2020年4月 1日 (水)

同人文芸の二つの機能

 「K」という生活作文的雑誌の話が、面白いかどうかはわからないが、まだ伝えてもいいかな、と思うことがあるので、続けて見る。自分は普通の人が、物を書くのは、作文に神経を注いでいる間の無心な充実感だと思う。それから誰かにそれを伝えたいと感じても、一人で雑誌を作るのは経費の負担が大きい。そこで同人仲間を造れば、費用分担になるし、読者になってくれる。実際に、「K」の会は、H女史の指導によって一時、250人にもなり、新年会をやることにしたら、当時の上野の会館を借り切って満席だったっという。しかし、その割には雑誌「K]に寄稿する人は毎月30人程度だったので、会費が余り、それを印刷費にあてたから、掲載者の負担を軽くできた。20年間400字を300円でやっていた。書きたい人の共済システムが機能した。そういうものであったので、時代がかわり経済成長時代になって、夫人も恒例になり、役割を終えたとして、その時点で解散した。それまでの間に、作文の会から、純文学で新潮文学新人賞をもらった人が出た。たしかに、純な心で自らの心情を吐露したものは、みな美しい文章でそれを書いていた。その時代の人たちのような文章に、現在文芸同人誌で出会うことはない。自分より少しはましであるにしても、濁りがある。自分は、H女史の指導によっても文才のなさを実感してきたので、いまでも、文章感覚の優れた人のものに気持ちを惹かれるし、敬意を抱かざるを得ない。H女史が、会を解散したので、残った会員たちが「砂」という同人誌を始めた。自分は、すでにメーカーのPR誌や団塊の世代の商品販売プロモーションカタログ説明などに時間がとられ、そのいきさつは知らない。ただ、「砂」を運営している女性から、H女史が、自分のことをしきりに話題にしていいたという。そこで、運営者がその男を入れないのは、「砂」の存在が、「K」の継承と認められないのではないか、と不安になるので、入会をしてほしい言ってきた。自分は、原稿を書かない人でも、会費を納め共済的なものを維持するなら良い、と入会した。その時には、「砂」には江戸川乱歩に認められ「宝石」に作品を書いている笹沢佐保と同期の人もいた。この同人文芸のシステムの維持のためには、書かないで長年会費を納める人がいないと、会費が蓄積できず破たんする。「砂」の時代には、掲載費が安いので入会して大量い書いて、すぐやめてしまう人が続出した。心の濁った人たちの文芸の時代になったと、いまでも怒りを覚える。「砂」とは付き合うだけの関係が続いた。

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2020年3月29日 (日)

読者は一人でよい。書くことそのもので心を満たす。

 「K」という同人文芸誌は、書いた会員には、主催者H女史が必ず寸評をくれ、文章の直し方を教えてくれたものであった。そのため会員は全国に増えていった。おそらく、会員の多くは、H女史に向けて心の打ち明けていたのであろう。記憶では内容は、戦後、食糧不足のために郊外に自分の着物とイモ類の交換に出たところ、尋ねた農家の男に身体を要求され、やむを得ずそうした、というような懺悔と屈辱と後悔の念を吐露したようなものもあった。書き手にとって、読者は女史ひとりでよかったのであろう。男性の会員も増えて、リヤカーで野菜の移動販売をして家計を支えている話などもあった。合評会のようなものも行っていたが、自分は時間が取れず、参加することは少なく、自分の都合のよい時に主催者宅を訪問して、個人的に会合の様子を聞いていた。同時に、女史の夫である職業作家のS氏も席に加わることがあって、S氏とも親しくなった。そのうちに作家のS氏の指導を受けたい、という会員も出てきたらしく、「K」という会員のなかに、作家志望者派と、生活作文派が別々の雑誌を発行するようになったようだ。そこから、S氏を中心とする集団ができ、自分もそこに誘われ中編小説を書いて提出した。そうしたらS氏は「君はねえ。プロットなどドラマ性をもたすのは、いいが、文章が下手だね。文章が下手では、もうだめだよ」と言われた。たしかに、周囲の人と比べても、文才はがないのがわかった。そのことで、自分の物書きの原点が生まれた。文才がないのであるから、どうして文才のある人と対等なものを生み出すか、という方法意識である。それから自分は、夜間大学に通いながら、通信社や新聞社でアルバイトをし、10年ほどして、結婚したが、仲人役をその作家夫妻にお願いした。その時に、S氏は「文才のない人間が、物書きの世界に入ったのは不思議だ」というような話をされたのを覚えている。

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2020年3月28日 (土)

同人文芸の原点は、心の空虚を埋める役割

 文芸同人誌が職業作家になるための手段というイメージがになったのは、近代(モダン時代)のことで、そのいきさつがわかるのが、菊池寛「無名作家の日記」であろう。ここでの肝は、次の終章にある。---そうするとシェークスピアの戯曲や、ミケランジェロの彫刻は蚯蚓にわらわれるかも知れない)なんという痛快な皮肉だろう。天才の作品だっていつかは蚯蚓にわらわれるのだ。まして山野なんかの作品は今十年もすれば、蚯蚓にだってわらわれなくなるんだ。《参照:無名作家の日記 (14・完) 菊池寛 》文芸が社会における自己存在の証明として利用されていることがわかる。ところが、自分はこの作品の存在は、同人誌の存在を知るずっと後から見つけたのである。1957年頃、17、8才であったが、詩を書いていて、それは萩原朔太郎の真似たものを書きたいと思い、詩と作文を教えるという女流作家のもとを訪れた。すると、ご主人も直木賞候補に幾度もなったが受賞することなく、講談社に大衆小説を、新潮社に戯曲などを発表する職業作家であった。だが、その夫人であった先生は、婦人公論などにも執筆していて、感じることがあったという。それは、なにかというと、「あなたはわからないかもお知れないけれど、米国との戦争に敗れて、食うや食わずの生活に追われて、家庭を守ってきた主婦の方々はね、衣食住が整うと、いったい自分の人生って何だったのだろうと、心に穴が空いたように、空虚感に悩まされているの。その女性たちのために、生活のその思いを、作文したものをガリ版の小雑誌しているの。」というのであった。そして、そうした原稿をもっと集めるために、新聞の読書欄に原稿募集をかけたのだという。「あなたは、女性の名だったので、彼女にしようとでも思ったのでしょうけど、母親みたいなもので、残念でしょうね。でも、あなたの持ってきた詩はは、まあ、朔太郎には似ても似つかないものだけど、良い出来ですよ。会員になって、発表しなさい」。「はあ、苦しい時期をの乗り越えると、心が空虚になるのですか」と応じたものだった。(あとになって、それがポストモダンの始まりであったと思えるのだ)。その後「K」という同人誌文芸として、存在感を高め、生活日誌の発表誌として、拡大していった。無着成恭の「綴り方教室」の熟年版であったとも言える。それが、の同人文芸の本質であると思うのである。

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2020年3月 1日 (日)

退屈と愛情不足感が生み出す気分

 人は、退屈する動物であり、愛情を内包することを必要とする。自分が文学作品から得た表現のなかで、このことを感じた。社会的な事件を起こした人物の情報を得ることに、その人の内面的な空虚さや、退屈感を推しはかってしまう。同時に幼児期に愛情の不足がなかったのか、などを考えてしまう。そうした観点から生まれたのがこの評論である。《徳田秋声「仮装人物」が描く山田順子の人間性(16)伊藤昭一》。すでに、文化的な表現の主体は、視覚的な映像イメージに奪われてしまったが、文章による表現の独特のものは、哲学的な抽象表現世界との連結において、優位性は揺るがないように思う。

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2020年2月29日 (土)

文芸技法・小説の書き方=穂高健一

   現代的な小説と自己表現のでの作文の分類がここにある。《「穂高健一の文芸技法・小説の書き方」② 「わたし、書きたいものが一杯あるのです」》。穂高氏は、文章教室の講師もしているので、このようなコツを披露している。自分も読んで参考になるが、やはり「伊藤桂一小説教室」で学んだことと共通するものがある。ここでは、自己表現の範囲の作文は、対象外となっている。広く読者を獲得するための小説のノウハウである。ところが文芸同人誌には作文が圧倒的で多く、その場でで作文家を除いたら、同人雑誌成立し難い面がある。そういう意味で、自己表現としての作文を避けることはしていない。ただ「この作者は小説を書いたとおもっているらしいな」という感じはする。自分は、作文家であるのか、と教えられたのが、以前いに住んでいた地域新聞に、その街の情景を描く作文を書いていた時代のこと。近所の立ち飲み屋に寄ったときに、そこの女将さんから、「あなたの作文、読んでますよ。いいですね」と言われた時である。自分は散文詩の一つの手法を使ったともりだったが、なるほど、自分は作文家であるのだなと納得した。 

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2020年2月28日 (金)

人混みを避けた外出の川辺歩き

 コロナウィルス汚染の蔓延防止で、やたら人の集まる場所にはいかない方がよい、という世間の気分に合わし、最近は多摩川を歩く。そこで、堤防強化工事をしているのを見た。《参照:「矢口の渡し」旧跡付近多摩川築堤で「鋼矢板」工事が進捗 》これは土盛した堤防の下部に、鋼板を打ち込む工事である。これは、昨年各地で堤防が破れて洪水被害を生じたことの原因からきた対策であろう。全国的にこれを行うと、今年の台風シーズンも少しは安心なのであるが。それにしても、木にひっかかった草や枝の様子は、よく見ると芸術的である。こんどは、その側面から流木をみるために歩いてみよう。

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2020年2月25日 (火)

文学作品創作の原点=品質と読者数とは関係が薄い

  菊池寛の出世作「無名作家の日記」を詩人回廊に連載しているそこには「創作ということが、ある人々の考えているように絶対のものなら、なぜに人はただ創作するだけで満足することができないのだろう。佐竹君のごときは、六百枚の長篇を書き上げたことそのものによって、十分芸術欲を満足していなければならないはずだ。」《参照:無名作家の日記 (12) 菊池寛 》とある。現代では、純文学作家の多くが、大学などへ勤務している。自分は「文芸カラオケ化の分析」(「文学が人生に役立つとき」)の著作の前知識として、読んでいてほしいので、連載をしている。青空文庫で読めるものなので、著作権にかかわらない。

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2020年2月24日 (月)

幼少期の経験を反映ー同人誌作品で読み取れる

 長々と連載で再掲載してきた。実質的には今回で伝えるべきことは終わっている。あとは吉屋信子の山田順子論である。その表現力の巧さで、これは自分の論より数倍面白いと思って、取り上げなかった。ところが、修正前の作品を読んだ読者から、吉屋信子の評論を扱っていないのは、バランスを欠く、追加して書き直した方がよいと、その部分をコピーして送ってくれた。そこで、この章のあとに追加しただけである。《参照:徳田秋声「仮装人物」が描く山田順子の人間性(15)伊藤昭一 》自分は、送られてくる文芸同人誌の作品を読むときは、この評論のような読み方をしている。その人が人生で、どのような発想で生きてきたかを、推察する。そのため、それが作文であるか、文章芸術の範囲であるかは、匂わすが、批判的なことはしない。人生いろいろ事情によって成り立っているからである。もともとこれを書くヒントになったのは、「文芸時事月報」を発行している時に、著作権の侵害問題で記事の概要を書いて、販売するのは(当時は、新宿「模索舎」と中野「タコシェ」で販売していた)けしからん。使用料を払えという訴えがあったからである。そこで、近所にいた評論家の浜賀知彦氏に相談したりした。その基準を話し合っているうちに、「馬込文士村」を書いた榊山潤の夫人の話が、地域誌に掲載されていることを知り、それを読んで、世界文学の潮流と日本の文学との関係を結びつけるヒントになった。それはともかく、著作権の問題は面倒なことが多く、このブログに広告が出ないのは、非営利活動なのを明確にすることで、文句が出にくくするためである。

 

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2020年2月16日 (日)

伝達に有効な現代的な文章と文語体

  モダンガールをモガ、モダン男はモボといった時代はまさにモダン社会である。その時代から、文学的文章は、尾崎紅葉や泉鏡花の文語体が、口語体にかわってきたようだ。徳田秋声は、その時代を潜り抜けて、現代に伝達可能な文章で表現した。当初、そのことに気付くことなく、その描写力にひかれて「仮想人物」を読み、山田順子のことに興味を持った。《参照:徳田秋声「仮装人物」が描く山田順子の人間性(14)伊藤昭一》 出来事は、現代の芸能人の男女関係のように世間から興味を引いた。いまの作家にはそのような存在ははない。菊池寛は、昭和12年にモダン日本社から「文章読本」という著書のなかで、具体的な事例で有名作家の文章を紹介し、独自の見解を述べている。そのなかで、徳田秋声については自然主義文学のひとりとして名前だけをあげて、とりたてて論評がない。菊池寛の主張には哲学的ないみづけに興味があり、徳田は無思想的なさkkとして興味を持たなかったらしい。このところ、亡くなった野球の野村克也氏の言行をビデオ記録してあるのを観た。そのかで、データー観察の要所は、味方のチームにも教えてはいけない、と悟った出来事を語っていた。自分は、このブログで、何を語ったらいのか、困る時がある。そこで、自分には、自分なりの観察の視点があり、それをただで公開する必要がないという、発想があることに、気づいた。まだ秘密事項を意識するうちは、内心で何かを書き越したいという、意欲があることであろう。

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2020年2月 1日 (土)

文の修業は観方の修業

 徳田秋声の描き出した山田順子の人物像によって、幼少期に周囲から愛情を豊かに注がれて育つと、卑屈になるという姿勢がとれなくなる。自分に絶望することができない性格を育てるということを指摘している。《参照:徳田秋声「仮装人物」が描く山田順子の人間性(12)伊藤昭一》つまり、子供が生まれたら、充分かわいがり、ちやほやして育てれば、人間性が豊かな人間になる可能性をもつー、ということだ。自分には、二人の子供がいるが、2番目は最初の子が物心の付き始めた時期に生まれた。そこで失敗をしていた。生まれたばかりの子供は何してわからないのだから、そこはいい加減にして、最初の子供に最大の関心をもって、第一にかわいがるべきだった。上の子から、あの時は、両親の愛情を取られたともって、寂しかった。赤ん坊の妹が憎くなって、大嫌いだったーーときいた。なるほどと、それからは、人の性格をみるのに、この人は愛情が足りて育ったか、愛情不足の育ちをしたかーという観方をすりようになった。徳田秋声の「仮想人物」の表現法のポイントを強調しているが、そういう観点を与えてくれる書き方だと思う。この評論はその意味で役に立つと思う。そこに、書くモチベーションがあるので、読者から多くの助言をもらえて、それを取り入れた結果、長くなったのでである。菊池寛は「文章読本」(モダン日本社)で、「観方の訓練」として、「文の修業は観方の修業」としている。この観方の視点を自分は重要視する。ものを書くときに、書くことがないのに、無理にかいている事態は多くの人に見られる。そのことを自分で意識するかしないかが、観方を造るひとつの要素であろう。

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