吉良多】
 東武東上線の沿線の埼玉のどこかに家族と共に住み、東京の大学に通い、池袋にあるのかどうかはっきりしないが、中学生塾の講師をする主人公。就職活動は、うまくいかず、すこし焦りがないでもない。恋人がいてお泊りなどもするが、彼女と結婚することは考えていない。
 塾の生徒に、周囲から浮いて孤独な女子中学性の井崎がいる。ほかの講師仲間は、扱い難いと彼女を敬遠するが、主人公は内向的な彼女を気にはするが、それほど苦に思わない。
 井崎はその孤独な生活から、学校ではいじめを受けているらしい。そこで、東京に出ると言いだす。環境の変化への挑戦である。なんとなく生活し、就活をする主人公の自分自身への不満、未来への不安とそれが重なる。
 主人公は「心理学」を学んでいるが、現代の大学生性のなかで、自宅通学型の典型的学生生活状況がなかなか面白い。「心理学」では、職業選択での志望企業に茫漠としたものがあるのであろう。その茫漠さに主人公は不満をもって変わりたいと思う。「僕は真面目に生きたかった。狂った歯車を正すことはそんなに簡単ではない」と思う。就職すれば、日本的ビジネスカルチャーの社会的役割演技に適応するために奔走するのであろうが、大学生活のモラトリアム性への違和感への表現と読めた。
発行所=法政大学国文会。発行人・勝又浩、編集人・藤村耕治。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2015年6月26日 (金)

徳田秋声の再評価か

鏡花と同じ紅葉門下で、浅野川べりの旧居跡近くに記念館が立つ徳田秋声(1871~1943)の影は薄い。ノーベル賞作家の川端康成は、秋声が1939年に第1回菊池寛賞に選ばれた際、「現代で小説の名人はと問はれたならば、これこそ躊躇ちゅうちょなく、私は秋声と答へる」とまで評価している。元芥川賞選考委員の古井由吉氏も「男女の日常の苦と、とりわけその取りとめのなさを描いては右に出る者もいない」と語るなど、プロの評価は高い。2月刊の佐伯一麦著『麦主義者の小説論』でも、秋声の<世間の塵労>を身にまとったすごみを伝えているが、人生をあるがままに描く地味な作風もあり、一般ではあまり顧みられていない。
秋声の作品に光>読売新聞4月24日。

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