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2021年7月 2日 (金)

文芸同人誌「奏」42号(静岡市)そのⅡ

【「岡本かの子『母子叙情』-岡本太郎と伏字のある手紙(小説の中の絵画№.14)」中村ともえ】
 岡本かの子の独特の時代離れした人間愛については、有名である。その息子である岡本太郎の関係もユニークだ。自分は、太郎のパリ時代を表現したエッセイか小説のようなものを読んだ記憶がある。ここでの評論は、かの子と太郎の通信録小説である「母子叙情」という作品にある××という部分の解読作業がである。芸術の「革命」という言葉が伏字になっていたというのは、時代の空気を反映しているのであろう。自分には、珍しい研究に思える。読んで感じたのは、かの子がパリの息子との交流愛の継続に、息子と同年の規久男という若者との交流を断絶していることが記されていること。これは、夫や愛人などに関する、かの子の愛の形の一端を垣間見せたものとして、興味深かった。
【「『宇野千代「脂粉の顔」』-都市空間を渡り行く女―(女たちのモダニティ⑥)」戸塚学】
 現代はポストモダンの文学性の時代である。しかし、それは近代(モダン)社会文学のひねり技のようなもので、その基盤はモダン思想にあると思える。本論では、宇野が語ることを私小説的に提示した観察眼は、断髪やパーマネント、斬新な洋装や和服姿での作家の写真によって、さらにイメージとしての肉付けを与えられてきた。
 こうして形成されたモダンな作家・字野干代の像と比べると、字野の小説のモダニティが議論される機会は実は少なかったように思われる、とする。
 昭和期のモダニストが都市生店を描いた多くの作品群に先立って、都市空間に生きる新たな時代の女性の生き方を提示していた。融通無碍な語りを前景化した宇野の作品群も、昭和十年前後の文壇で試みられた実験的な語りの採用と符合する。後年の宇野の白己語りがその印象を薄めた観のある初期作品のモダニティを、改めて掬い上げてみたいとし、ーーここでは宇野の出世作となった「脂粉の顔」(「時事新報」大10・1・2)を取り上げ、文化的背景に着目して読み解くーーとしている。
  現在でも、彼女の使用していた化粧水の宣伝に、彼女のカラー写真が掲載されているほど、女性に人気のあるのに驚かされる。自分には、彼女の文体の時代を超えた魅力に思いを馳せるが、社会的な視点での評論は勉強になる。なお、自分は馬込文士村のある大田区に住むので、その資料もいくつかあり、ライブドアのネットニュースの外部記者時代に掲載したこともある。《参照:モダン文学の里「馬込文士村」の風景(4)尾崎士郎と宇野千代
【「宇野千代の伊豆・湯ヶ島」勝呂奏】
 自分は、20代のときに、伊豆の「落合楼」に宿泊や「踊り子の宿」に行って、観光客向け踊り子に出会ったこともある。尾崎士郎の「空想部落」も、新聞ように書いた政治を論じた生原稿.も持っていたが、古書商売をしていた友人に上げてしまった。そのため、宇野千代の伊豆滞在は、梶井に関連したことしか、知らない。年表もあるので、研究者には資料として有益だと思う。
【「正宗白鳥―仕事の極意<文壇遊泳術>に学ぶⅡ」佐藤ゆかり】
 職業作家の心得であるが、フリライターの仕事術にも適用できるので、大変面白い。例えば、前号の(1)には、「執着しない」というのがあって、雑誌などから依頼されている間は、ニーズがあるので、依頼されなくなったら執着しないで、次のニーズに従うという意味のことが、書いてあった。自分も、20世紀の後半は、オーディオの世界のマーケティングライターとして、忙しかったが、ある時期に発想が古いといわれ、世界を変えた。その時に、クライアントの担当者がが、ある作家が交通業界で同じ仕事をいたものだ。あなたも作家になったら良い、といわれた。「いや、そういう注文がこないので、できません」と応えるしかなかった。今回は、「文學は努力だけではだめで、天才によるところが多いが、世に迎えられるかどうかは時のめぐりあわせによる」という説が、非常に説得力がある。できる人は、自然の流れのなかで、作家にもなれる。作家になりたくても、運がなければなれない。正宗白鳥は、才能があって、出来ることしかやらないで、作家業を続けた人なのがわかる。
発行所=〒420-0881静岡市葵区北安東1-9-1.、勝呂方。
紹介者=「詩人回廊」北 一郎。

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