文芸同人誌「奏」43号2021冬(静岡市)
【「小説の中の絵画(第15回)-岡本かの子「母子叙情」-繁茂する植物と青年の手紙―」中村ともえ】
本作で、この時代の表現に制約のある時代にかの子が、直接的表現を避けて、言葉をいかにして選んだか、について興味を持って読んだ。これに関連して、高良留美子「岡本かの子 いのちの回帰」(2004年・翰王林書房)著作があるそうだ。小説の内容についてだが、溺愛している息子に会えない境遇から、その面影をもった春日規炬男に抱く感覚的な接触欲について、シンボリックな言い回しで表現しているところを分析しているそうだ。モダン文学の評論のなかで、どちらかというと、新規性に欠けるテーマとみられがちだが、文章表現の言いまわしの工夫は、今後の文学的表現のなかで、必要に迫られる場面がありそうな気がして、興味深く読んだ。
【「女たちのモダニティ⑦-佐田稲子「レストラン洛陽」-風景としての女給」戸塚学】
モダン都市の人と情景が「風景」として盛んに書かれた時代があった。ーーという冒頭の部分で始まる。大正12年の関東大震災が日本を変えた時代である。文壇的なつながりで言えば、震源地の横浜から住まいを失った人達が、東京大田区の郊外に、段丘が多く農村的な土地柄であったところに多くの人が移住してきた。宇野千代や尾崎士郎、北原白秋、萩原朔太郎などが、移り住み「馬込文士村」という文化人社会を形成したのである。《参照:モダン文学の里「馬込文士村」の風景(4)尾崎士郎と宇野千代》。この時代は、西洋風自由意識の導入期であり、社会が流動的で、大きく分類しにいので、個別の現象がホットスポット的に存在したように把握するしかなかったのであろう。そんな時に、資本家の優勢と、労働者の弱さという視点が、女性の弱い立場を際立つ女性に重なり、マルクス主義思想におけるプロレタリアートという存在を印象付けたようだ。ここでは、佐田稲子という作家の文学芸術性が、プロレタリア作家らしくない純文学性をもつ、と評価する。思想性に頼りすぎる左翼小説への示唆になっているようにも読める。
【「伊豆文学の小径―白栁秀湖・小杉未醒」勝呂奏】
自分もかなり伊豆行った経験がある。伊豆急の「富戸」から、まだ未開の城ケ崎崖を抜け、石廊崎で野宿。他の野宿者と野犬を警戒して寝たものだ。伊豆ないは、徒歩旅行なので旧天城トンネルで、車に轢かれそうになった。落合楼と踊り子の宿を横にみて、2,3日放浪したものだ。知られざる文学者が多くいることは、当然に思う。
【「正宗白鳥―仕事の極意―文壇遊泳術に学ぶ(三)」佐藤ゆかり】
とにかく面白い卯。読者と編集者によって仕事が生まれるのが職業作家でやる。そこで、変化する世の中で、職業作家を続けることは、大変難しいはずだ。正宗白鳥は、とくにヒット作もなく、文壇の重鎮であり続けた珍しい作家のようだ。なによりも、小説にするための生活づくりをせずに、普通の生活を保ったのであるから、よほど文章力と評論性にすぐれていたのであろう。私は、彼の作品を読んだ記憶がない。
発行所=420-0881静岡市葵区北安東1-9-12、勝呂方。
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一
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