2020年7月 3日 (金)

文芸同人誌「海」101号(いなべ市)

 本誌の発行日をみると、5月20日である。遠藤編集長のあとがきにも、コロナ禍の話が出ている。最近は、東京の感染状況や対策が、まるで全国に波及するようにメディアで騒いでいる。しかし、別の地域では異なるのではないか。なにか、都知事選挙などの政治利用の感じがして、面白くない。
 本号の大きいテーマでは、「追悼・青木健(1944~2019)がある。略歴では、自分より2歳若い。1984年に新潮新人賞を受賞し、その後、小島信夫文学賞選考委員もし、2014年には文芸誌「季刊文科」の編集委員をしていたという。近代文学の専門家が亡くなるのは寂しい限りである。自分のような年寄りの馬の骨が、のめのめとこんな感想を書いても、何の役にもたたないが、コロナで合評会ができないというから、一読者の感想として、しばらく作業続けよう。
【「晒されて、今」宇佐美宏子】
 叔母が96歳で亡くなって、語り手が、彼女の人生をたどって記す。題材は重く、戦時中に看護婦であったのが、いつの間にか従軍慰安婦として、純潔を奪われた生活を送る。そのために、自己の肉体をけがれた存在として、結婚しても夫との夫婦の営みが失くして、終わったという話。涙が出るような切ない話である。創作系なので、今後、この作品を書くにあたって、搾取がどのような事実の探索や創作にするための工夫を行ったかを、ドキュメンタリーとして、レポートするものが欲しいものだ。
【「逆耳」国府正昭】は、ある日、目覚めると右耳が聴力がなくなっているのに気付く。耳鼻科にいくと、治らないという。それ以来、断片的な幻聴が聞こえてくる。冒頭に、老人がス―パーで、買い物をするのを挙動不審に見える描写は味があって面白い。しかし、幻聴はの断片はその解釈が難しくわからなかった。それより、同氏のエッセイ「『阿蒙』の反省文(古事ことわざ編)」で、短編集の著書を演劇かする高校があって、その脚本の苦労話の方が、読者として、ずっと面白かった。有意義な文学活動だと思った。なかで、小説なら「と、思った」と書けるが、脚本はそれができないから、大変だという主旨の話があった。「と、思った」というのは、小学生時代に先生から、「作文をおわらすのには、書いた出来事をどう思ったか、書けば終わりになる」という指導を受けた記憶がある。それいら、そういう表現があると、作文とするようになった。舞台劇、作品と作者との距離感が理解できる。
【「台風」宇梶紀夫】
 地球温暖化による、洪水と水害の被害は、どこの地で身近なものと、なっている。それを小説化しており、行きつくところが予測できるが、根気よく描く作業に敬意をもった。ただ、こうした現象は、国土交通省のこれまでの治水対策に不足があることがわかってきており。自治体の対応策に対する警告になるのではないか。
発行所=三重県いなべ市大安町梅戸2321-1、遠藤方。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

 

 

 

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2020年6月24日 (水)

文芸同人誌「奏」第40号(静岡市)

【「評伝藤枝静男(最終回)」勝呂奏】
 藤枝静男の作品は、幾つか読んでいたが、作家としての生き方と作品の関係については、知らなかった。大変参考になった。とくにこの最終回では、純文学の職業作家の晩年をどう過ごしたか、が詳しく説明されている。年齢77歳頃から藤枝の作風が、高齢化による創作力の衰えにどう対応したかがわかる。面白いことに、藤枝は56才の頃に、老人となり、ポンコツ化しているというようなことを、言ったり書いたりしているということだ。老齢化を意識しながら、職業作家として、読者や文壇の友人、評論家の視線を意識しながら、創作を続けていたことになる。これは、藤枝が職業作家として幸せに過ごした、という具体的な事例整理をもって、示しているように読めた。本評論で自分が理解したことは、藤枝静男という作家は、本質的に自己評価に関し、否定的な発想と肯定的な発想の間を、往復していたということ。志賀直哉に対する畏敬は、彼の我儘な生き方は、自己肯定の手本であり、同時に自己の存在のあるべき姿(その我儘ビジョンは不明)に至らない不満の自己否定的な発想が、藤枝の存在基盤になっているのだな、ということである。文壇人物交流で、難病に悩まされながらの作家・笙野頼子との関係なども、解説されている。こういうのを読むと、作家の世界はこんなものと思うかもしれない。だが、そんなことはなく、特別に恵まれた作家世界の話であろうと思う。だが、一般人の人生のあり方として参考になる。
【講演録「芹沢光治良と川端康成―それぞれの文学」勝呂奏】
 こういう作家的比較文学論というのは、すでに優秀な先人の著書があるようだが、自分は知らない。講演などはなかなか聴く機会がないので、大変に有益であった。川端はともかく、芹沢光治良という作家について、自分は長寿作家で、独自の文学な作風で、川端ほど近代文壇的な地位は高くないのだろうと思っていたが、そうではないことに驚いた。また両人の交流と、立場の共通点では「孤児」的な側面があるという。先の藤枝論と、本論は面白くて読み通してしまったが、こうした面で、双方の作風にくわしくなく、適切な紹介ができないのが、残念だ。そうした自分のような読者には、啓蒙される。
【「小説の中の絵画。第12回『白描』覆われた少女の肖像画とワルワーラ・ブブノワ」中村ともえ】
 自分は、岩波だかの石川淳全集を持っていたが、転居のおり処分してしまった。主人公金吾青年の話を、ここで読むとは思いもかけず、変化球作家の読者がいるのところにはいるものだと、驚いた。
 【「女たちのモダニティ④-中里恒子『乗合馬車』ー国際結婚と混血」戸塚学】
 いま、自分が高校生時代に活躍し、晩年、中年のロマンス小説で話題なった中里恒子とは、驚いたが、まるで知識がなかったことなので、面白かった。
発行所=〒420-0881静岡市葵区北安東1-9-12、勝呂方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。


 


 

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2020年6月14日 (日)

文芸誌「浮橋」第5号(芦屋市)

 今号は、橋をテーマに同人のエッセイが、並べられている。それぞれ面白いが、随所に新型コロナウイルスについてふれているのが、時代の感触の表現として、時宜にあっている。
【「橋から橋へ」春水】
 生き物には、ホメオシタスという言葉があって故・丸山圭三郎の著書に「アメリカの生理学者W・B・キャノンが提唱したもので、生物の生理系に見いだされるー自律的平衡作用ーのことである」。定温動物には外気温の変化に応じて自らの体温を調節し、これを常に一定の保つセンサーのごときものを身のうちにもっているという。それに対し、人間はその能力をねじ曲げ、外気を変えるエアコンを造った。自動車の利用で脚を弱らせうなど過剰な文化をもったゆえに、「核」を開発するなど、大罪を犯すーーなど様々知見を披露。人間性の正当性に疑問を呈している。人間の善のみを拡大解釈する現代への一つ視点を語る。地球を消耗させる人類への行為と、自己存在の正当に罪悪感をもつところまで、話を運ぶところは深みがあって、読みごたえがある。
【「橋を断たず」岡本俊輔】
 勝鬨橋の思い出を、懐かしく読んだ。自分は夜間大学で、学生運動に巻き込まれ、専攻が資本論研究であったため、就活が不調和。とにかくその付近の企業で採用してくれたので、しばらく通った。無能な劣等社員であった。アカの学生ということで、他の大学の新入生が企業内組合の結成に動いたらしく、それの首謀者であろうと、身に覚えのない嫌疑をかけられ、総務関係者から襟髪をつかまれて振り回されたりした。昼休みに、勝鬨脚の根元の幅広のところに寝転んで、どうも、自分は企業の部外者としての人生しかなさそうだ、と感じていた。本作でも、六甲の大石川の橋で、生きるか死ぬかの思案をするところなど、共感するところがある。当時の築地本願寺は、平日の昼は人もいないので、バレーボールを持ち込んで遊んだが、どこからも苦情が来なかった。運河のそばに紀文の社屋らしき看板があり、築地の外通りは、マグロ丼が安かった。
【「渡れなかった橋のはなし」】
 橋を渡る前に、老婆が向こうから渡ってきて、語り手にあんたは橋を渡れないと断言して、邪魔をする。そのため語り手は、そこに立ち往生する。カフカ的な世界の表現で面白そうだが、表現力不足で、なんでもない作品になってしまった。
【「六歳の記憶の断片」藤目雅骨】
 終戦間際の1月15日に、明石市で米軍の空襲があって、その当時が6歳だったという。その当時の記憶を呼び起して語る。証言として貴重であるが、事実によりかかり、文学的な成果はそれほど多くない。
【「街の灯りを避けて」山際省】
 宛てもなく街を歩くなかで、修一は不審者にねらわれているような恐怖を感じ、そこから逃れる。話は語り手の身の上話にうつり、浮き世の生活の話になる。何かが語れそうで、語られない。無理にまとまりをつけにない方が良いのかも。
【「四十年ぶりの手紙」矢谷澪】
 文字通り、40年前の女性から手紙がきた。読んでみると、彼女の創作が同人雑誌に載っていて、それを掲載したもの。
【「ある転生」青木佐知子】
 もうし、ただいま、わたしに寄り添うように歩いておいでのお方。あなたさまはいったいどなたなのでございましょうか?―という出だしが面白そうだが、その後はそうでもなかった。
【「夜の花」小坂忠弘】
 高齢になって体調に様々な変化がでて、それをたどりながら、これまでの体験談のなかの「夜の花」の意味をさぐる。力みのないところで、それなりに興味を誘う私小説的な思想の書か。
【「激震」(二)】曹達】
 昭和の不動産バブル経済の京都の場合を、みっちりと儲けのしくみや、その後の変化をア語る。現地は現在のアパート、マンション業界と変わっていないのだが、その細部が面白く、本誌で、一番小説らしい小説である。
発行所=〒659-0053芦屋市松浜町5―15-712、小坂方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

 

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2020年6月 2日 (火)

総合文芸誌「ら・めえる」第80号(長崎市)

【「ひるこ様の海(前編)」片山みさと】
 N半島の東岸にある山にひるこ様と呼ばれる神社がある。ひるこはイザナギとイザナミの神が国産みをした時に、最初に産んだ神であるという。このひる子様の神社を巡って、高平真帆という女性の運命を描く。自分は、こうした連載ものは、通読しにくいので、取り上げないことがおおいのだが、本作は読み物として、大変優れた表現性があるので、おすすめ作品として短く解説したい。その要点は、物語の進行がすべて場面の連続で語られていることである。そのため、霊性を描いた幻想的な話でも、そこがきちんと場面として描かれているので、鮮やか情景をもって、存在感に満ちて読み取れるのである。作家としてのイメージ形成力が発揮されており、自分は引き込まれ、面白く読んでしまった。作者と物語の距離感も十分で、自分の小説感と一致する。小説と作文の基本的な違いは、基本的には、作者が小説であると思えば、そうである。しかし、客観的には、場面の連続で話を進めるか、状況説明で話をすすめるか、のちがいである。物語を進めるのにふさわしい場面を考えるのが創作である。多くは、想像力をもって場面を作るのが、面倒なので説明で済ましてしまう。それでもなお、面白く読ませる人は文才があるといえるような気がする。自らに文才あるかどうか、まず知ることが必要であろう。
【「テネシーワルツ」吉田秀夫】
 パテイ・ペイジの「テネシーワルツ」について語りながら、情感豊かに青森の三沢基地で出会った時の印象を語り、彼女のベトナム戦争とアメリカ人精神の葛藤を描く。エッセイかと思ったら、たしかに読後感は小説であった。テネシーワルツの歌詞の訳もあって、読むうちに、日本人でヒットさせた江利チエミなどの人生が心をよぎり、ジンときて、しんみりとしてしまった。
【ヒカル その1」櫻芽生】
 ヒカルの生活体験であるが、人物像としてどのようであるのか、微妙なところの作品。
【「美術館物語~プラドからの風(2)」麻布真】
 地域文化と国際都市の文化の交流が語れていて、今回は上海との関係を面白く思った。
【「[真珠湾ー日米開戦とルーズベルトの責任」長島達明】
 アメリカの政治構造については、「暮らしのノートITO」で、憲法と人種差別精神、金融、選挙システムなどを記事にしてきた。特に、日本の従属国政策は、あまりにも米国ファーストを貫いたもので、日本人を洗脳してきたのか、日本人がそれをうまく利用してきたのか、その事情の理解に役立つと思い、別途、紹介することにした。《参照:「アメリカの鏡・日本」の概要(1)長島達明氏の評論から》特に「アメリカの鏡・日本」じぶんも、よく知らなかったので、その概要は大いに助かる。また、真珠湾攻撃の事前情報漏えいの件は、多くの情報が飛び交う中で、その選択眼が問題であることがわかる。
【「梅ヶ枝餅」発祥の地はどこか?」新名規明】
 地域名産というか、その発祥を追う中で、芥川龍之介や菊池寛の活躍が織り込まれて文学史的にも興味深いものがある。
発行所事務局=〒850-0918長崎市大浦町9-27、田浦事務所。「長崎ペンクラブ」
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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2020年5月26日 (火)

文芸同人誌「勢陽」第32号(志摩市)

 本誌の作品に眼を通していて、生活のなかにマスクと健康維持に関する行為が、よく侵透していると感じたので、そのことを記した。《参照:市民文芸誌「勢陽」第32号に読む保健意識とマスク文化

【「花咲くところに」落合伴美】

 主人公の「俺」落合俊介は、父親が朝鮮半島の人間で名字も金である。母親が日本人で、その名字を使用している。子供の頃から「朝鮮人のこどもやーい」と蔑む仕打ちを受けて育った。そのためか父親がきらいだと、しながら現在の関係について語ることはない。話は昭和59年頃の青春時代の生活と恋愛が描かれる。ライトノベル風の文体で、その時代の風情をえがいている。在日朝鮮人としての立場を、重苦しくなく書いている。扱いによっては、重苦しいものが含まれる話だが、それを避けて書くという手法もあるものである。ただ、問題を避けるのではなく、正面から取り上げる作業も必要ではないか。自分は、企業のコンサルで生産性の向上のシステム構築にあたったことがある。そこに理屈っぽくて、とがったところがああるが、有能な在日の人がいた。そこで活動の役割をあてたが、日本人社員の差別意識とハラスメントに、彼の能力を削いでいるのに悩まされた。嫌がらせをする社員に、なぜ、そんことをするのか、とと詰めた。すると、親の世代から、さげすむ精神を教わった、というのには驚いた。現代人には歴史的な経緯だけでは、わからない精神構造があるらしい。政治的な思惑が個人的な感情に植えつけられると、始末に悪いことがある。それを踏まえて、国家組織の属人ではなく、個人としてその人を見るという意識を変えることが必要であろう。

【「定年カメラ」江崎芳子」
 定年後の趣味で、カメラを始めた男の一部始終を描く。趣味を探している人や同趣味の人には興味深いのであろう。
【「鏡ちゃん」大山まるこ」】
 アニメ風の文体で、視点を鏡に置いたことで、普通の家庭の典型的な姿を描く。視点を変えることで、物語化を成功させている。
【「手紙」野上淳】
 紫織という娘の父親が、彼女の友人の父親を殺害してしまう。そうした出来事の後の娘同士の交際のあり方が題材になっている。思い事件性のある設定である。その割には、作者は平静で問題意識から離れた表現が目立つ。力まないでいるのか、表現力が不足なのか、切実性に物足りなさが残る。
【「待つことは楽しい」秋葉清明】
  曹洞宗の座禅の会に参加し、実践する生活をしている。家族と別居していて、本宅と称し、妻と息子の関係を語る。息子の正は、社会人になって精神に変調をきたし、入院生活を送る。その後の対応座禅の精神で受け止める話。自分の母親も48歳になって精神的な不調に見舞われ、入退院を繰り返した。同時に、金剛経道場に通って座禅を体験したことがある。ただし、母について何か悩んでのことでなく、ひたすら理屈ではわからない不立文字んの体験をしたかったからである。座禅をしたことで悩みが解決することはなかったが、現実をそのまま受け止めるという精神を学んだかもしれない。座禅の効果を示す一例に読める。
【「いわさきちひろ美術館・東京(練馬区下石神井)」長木玲子】
 大変興味深く読めた。若い時の神経症的な思想と、三宅裕司が息子であったことなど、知らないことを教えられた。
【「うのと駿之介捕り物帳余話」(第三話)】
 趣味の時代小説である。文章が現代的で軽快。楽しませる精神も十分で、刺激的な題材を扱えば、読者層が広まるのではないか。
【「31号寸簡」】
 読者による、前号の読後感想が掲載されている。大変によい試みだと思う。小説はかけても、評論文の書けない人はすくなくない。
発行所=〒517-0502志摩市阿児町神明588、水田方、「勢陽文芸の会」
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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2020年5月14日 (木)

文芸同人誌「弦」第107号(名古屋市)

 外出自粛の中で、不機嫌、苛立つ心になる。今回は自分が普通に読んでいる書店の雑誌と比較する視点で、紹介してみた。今は、ほとんどの軽文学の読み物がデジタル化している。その点、紙に活字化されたもので、一番残るのは同人誌であろう。改めて本誌のページを繰ると、【「母さんの生まれた日」国方学】【「庭先デリバリー」木戸順子】【「黄泉へ」小森由美】と、高齢者を主人公とした時勢模様が描かれている。なにか、時代離れをかんじる。作品「黄泉へ」は、いま、コロナ禍のなか、自分が外出して感染したら死ぬのだな、という思いと重なり、意味を感じるが、それ以前の2作は、危険な世情に生きる気持ちの自分には、切実感のない書き物の読めた。人生長生きすれば、その時々が書いても書き尽くせない、さまざまな出来事があるのだが、それをスケッチ風に書き流してすますのは、書き手は精神的に安定してくるのであろうが、なにか感情移入するような気分になれない。それだけ平和な世界包まれた人々の生活と描かれている。が、書き流された出来事そのもは、大変だったはずである。どれも薄味で、読み流しするしかない。
【「同人雑誌の周辺」中村賢三】 目を通して一番、印象的なのは本作である。毎号よく読み、味わい、書きまとめていて、その表現力に感銘をうける。
【「まぼろしの太刀(大森彦七異聞)」白井康】
 時代小説の怪異譚であるが、自分の表現力を発揮しているので面白い。とにかく、場面が中心なので、飽きさせないのである。
【「ある介護」筧譲子】
 老人介護の具体的な大変さが書いてある。オムツの汚物を畳みに投げつけてしまう老人の話が出てくる。しかし、それも聞き書きのように書き流されている。そうした事態を片つける介護者の様子が他人事である。介護者は爪の中にまで糞が張り込み、いくら洗っても臭いは取れない。部屋の畳はしばらく公衆トイレの臭いがする。これは自分と友人たちの実体験である。それらを表現しないと、よくできた作文としかいいようがない。
【「誕生」高見直弘】
 孤独と寂寥感が生む精神的葛藤の幻想が、よく描かれていて、面白い。たしかに文学作品である。
【「二十七年目のブーメラン」長沼宏之】
 出だしはいいし、その構成も、問題提起がなんであるか、明確なので、興味を逸らすことがない。もうすこし強弱をつける工夫があれば、もっと面白く読まめたかも。
【「青磁の壷」山田實】
 想い出話が多い。父親のパチンコ通いなどは、しかも母親は、自死したかも知れないなど、材料やお膳立てはよく、場面として面白いのだが、同人誌には場面を書いてはいけないという法則でもあるように、説明で済ましてしまう。読んでいても、なぜか不可解な気分になる。終章も、どこかで読んでいたような余韻風のもので、なにか打ち合わせでもあるのだろうか、と考えた。おそらく同人仲間で、こうすればいいという、暗黙の了解の表現法があるのだろうと、思いついた。そうだとすれば、仕方がないことだ。
【「ゆずり葉」市川しのぶ】
 本誌で一番面白い小説である。何が問題なのかと読んでいくと、夫婦の営みの膣痙攣のことで、それが病として治せずに、苦しむ様子が描かれる。いあわゆる夫婦関係の性愛と精神的な愛との葛藤を描く。ただの肉体的な現象をこのように、素材化したのには、作家的な手腕を感じる。文学フリーマーケットに、「父ちゃんのチンポが入らない」と、悩み相談のような中編作品を書いて、販売したケースがある。これも、専門医に相談すればいいことだが、そうせずに悩みとしてドキュメント風にしたらしい。それに出版編集者がめをつけ、長く伸ばして書籍化して、相当売れ行きがよく、話題になった。この作品も編集者に持ち込んでみたらどうだろうか、と思わせる。ただし、純文学にするなら、夫婦愛の変形としての愛の形を追求する方向にもっていくのは、どうであろうか。盲言多謝。

発行事務局=〒463-0013名古屋市守山区小幡中3-4-27-、中村方。「弦の会」

紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2020年5月 6日 (水)

文芸同人誌「北方文学」創刊80号記念(新潟県)

   本誌は、かなり専門性の濃い文学書で、目次を見て、どれを読んでも、面白そうである。そのなかで、自分が最も興味をもった中国文学から見た中国という不思議な国の構造である。この内情の一部が文学者によって明らかになるなんて、最高である。理由はわからないが、中国は今後世界制覇でのひと時代をつくるであろうという予測をしていた。その時に思ったのは、上海や福建省などの海岸沿いが発展しているが、内陸には砂漠や少数民族が存在し、おそらく中国共産党の意志に無関係に生活するであろうということであった。それに対し都市部では、コロナパンデミックからの回復をどうするか、が疑問であった。が、本論を読んで、富裕層が長貧困層を踏み台にして、再起するであろうとの予測がたつ。「北方文学」中国・農民工の作品翻訳と評論=徳間信佳(2) 毛沢東も、何万人もの農民を飢餓死に追い込んで、共産党をつくった。農民は道具にすぎなかったのだろう。

【「ヘンリー・ジェームスの知ったこと(三)」柴野穀実】

 ヘンリー・ジェームスという作家は、映画「ねじの回転」の原作者として知られているが、比較的マイナーな作家である。しかし、文学文化が次第にマイナー化しいる時期には、こうした曖昧な表現の手法は注目される。文章でなければ表現が充分できない世界が作れる可能性を加持させる評論である。中村真一郎がその手法を文学そのものの原点としているのを、紹介しているも興味深い。ジェームスの手法の影響が、ゴシック小説形式として現代に受け継がれていることを示唆している。

発行所=〒945-0076新潟県柏崎市小倉町13-14、玄文社。

紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

 

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2020年5月 4日 (月)

文芸同人誌「澪」第15号(横浜市)

【「春が来た春が来た」衛藤潤】
 文学的な工夫がなされた作品である。語り手は、「私」や「僕」と「彼」といった人称を一切使わない。もうひとつの工夫は、飼っているメダカの世話の詳細である。物事を詳しく語ることは面白いに通じる。話はフクちゃん(女性)からメダカの飼い方を教わって、飼い始めたメダカの様子と、その心理が述べられる。そして、フクちゃんと別れるまでの物語。もう少し、話が盛り上がる仕掛けがあれば、とも思うが、短編なのでやむをえないか。面白く、文学性を発揮しているように読めた。。
【「自分じゃないジブン」片瀬平太】
 これは、現代のティーンネイジャーからヤング世代、いわゆるギャルの女性の手記という形式で、乱れた生活と、それを他人のように眺める自意識を語る。彼女らの世代の用語の翻訳的解説があるのが、現代人が技術の進歩の段階で、文化的な分断ができていることを示すことで、興味深い。
【「リレーエッセイ・わたしだけのYOKOHAMA-第3回大倉山界隈(港北区)」鈴木容子】
 地元である街を散策する会があって、そのメンバーとして、街歩きをしたポイントとしての歴史的な経過がわかる。散策の会のメンバーはほとんどなくなってしまったという。自分の若い頃の昔、鶴見川を渡って、日立製作所の工業専門学校に通う友達がいたので、台風の季節になると、氾濫し渡れなくなる話をよく聞かされたものだ。今は、遊水地ができて洪水にならなくなったようだ。
【緊急報告「羽田低空飛行路の悪夢」(1)柏山隆基】
 自分は、大田区のほとんど神奈川寄りに住んでいる。当初は、自分の区域の頭上のことなので、まず区議会議員に対応策を聴いた。すると、これは地域の政治問題ではなく、都議会でも問題解決能力はなく、国の問題である、ということであった。そこからさらに、東京の上空が不平等な日米軍基地協定の存在が根底にある、ということを実感してきた。本編では、これまで、ハイデガーの存在論を論じていた筆者が、生活的な問題に筆を伸ばすことは、大いに意を強くするところである。現在、コロナ対策で、航空路がガラ空きにもかかわらず、不必要な、新滑走方向を試しているという官僚の行い。これはまさに、二イチェのいう「畜群」という存在であることを、分かり安い事例として示したいものだ。
【「クラシック日本映画選―10-『用心棒』」石渡均】
 黒澤明と三船敏郎のコンビの傑作「用心棒」に関する製作者側の、特にカメラ撮影における技術と、効果的な画面編集の工夫を詳しく解説している。特筆したいのは、見どころの脚本の抜粋と、主役だけでなく、脇を固めたベテラン助演俳優たちの詳細が記されていることだ。仲代達矢が黒澤監督の注文の厳しさにうんざりしていたことや、三船敏郎の迫力のある立ち回りの秘密を明らかにする。また、助演たちの多くは亡くなっている。加藤大介、志村喬、河津清三郎、東野英治郎、藤原鎌足、渡辺篤、山茶花究、などなど。彼等が画面に登場すると、躍動間で雰囲気が盛り上がる。そして、原作を使ってマカロニ・ウエスタン「荒野の用心棒」ができ、クリント・イーストウッドという映画人を生み出した。とにかく読み応えのある解説である。ここには、記されていないが、黒沢監督作品では、脚本に橋本忍と、菊島隆三が絡んでいると、活劇として精彩を放つ。黒沢単独の脚本映画は形式美の追求で静かなものが多い。さらに「用心棒」の構成には、ハードボイルド作家、ダシル・ハメットの「血の収穫」に似ている。ハメットは、「血の収穫」の前に中編「新任保安官」を書きそれを長くしたのが「血の収穫」である。また、主人公の行動原理として、用心棒の「桑畑三、四十郎」は、ハメットの「ガラスの鍵」の主人公、ネド・ボーモントに似ている。ハメットファンをも納得させる映画である。
 その他、鈴木清美氏の写真は、ホームページからも鑑賞できるはずだ。
発行所=〒241-0831横浜市旭区左近山157-30、左近山団地3-18-301、文芸同人誌「」の会
紹介者=「詩人回廊」編集者・伊藤昭一。

 

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2020年4月24日 (金)

文芸同人誌「駱駝の瘤―通信」第19号(福島県)

 本誌は、福島の原発事故について、現地からの声を文学的な立場から表現している。ジャーナリズムとして≪参照:「駱駝の瘤・通信」19号、福島もう一つの緊急事態宣言の拘り ≫で取り上げている。
 もともと、安倍首相は、オリンピック開催を無理やり誘致するために、日本では福島原発事故で「緊急事態宣言」下にあったにも関わらず、それを「アンダーコントロール」と虚偽の発表をして、東京開催を申し出た。新型コロナの世界的流行で、開催延期から、中止の方向に進んでいる。この全責任は、自民党政権の安倍首相にある。国家の道具としての国民と、個人の尊厳にこだわる諸国民とは、別である。シンガポールや北朝鮮は、独裁国家であるため、国民は国家のために存在する。メディアに関しては、他の国でも国民のために働く。文学者は諸国民としての自由な立場を貫くべきであろう。安倍首相はなぜ、新型コロナについて「アンダーコントロール」と言わないのか。それは道具である国民が事実を知りながら利権にこだわって、支持しているからである。福島原発には、国民が事実を身に沁みて感じていないことから、安倍首相のウソに同調したのであろう。
【「郡山日記―認知症から考える」鈴木二郎】
 身内の人の認知症と、その関連出来事を記す。自分は、両親の介護をしていたが、二人とも認知症にならないで病死した。父親は、82才で死ぬまでヘビースモーカーであったが、肺がんにはならなかった。父親にタバコを与え続けた自分は、医師から強く叱られ続けたたものだ。友人の話では、ニコチンは認知症になりにくい要素があるそうだ。真偽のほどは知らない。また、母親は42才の頃から、統合失調症と診断されていた。これも友人の説によると、統合失調症は、認知症に罹りにくいそうである。真偽のほどは知らない。本篇の事例では、参考になることが沢山ある。なかでも、人間の愛について、エロスとアガペーについて、解説しているのが珍しく、注目される。どういうわけか、文芸同人誌の作品には、好き嫌いの話はあるが、愛に向き合ったものが皆無である。同人誌にはそうした題材や論を避ける傾向があるらしい。
【「煙霧中人間話」秋沢陽吉】
  作家・ 丸山健二と加藤周一の「羊の歌」についての、文学的感慨が述べられている。自分は、初期の丸山健二の著作は、ほとんど読んでいた。自分は、1942年生まれだが、丸山は2年下の同年代の44年であろう。彼の社会的な体験と似たようなことを経験していたので、共感をもって読んでいた。彼の初期作品は自らストイックな体験を反映した、体力の必要な締まった文体をしていた。自分の文章体験でも、肉体を動かしている時期に書いた文体と、無運動の時の文体に差があることに気付いていた。その現象が丸山作品にも表れていたので、興味深かったのだ(この時の自分の作品を、師である直木賞作家・伊藤桂一氏の生前に読んでいただいた。そうしたら、大変評価して、文学賞に応募しても良いような出来だーーと言われた記憶がある)しかし、同じく丸山作品を愛読していた友人が亡くなってからは、丸山文学について、誰かと語り合ったことはない。その意味で、懐かしい思いで読まされた。また、加藤周一については、名前は知っていても「羊の歌」は読んでいなかったので、勉強になった。現代においては「羊のうた」というコミックが若者の間で、よく読まれていて、こちらの方が有名らしい。
発行所=「駱駝の瘤・通信」19号、福島もう一つの緊急事態宣言の拘りに記載。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2020年4月22日 (水)

文芸同人誌「文芸中部」第113号(東海市)

【「裁判沙汰」本興寺 更】
 文明開化が一段落し、明治になって、新聞の普及がすすみ、大新聞から小新聞まで時事ニュースや論調が読まれていた。本篇はその時代の小さな新聞社の記者の真三が、事件を取材する。シリーズ物である。今回は、村の農民と檀家寺の土地の支配権をめぐって、争いがあり、農民側が契約条項の解釈で敗訴する。農民の味方をする浄真という僧侶がその事態の一部始終を語る。題材は、当時の裁判制度で、興味深い書き出しである。中編と言えるほどの長さであるが、浄真の人物像に、魅力がすくなく、労多くして、物語の面白さという点での成果は期待したほどではない。歴史的な裁判の事例としての紹介に力点を置いたということらしい。
【「美しい村」西澤しのぶ】
 アイルランドで牧師をしている「私」に日本にいる先輩牧師から、アイルランドの「美しい村」というところに、娘がいるので様子を見て来て欲しいと頼まれ、会いに行く。アイルランドの風物が描かれるが、所詮は他人の頼み事。そうでしたか、という読後感。
【「影法師、火を焚く(第14回)」佐久間和宏】
 連載長編で、どこからどうよんでも良い感じだ。なかほどにいろいろなダジャレを含んだ帽子をかぶった人たち登場する。阿面帽や喰心帽、癌細帽、中世脂帽など、目無帽など、かなり創作性に富んでいるのが、面白い。
【「秋の夕暮れ」堀井清】
 高齢者の「私」は、ある日、めまいを感じるが、医師に相談すると、重大な病気の気配はないといわれる。書店にいくと、そこで美しい同年代の女性が、俳句の本のコーナーにいたので声をかけお茶に誘う。いわゆる団塊の世代の少し前の世代で、悠々自適の人生をおくる人の生活を描く。作者は、多くの多難な出来事を無事に乗り越えてきて平和な時代に人生を過ごす高齢者の立場から書く。情感を抑えたクールな筆使いの独自のスタイルを確立している。そのなかに現代の世相の反映もある。エッセイ欄の連載コラム「音楽を聴く」(83)で、昨年、東京で開催の「第3回全国同人雑誌会議」に参加したことが記されている。そのなかで、同人誌の運営者のたちの団体としての活動への意欲と勢いについて意外に思ったとする。「少なくとも私は、今回の主要なテーマは、文学のあるべき方向をみんなで模索しようということだと思っていた。」――という。例えば<いま何についてどのように書くことができるか>といったことについて、討議するころだと思い込んでいた。――とも。
 自分は、文芸同人誌というものは、同趣味の人たちのクラウドとしての懇親会のように思える。そのことで、一定数の人数の集団としての社会的役割があれば、そこに貢献すべきであろう。堀井氏は、純文学的な方向性をさぐるものとして、小説が自分探しの役割は終えた、と捉える発想のようだ。その意味では、人間は時代と共に、人間性を変化させており、自分探しよりも、人間性の変化の様子を探求するのは、純文学の果たす役割の一つであろう。不幸なことに、世界は新型コロナウイルスの大流行で、カミユの「ぺスト」がベストセラーになったそうである。第三次世界大戦争なみの共通素材と、問題意識を持つことになった。それにどう向かうかは、文学の世界では、個人の表現の問題であろう。いえることは、そうした問題意識の表現の主役ジャンルは、コミックや映画、ネット画像であって文学ジャンルではないような気がする。文学的には、国文学のジャンルと割り切って、その芸術性を発揮するのは、意味があると思うが…。
【「『東海文学』のことどもから」三田村博史】
 「東海文学」という同人誌がどのような作品や作者が、中央文壇とかかわってきたかという、歴史が語られている。純文学系の同人誌と同人作家の系譜が読めて、大変面白い。同時に、文学ジャーナリズに馴染まないと、純文学作家として世に出られないということで、作品の品質とは別の問題があるということがわかる。
【「ガラス瓶の中の愛」朝岡明美】
 高齢者を支援する団体に所属する女性が、ある高齢者の人生の終わりを見送る話。良く整っているが、もっとドラマチックな表現でないと、印象が薄いのでは。
発行所=〒477-0032愛知県東海市加木屋町泡池11-318、三田村方、「文芸中部の会」。
紹介者=「詩人回廊」編集者・伊藤昭一。

 

 

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