« 2021年6月 | トップページ | 2021年8月 »

2021年7月30日 (金)

事実を物語にする

 事実を調べて述べるのをノンフィクションという。現在社会でのそれはニュース情報ともうひとつ,検察の起訴した事実を裁判官につげる事件調書である。あまりメディアに報道されないので、取り上げて見た。《参照:事実と判決物語化の考察=2審で話を変えた「妻殺害」事件》ここでは、子育てに神経をすり減らした母親が、精神錯乱をおこし、子供と心中しようとしたのを、夫がさえぎり子供たちを連れて2階に逃げた。扉をしめて妻の発作のおさまるのを、まっていたら、静かになったので、2階の部屋から出て見たら、妻が手すりに下着を書けて縊死していた。夫は子供ために、母親が階段から落ちて亡くなったことにして欲しいと頼んだ。夫は、おそらく亡くなった妻を一階におろしたのであろう。それが警察に怪しまれて「妻殺害」事件にされたのだと思う。どこかで、おきているような出来事で、自分は被告に同情してしまう。

| | コメント (0)

2021年7月29日 (木)

文芸同人誌「海」第Ⅱ期―第26号(太宰府市)

【「風に揺れる葉」牧草泉】
 「私」が夜に村上春樹の小説「風の歌を聞け」を読んでいると、夜に電話をかけてきた友人がいる。44歳になる教師である。話はひと月先に人と会う約束で、終わる。それから、村上春樹が、芥川賞か直木賞を受賞しなかった理由の解説になる。文学話が終わると、友人Tの家を訪ねる。そこでTの妻が新興宗教の信者になっていることへのこだわりが語られる。それから、大学入学と在学中の友人関係の話になる。なかで、結婚生活における夫婦の営みの意義など、話題にでるがそれに対する追及もない。全体にとくに強いこだわりのない、淡々とした調子の風俗小説。村上春樹的な描き方に特徴があるように思った。
【「月の砂」高岡啓次郎】
 夫婦で亀を死ぬまで長い間飼った話で、そこに妻のうつ病の経験談などが入る。おそらく作者は幻想的でロマンチックな感じを表現しようとしたのであろう。月の砂という詩的表現がそれにどう結びつくのか、わかりにくかった。
【小詩論「賢治とカミユとランボー/その反逆と労働について」井本元義】
 宮沢賢治とランボーには共に妹がいたことや、二人とも37歳と1カ月で亡くなっているそうである。両者の人間関係に焦点をあてており、そうなのかと、思わせる。カミユに関する話がないので、続きがあるのだろうか。
【「蒼い陽」有森信二】
 非現実的な異世界のなかの話で、「私」は、大意識のなかで分裂し、地上の自分を天空から眺める自分がある。意識は時間のなかを自由に駆けまわる。この辺は、大変に面白いと感じさせたが、「私」が一人の自分に収斂してしまうと、たんなる異次元のSF的な世界のなかの出来事になる。大意識の捉えた世界が曖昧になってしまった。
【「エゴイストたちの告白・第三話―千の夕焼け」井本元義】
 平田基弘に、55年前のMという友人からぶ厚い封書が届く。海外からのものである。そこからまず、平田の人生の回顧が語られ、つぎにMの封書の内容に移る。かなり重厚な内容で、人生の盛りの時期の女性関係と、彼の妻の話が語られている。なかに詩篇などが組み込まれ、文学的な精神性に富んだ遺書のようなものになっている。小説らしい体裁のもので、あまり面白く読めるものではないが、ひと時の世俗の憂さを忘れさせるものには、なっている。
 一般に本誌だけではないが、同人誌小説のほとんどが、純文学的で、形式のない表現に頼った手法で、書き手が自分の世界を語るもの。どん名作を読むより、自分で書く方がよほど面白いと、菊池寛が指摘している。書く方は、面白いかも知れないが、なにせ、スピード感がない。読む方も、カラオケで他人の歌っているのを聴いている気分で、切実感に欠ける。自分も、どう紹介しようか、考える時間が長くなる。文芸同人誌読みの宿命で、仕方がないものの、作業がはかどらないのは、自分でも焦っているところである。
発行所=〒818-0101太宰府市観世音1-15-33、松本方。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

| | コメント (1)

2021年7月23日 (金)

「文芸中部」誌からの「中部ペン」など同人雑誌情報

「文芸中部」(117号)誌から、本誌のほかに中部ペン会報と全国同人雑誌協会ニュースレターが寄贈されてきた。なかに100号以上の発行回数を誇る文芸同人誌の形がある。《参照:「全国同人雑誌協会」などにみる同人誌の文学性の動向》ーーこれらの雑誌は、おそらく文学性に優れた作家が多くいるのであろう。しかし、我々、文芸同志会会員は、それらを知ることがないし、知ろうともしない。それは、団体の一員ではなく、一人の表現者として活動しているからである。もともとその活動は、小説を自費出版したひとを作家として扱い、その存在を世に知らしめることも重要視しているからである。自分も、かつておつきあいで文芸同人誌に寄稿したものを、別に冊子にして「文学フリマ」で販売したところ、少部数ながら出店するたびに、売れていた。山川会員のマンガの評論などは毎回売り切れた。出店で自分の本が売れ、現金を受け取る時の快感は癖になるのである。また、会員の外狩雅巳氏が運営する「町田文芸交流会」で、展示会(会場が販売行為不可だった)を実施したところ、関連本に関心が集まり、後日売れたという事例もある。《参照:文芸同人誌展示会で、閲覧者多く貴重な体験=外狩雅巳》。文芸活動にあたっては、焦点を絞り、個人の出版物をアピールするような作者に役立つ内容があれば、参加者が増えるであろう。

| | コメント (0)

2021年7月18日 (日)

いま、カミユの「ペスト」を読む「群系」が特集

 文芸評論誌「群系(掲示板」第46号で特集として、「いま、カミユの『ペスト』を読む。」の特集がある。現在進行中のコロナウィルスによるパンデミックのためか、よく売れているそうである。同人による座談会や、異なる視点からのカミユ論や、「ペスト」論が展開され、勉強になる。ただ、自分には手法論として「ペスト」と、メルビルの「白鯨」との構造の類似性に言及がなかったのが、ものたりない面でもある。
 メルビルの「白鯨」は、魔性の巨大鯨であり、船長のエイハブは、捕鯨中に片足を奪われ復讐の念に燃える男である。自分は、カミユファンの友人から、「ペスト」と「白鯨」の小説構造の類似性を教えられ、カミユの作品を読むようになった。まず、「白鯨」話は捕鯨船という海の閉鎖社会であり、運命共同体である。これが「ベスト」のオランという町の閉鎖性にに共通する。乗組員の多様性があるが、みな海の男の気性の良さと荒々しさがある。また、イシュメイルは、うつ病から治りかけの男で、彼の語りは、一人称を超え、飛躍する。また、彼は港の木賃宿で同宿した、黒人系少数民族らしい南太平洋出身の巨漢の銛打ち・クイークェグと出会い、同性愛に近い愛情で交流し、仲間の性格を浮き彫りにするが、エイハブ船長の執念と、「白鯨」の精神性については、いいとも悪いとも言わない。さらに、イシュメイルやエイハブなどの人名は旧約聖書から象徴的に引用されているように見える。
 登場人物で、エイハブ船長を諌める冷静な一等航海士の名は、スターバック、(コーヒ―ショプのオーナーはファンだったのかも)陽気な二等航海士のスタッブなど、.アンのタシテゴなど、多様な人種の乗組員にエイハブの狂気が伝染し、白鯨に報復を誓うのである。「ペスト」も語り手の医師が、曖昧であるので、1人称を超えた話になっている。また、カミユの実存的思想は、メルビルの短編「「バートルビー」を読まずして、かたることは、的をはずずように思う。

| | コメント (0)

2021年7月16日 (金)

文芸同人誌「あるかいど」70号(大阪市)(その2)

【「フクギの樹の下で」住田真理子】
 今から20年程前に、山原(やんばる)の村で、祖母カマドから聞いた話であるとーと前置きし、その語りを独白調で記す。戦前から、戦後直後まで、風俗風習がよく分かり、胸を打たれる。墓での洗骨の風習など興味深いが、敗戦で米軍支配のもとで、飢えと睡魔のもとで、赤ん坊を死なせてしまう話などは、涙が出てくる。間奏としての民謡が良い。現実をがっちり捉えようとする精神が好ましい。歳をとると涙腺が緩むらしい。かつては、かつては、妹から「兄さんは鉄仮面」という。理由をきくと、家族全体の危機の時に、表情を変えず混乱に対応した時に、表情が普段のままだったからという。頑張っていたらしい。今は、ただ物事が悲しいだけである。
【「冬の邂逅」奥畑信子】
 夫の墓参の話で、生前の出会いなど想い出が話を飾る。自分の世界に愛をもち、ささやかな心の充足を語る。これも良い。
【「世界の果てでサボテンは笑う」赤井晋】
 若い書き方で、生命感がよく出ているが、ジョン・レノンの活躍した時代か、それ以降の人々の話である。音楽的な趣味性に富んで、面白い。もうひとつアクセントをつけたいところ。どこかに埋れてしまいそうな作品だ。
【「バニラ」猿川西瓜】
 SF的などこかの世界の話だが、長編の一部分を抜き出したようなものらしい。部分的にそrなりに読める。今度の芥川賞受賞作品も、SFらしい。独裁国家では優れたSF小説があるらしい。頑張ってみて。
【「マチュピチュ」池誠】
 田河寿朗という男が、自転車に乗って病院に向かう。会社で将棋をさしている時に、頭をガーンと殴られたような感じがし、同僚から顔色が悪いと言われる。殴られたの、脳溢血を起こしたのかわからないまま、話がすすむ。このなかで、自分という人が出てくる。冒頭の田河のことらしいが、ここは田河としないと、別人かと思う。
発行所=〒545-0042大阪市西阿倍野区丸山通2-4-10-203、高畠方。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

 

 

| | コメント (0)

2021年7月14日 (水)

文芸同人誌「あるかいど」70号(大阪市)(その1)

【「卵を抱えて」高原あふち】
 本誌の常連同人で、同人雑誌作品として、優れた筆力を発揮している。今回は、子供のできない不妊治療をする女性の立場を、浮き彫りにしようとする意図が読み取れる。まず、不妊治療に至る夫婦関係から、現状を説明する。そこで、「私」の立場における読者の感情移入を形成させるところまでは、まずまず、の出来である。同人雑誌作品としては、大変良い部類に入る。その後も、不妊治療の悩む他の女性の姿も描く。いろいろな立場の状況を描き、結局は「私」は、妊娠の希望をもって努力をする話である。おそらく、同人仲間では、よく書けているという評価を得るのであろう。ただ、自分はこうしたものを延々と描き続ける人は、自分を表現者としてどうように考えているのかが見えない。べつにそれでよいのだが、せっかくなので、このままでは、小説の要件に欠けているということを、記して起きたい。まず、「私」を登場させ、不妊治療をしている出だしがある。そして終わりも、不妊治療を続けている。出だしと、終わりの主人公の運命に変化がない。横線にまっすぐ線を引いたようなものである。例は良くないか知れないが、ドストエフスキーの「地下生活者の手記」は引きこもりの人の話であるから、始まりと終わりにおいて人物の状況に変化はない。そのため純文学として、内容を波乱万丈にしないと小説にならない。だから、恐ろしいことが、沢山書いてある。しかし、普通の物語に期待されるのは、主人公の運命が、始まりと終わりで、大きく変化する活動があると期待して読む。したがって、小説家はどういう風に主人公の運を変化させるかを無意識に考えながら書く。この作品の中ごろに、不妊治療が成功する患者や登場する。これは、小説の手法では、主人公が妊娠できない運命を語るための印象対比の伏線とするのが普通である。この段階で、主人公は妊娠したものの、交通事故に遭うとか、それが夫の運転する善意の事故であったとかー、にならなければまずい。あるいは、何かの折に、性犯罪者に暴行され、妊娠してしまうとかーーしないと意味がない。この本編の結末ならば、知り合いに話は、書く必要のない出来事である。その意味で、自分には、自己表現の巧みな作品であるが、形式からして小説ではないように思う。別に小説家になること勧めるわけではない。形式に沿っているかどうかは、自分で判断できる。合評会などいらなくなるから……
【「ロウソクが燃えるとき」西田恵理子】
 思春期の出来事と、愛読していたファラデーの「ロウソクの科学」を読む話。この本は岩波文庫の薄いものを自分は持っている。物理学の魅力をこれで知って、勉強したことで、ノーベル賞を受賞した人もいる。いろいろな感じ方あるものだ。自分は、ロウソクの火がなぜロウから、生まれ、その後、どこに消え、どこに行ったのかが書いていなっかったので、物理学の世界と異なる発想を探した記憶がある。
発行所=〒545-0042大阪市西阿倍野区丸山通2-4-10-203、高畠方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

 

 

| | コメント (0)

2021年7月 8日 (木)

壇一雄と交流の深かった織氏氏の評伝について

 詩人・井本元義氏の執筆による壇一雄と深い交流のあった織坂氏の評伝が出た。《参照:「評伝・織坂幸治」の詩人活動を記録する》。壇一雄文学の研究者にとって、後日貴重な資料とされる可能性もある。自分が同人誌「砂」に参加していた時に、同人に三島由紀夫との交流を書いた同人がいた。新潮社の編集部にいた人だったが、後日、猪瀬直樹氏から「三島由紀夫論」の資料に役立つ二で、あるものを見せてほしいと連絡があったことがある。評伝をまとめた、井上氏も出会いの縁でこのような実績を残したことは素晴らしいとおもう。自分のことで、申し訳ないが、「詩人回廊」の北一郎はPR誌「さううんどプレイ」の特集をかいていた。その他のゲストエッセイに河野典生に原稿を依頼した。出来上がりを届けた担当者によると「この特集記事は、分かり易く、勉強になった」と褒めてくれてたそうである。
 現在、同人誌「あるかいど」を読んでいるが、同人誌掲載作品としては、よく書けているが、物語化専門のコピーライターかりすると、小説になっていない欠陥作品、という感じの作品が多い。ただで、もらったから、無料記事的に紹介するつうもりだが、それは小説本来の機能からは、読んでいないということにするしかない。

| | コメント (0)

2021年7月 3日 (土)

スピーチライター(近藤圭太)の劇場的立場の場面と物語

 先日、スピーチライターをしている近藤圭太氏と、連絡を取る機会があった。彼は、結婚式でのスピーチや、式典での挨拶のネタを必要としている人に文案を提供することもある。《参照:依頼者の事例紹介》。これはまさに、場面そのものの現場の声である。ここでは、第三者から見た人物の概要と評判が浮き彫りにされる。そして、それに耳を傾けさせる工夫がある。自分は、これを知って、判り切った文章論などよりも、こうした作業への意識が、創作者に役立つかもしれないと、考えた。近藤氏自身は、個人的でありながら、普遍性を持った話術を追及するという。自分は長い間、各種同人雑誌を読ませてもらって、自分の考える小説の形式条件と同人誌作家の小説観にずれがあるのが分かっ事例「クライアントの事例」ていた。一番のちがいは、自分は短編小説の場合、必ず「場面」から書く。次どうなるかが、気になるようにするためである。しばらく、近藤氏と連絡を取りながら、物語化の工夫について、論議していきたいものだ。■《近藤圭太のひろば

| | コメント (0)

2021年7月 2日 (金)

文芸同人誌「奏」42号(静岡市)そのⅡ

【「岡本かの子『母子叙情』-岡本太郎と伏字のある手紙(小説の中の絵画№.14)」中村ともえ】
 岡本かの子の独特の時代離れした人間愛については、有名である。その息子である岡本太郎の関係もユニークだ。自分は、太郎のパリ時代を表現したエッセイか小説のようなものを読んだ記憶がある。ここでの評論は、かの子と太郎の通信録小説である「母子叙情」という作品にある××という部分の解読作業がである。芸術の「革命」という言葉が伏字になっていたというのは、時代の空気を反映しているのであろう。自分には、珍しい研究に思える。読んで感じたのは、かの子がパリの息子との交流愛の継続に、息子と同年の規久男という若者との交流を断絶していることが記されていること。これは、夫や愛人などに関する、かの子の愛の形の一端を垣間見せたものとして、興味深かった。
【「『宇野千代「脂粉の顔」』-都市空間を渡り行く女―(女たちのモダニティ⑥)」戸塚学】
 現代はポストモダンの文学性の時代である。しかし、それは近代(モダン)社会文学のひねり技のようなもので、その基盤はモダン思想にあると思える。本論では、宇野が語ることを私小説的に提示した観察眼は、断髪やパーマネント、斬新な洋装や和服姿での作家の写真によって、さらにイメージとしての肉付けを与えられてきた。
 こうして形成されたモダンな作家・字野干代の像と比べると、字野の小説のモダニティが議論される機会は実は少なかったように思われる、とする。
 昭和期のモダニストが都市生店を描いた多くの作品群に先立って、都市空間に生きる新たな時代の女性の生き方を提示していた。融通無碍な語りを前景化した宇野の作品群も、昭和十年前後の文壇で試みられた実験的な語りの採用と符合する。後年の宇野の白己語りがその印象を薄めた観のある初期作品のモダニティを、改めて掬い上げてみたいとし、ーーここでは宇野の出世作となった「脂粉の顔」(「時事新報」大10・1・2)を取り上げ、文化的背景に着目して読み解くーーとしている。
  現在でも、彼女の使用していた化粧水の宣伝に、彼女のカラー写真が掲載されているほど、女性に人気のあるのに驚かされる。自分には、彼女の文体の時代を超えた魅力に思いを馳せるが、社会的な視点での評論は勉強になる。なお、自分は馬込文士村のある大田区に住むので、その資料もいくつかあり、ライブドアのネットニュースの外部記者時代に掲載したこともある。《参照:モダン文学の里「馬込文士村」の風景(4)尾崎士郎と宇野千代
【「宇野千代の伊豆・湯ヶ島」勝呂奏】
 自分は、20代のときに、伊豆の「落合楼」に宿泊や「踊り子の宿」に行って、観光客向け踊り子に出会ったこともある。尾崎士郎の「空想部落」も、新聞ように書いた政治を論じた生原稿.も持っていたが、古書商売をしていた友人に上げてしまった。そのため、宇野千代の伊豆滞在は、梶井に関連したことしか、知らない。年表もあるので、研究者には資料として有益だと思う。
【「正宗白鳥―仕事の極意<文壇遊泳術>に学ぶⅡ」佐藤ゆかり】
 職業作家の心得であるが、フリライターの仕事術にも適用できるので、大変面白い。例えば、前号の(1)には、「執着しない」というのがあって、雑誌などから依頼されている間は、ニーズがあるので、依頼されなくなったら執着しないで、次のニーズに従うという意味のことが、書いてあった。自分も、20世紀の後半は、オーディオの世界のマーケティングライターとして、忙しかったが、ある時期に発想が古いといわれ、世界を変えた。その時に、クライアントの担当者がが、ある作家が交通業界で同じ仕事をいたものだ。あなたも作家になったら良い、といわれた。「いや、そういう注文がこないので、できません」と応えるしかなかった。今回は、「文學は努力だけではだめで、天才によるところが多いが、世に迎えられるかどうかは時のめぐりあわせによる」という説が、非常に説得力がある。できる人は、自然の流れのなかで、作家にもなれる。作家になりたくても、運がなければなれない。正宗白鳥は、才能があって、出来ることしかやらないで、作家業を続けた人なのがわかる。
発行所=〒420-0881静岡市葵区北安東1-9-1.、勝呂方。
紹介者=「詩人回廊」北 一郎。

| | コメント (0)

« 2021年6月 | トップページ | 2021年8月 »