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2021年8月23日 (月)

文芸同人誌「文芸中部」第117号(東海市)

【「たった一人の孤独」堀井清】
 作者は、本誌に毎号作品を掲載している。しかも、独自の手法を編み出し、そのスタイルを維持しながら、不出来がない。安定した水準を維持している。その手腕に感心している。今回は、「自分」という85歳の男の語り手が主人公。会話にカギ括弧をつけないというのは、いつもの文体である。例えば作者はーー窓をあけるよ、と女将さんがいう。/飯にはまだ早いよ、と自分は答える。――と平たく表現する。こうすることで、出来事が、語り手の意識内を通した現象表現となり、生々しさを失わせるかわりに、間接的表現性をもつ。同時に、思索的な側面を強くし、現実から距離を置いたように感じさせる。「自分」は高齢者であるが、生活費に困っていないらしい。ただ、やることがない。死を待っているようなのだが、表向き体調は悪くない。健康なので困っている。これは、「自分」の問題提起である。それでどうするのか? という読み手の興味に、同じアパートの同年齢の男を訪ねることにする。困ったからといって、死ぬの生きるの、ということはない。退屈しのぎの時間稼ぎに入る。人間、欲望が当面の問題忘れさせる。こうしてそれからどうしたという物語に入っていく。高齢者の晩年の問題に、解決の答えはない。しかし、小説である以上小説的回答は必要だ。作者は、どの作品でも、そうした要件を満たしている。これまでの作品にも、軽純文学として、読み応えのあるものもある。大手文芸雑誌の編集者は、2、3作を掲載してみる気はないのだろうかと、ふと思ってしまう。
【「怨念メルヘン」大西真これは紀】
 これは、俺というユーチューバーの生活ぶりを描いたものらしい。最近はやりの自由業YOUTUBEの閲覧数を上げて広告収入を得る仕事である。作者には好なように書く権利があるので、どうでもいいことだが、俺が何でこの話をするのかが、わかりにくい。朝、目覚めたら、なぜ自分がここにいるかが、わからない、というのが出だしだ。乞いう設定だと、物語は意識不明の間に、なにか重大な出来事が起きていないと、面白くない。それが、いわゆる、問題提起になっていない。周囲の人間関係も、なまじ俺が語るから判りにくい。信用ができない。物語の骨子が漠然としている。俺がユーチーブの閲覧数の変化に、敏感でないのはおかしい。物語の一つのパターンに、何が失われていくことを、取り返すというものがある。ここでは、閲覧者が減るのを必死防ごうとする俺の話なら読む気になるかも知れない。スマフォであたらしい株をつくり、その売買をする企画などは面白いが、それに対する俺の態度がつまらない。九藤官九郎の失敗作のような感じがする。
【「わが社のいたち」朝岡明美】】
 変な新入社員がいて、彼の行動と性格を拾い上げる。場違いなとこころもある。社内の人間関係も絡めて、噂話をする。そのうちに、その新入社員が女性関係で失策していることがわかる。社内の女性観たちが、がやがやするところの書き分けは、巧い。ただ、物語が小さい。
【「『東海文学』のことども」三田村博史】
 「東海文学」という同人誌の歴史で、主宰者の江夏美子が『文芸首都』出身で、1950年「南海鳥獣店」で新潮文学賞佳作入選、江夏美子の筆名を用い、1963年「脱走記」で直木賞候補、1964年「流離の記」で再度候補となったころの話。当時の文壇という世界に大変近い存在であったことがわかる。現在では、職業作家というのが、文芸同人誌の延長線上にほとんどない。その世相の違いを感じさせる。なかで、三田村氏が能の世界に魅せられていくところは、興味深い。
【「大きな子供たち」春川千鶴】
 大人になっても、青春時代の体育部活の雰囲気を維持している様子が、活写されている。良いけれども、こういうのに詩情美を加えるのが、文学趣味なのではないだろうか。
発行所=〒477-0032愛知県東海市加木屋町泡池11-318、三田村方。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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