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2021年8月26日 (木)

文芸時評(東京新聞8月25日・夕刊)=伊藤氏貴氏

川崎徹「光の帝国」ーーフィクションでしか伝えられないこともーー戦争を語り起こす。
《対象作品》川崎徹「光の帝国」(「群像」9月号)/保坂正康インタビュー「戦争体験の継承とフィクションの地平」(同)/李龍徳「石を黙らせて」(同)/金原ひとみ「狩りをやめない賢者ども」(「文芸」秋号)

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2021年8月23日 (月)

文芸同人誌「文芸中部」第117号(東海市)

【「たった一人の孤独」堀井清】
 作者は、本誌に毎号作品を掲載している。しかも、独自の手法を編み出し、そのスタイルを維持しながら、不出来がない。安定した水準を維持している。その手腕に感心している。今回は、「自分」という85歳の男の語り手が主人公。会話にカギ括弧をつけないというのは、いつもの文体である。例えば作者はーー窓をあけるよ、と女将さんがいう。/飯にはまだ早いよ、と自分は答える。――と平たく表現する。こうすることで、出来事が、語り手の意識内を通した現象表現となり、生々しさを失わせるかわりに、間接的表現性をもつ。同時に、思索的な側面を強くし、現実から距離を置いたように感じさせる。「自分」は高齢者であるが、生活費に困っていないらしい。ただ、やることがない。死を待っているようなのだが、表向き体調は悪くない。健康なので困っている。これは、「自分」の問題提起である。それでどうするのか? という読み手の興味に、同じアパートの同年齢の男を訪ねることにする。困ったからといって、死ぬの生きるの、ということはない。退屈しのぎの時間稼ぎに入る。人間、欲望が当面の問題忘れさせる。こうしてそれからどうしたという物語に入っていく。高齢者の晩年の問題に、解決の答えはない。しかし、小説である以上小説的回答は必要だ。作者は、どの作品でも、そうした要件を満たしている。これまでの作品にも、軽純文学として、読み応えのあるものもある。大手文芸雑誌の編集者は、2、3作を掲載してみる気はないのだろうかと、ふと思ってしまう。
【「怨念メルヘン」大西真これは紀】
 これは、俺というユーチューバーの生活ぶりを描いたものらしい。最近はやりの自由業YOUTUBEの閲覧数を上げて広告収入を得る仕事である。作者には好なように書く権利があるので、どうでもいいことだが、俺が何でこの話をするのかが、わかりにくい。朝、目覚めたら、なぜ自分がここにいるかが、わからない、というのが出だしだ。乞いう設定だと、物語は意識不明の間に、なにか重大な出来事が起きていないと、面白くない。それが、いわゆる、問題提起になっていない。周囲の人間関係も、なまじ俺が語るから判りにくい。信用ができない。物語の骨子が漠然としている。俺がユーチーブの閲覧数の変化に、敏感でないのはおかしい。物語の一つのパターンに、何が失われていくことを、取り返すというものがある。ここでは、閲覧者が減るのを必死防ごうとする俺の話なら読む気になるかも知れない。スマフォであたらしい株をつくり、その売買をする企画などは面白いが、それに対する俺の態度がつまらない。九藤官九郎の失敗作のような感じがする。
【「わが社のいたち」朝岡明美】】
 変な新入社員がいて、彼の行動と性格を拾い上げる。場違いなとこころもある。社内の人間関係も絡めて、噂話をする。そのうちに、その新入社員が女性関係で失策していることがわかる。社内の女性観たちが、がやがやするところの書き分けは、巧い。ただ、物語が小さい。
【「『東海文学』のことども」三田村博史】
 「東海文学」という同人誌の歴史で、主宰者の江夏美子が『文芸首都』出身で、1950年「南海鳥獣店」で新潮文学賞佳作入選、江夏美子の筆名を用い、1963年「脱走記」で直木賞候補、1964年「流離の記」で再度候補となったころの話。当時の文壇という世界に大変近い存在であったことがわかる。現在では、職業作家というのが、文芸同人誌の延長線上にほとんどない。その世相の違いを感じさせる。なかで、三田村氏が能の世界に魅せられていくところは、興味深い。
【「大きな子供たち」春川千鶴】
 大人になっても、青春時代の体育部活の雰囲気を維持している様子が、活写されている。良いけれども、こういうのに詩情美を加えるのが、文学趣味なのではないだろうか。
発行所=〒477-0032愛知県東海市加木屋町泡池11-318、三田村方。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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2021年8月19日 (木)

同人誌掲載作品の分かり易い評論風の紹介を…

 「文芸中部」を読み終えた。文芸同人誌の中では文学性が濃いので、小説らしい形態なものが多い。そう感じるのは、普通の小説としての形式をもたないものが、同人誌には多いように思えるからだ。小説はどう書いても良いという作家がいるせいらしいが、それはどう書いても読者がつく立場の作家だからだ。普通は、世間話でも周囲が耳を傾けるようにして、話すものだ。そこで、こう書いてあるから、これは読める小説だというような紹介をしてみたい。

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2021年8月11日 (水)

文芸同人誌「詩と眞實」8月号2021(熊本市)

【「遠野幻想/老人と夢―第1回」(1~7)】戸川如風】
 語り手の「私」は、熊本から福岡空港に行き、花巻空港まで、それから遠野に向かう。空港に向かうバスのなかで、河童の紳士らしき山高帽に長髪の男と出遭う。空に舞う裸の天女など、見て、語り手の夢想幻想に満ちた旅が語られる。さらに花巻につけば、「銀河鉄道」や「風の又三郎」の作品世界に入り込む。柳田國男の世界の雰囲気もある。とにかく文学味あふれる幻想と現実のごっちゃになった光景が展開される。面白い工夫で、構想が確立されていて、楽しく読める。これぞ文学と感じ、一息で読み通せた。この文体なら、長くても大丈夫。さらに河童男が同行していたら、もっと面白いかも。
【「だるまや」植木英貴】
 親しかったおじさんの病状悪化をきいて「僕」はかけつける。そこからおじさんとの昔からの交流で、可愛がってもらった思い出が語られる。そして臨終に立ち会う。そのときに,おじさんと玉虫を見た。かつて、おじさんと玉虫を見た時のことを思わせる。丁寧にかけているが小説的な感じはない。体験談なのであろうか。
【「刷込み~緑色に輝く透明な空の彼方に~」右田洋一郎】
 中学生の時代からの出会いがあり、彼女に恋人にして結婚。共に人生をすごし、妻は55歳で持病をもつようになり、67歳で亡くなる。美しくも愛おしい記憶が残る。2頁の散文であるが、その思いの伝達は、「だるまや」のおじさんの話よりも強く心を揺さぶる。
 本誌には、どの作品にも、文章を順に読ませる速度感がある。じつは、次の同人誌はどれを紹介しようかと思って、何気なく手に取ったら、巻頭に面白い文学的なものがあったので、それに引き込まれて読んでしまった。たまたま、好みに合ったのかもしれないが。
発行所=〒862-0963熊本市南区出仲間4-14-1、今村方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

 

 

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2021年8月 8日 (日)

文芸同人誌「海」103号(いなべ市)

【「虫の譜―異化―」山口馨】
 恵美が、子供たちなど家族ぐるみで実家に行ったあと、2カ月ぶりに、母親が一人暮らしする実家に行く。何しに来たのかと母親が聞くと、静江おばさんのところに来たという。そして静江おばさんの話になる。文体は、現代女性のおしゃべりに近い軽い調子で、書き手の若さが出ている。意図したものでなく、自然な書き方なのであろう。話の中身は井戸端会議なみのもので、長編でもないのに恵美の視点らしき感想が入る。街の変わりようを語ったり、して、焦点が移動する。曖昧な視点で、母親や静代がこう思ったのであろう、という調子で、印象を散漫にしている。
【「声が聞こえる」川野ルナ】
 しおりという女性が、教会に行って神父さんに、神が存在するのか、それならどうして自分の苦しみを救ってくれないかのか、と質問する。非常に幼稚な発想で、変だなともって読んでいると、彼女は精神的変調をきたした経緯がわかる。話のなかに、ニーチェやキルケゴールの神の不在を問いかける話もあり、かなり知識があるらしい。だが、知識があることと、知恵をもつこととは、異なるので、信仰への知恵をえるような体験をするまで、問いかけをするしかないのであろう。
【「私は忘れない」安部志げ子】
 交通事故をめぐる体験記。よく書けたエッセイか作文で、小説ではないでしょう。
【「病舎まで」宇梶紀夫】
 秀夫の大工仕事の作業と、家庭的には、息子の真一の精神的な変調の様子を描く。おそらく、実際にあった出来事をもとにしているのであろう。ありがちなことではあるが、家族が真一の変調に気付くのが遅い。早期発見が重要である。
【「素描三景」国府正昭】
 3つの掌編小説を並べている。「金鶏輝く…」では、フードデリバリーの仕事をしている男の独白。配達依頼待ちのバイク立ちんぼを地蔵というらしいが、同じ仲間が周囲に沢山いる。そのなかで、世の中にビョーキが蔓延していると、幾度も繰り返す。コロナ過だけでなく、社会が病二千六百年の歌をスピーカーで流す街宣車が通り抜けて行く。そうしたなかで、自分だけの幸せ追求を決意して、仕事に励む。なかなか重厚な感じのする作品。「讒言―ざんげんー」これは時代小説で、ある藩のまじめで仕事熱心な重役が、それを嫉妬した周囲から、城主に、彼に関する悪い噂を告げたところ、それを信じた殿様が、まじめな重役を処刑するように命じる。それを知った久松式部は、殿に事実を告げ重役の処分を取り消すように諫めるが、かえって処分されてしまう。しかし、後日幕府にその事実が知られ、誤った罪状が取り消される。時代小説への兆戦的習作か。きちんと書けている。「ゲシュタルト崩壊する妻」ゲシュタルト崩壊とは、通常はまとまった感覚で物事を認識しているものだが、ちょうど漢字をじっと見つめていると、その形や構造が、バラバラの線に見えて、本来の認識と異なる無意味なものに感じる現象だという。ここでは、男がいつもの生活や妻のことなど日常を語り、終わりに妻が語り手に向けてお線香など仏壇を拝むことで、自分が亡くなっていることを知る。皮肉の効いた作品。
【「女神の庵」遠藤昭巳】
 神主さんの家系の話で、それに国文学の古典の短歌をからめた物語で、主人公に人間的な魅力が少なく、長い読み物に思えるが。しかし、お話としては手堅く、がっちり書けている。趣味なので、これで充分だと感じさせるが、他者に面白く読ませるには、もうすこし神秘性を持たせたトーンというものが欲しい。その点では、ビジネスの報告書に似てしまっている。稲川淳二の怪談話のようなサービス精神があればもっと良いのではないだろうか。〒発行所=〒511-0284三重県いなべ市大安町梅戸2321-1、遠藤方。
紹介者「詩人回廊」北一郎。

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2021年8月 6日 (金)

オリンピック独裁期間になった

 TV放送は、どこも五輪番組。現代の独裁文化という感じ。どうすれば、そこから逃れられるのか、時代に逆らえないのが我々大衆である。そのなかで、同人誌「海」(いなべ市)を読み終えた。どう紹介すればいいのか。考え中。ちょっと頭をよぎったのは、同人誌は号数を重ねるのが自慢らしいが、本当は役目がすんだら、発行をやめるべきだろう。それを発行を続けてきたということは、作品の質よりも、同人の結束と発行継続が目的なのである。それから「新世紀エヴァンゲリオン」の中田版解説が動画に人気である。それによると、未来物語であるが、地合いが2021年で、もうその時代になっているらしい。そいて、日本の首都は横浜の地下都市になっているらしい。判りにくい話の構造で、シンジと父親の家族関係を気にして、気がつかなかった。

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2021年8月 2日 (月)

西日本文学展望「西日本新聞」(7月30日/朝刊)=茶園梨加氏

題「生きづらさ」
冒頭「生きづらさ」について『コンビニ人間』(村田沙耶香)、『推し、燃ゆ』(宇佐見りん)、『水たまりで息をする』に触れる。
深水由美子さん『優しいお墓』(「第八期九州文学」576号、福岡市)、階堂徹さん『瓦の落ちた先』(「詩と眞實」865号、熊本市)
佐々木信子さん「初嵐」(「第八期九州文学」576号、福岡市)、遠藤博明さん「稲妻と案山子」(「ら・めえる」82号、長崎市)、川村道行さん「「独」と「離」」(「海」第二期26号、福岡市) 《「文芸同人誌案内・掲示板」ひわきさんまとめ》> 

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2021年8月 1日 (日)

文学フリマの出店販売本「お役立ち文学」本の内容を連載公開

 文学フリマ東京で販売していた「文学が人生に役立つとき」(伊藤昭一)の内容連載公開することにした。《参照:文芸同志会のひろば》これは、当初菊池寛の「作家凡庸主義と文学のカラオケ化」というような10頁程度の冊子を、東京文学フリマで300円で販売したところ、10冊くらい売れた。それからその増補版を次のフリマで販売したところ、また売れた。そこで、オンデマンドで「文学が人生に役立つとき」という冊子にしたら、毎回、売れた。ところが、例のコロナで、高齢者の自分は、「フリマ」参加を自粛した。2018年にオンデマンド化したのだから、さすがに古本的である。それでも、文学をすることは、生きることに役立つという菊池寛の精神を伝える意味はあると思う。昨年と今年の「文学フリマ東京」にもし参加していたら、今頃は売り切れているはず。菊池寛の「日本文学案内」はヘーゲルのとマルクスの社会の歴史的発展段階論をよく勉強して、作家志望者向けの手引き書のスタイルで、人間が精神的成長をするために何が必要かを記している。それが終わればこの続きとして、斎藤幸平「人新世の資本論」の解説もしてみたい。これは、マルクスの資本論の第1巻から出発している。その理論を理解するのには、岩波文庫の「経済学批判」を読んだ方が分かり易いかも。ここでは、使用価値と交換価値と商品価値について語られている。ここでのミソは、価値は、関係性のなかでしか、表わされないということである。最近ではマスクについて、それが起きている。店で入手できない時は自分で作った。それの価値は使用価値そのものである。ところが、友人が作ってほしい、そのかわりパンを焼いてあげるから交換して、と言って来たら、マスクはパンと同じの交換価値をもつ。さらに売ってほしいという人が出たら、商品価値が生じる。では、いくらで売るか、となると、それは欲しい人のつけた値段になる。マスクは、それ自身で価値を表現できない。だれかが値段を付けないと、価値がわからない。菊池寛は、文学の芸術的価値論を述べているが、これはマルクスの「経済哲学批判」を読んでいたのだと思う。もうひとつ、人の価値も自分で自分の価値を表現しても、意味が薄い。他人に価値を求めることが多い。

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