山月記の中島敦と自己存在
東京新聞には、朝刊に付録のような別頁の特集がついてくる。1月23日付では、中島敦「虎になった男の物語『山月記』をー心ふるえる魂の咆哮ー4つの問いをめぐる文学の散歩ーとして解説を載せている。中島敦は1942年2月に文壇デビュー、その年の12月に亡くなって江いる。自分は、同じ年の2月生まれだから、入れ替わりにこの世に存在したことになる。かれは生前に新橋の「箸善」によく行ったというので、自分は学生時代に、食べに行ったことがある。その頃は、まだ店は存在した。今は「箸善ビル」というのがあるそうだ。彼の全集を読むと、卒論に谷崎純一郎論を書いていたのがわかる。「山月記」の元作品は中国の「人虎伝」であるという。中島敦の「山月記」では、詩人が作品が世間に認められず、虎になったという話である。自分で自分の存在の意味を主張できず、他者の眼で証明されることが、人間社会のセオリーなのである。おそらく、この特集も、他人を殺してでも自己存在を主張したいとする事件の多さに刺激されたのかも知れない。マルクス経済学ででは、使用価値しかない道具が、貨幣が社会の価値評価を集約することで値段が付き、商品になるとしている。人間社会では、存在者は社会評価に恋をし、常にプロポーズし、良い返事を待ちこがれているのだー。《参照:文芸同人誌の社会性とポストモダン(2章)-2-自己価値が判る》
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