ちょっと、時間が空いてしまって、師の論評の記憶が定かでなくないっているが、骨子だけでも記録しておこうと思う。「寸編小説」という名称が当会から発祥したものであることの記しにもなるし。
作品は本来、縦書きである。
「寸編(すんぺん)小説から」
「棘と犬」
家に戻ってから、薬指の外側が痛むのに気がついた。見ると棘である。蒸し暑い宵に、散歩というより、路地をさまよい歩いてきた。私は畳に胡坐を組み、歯で棘を抜こうとする。普段は女々しい細い指だと思っていたが、歯をあててみると、それでもなかなか骨張っている。ふと、もっと優しくて細い女の指の棘を抜いたことがあったのを思い出した。あれは二十代の前半の頃だ。ある女性と交際していた。恋愛だったのだろうか。いや、人は欲望が先で、それを蔽うためのもっともらしい理屈をつける存在だ。彼女はそれを知っていた。知らないでも感じていたろう。私が強引にホテルに誘ったとき、彼女は抵抗し、路地の生け垣にしがみついてしまった。声をあげずに顔だけが泣いていた。私はあきらめて、謝らなければならなかった。仲直りをしたが、その時彼女の指に棘が入ったのである。私たちは帰りの駅まできて、ホームのベンチに座った。彼女の指を吸い、時間をかけて棘を抜いてやった。ところが、それからすぐに彼女が、さっきのホテルに行ってもいいわ、と言いだしたのである。私は不可解に思って、それを受けつけなかった。ずっと後になって私は彼女に、あれはどうしたっていうの? ときいた。だってあの時、私たちの前を背中の丸まった老婆が、ゆっくりと歩いていったの。目が宙を見つめていた。地上を歩いているようではなかった。通ってきた時間の道を見つめていたわ。それに気がついたら、急に怖くなって、もうどうなってもいいと思ったの。そんな彼女は、間もなく私から去って行った。彼女はぴんと張った弦のように生きていた。しかし、私は飼い犬のように愚鈍であった。そんなことを思い出しながら今、独りで指の棘を抜こうとしている。
☆
伊藤桂一師の論評
「恋愛と欲望にからめて、読ませるところがある。声を出さずに顔だけ泣いているところは、効いているよ。ただ、女性は気が変わった理由のところ以下は、むだではないかね。要らない気がするなあ。いらないよ」
北一郎の反省=伊藤先生の含蓄と明晰さを求める感覚からすると、たしかに、女性の気が変わった理由以降は、書いていても俗に流れていると感じるのであろう。含蓄を消し、雑物がはいる。工夫がないというか、だれている。それも仕方がないと俗的な要素を確信的にいれた。自分の自然な発露はこの程度のものという居直りがある。同時に「寸編小説」は詩そのものでないので、もっと気楽に書くことを楽しむ遊びと甘さがあっても良いと考えている結果でもある。
また、犬に関しては、自分は若い頃、性格的な問題や家庭の事情、自律神経失調症という当時はハイカラな持病などにより、会社を首になったり業界追放など「バガボンド」的に10種以上の職を転々とした。その失業中の自分を「野良犬」という自意識で自由な部分を楽しんだ。そうしたことから、首輪のついた犬をみると、どんなに着飾っていても、可哀想で惨めに見えて仕方がない。また、行きたくない面接に行って、えばった人事担当者をみると、そのネクタイが太い首輪に見え、吼えているように、リアルな妄想にとらわれて仕方がなかった。笑いそうになるのを必死でこらえた経験からきている。すると、面接官はそれがなんとなく、わかるらしく、不採用をほのめかすのである。それじゃまずいのに、面接を終えて、まだしばらく野良犬だなあ、と内心で喜んでしまうことの繰り返しであった。いまでも、首輪のついた犬を見ると、気の毒に思う。
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