2018年7月17日 (火)

文芸同人誌「海馬」41号(神戸市)

【「旅のいざない」山際省】
 修三という男の人生遍歴を描いたもの。思い出話が入るため時代の推定が難しいが、四半世紀以上前のことであろう。内容は、幾つかのエピソードの積み重ねで、それをなべてある。駅で2、3日過ごしていると、警官に職務質問されてしまう。それが不満で、対応に協力しないので、交番委に連れて行かれる話。富士製鉄のJ建設会社の飯場で働く話。大型2種免許も取得する。生活苦もなく、自由な気分の生活情報である。最近の文芸同人誌に多い無思想性の生活記録。
【「彼と私と」山下定雄】
 自転車修繕作業と公園の雲梯にこだわる話が延々と続く長編の連結した作品らしい。彼と私は、分裂した存在として語られるが、それぞれのこだわりを主張しながら、統一された「私」として、読者に伝達される。こだわりをああでもない、こうでもないと繰り返すことで、人間性の一面を表現している。
【「タンゲーリーアの歌声」永田祐司】のんびりした
 出だしが、アルゼンチンの港の様子からはじまる。その運びが、話が長いことを暗示している。しかし、骨組みは、人探しの物語でできている。かつての恋人を探しだすために、日本からこの国にやってきた男が寺沢という68歳の男であることが2ページほど読み進むとわかる。彼女には娘がいるが、そのことも寺沢の思い出話のなかでわかる。
 人探しの間に寺沢とタンゴ歌手の関係から、彼の人生上の出来事が思い出物語として描描かれる。結局、探した彼女は見つけ出した娘によって5年前に亡くなっていることがわかる。こうした作りでは、何でも語ることが可能である。よくぞ書いたものだと感心する。そ一方で、の長所がある代わりに、極彩色の糸で織られた手毬のようにあれこれと目を引くことで、話が分裂し、統一的な印象を散漫にするようだ。
 このような幾つもの話を同時進行させるのに巧みなのが、宮部みゆきであろう。息もつかせず読ませる。ベストセラーになるのも当然。そのかわりああ、面白かった、で終る。それと異なる味わいを出すことが純文学としての道だとは思うが、難しいものだ。
発行人=〒675-1116加古郡稲美蛸草1400-6、山下方「海馬文学会」。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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2018年7月12日 (木)

文芸同人誌「胡壺」第14号(福岡県)

【「緑の花」井本元義】
 病を得て入院中の77歳の男性「私」が、自分の容貌の醜さや、自己存在の意味性の薄さを意識しながら、これまでの人生遍歴のなかで文学に傾倒した記憶をかたる。
 若い頃は、香港の街に憧れた。中国語習得グループの教室「緑の会館」に参加する。そこで、小美という日系中国女性に出会い彼女の個性と美しさに魅せられる。そこから、「私」の美意識と欲望の遍歴が語られる。一応、物語的に論理的なつじつま合わせにも、わかりやすく読めるが、それが読者サービスになるのだろうか。そのことが、内面的なイメージの飛躍を押さえているかも。中国文化への耽溺が表現されている。話はちがうが作者は、6月に閉店した新宿の文壇バー「風紋」の東京新聞記事に客として、コメントを述べている。文学的な遍歴キャリアの豊富さがわかる。
【「夜の庭」ひわきゆりこ】
 男は、世間のしがらみから離れ、勤めをやめ、見知らぬ街の見知らぬ貸家に住む。物語のようなものはない。だが、男の出会う不動産の女や、貸家の大家の女性の風変わりな描写が面白く、見知らぬ街での男の自由な新生活ぶりが、興味深く読み込むことが出来る。小説という表現の必要条件を満たしているので、架空の謎めいたの世界の中でも説得力をもった存在感がある。
 作者の「自作を語る」には、優れた絵画の風景には、その世界に入り込んでしまいたくなる気持ちにさせるものがあるーー。という趣旨がある。
 たしかに、小説の男は、風景画の世界に入り込んでしまったのか、と納得する。その意味で、成功している。要因には、男の設定があらゆる世間のしがらみから解放された状況にしたことであろう。そういうことがあったらいいなと、読みながら羨望させるものがある。心がのびやかになる。同時に、風景画のなかの生活を味わう精神を、文学作品として描くという希有な世界を表現していることで、貴重な作風に感じた。具体的な名画を選んで、その世界に入った話などもぜひ読みたいものだ。このジャンルでの専門作家になることにも期待したい。
【「凶暴犬とガマガエル」雨宮浩二】
 福岡に仕事で赴任してきた僕は、街中で野犬に襲われて、近くのジャングルジムに上って危機を逃れる。その時の犬の表情に恐怖を覚える。その事件があってから、ある人間との接触の時に、普通の何げない表情の中に、凶暴犬の表情があるのを見つけてしまう。
 常識的に見れば幻視にすぎないのかも知れない。ここでは人間の本質の中に、優しさと凶暴性が同時に保持されており、凶暴犬の性質は誰にでも隠されているのではないか、という恐怖感を表現する。
 会社でクレームを処理する仕事をしているが、昼弁当を買う店の販売担当者の女性との交流や、会社にクレーム電話をする男の存在など、話の展開は豊かである。僕は常に、未来に対して恐怖と警戒心をもって生活しており、その心理がスリリングに伝わってくる。
 本作の「自作を語る」によると、凶暴犬にやられたことは実体験らしい。それがいまだにトラウマになっているようだ。ただ、それから離れて読んでも、我々がの現状がそのまま継続するとは、限らないことに対する鈍感な社会の雰囲気を擬人化して表現するのに成功している。動機不明な殺人事件などのニュースが飛び交う日本の社会不安が巧みに暗示されている。
【「戻れない場所」桑村勝士】
 東京で官僚となり、産業行政の担当者の身分で、出身地の工場団地企業招へい活動を視察に行く。そこでの用事を済ますと、かつての青春をすごした地域に行ってみる。
 そこから時間は、過去にもどる。中学校と親しい悪ガキと、溜池でのルアー釣り(作者好みらしい)。そして、いじめをする別の悪ガキ。そこでの復讐など。
 しかし、現在ではため池は埋められて近代的な街になっている。完全な断絶の帰れない場所になっている。一種のビルドゥングス・ロマンの変形とも読めるが、そうした分類が適切かどうかは、わからない。
連絡窓口=〒811-2114福岡県粕屋郡須惠町上須恵768-3、樋脇方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2018年7月 6日 (金)

小説同人誌「ココドコ」1回限定号(大阪市)

 本誌は、第一号きりの同人誌。読者は、参加者とその知り合いたち対象ということか。このような試みもあるのか、と珍しいので紹介する。同人の「私家版」のようなものか。同人誌に所属していない書き手たちでもないようので、こうする理由がわからないところがある。同人誌の森に新種の樹を植えるというのだろうか。
【「空のあわいに」水無月うらら】
 本篇の終わりに鷹匠の技に関する参考資料書として、3冊が記されており、鷹匠として登場する女性の描写に生かされていることがわかる。話は、男には交際している女性がいる。結婚を前提にしているが、男はその気がない。女性は、彼の曖昧な態度に結婚を断念、去って行く。その男が魅力感じるのが、仕事と鷹匠を両立させる女性。
 自己表現としては、書いて充実感があるのだろうが、読む方は鷹匠というジャンルを楽しむ人の存在を知ることの面白さがある。
【「エンバーミング」内藤万博】
 アメリカの西部劇のような世界というより、そのもので、ベンジャミン・ウイッカーマンという屋敷を舞台に、銃の早打ちが自慢そうな、アメリカ人が集まる。話は、遺体保存された霊廟にまつわる話で、人間関係の心理を追求する。文学的にはフォークナーの「エミリー薔薇」やヒチコックの映画「サイコ」のような素材を使ったのに似る。書き手はとても楽しく充実しているであろう。読む立場では、アメリカの風俗へのノスタルジアを楽しめる。べつに外国人たちの話でなくてもよさそうに、とも感じる。
【「色の白いは七難隠す?」山川海蹴】
 ネット販売とスマホのアプリケーションなど、現代の職業人の生活と風俗の様子が、結果的に細部がわかる。選挙への姿勢や、制度としてのベージックインカムの話題なども意識している。色白の女性主人公は、母親を施設に入れている。生活のありさまが、ぶりが描かれているように読めたが、読み終われば、恋あり転職ありの生活の大変さのなかで、平和な日常が定着されている。
【「やさしい いえ」三上弥栄】
 触井園荘(ふれいそのそう)という2階建てのコの字型のアパートの住民たち。アパートはノスタルジックであるが、住むのは現代人。ミオリという「私」が住人として、アパート生活をかたる。無職で、大家さんらしいカオル子さんの犬の散歩役をしている。彼女を知る僕は既婚者で、妻と共働き。子供がいるので、子育てにイクメンをしなければならない。このように視点を変えながら、登場人物の仕事や生活が描かれる。書く方は、書きやすいだろうが、読む方はいちいちこれはだれであろうと、推測しながら読むので面倒。
 かつては、近代小説では、それだけ読者に負担をかけるとなると、それなりに重い内容の出来事があるのだが、現代小説ではそうとは限らない。それだけ文学が物語性から離れないと、通俗小説になってしまう。そうしない工夫の結果がこうなるのか、とも思う。
【「町工場に住む」田中さるまる】
 まず、通勤途中に電車のホームから、ビルの上から人が落ちるのを見る。父親が町工場の社長をしていたが、交通事故でなくなり、その事業を承継している息子が主人公。町工場だから、職人の技術があれば事業は続けられる。引き継いだ町工場は、海外に仕事をとられ、経営が良くない。そこで職人技をもつ社員を活用して事業の維持拡大をはかるが、冒頭のビル身投げを見たことで暗示させられるように、事業はうまくいかない。
 社員には外国人労働者がいたり、ベテラン専門職社員と職人でない2代目社長の駆け引きが主に強調されている。町工場の一部としてのリアルな面がある。ただ、経理の人間や銀行の存在がないため、文学的な表現としての環境であろう。全体に精神的な存在として主人公の心理にとどまる。舞台となる町工場はかなりの現金資産があり、工場の不動産価値がある状態で、経営者の生活上の維持は困難ではない。
そうなると、とりあえずの生活状況よりも、状況の悪くないなかで、精神的な不満足があることを示していると読み取れる。そのために、話がすっきりしなまま終わるのは、純文学のスタイルなかにおさまるためのものであるのか、という感慨も出る。
発行所=〒530-0035大阪市北区同心2-14-17、光ビル512、「ココドコ」製作委員会(代表・黒住純)。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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2018年6月27日 (水)

文芸同人誌「文芸中部」108号(東海市)

 本誌の三田村博史編集者が「季刊文科」74号の「同人誌相互評」・「文芸中部」107号―描くことの意味と意欲―と題し、掲載作品の紹介と批評を記している。そこで、同人たち全員が10年以上修業を積んだ人たちで、意欲にみちた同人雑誌であるとしている。その通り、常に一定の水準以上の作品であることは、確かである。
【「REPOROGRAM」加納由佳子】
 SF小説で時空の構成がわかりにくい。「史昌の生きている2035年は、この少女の生きている時代から17年後だ。目の前の少女の名は怜亜という。2018年の1月に彼女は妊娠し、史昌が生まれることになっている。史昌は17歳だった。彼が現在、夢中になっているゲームは「REPOROGRAM」というソフトで、他人の過去に飛び記憶を書き換えることができる。新進気鋭の時空旅行感覚ゲームソフトだ」
 と、いうような世界である。現代人を取り巻く世界の情報の複雑性をゲーム性を素材に取り込むというものであるのか、時空の違いが具体的にイメージしにくいので、意味が受け取りにくかった。
【「どこに行くのか」堀井清】
 作者の確立した独自スタイルによる問題提起、人生の峠を越えて「どこに行くのか」そのもの物語である。構成が巧い。まず、アマチュア写真家の神屋が作品展をする。鑑賞に来る人は、友人くらい。真鍋と元木が友人である。元木は作品展に行くが、妻がサークルの教師と浮気しているのを疑っていて、見張ったりする。真鍋は会社経営者だが、作品展に行かず、愛人と駆け落ちをする。それぞれの行動をえがきながら、どうなるのであろうという興味を掻き立てる手法が効果的。ここでは、なんとなく、どうにもならないという人生の本質に触っているように読める。
【「雲雀荘の春」朝岡明美】
 社会に出た女性が能力がありながら、企業内のパワハラ、セクハラによって、対人恐怖症になって会社をやめた女性。その女性の眼を通して見た雲雀荘アパートの人間模様を描く。パワハラ、セキハラは、重大な社会問題である。しかし、ここでは風俗小説的な扱いになっていて、話の仕立て素材とされているところが、力みがなく軽い味わい。
【随筆「物質と文学<生と死の仲良し>『影法師、火を焚く』の量子的解釈」名和和美】
 本誌に連載の「影法師、火を焚く」(佐久間和宏)第8回の合評会の様子と、自身の解釈を記す。作風が、語り手の「私」が、同一人でないため、誰がどうしたのか、関連が掴みづらいということであるが、各編ごとに単独で読みとれる面白さもあるようだ。
 そこから、作者が「私」と書く「私」は同様な認識による「私」なのかーーという疑問なのか、存在のもととする物質論に入る。量子力学の光の存在が粒子か波動なのか、さらに粒子理論から「ひも」理論まで、」世界の構成にまで、話が及ぶ。そして認識に対する物事の「不確定性理論」にまで及ぶ。面白い観賞法である。
 作品にはジャンルの区別があって、絵画は枠の中に絵具の形がある。それが素材を生かして立体的になれば彫刻である。文芸は文字をもって、自由な視点でイメージや幻像を産みだそうとする。そうすると語り手の主体は、誰なのかっということが、疑問になる。たとえズブズブの私小説の「私」であっても、それをどう認識するかの把握の仕方で、異なってくることがわかる。
【「『東海文学』のことどもから(1)」三田村博史】
 同人誌「文芸中部」の発祥にかかわる同人誌の歴史と来歴、関係者を知ることが出来る。文学芸術は、過去にはカルチャー全体のなかで作品の映画化などで比重が大きかった。しかし、現在では事実の情報化、バラエティー化とコミックの比重におよばず、カルチャーでの位置が小さくなった。事実の方が面白いのだ。いまの文芸作品は、ポストモダン時代に入ってプレ・モダン時代の様相に近い状態かもしれない。そのなかで。文学の系譜を同人誌の歴史から見る傾向は増えるのではないか、と思わせる。
 まだ、意見を述べたい作品があるが、それについて書くのは長くなりすぎる。
発行所=〒477-0032東海市加木屋町泡池11-318、三田村方。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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2018年6月13日 (水)

文芸同人誌「あるかいど」64号(大阪市)

【「親指の爪」西田理恵子】
 古老の独白文体の作品。太平洋戦争末期の米軍による無差別住民爆撃のすさまじさを語る。古老の子供が孫を連れて遊びにきたので、語って聞かせるという話の設定。過去の出来事の叙述に、創作的な工夫をしているのがわかる。なかで、爆撃の最中に紙屋の親父さんが、家族を抱えたまま、立って死んだという終章などは、この形式でないと、ぴたりと決まらないものであろう。
【「人間病患者」高原あふち】
 作中人物ごとに、その人物の視点で物語を進める視点移動タイプの小説。人物は小野田博、妻の貴子、博の父親の香久山、博の娘である海音。複雑な家族関係のなかを、それぞれの立場から、自分の事情を語るので、関係性はわかりやすい。ただ、作品が長くなるのは、手法上の特性である。にもかかわらず、人物が多いので細部の人物の立ち上げに深みが欠ける。エンターテイメント化してしまう欠点がある。ミステリー小説なら、犯人を追及するとか、意外な動機を展開させる複雑な出来事をわかりやすく語るのに適している。純文学は人間の内面を照らすので、人物が多いのは不利に働く。有馬頼義や野間宏の作品に視点移動の作品があるが、人物の書き分けは2、3人と記憶している。
【「自転車泥棒」高畠寛】
 邦夫という男の閉塞的な心理が伝わってくる。表現力の巧さかから、作者の思うところに抵抗感なくついていける。邦夫は、自転車泥棒の嫌疑をかけられ、ストレスが溜まってキレる話。ここでの警察の対応描写は、かなり実体験に近いものと受け取れる。一般論であるが、警察署ごとに扱った犯罪件数の統計を比較して、署長の成績のバロメータとしているらしく、自転車泥棒の検挙が、件数を稼ぎに貢献しているようだ。
 扱い件数が少ないと、わざと鍵の掛けていない自転車を、路地や公園に放置して、それを離れたところで、警官が見張っている。誰かが通りかって、不審に思ってその自転車に手をかけたり、調べたりしていると、その人間を自転車泥棒の現行犯で捕まえる。それで件数が稼げる。これは、キャリア署長から保険をとった保険会社の女性社員から得た情報である。
【「三つ巴」池誠】
 何の話かわからずに読み進むと、普通の建築工事の合間か、工事を装うかして埋蔵金探している話のようだ。それにしても、滑稽味が薄いのが、不気味。それと、この作品に限らず、作中で夢の中の話を出すがことがよくある。小説の読者が、作品の中に入り込んでいる時は、夢の世界と同じ実体験でない世界にいる。そこに、作中の人間が実体験で夢を見ることを記されることは、二重の非現実体験をさせられることになる。そこに、よほどの強いイメージ力がないと、情景の把握がし難い。これは自分だけの癖かもしれないが。
【旅行記「サラバじゃ」木村誠子】
 アラビアのサハラ砂漠やピラミッドなど、読むだけで行ってきてみたような気分にさせられる。文章での表現の力量が優れている。よく、現地の写真を見せてもらうことがあるが、それよりもこの一文のほうが、面白い。
 その他、メールなどで対話をした「月の満ち欠け」座談会や、「掌編小説集」などがある。とくに掌編では【「朝鮮学校の学芸会」住田真理子】が大阪らしい話で、印象に残った。メディアはトランプ&キム会談の話題でもちきりだが、70年前のこの歴史の過程に生きていた当事者は少なく、自分たちに直接経験のない出来事の波立ちの煽りでその始末することの不合理さを感じてしまう。
発行所=〒545-0042大阪市阿倍野区丸山通2-4-10-203、高畠方。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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2018年6月10日 (日)

文芸同人誌「奏」第36号2018夏(静岡市)

【講話録「小川国男―その文学とキリスト教」勝呂奏】
 でかけなくても、講演の内容が分かるというのは、助かるというものだ。対象も幅広い文芸愛好家を対象にしたものらしく、比較的やさしく分かりやすい。
 私が小川国夫を知ったのは「アポロンの島」で、島尾敏雄の高評価で世に出たということぐらいである。その時作者が30代ということだが、自分は作品の私小説なところから、若者が精神的な遍歴と旅を結びつけたもので、作者の若書きと思って読んでいた。本誌の評論履歴などで、大森の教会にいたことを知り、自分はこの土地の生まれなので、地縁のようなものがあるのだな、と受け取っていた。関心は、極限まで切り詰めたと思われる簡素な文章であった。どこまで短くしても、表現力として通じるかの実験をしているような作風に視線がいって、その背景に聖書や宗教的な意味づけがあるとは気付かなかった。
 ただ、地球の乾燥地帯の風土に生まれた発想を、日本人が取り入れるとこうなるのか、という程度のものであった。それでも結構読めるものなのである。
 この講演録によって、宗教者による生き方の追求の文学であることが理解できる。とくに、小川国男の神が「弱い神」であった、という指摘は興味深い。強くない神は、存在する意味があるのか。居てもいなくてもどうでも良い存在なのではないか、というサルトル並みの無関心無神論とのせめぎ合いの問題を抱えていたようにも、解釈できる。しかし、親類にも入信をすすめたというから、やはり元からの宗教者であったのであろう。
【「評伝藤枝静男(第三回)勝呂奏」
 独自の私小説の表現法を開拓したイメージがある藤枝静男である。事実というのは、人によって認識の異なるという現象を巧く活用して、新境地を開いた作家のように思える。
 医師という職にありながら、作家として世に出る、あるいは出たい、という自己表現者の意欲がわかる。それが「近代文学」という文壇との渡し船に乗った事情がこの評論でわかってくる。作品には文芸評論家に失敗作とされるものや、成功作とされるものが、あるという。
 そのような、ムラがあるというのは、自己表現者の藤枝にしてみれば、どれも独自の個性を表現した同等なもので会ったのかも知れない。充分個性的なものは、その人だけがわかるもので、他者には理解不能なところがあるはずである。個性的なものを書けという編集者の言葉を信じてはいけない。それは、凡人の理解できる範囲においての話であろう。
 興味深いのは、評論家に出して「一読してイヤなところがある」ということを気にしているというところである。そこには、自分の本音のところを、客観的な自己意識でなぞると、美意識的に一致しないという認知的不協和が発生するという現象ではないか、とも思える。本心を出し過ぎたと思うと、そで良いのかと落ち着かなくなることがある。
 本質的には、事実的なところを歪んで認識すると、独自の表現として表れる面白さに、藤枝は取りつかれていたとも、勝手読みしてしまうところもある。
 そう考えると、あのへんな事実的な話から異世界に進入する歪んだ作風の所以がわかるような気がする。
【小説の中の絵画(第八回)「森茉莉『ボッチチェリの扉』(続)-硝子戸越しの部分画」中村ともえ】
 森茉莉を全く読んでいないので、歯が立たないのだが、このなかで「贅沢貧乏」の主人公・牟礼魔利が注文に応じて小説を書こうと奮闘している、という件りがある。どうやって小説を書こうか、と苦労する。たしかに、どうであれば小説で、どうでないと小説でないか、本来は大変な工夫がいるのであろう。しかし、同人雑誌の作家たちは、いとも簡単に小説を書きあげてしまう。読む立場からは、これは小説になっていないのでは? と疑問をもったとしても、「小説でないものを、小説として読んだ」とは紹介しないのである。べつに買い求めたものではないので、贅沢はいえない、唇の貧乏である。
【「堀辰雄旧蔵洋書の調査(十三)-プルースト⑦」戸塚学】
 資料研究家のなかのマニアかオタク的なデータ―ストック。堀辰雄研究者がいたら、こういう資料の存在を紹介しておこう。
発行人=〒420-0881静岡市葵区北安東1-9-12、勝呂方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2018年6月 7日 (木)

文芸同人誌「群系」第40号(東京)

【「息子と、開運」小野友貴枝】
 語り手の「私」は、58歳の働く主婦である。行きつけの喫茶店は80年の歴史をもつという。マスターは寝たきりママの世話もしながらの営業である。こういうところに時代性が出ている。私の息子は、30過ぎてからうつ病と診断され療養をしてるので、母の日の贈り物も届かない。
 喫茶店にの席には、印鑑屋が若いお客に、高級印鑑と運の良くなる縁起のよいというものを強引に進めている。「私」は印鑑屋が席を外した隙に、若者に自分にあった印鑑を、よく考えて注文するようにアドバイスする。そして、過去に息子の名を語るおれおれ詐欺のような電話に騙されそうになったことなどを思い出す。さらにうつ症状に苦しむ息子に開運の印鑑をつくってやりたいと思う。
 エッセイ風だが、いろいろな事件的出来事があって、全体が小説的という、奇妙な味わいが印象に残る。珍しい作風の作品になっている。
【「忘却に沈む」荻野央】
 語り手の「わたし」は、夕方にスーパーのイ―トインで缶ビール飲みながら読書をする習慣をもつ。そこは近所のおばさんの女子会の場でもあり、「わたし」と同様の男の高齢者の休憩所でもある。そこ。にやってくる老人の観察をする「わたし」である。作品で見つめるものは、先の見えた人生、廃墟となった家など、寂しく滅びゆく存在物の実存的な風景である。終章に新川和江の「記憶する水」という死後の世界を暗喩する詩を置いて、文学的な魂の表現になっている。ドイツ詩人のリルケの都会もの散文に通じる世界であるが、妙に分かりやすいというか、照明の利いた見通しの良い表現力が魅力であろう。
【「初春のつどい」(前編)富丘俊】
 10年前の散歩で知り合った3人のほぼ70代の人物のそれぞれの生活を語る。特に現代政治について、議論をはさむところなどは、誰でも描きそうでありながら、触れることの少ない世相を映す話題性がある。前編とあるが、各高齢人物の家庭事情と生活ぶりを描いて面白く読める。
【MEDIATORS(介在者たち)坂井瑞穂】
 アメリカ文学の翻訳小説かと思わせるほど、登場人物がアメリカ人で、ノースカロナイナを舞台にした作家と出版関係者のはなし。アメリカ文学には、多様で自由な形式のものがあって、サローヤンやオコナーのように、取りつきにくい作家もいる。よくわからないが、アメリカ文学らしさを感じる。
発行編集部=〒136-0072江東区大島7-28-1-1336、永野方、「群系の会
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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2018年5月29日 (火)

文芸誌「砂」第137号(東京)

【「再び、只野ますみの行ったり来たり(13)」只野ますみ】
 本誌「砂」の有力書き手であった宇田本次郎氏の訃報を知って、彼の想い出を記している。このなかで「砂」誌が、優秀作品賞を設けて、彼に授与したかしようとしたか、した時に、「腹が立って、これでも物書きの端くれだろうから、同人雑誌仲間とは違うだろう」と語っていた、とある。
 自分も、詩人で直木賞作家の伊藤桂一氏の門下生仲間として、宇田氏とは他に交流があったが、知らなかった出来事だ。芸術性の高い文学性を目指す人には、独特な自負というかプライドがあるものだなと、感じた。私は「砂」誌でなにかをもらった記憶があるが、なんとも思わなかったし、自分で話題にしたこともない。そういえば、この会でのことだと記憶しているが、ある人の作品を仲間が、褒めたつもりで「これは一皮むけた出来ですね」と言ったところ、「一皮むけたというのは、これまで下手だったということか」と、怒り出したのを見たことがある。笑ってしまったが、文芸では褒め方も難しいところがあるようだ。
【「ひとりの空間」夢月ありさ】
 生活のなかで、自分だけのひとりでいられる時間と空間について、まず、トイレ、洋室、車の運転席、電車のなかなど、挙げている。さらに美容室や馬術場、釣り人などの事例を取り上げ、「おひとりさま」を積極的に行うことで、社会生活が、充実するとしている。
 我々は大衆として社会生活を送るなかで、何らかの特性をもつ集団と日替わりのように接触し、所属している。そこで独立した個性と人格的統一をどのように維持するか、生活や価値観・思考などが画一的類型化された「砂のような大衆化」に巻き込まれまいとする精神が表現されている。
【「林家これから」林治子】
 父母の遺産分けを姉妹でどのようにしているか、のレポート。私自身も長男で、親の残したものを姉、妹、弟で金銭に変えて分配するしかないことに、多少の抵抗感がったことが記憶にある。
 その他、詩作品のほか、伊藤昭一の「町工場スピリット・クロニクルのⅡ」として、視覚障害者用「触図筆ペン」を開発した安久工機の田中隆社長の仕事ぶりをレポートしている。
 前号では、物を作るのにゴミを出さないことから、生活のなかでゴミを出さない工夫をしているトキワ精機の木村洋一社長の思想を紹介した。これは以前い取材し、各種経済雑誌に掲載交渉をしたが、話がまとまらず、部分的にブログで公開してきた。しかし、長く詳しく書くとブログ形式に会わないので、断片化していた。それを一気通貫でまとめて紙活字にしたものである。本誌を文学ウリ―マーケットに出したら、在庫不足になるほど売れた。おそらく、関係者が買っていったのであろうと思う。
 その後、文芸誌「砂」を見せて、安久工機の田中隆社長に、これに載せたいと伝えたところ、もっと大部数の商業誌にも取り上げられている有名企業なのに、承諾していただいた。
連絡所=〒169-0072東京都新宿区大久保2-3-9-901、山川方、「砂」の会
 紹介者=「詩人回路」北一郎。

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2018年5月26日 (土)

総合文芸誌「ら・めえる」2018・第76号(長崎市)

 【「疼く街」櫻芽生】
 雪乃は思春期に、家族の居ない時に、家で昼寝をしていると、いつの間にか大家が合鍵を使って、家に入り込み雪乃にのしかかられる体験をしていた。肉体的な傷は受けずに至ったが、その恐怖感は、暴行されたと同様であり、心に深い傷を残す。そのことは大学に進んでもトラウマとして残り、男性に対する「ケモノ」意識は消えない。
 それは成人男女の交際にも支障をきたす。そのなかで、女遊びの巧い妻帯者の淳一郎と知り合い、誘惑に乗って関係をもつ。妊娠をしたが、男は中絶すればよいことと、言い切り縁遠くなる。しかし、それでも淳一郎は、妊娠中の雪乃にふたたび接近してくる。そ
こで、雪乃のケダモノ感覚が沸き上がり、男を刺してしまう。
 構成にひとひねりがあり、文体はですます調で、文芸表現的に含みの多い意欲作。現在、セクシャルハラスメントにおける、女性の心の傷の深さにスポットがあてられているが、その流れを反映して、すばやく作品化されたところに、多くの女性たちの男性社会に抑圧さてきた様子が推察できる。
 【「人事今昔物語―人事部S君の苦悩―」関俊彦】
 おそらく事実は、歴史をもつ大企業の話であろう。S君が人事部に配属されて、それまで知らなかった総務の人事部のさまざまな、特別な仕事の多さにおどろくという体験談。
 給与の振込口座の別口システムがあったのが、それをなくしたら、社員が愛人をかこっていたことはわかるとか、社会の有力者や得意先大企業の係累だと、無能でも採用しなっければならず、その対応に苦慮するなど、とにかく面白い読みものである。
 【「富の原伝説」古道まち子】
 歴史的にみると、古代から九州全体が自治独立体の集まりであったろう。長崎県大村市富ノ原にも古代の遺跡があるという。その状況の説明がある。すると、その語り手が、透明な存在となって、その時代にタイムスリップし、本土権力と富ノ原の人民との交渉に巻き込まれる。こうした地域の知られざる歴史に興味をもたせる巧い手法と感心させられた。
 【「核禁止条約成立後の廃絶運動探って」嶋末彦】
 いかにも長崎の地域性を前面に打ち出した評論である。条約の決議の時に、日本政府の欠席に失望する田上市長に手元には、故人となった長崎原爆被災者協議会の谷口稜瞱会長と土山秀夫・元長崎大学学長の写真があったという。また、安全保障関連法を憲法違反だとして、提訴した長割き被ばく者たちの法廷口頭弁論の様子が報告されている。
 【「プラトン初期対話編三編」新名規明】
  作者者は、これらの哲学書を文学として読むという姿勢を示している。ソクラテスは前399年、70歳で刑死。アリストテレスが生まれたのは前384年。ソクラテスの死後15年が経過。
  プラトンは、ソクラテス刑死の時、28歳で直接指導を受けたという。アリストテレスはソクラテスと面識がなかったという。そうなのかと、勉強になった。細部は理解できないが、人間社会での「真」「善」「美」の価値観がこの時代から存在していたことは、証明されているようだ。
 ということは、現代において、何が真善美であるのか、価値観の変化があるのかないのか、問いかける気持ちになった。アリストテレスの論理的な分類手法と、ソクラテスとプラトンの漠然とした「イデア論」などに対応した現代会批評の基礎をまとめてみたものも読みたい。
発行所=〒850-0913長崎市大浦町9-27、田浦事務所。「長崎ペンクラブ
紹介者=「詩人回廊」北一郎

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2018年5月19日 (土)

文芸同人誌「海」第97号(いなべ市)

【「闇の色」宇佐美宏子】
 ソムリエの資格を持つ55歳の吟子は「ワインバー・吟」の経営をしている。35歳の時に離婚、慰謝料としてこのバーとビルの最上階の異質の住まいを得たものだ。バーは、ソムリエをはじめ、沢田という男を中心に数名の従業員で繁盛をしている。
 あるとき、鈴木隼人という若者が吟子のバーで働かせて欲しいとやってくる。吟子は彼に不思議な魅力を感じ許可する。
 謎めいたところのある隼人は、次第に吟子に身の上話をするようになる。そして、幼児期より母親の性的な虐待を受けていたことを打ち明ける。精神的に嫌悪しながら肉体は母親の愛撫に応える自分に苦しむことを告白する。
 そして、隼人は店での沢田の姿に魅かれて、ここに来たという。吟子は、自分の心が彼に傾斜していたので、痛みを感じる。やがて、隼人は、知り合った女実業家と共に去った。
 これまで、存在は推測されていたが、表に出ない近親性虐待、LGBTを正面から題材にした作品。設定も良く世相を敏感に反映している。同人雑誌の同時代を見せて、注目させる。
【「星影の情景」紺谷猛】
 会社経営者の時朗が、スーパーで妻に頼まれた買い物をしていると、社員にそれをを見られ、バツの悪い思いをする。そこから、妻の美穂子が時朗の89歳になる母親の世話をしているので、そうしていることがわかる。老母には、ほかにも子供がいるが、たまに様子をみるだけで、充分なフォローができないので、美穂子が義母引き取って世話をする形になった。美穂子の介護の大変さと辛労が描かれる。嫁の立場の宿命でもある。その後、義母を養護施設に入れる。義母は多少の不満を感じたが、結局そこで人生を終える。いろいろあったにしても、結果的には、介護問題では、非常に物事がスムースに進んだ事例となるのであろう。
【「白い十字架」白石美津乃】
 高齢者の女性が、ホスピスにいる男性友人に遠路会いに行く。これまでの友人との出会いや、出来事を思い出す。終末物語そのもので、まさに、自分自身の記憶をたどって、感慨にひたる自己表出の話。気持ちの整理整頓になるのであろう。文章を書くことの効用が良く見える。
【「鈴沢弘江の覚悟」国府正昭】
 理髪店をしている伸吉は、高齢者が散髪に店まで来るのに大変なのを実感する。当人も高齢である。すると、近所の70代の友人が、伸吉のお客を車で送り迎えをしてくれるという。その得意客の鈴沢弘江という女性が、独り暮らしをしているが、自分は死ぬまで、自分を投げ出すことをしない、という覚悟を語る。
 やがて、その鈴江が骨折で動けなくなると、鈴江の子ども達が見舞にやってくる。じつは、鈴江は再婚で、彼らは継子であり、子供たちには継母なのだった。しっくりいかなかった、当時の思いを語り合うという話。この世界に秘められたありそうな沈黙する生活者のたちを浮き彫りにした物語。
【「安西均の詩―生誕百年に寄せて」安部堅磐】
 詩人・安西均の名は覚えているが、どのような詩風であったか忘れてしまった。本稿で改めてその精神の一端を学んだ。伝統的な言葉のリズムを共有していた教養人たちの存在感を感じさせる。感覚の多様性により、砂のようなさらさらとした粒になった現在の詩人たちの境遇を嘆くべきか。
【「刑事死す」宇梶紀夫】
 警察署物の追跡ミステリーで、面白く読んだ。刑事で父親の殉職したその息子もまた殉職するという二代の話をつなげて統一感にしている手法で、うまくまとめられている。
発行所=〒511-0284いなべ市大安町梅戸2321-1、遠藤昭巳方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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