2020年2月16日 (日)

伝達に有効な現代的な文章と文語体

  モダンガールをモガ、モダン男はモボといった時代はまさにモダン社会である。その時代から、文学的文章は、尾崎紅葉や泉鏡花の文語体が、口語体にかわってきたようだ。徳田秋声は、その時代を潜り抜けて、現代に伝達可能な文章で表現した。当初、そのことに気付くことなく、その描写力にひかれて「仮想人物」を読み、山田順子のことに興味を持った。《参照:徳田秋声「仮装人物」が描く山田順子の人間性(14)伊藤昭一》 出来事は、現代の芸能人の男女関係のように世間から興味を引いた。いまの作家にはそのような存在ははない。菊池寛は、昭和12年にモダン日本社から「文章読本」という著書のなかで、具体的な事例で有名作家の文章を紹介し、独自の見解を述べている。そのなかで、徳田秋声については自然主義文学のひとりとして名前だけをあげて、とりたてて論評がない。菊池寛の主張には哲学的ないみづけに興味があり、徳田は無思想的なさkkとして興味を持たなかったらしい。このところ、亡くなった野球の野村克也氏の言行をビデオ記録してあるのを観た。そのかで、データー観察の要所は、味方のチームにも教えてはいけない、と悟った出来事を語っていた。自分は、このブログで、何を語ったらいのか、困る時がある。そこで、自分には、自分なりの観察の視点があり、それをただで公開する必要がないという、発想があることに、気づいた。まだ秘密事項を意識するうちは、内心で何かを書き越したいという、意欲があることであろう。

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2020年2月 1日 (土)

文の修業は観方の修業

 徳田秋声の描き出した山田順子の人物像によって、幼少期に周囲から愛情を豊かに注がれて育つと、卑屈になるという姿勢がとれなくなる。自分に絶望することができない性格を育てるということを指摘している。《参照:徳田秋声「仮装人物」が描く山田順子の人間性(12)伊藤昭一》つまり、子供が生まれたら、充分かわいがり、ちやほやして育てれば、人間性が豊かな人間になる可能性をもつー、ということだ。自分には、二人の子供がいるが、2番目は最初の子が物心の付き始めた時期に生まれた。そこで失敗をしていた。生まれたばかりの子供は何してわからないのだから、そこはいい加減にして、最初の子供に最大の関心をもって、第一にかわいがるべきだった。上の子から、あの時は、両親の愛情を取られたともって、寂しかった。赤ん坊の妹が憎くなって、大嫌いだったーーときいた。なるほどと、それからは、人の性格をみるのに、この人は愛情が足りて育ったか、愛情不足の育ちをしたかーという観方をすりようになった。徳田秋声の「仮想人物」の表現法のポイントを強調しているが、そういう観点を与えてくれる書き方だと思う。この評論はその意味で役に立つと思う。そこに、書くモチベーションがあるので、読者から多くの助言をもらえて、それを取り入れた結果、長くなったのでである。菊池寛は「文章読本」(モダン日本社)で、「観方の訓練」として、「文の修業は観方の修業」としている。この観方の視点を自分は重要視する。ものを書くときに、書くことがないのに、無理にかいている事態は多くの人に見られる。そのことを自分で意識するかしないかが、観方を造るひとつの要素であろう。

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2020年1月25日 (土)

相模原市の施設の殺傷事件の推論

 植松被告が法廷で、人類繁栄のためにやった、と解釈できるような、行為の正当化する発言をしたとメディアが報じている。思想としては理屈になっている。その趣旨に、反感を持って受け取った人と、戸惑いを感じる人がいることだろう。自分は、彼が物心ついた時期からその思想があったのだろうか? と考えた。おそらく、そうではないであろう。それと成人してから生活のために施設に就職したと述べた、という情報がある。生活費を得るために就職するならば、なにも施設に勤める必要はない。ほかの仕事も選べたはずである。このことから、彼はある時期から障碍者の存在を気にしていたのではないか、と推察することができる。人間は先天的に真・善・美への価値観をもつと考えられている。要するに、その価値観を感情のなかに取り込む能力をもつ。そうとすると、健常者が障害者に接した時に、なんらかの感情が湧く。まず「可哀想」。それと可哀想だが自分がそうなったら困る、いやだという、恐怖感も持つであろう。自分がひとつの仮設として考えるのは、植松被告は、自分はそうのような運命にありたくない、という恐怖感を抱えていたのではないか。その無意識の恐怖感を抑えるために、自分の納得する理屈を考え、行動したのではないか?という推論が成り立つ。実際は障害者は、人類が絶滅しないための備えとして、存在しているという発想もある。例えば、集団で多くの健常者とされる人々が、過酷な環境に置かれたとき、一斉に同じ行動をしたならば、それが誤りであったならば、全滅する可能性もある。しかし、それと全く異なる障害者とされる人がいて、行動を別すれば、その人たちは生き残る可能性がある。そのために障碍者とされる人が生まれるように、人間に仕組まれているもかも知れないのだ。近年では、福島原発事故の際、飯館村の人たちは、放射能から避難したつもりで、放射能のホットスポットに入り被ばくしてしまった。もし、放射能が強かったら、全滅していたかも知れない。しかし、そのなかに、わけのわからない障害者とされる人がいて、「自分は、そっちに行きたくない、別の方向に行く、と主張して実行したとすれば、彼は生き残る可能性があるのだ。そして、人類の存続を維持しることができる。著者宣伝サイト《「文学が人生に役立つとき」(伊藤昭一)の目次と解説

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2020年1月24日 (金)

スマホに切り替えるか、ガラケーの両方を使うか

  たまたま楽天モバイルの記者会見が東京・恵比寿店であったので、行って見た。そこで、無料サポーター体験者を募集していたので、早速、申し込んでみた。ガラケーしか持っていないので、新規申し込みで、楽天会員になった。《参照:ガラケー&スマホへ!楽天2次「無料サポーター」に応募 》応募者の抽選があるのだが、2万人の応募があり、すでに締め切ったという報告がガラケーに入ってきた。これで、無料体験の対象者になれば、スマホになれて切り替え可能になる。もし、対象者になったら、スマホ形態電話に移行することも考えている。電車やバスのなかでは、スマホを見ている人が多い。なぜ、そんなに見る必要があるのか、不思議だ。実際に自分も体験してみたいと思う。現在の自分は、乗り物に乗ったときは、送られてきた同人誌雑誌を読んでいる。それが、スマホになると、そうでなくなるのか、試してい見たい。今は、関西のわりと純文学系の同人誌を読んでいる。総じて、同人誌作品は、レベルは高いものでも、書き出しの1ページは、まったく余計で、読まなくてもよい書き方になっている。だれが、どういう理由で無駄話から始まるようにしたのか、あるいは、なぜそうなるのか、自分には謎である。同人雑誌は、団塊の世代が次々と参加してくるので、ないと思う。ただ、こうした読まれない書き方を踏襲しないとよいのだが。

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2020年1月17日 (金)

「詩と思想」2020新人賞に黒田ナオ氏

 先日、「詩と思想」誌の新年会に参加してきた。《第28回「詩と思想」新人賞に黒田ナオ氏!新年会と贈呈式 》自分は亡き伊藤桂一氏が審査委員をしていたので、そのころから参加し、伊藤先生と情報交換をしていた。先生の亡きあとも、参加して今回にまで至った。不思議なことに?参加者の数は減らない。盛会である。いろいな方々が、挨拶をしていたが、リルケなどの翻訳をしている神品 芳夫氏(ドイツ文学者、詩人。東京大学教養学部名誉教授)が、現代は、オリンピック、パラリンピックの行事で世相は盛り上がっているが、同時にナショナリズムで国民を巻き込む力に利用されぬように警戒すべきであろう、と述べていたのは、共感するものがあった。

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2020年1月13日 (月)

近代(モダン)文芸同人誌の原点

 文芸同人誌の原点について理解できるのが、菊池寛の出世作「無名作家の日記」である。《参照:「無名作家の日記 (六) 菊池寛》伊藤の評論「文学が人生に役立つときー菊池寛の作家凡庸主義と文芸カラオケ化の分析」の中でこれを読むうえで、事例として一部抜粋したが、文学フリマで販売している時に、「無名作家の日記」を知らないということで、質問を受けたので、正月の会員投稿の少ない時期に、連載して全文を「詩人回廊」に掲示することにした。本当は、最終の文章が一番重要なのだが、同人誌などの作品を読むと、文章芸術に関する認識について、当時の菊池寛よりも、ロマンチックなのがあり、まだモダン文学以前に戻ってしまったのが、ポストモダンなのかも知れない。

 

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2020年1月12日 (日)

アウトサイダーとしての山田順子の生き方

 文芸評論で、読んで役に立つものを目指して書いたのが、《参照:徳田秋声「仮装人物」が描く山田順子の人間性(7) 》である。ここで着目したのが、順子(ゆきこ)の幼少時の体験である。蝶よ花よと、周囲から過剰なほどの愛情を浴びて育った。そこから、自分は彼女は自分の存在が理屈を超えて、尊厳をもつということに疑いを持つことがなかったようだ。これは、人間の尊厳意識について、無意識の中に埋め込まれているもので、後天的に学習するもでないのではないか、という発想がある。であるから、他人からその自己肯定ぶりを批判されても、なんでそのような批判を受けるのか飲み込めない精神構造ができているのではないか、ということである。現代の通り魔的な「誰でもよかった」という発想や、相模原の障碍者殺害の思想も、幼少期の愛情不足のようrのではないか? という仮説も成り立つ。自分は、こりん・ウィルソンの「アウトサイダー」のなかに、アウトサイダーとされた人物の多くが、幼少期に周囲から深い愛情の包まれて過ごしたという指摘に注目。自己肯定感というのは、そうした時期に無意識に精神に埋め込まれていたのではないか、ということを思ったものである。そこから他人に批判されてもめげない自己存在感をもつのではないか。その発想から書いてい居る。

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2019年12月22日 (日)

書き足し評論の試み

 当初は、短いものであったのが、読者の意見などを参考に書き足していったのが、徳田秋声「仮装人物」が描く山田順子の人間性 である。基本は徳田秋声の表現力によって、山田順子という女性の性格を論じ、その自己肯定ぶりを指摘したものだが、それに付随して読者の意見を参考にして調べて見たら、長くなった。まだこの続編が書けるかもしれない。

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2019年12月20日 (金)

「第6回医師たちによるチャリティコンサート」を聴いて

  音楽という手段で、何をどう表現するか、何を語るかということこそ、演奏のおいて最も大切なことと考えます。これは「第6回医師たちによるチャリティコンサート」に、出演した医師の言葉である。第1回の時は、応募者もすくなかったのと、周知されていなかったのか、医師会会館講堂の会場は空席が多くみられた。全国から修練した音楽表現を観賞できるのは、大変稀有な体験である。久しぶりに、生演奏で音楽に浸る時間をすごした。《参照:医師達のチャリティコンサート2019風景》第6回目となって聴衆席は満席であった。プロなみの表現力とプロにはない、1回だけの演奏に情熱をかけてきた全国からの選ばれた演者の情熱が伝わって、風変りの音楽体験ができた。あると思われたものは、すでにそこになく、「色に住して心を生ずべからず、声香味触法に住して心を生ずべからず、まさに住する所なくして、しかもその心を生ずべし」(「金剛般若経」より)。

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2019年12月17日 (火)

新美南吉と石川淳の同時代性

 「キツネの手袋」など童話作家として知られる新美南吉だが、内心では大人向けの小説家を目指していたようだ。たまたま、石川淳が「普賢」で芥川賞を受賞したときに、彼は日本文学の本流ではなく、傍流の作家だと思う、というようなことを日記に書いている。自分はそれで二人が同時代に作家であることを知った。石川淳は、坂口安吾などと交流があって、無頼派とされているが、「酒をのんだ時は、書かない」とっ語っていたし、だれかとの文学対談で相手が、Aという作家がBという作品を書いているがーーとか話を向けると。それを読んでいない石川は「知らん」ときっぱり言って、話に乗らない。思わず笑ってしまうまじめさがある。無頼なのは疑似私小説における作品の主人公の「わたし」であった。自分には、作風が傍流であるようには思えない。

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