文学の源とポストモダン
どこかの本に書かれている同人雑誌的な文学論に現代に読めるが、じつは昭和初期の日本が独立国として、世界の列強に対抗していた時代の文学論である。ある意味で、今の同人誌作家の精神論に載っていそうな話である。時代遅れという感じがする部分はこうした面があるかからかも知れない。
-- そこで、所謂(いわゆる)小説を書くには、小手先の技巧なんかは、何にも要らないのだ。短編なんかを一寸うまく纏める技巧、そんなものは、これから何の役にも立たない。
これほど、文芸が発達して来て、小説が盛んに読まれている以上、相当に文学の才のある人は、誰でもうまく書けると思う。
それなら、何処で勝つかと云えば、技巧の中に匿された人生観、哲学で、自分を見せて行くより、しようがないと思う。
だから、本当の小説家になるのに、一番困る人は、二十二、三歳で、相当にうまい短編が書ける人だ。だから、小説家たらんとする者は、そういうような一寸した文芸上の遊戯に耽ることをよして、専心に、人生に対する修行を励むべきではないか。
それから、小説を書くのに、一番大切なのは、生活をしたということである。実際、古語にも「可愛い子には旅をさせろ」というが、それと同じく、小説を書くには、若い時代の苦労が第一なのだ。金のある人などは、真に生活の苦労を知ることは出来ないかも知れないが、兎に角、若い人は、つぶさに人生の辛酸を嘗めることが大切である。《菊池寛の近代文学精神とポストモダンー30-(3章)文学の源》
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