2017年3月22日 (水)

文芸同人誌「石榴」第18号(広島市)

【「特別な体験」木戸博子】
 戦後間もなくの小学生時代「私」のいじめの出来事体験と、それに関係した人々のその後の人生を、44年後の同窓会での級友の動向を知る。いじめる側といじめられたと思う側のそれぞれの思い込みがわかってくる。
 いじめといっても、現在のそれとは社会的背景と性質が異なるので、ひとつの精神的な状況をフクションで描いたものと思われる。これだけ年月を経たあとでの級友関係の意識は、あまり現実的に受け取れないものがある。しかし、持ち前の文学的に物語を創る力技で、特別な世界の時別な体験として、破綻なく筋を通している。
【石榴俳句館「佳き日よーー気まぐれ旬日記」杉山久子】
 俳句や短歌は若い層にも一定の支持を得ており、若者の多い文学作品フリーマーケットでも、このジャンルには人だかりが絶えない。社会の伝達技術が、スマホのチャット化など、変化して短い文になっていることに対応しているのであろう。ここでの俳句はソフトでライト的で、親しみやすい。――風花や塩振ることのあと幾度――句が議論になったそうだ。世代間の文化世界の断絶を思えば、むべなるかな。
【「『開眼の一日』いちご寒―ロバート・P・オーエン」木戸博子】
 知らない作品だが、少年時代の事件と行為に意味を、40歳代になって再認識するという構造の話で、その手法は、前記の「特別な体験」と共通してるように思える。良い解説になっている。
【「君のふるさと再び」篠田賢治】
 万葉研究の歴史散歩の話。京都の歴史的建造物と当時の人物を若い女性たちに、解説する。ライトノベルに馴染んだ若者にも良い読み物であろう。
発行所=〒739-174広島市安佐北区亀崎2-16-7、「石榴編集室」
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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2017年3月 3日 (金)

文芸同人誌「文芸中部」104号(東海市)

 本誌は、書き手の手腕が粒ぞろいで、安心して読める。ほとんどというか、「ほぼ」というか、商業誌の読物雑誌と同様の読み応えが得られる。これだけの書き手同士が合評をしてきた成果そのものであろうから、他の書く人たちに何らかの参考になるのは確か。
【「影法師、火を焚く」(第5回)】
 全体像は分からないが、細部に仏教世界やダンテの「神曲」などの素材が組み込まれ、その部分だけでも、考えさせられる。谷川雁まで引き合いにだされる守備範囲の広さをもって縦横無尽の面白さがある。
【「六甲変動」蒲生一三】
 阪神大震災以来、断層地帯であるのを実感させられたが、一帯の古代からの断層の歴史がわかる。そうだったのか、である。
【「生きている」朝岡明美】
 老境に入った父親は75歳。独り暮らしであったのが、倒れ入院。娘、息子たちは病院に見舞いに行く。それぞれの生活の事情があるから、お互いに牽制しあうような雰囲気もある。そして、遺産をどう分けるかで話あったりする。現代で、もっともどこにでもある出来事の典型である。ある意味で、日常生活小説のサンプルとして読めるように、適度の味付けがあって、巧みな小説である。誰でも納得するもっともらしさをもっている。実際に似たような構成の家族のある人が読めば、感慨をもつであろう。関係のない人には、ただの読み物。
【「片影の人」吉岡学】
 気まぐれ旅行で、過去に出会った女性のいた町にいって土地の女の人にその話をする。すると今度は、その女性の視点から、母親のであったのがその気まぐれ男ではないか、という落ちのようなものがある短いお話。
【「カレン」加納由佳子】
カレンは海外旅行をして精神に変調をきざした女性。変調者のいる特別な施設で働く状態を描く。もうすこし精神変調者の人物の登場が欲しい。カレンのどこが社会的に変調者とされたのかはっきりしない。
【「無名の人」堀井清】
 同人雑誌の特長は長いものが連載になってしまい、短編がほとんど。そのこと自体、ひとつの制約になっている。そうしたなかで、この作品は、やや長い。50代の独身男が、80歳代の父親と同居している。息子は、そろそろ結婚して現在の父親の家に女性を迎えたい。父親は、そうなれば自分が家を出るのかと訊く。どうなるかは、わからないところで終る。なんとなく、生活臭のない文章で、じわじわと話を積み上げるので、無駄に長いとは思わない。ある気分を描くのに必要な量と思わせる。軽妙そうで重いような、読みようによっては、村上春樹風の雰囲気を感じないでもない。
発行所=〒477-0032愛知県東海市加木屋町泡池11-318、三田村方。文芸中部の会。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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2017年2月21日 (火)

文芸同人誌「R&W」第21号(愛知県)

【「クイーンズ・ハット」霧関忍】
 幼稚園のママ友の交際の様子を描く。陰に陽に、女の世界の嫉妬心と虚栄のバトルをスリリングに表現する。人間が狭い世界で、熾烈な闘争をくりひろげる。愚かで恐ろしい女の執念の生み出す、事件を語り、人間悪の現代性を表現して読みごたえがある。
【「ある女の肖像」渡辺勝】
 大企業のT電力会社の女性社員が、夜になると娼婦に変わる。そうした実在の事件をヒントに、作者のアレンジを楽しむような話。もうひとりの女性と、若い外国人との交情などの人物像も加えて、独自の物語にしている。実在の事件には、闇の謎の迫力があるが、物語となると起承転結が明快で、謎の魅力は失われる感じだ。
【「阿吽」松岡博】
 東大寺の仁王像「阿吽」の彫刻を手分けして作った、運慶と快慶の作仏の過程の二人の心理を描く。歴史物として、知識が得られて面白い。
【「紙一重」藤田充伯】
 長崎原爆投下のあと、米国従軍カメラマンであるジョー・オダネル氏が撮影した「焼き場に立つ少年」の死んだ赤子の弟を脊負い、歯をくいしばってりりしく、火葬をまつ姿の写真はあまりにも有名である。その映像から、野坂昭如「火垂の墓」、五木寛之の「蒼ざめた馬を見よ」の戦争の犠牲となった孤児たちにへ想いを馳せる。作者もまた、少年時代に、戦争の体験があり、「焼き場に立つ少年」と紙一重の運命であったことを語る。考えさせられる。
発行所=〒487-0033愛知県春日井市岩成台8-4-5-603―102、谷口(松蓉)方。
紹介者「詩人回廊」北一郎。

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2017年2月18日 (土)

文芸同人誌「日曜作家」第17号(大阪府)

 本号は2017年冬号とあるが、もう春になってしまった。読んではいるのだが、紹介手法に変化をさせたいと思うが、どうも思いつかない。
【「どぶねずみ」大原正義】
 松尾芭蕉の弟子たちのなかに、路通という乞食生活をする男が入門する。貧しく汚れた俳人の存在そのものが、裕福な流派の生活ぶりの批判となる様子をえがく。俳諧文人の雰囲気を楽しみながら、俳句も味わえる。面白く読めるが、それほど路通の人間性への追求に深みはない。しかし、現代においては、想像力を読者に任せて、大まかな事柄表現の方が、多様な解釈の自由を邪魔しないとも考えられる。読者層の多様化を考えると、悪くない対応かも知れない。作者にその意図があったどうかはわからにのだが…。
【「残り香」(連載十一回)紅月冴子】
 長い連載のなかで、いろいろな出来事があって、最終回は節子と博之の恋愛状態で、それが続くことを感じさせるところで終る。恋愛が恋愛に受け取れる書き方。表現力は手堅く正確で、作家的手腕は充分。あとは読者をわくわくさせるテーマや素材に出会うかどうかではないか。
【「華麗なるトマトケチャップⅡ」甲山洋二】
 トマトケチャップも熟成して、まったり風味のワインになっている。
【風来流 言いたい放題「腐り切った政治屋どもに渇!小池東京都知事に期待」風来俊】
 こちらは都民で、それなりに都政を見ている。都庁の図書館で政策の資料をさがしたり、会見に出る交渉をしたりしている。外部の世情の見解はこうなのだ、という目安にはなる。ただし、行政の運営では、政治家と官僚との関係に問題がある。政治家に思想があっても、官僚には、自分の身分の保持の利害しかない。これは都庁も霞が関も同じで、役人の眼先の無思想の利害関係が、政治家の思想の実現に関わってくるのである。
発行所=〒567-0064大阪府茨木市上野町21号。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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2017年2月 8日 (水)

文芸同人誌「胡壺・KOKO」第13号(福岡県)

【「約束」ひわきゆりこ】
 狭山というかつての祖母の家を訪れる。そこから子供の頃から大人になりまでの祖母の記憶と、過疎地的な山村の変わらぬように見える風景が、時の移ろいのなかに、語られる。
 祖母の記憶が昔の家庭の形の崩壊を暗示しながら、徐々に人が時間のなかに存在する儚さをじわりと感じさせる。そのなかで純郎と出会うことになる。この二人の愛の姿を言葉で迫るのであるが、そこに人生の経験を通じて獲得したと思わせる愛情感覚がいろどりである。さりげなさと独特の味わいが出ている。
 作品の背景には、常に死を意識した視線が感じられるが、それは死の影ではなく、死の光ともいうべき色合いもっている。タイトルの「約束」は恋人との死後の約束であり、主人公はその約束の日をひたすら待つのである。これまで、物語は人の死によって終わることになっていたが、現代文学では死後の世界と生の世界が広がっていくことの一例がここに示されているように思う。
【「河口に漂う」桑村勝士】
 主人公はシラウオの生態研究で、現在は無給だが、大学院で博士号取得に向けて有望なポジションにいる。結婚していて、子どもいる。妻が生活を支えているのだろう。研究生活のなかで、シラウオについて、やや詳しく知ることができる。
 同じ大学院生の中山という男は、博士号をとれる見込みはなく、物語の世界に行くといって姿を消す。この作品も異界との接点をほのめかして終わる。この作品のあとに、作者の「雑感」というエッセイがある。そこで、小説には関数化できる法則があるかもしれないと思ったことがあるという。そして、書くものと書かないものの判断が大切だとある。
 こうした問題は、読者層をどこに向けたものかによって、異なるが、非日常性を好む大衆小説向けには確かにそうしたものはある。ハーレクレインという米国の官能小説は、コンピューターの作った流れと要素を採用しているといわれている。
 また、大塚英志の「物語の体操」で、その構造の共通性をもとに、物語化の基本構造を解説している。ところが文芸作品には物語のないものもあるので、一概に法則的なものが存在するとは言えないのであろう。
【「緑の手綱」雨宮浩二】
 なぜ人は、小説を読むかというと、暇つぶしであり、現実からの離脱、認識力の高度化により、意識の豊かさを楽しむなどの要件がある。この小説は、非日常的な異界物語であり、設定事態はライトノベルに近い、架空世界ものである。映画「アバター」を見るような森の中の描写が楽しめる。
【「三人の母」井上元義】
 産みの母と育ての母、義理の母とそれぞれの事情から、生活のなかで、そうなった経緯を語る。ひとの生活や身の上話は、人間の興味の原点である。テレビ番組でも一般人や、かつての有名人のその後など、身の上情報が人気である。
 その意味で、文学通のこなれた文章での身の上を話なので、興味深く読んだ。自分の人生と比較してしまうからかもしれない。サルトルだったと思うが、人間の「実存は目的に先行する」とかいって、目的をもって作られた道具や商品と人間が基本的に異なる存在であるとする。故に、人の人生行路は興味をもって読まれるのであろう。
発行所=〒811-2114福岡県粕屋郡須惠町678-3、樋脇方。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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2017年2月 4日 (土)

文芸同人誌「札幌文学」第85号(札幌市)

【「記憶の沼地」須崎隆志】
 短い章をいくつも重ねて、記憶をたどった想いを述べている。記憶をたどることで、曖昧さの中に意識の流れが拡大し、イメージを広げて、物語化することなく、浮遊して失われがちな心象を浮き彫りにしている。人間精神の幽明な部分の表現として味わいがある。
【「海辺の墓地」石塚邦男】
 自分がどこで誰か、記憶を失った情況で、私は海辺を彷徨い、かつての自分を知るという女性に出会う。これには落ちがあって、死者が幽体となってこの世を彷徨い、自らの墓地に戻っていく。これは幽霊物語という形式をもっていることで、話としてまとまりがある。読後すっきりする。その分、味わいが浅くなるのはやむを得ないかもしれない。
発行所=〒006-034札幌市手稲区稲穂四条四丁目4-18、田中方。札幌文学会。
紹介者=「詩人回廊」北一郎

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2017年2月 2日 (木)

文芸同人誌「いぶり文芸」第47集(室蘭市)

 本誌は胆振芸術祭実行委員会の発行。巻末に胆振管内文芸団体一覧がある。地域は白老町、苫小牧、登別市、むかわ町、安平町、室蘭市などで、短歌、俳句、エッセイの一般文芸の60数グループである。
【「金成マツ略伝(三)」浅野清】
 石川啄木の友人で支援者でもあった金田一京助。彼の北海道の少数民族アイヌの言語研究を手助けしたのが金成マツである。青空文庫に「おば金成マツのこと」(知里真志保)などがある。ここではその時代のさまざまな資料が示されているが、そのなかに大正2年の新聞「北海タイムス」に旭川町近文における旧土人としてアイヌの記事が紹介されている。なかに差別といじめの戦いも含まれている。アイヌ民族は国連でも少数民族に認定されている。研究家には有益な資料であろう。
【「死骨の魔王・赤毛熊―なぜ赤毛と渾名されたのか謎であるー」石塚邦男】
 明治時代に苫小牧が開拓がすすみ、製糸工場ができた。用材に森林を伐採したので、その山地に住む赤毛熊という知恵のある巨熊が、人が備蓄している食材を食い荒らしてしまう。怪我をもせている。熟練の漁師たちが退治のために死骨湖に山狩りにいくが、赤毛熊は戦いの中で、追手を逃れて討たれなかったということだ。死骨湖というのは昔の名前で、いまは支笏湖になっていると小説のなかで説明している。風土にあった作品で、面白く読める。
【「クラック」高岡啓次郎】
 工務店を一人社長で経営する私は、10年前に知り合った家のモルタルのひび割れの修理を頼まれる。知り合いだった女の娘も、10年前に子供だった。今は二人の子持ちになっている。この一家の生活の変化と、離婚歴のある私の現在の結婚生活。家のクラックを修理しながら、二つの家庭のひび割れを見つめさせる。渋い味の短編である。特長的なのが、モルタルのひび割れの修理の仕方などが詳しく書いてあるところ。読み物の短編では、物語の運びに筆を多く費やすので、こうした仕事の具体的手順などは省略せざるを得ないし、知識もない。こうしたところに優れた個性を感じさせる。
発行所=胆振芸術祭実行委員会。発行者=〒050-0072室蘭市高砂5-7-1、三村美代子・室蘭文化連盟会長。編集者=室蘭文芸家協会、井村敦。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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2017年1月30日 (月)

文芸同人誌「季刊遠近」第62号(川崎市)

 創刊20周年記念号ということで、同人雑誌で活動する作家たちの寄稿特集がある。下澤勝井、豊田一郎、五十嵐勉、坂本良介、藤田愛子、高橋光子、山之内朗子、小沢美智恵―各氏が同人雑誌に関わる事情を述べている。
 たまたま、今日のネットニュースで、米国ではフェイスブックで「知り合いの輪がどれだけ広がるか」をテーマに調査をしたところ、知り合いになるのは同好の人々だけになるので、それほど知人の輪は広がらないということが判ったそうだ。
【「『歌と日本語』補遺」勝又浩】
 角田忠信の近著「日本語人の脳」(言叢社)を読んだことによる感想である。角田理論には、日本人には情緒を刺激する虫の声が、西洋人にはただの雑音にしか過ぎないという脳の構造の解説がある。さらに「日本語人」は左脳=言語脳で母音も子音も受け取るが、西洋人が左脳=言語脳で受け取るのは子音だけ、母音は右脳にいってしまうこと。母音を基礎にした五十音図がつくれるのはほとんど日本語のみ、という説を紹介している。
 自分も、日本語の言語美の象徴として、万葉集の歌を「漢語系」の外国人に説明したが、理解されなかった記憶がある。しかし、最近の日本人は、山のキャンプに行くと、子供が渓流の音や、虫の鳴き声がうるさいと、運営者にクレームをつけるそうである。
 自分はいつからそうなったのかを、調べたいと思っている。
 また、勝又氏は「同人雑誌神社」をつくる案を提案している。じつは文芸同志会では、かつて「文芸神社」を作ろうと、芸術の対象の神社(弁天神社)や廃止神社の再興の道をさがしていたことがある。一時は、鳥居の穴だけの廃神社跡をみつけ、その交渉にかかったら、それをきっかけにしたのかどうか、再興の話が出て、実際に新しい鳥居ができてしまったことがあったものだ。
【「戦禍と悪夢」(二)藤元】
 なんとなくきな臭くなったこの世界。日本の過去の戦争被災体験を生々しく語る。よく書いている。これがどれだけ実感を伴って受け取られるかが、問題であろう。文学的価値より社会的な価値に優っている。
【「寒桜」難波田節子】
 佑子は未亡人だが、子供がひとり。職業婦人である。祖母が孫の面倒を見に同居している。結婚を考えている男がいるが、彼は生命保険のセールスウーマンと親しくなってしまう。あれやこれや、創作上の人物を造形して現代風俗を描く。お話のつくりが巧みなので、読んで退屈しない。素材がなんであっても読ませてしまう文章技術には感服する。
【「倒れたわけ」河村陽子】
 事実を語ったものだとしたら、その記憶力の正確さに驚かされる。
【「夏の夜の唄」花島真樹子】
 大病をして入院をしていると、かつての恋心を抱いた僧侶が見舞いにやってくる。自らが生死をさまよう大手術のことで、変に思わず会話をするが、あとで、その男は同じ病院で先に亡くなっていたことがわかる。ありふれているようで、幽冥の世界を見事に表現している。
発行所=〒215-0003川崎市麻生区高石5-3-3、永井方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2017年1月23日 (月)

文芸同人誌「クレーン」の作品の作者名を訂正しました。

文芸同人誌「クレーン」38号の「ライン作業者」の作者名を和田伸一郎と漢字表記しましたが、作者の指摘で「わだしんいちろう」と修正しました。

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2017年1月17日 (火)

文芸雑誌「ガランス」24号(福岡市)

【「『企み小説』の前語り」ミツコ田部】
 真夜中におきると心が悲しい。共同便所でおしっこをして、また寝床にもどり、読みかけの小説を読む。そこから読んだ小説の概略の紹介になる。この小説の解説と感想を詳しく述べている。それが、読書する側の生活と精神の環境を盛り込んで語られるところが面白い。対象の小説は、金原ひとみ「軽蔑」(雑誌「新潮」2015年7月号)、上田岳弘「私の恋人」(同)。その作品の間に、読み手である作者が溶け込み作品に同化して、まるで一体化したようなストーリー紹介がある。
 さらに枕頭の書とする「NOVEL 11、BOOK18」(ダーグ・ソールスター、村上春樹訳)を紹介する。ここでも、作者の読み手として感覚が発揮され好奇心をかきたてる。
 これは、単なる読書記録ではない、新しい形の文学であるのかも知れない。もともとカルチャーとしての純文学読者層人口は、現在に至って減少するばかりだ。わたしがこの作品へのこだわりを語っても、どれだけの人が、その意味を理解するだろうか。それすらも心もとない。
 そのなかで、ある程度世間に知られた文学作品の読者層を取りこむことで、読者数としてデータベースを広げることができる。その読者感想文そのものが文学表現であれば、これは時代を反映した新しい文学なのではないだろうか。
 多くの文学作品の中に、作者の関心をもつ他の文学作品についての詳細を語ることは少ない。それは物語の腰を折るからだろう。
 文学作品に他の文学作品について長々と述べることは、文学作品の読者にとって、邪道であろうか。私はそうは思わない。むしろ歓迎したい。それを読んだがゆえに、どう精神が変化したのか、しなかったのか、それを知りたい。
 とくに文芸評論が、ただの作品紹介評に傾き(商業的に止むを得ないが)、リアルに現代文学に向き合うとなると、詩人の感性や哲学者の社会認識を軸にしたものが、評論として成立してきている。その場合、面白さは物語性でなく、文学的視点からの認識の姿としての面白さである。それがいわゆる純文学のジャンルを定着維持させるであろうと見ている。
 こうした視点から、この「小説の企み」を読み取るという主題は、先に可能性をもった試みとして、期待したいものがある。
発行所=〒812-0044福岡市博多区千代3-2-1、(株)梓書院内、ガランスの会。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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