月刊文芸誌「詩と眞實」6月号(熊本市)
【小説「姫子さん」寺山よしこ】
姫子さんというのは、幼児期より知的発達障害のある女性。学校の障害児担任の時の生徒であった。今は40歳を越えているが、彼女については、低学年の生徒のころから、その成長を「私」が長年、これまで観察してきたその記録である。彼女の行動の詳しい部分は、おそらく直接的な触れ合いの濃厚な時期であろう。成長してから、触れ合い薄くなった関係になっている様子がわかる。障害児の成長ぶりを外部視点から40歳まで観察記録する。このような形で表現するというのは、小説としては問題提起に関わる芯が埋れてしまって、成功しにくい。しかし自己の体験から、知的障害者の人生を指し示すというのは、この人を見よという姿勢で、悪くない話になっている。その実態の一部を世間に知らしめるという意味で、充分有意義である。章立てを見ると「小さな食卓」で、可愛い女の子になることを想定して姫子とした父親。実際は難産で、斜視になって、目つきがきつい。物心がつくと、気難して癇癪もちであった。「お絵かき」の章では、学校で絵を書くようになったので、上手と褒めると、さらに上手くなること。さらに各章で、成長する花子のエピソードが、自然な見方で、その生活ぶるりが、明るく描かれる。本来はもっと苦労している事例もある筈であるが、ここではそれに触れず、屈託なく明るく表現されている。同人誌であるから読める、一人の人生の記録である。
【「イエスの足音」木下恵美子】
隠れキリシタンのエリアとして世界遺産に登録されたエリアにある長崎・生月島を探訪する話である。フランシスコ教皇が日本に滞在し、被爆地の広島や長崎を訪問され、 核兵器の廃絶を訴えられた出来事が、「わたし」の語りで、説明される。私は熊本出身で、教員生活25年になり、教会から離れて信仰らしきものはなく、仏壇に妻と手を合わせるが、それは妻の祖先と父親むけで、クリスチャンだった母親だけ別にする。そういう境遇のわたしの話であるから、あまり密度のある話は語られていない。社会的には、世俗のなかで、祈りをしてしまう「わたし」が語られる。生徒であったのか源治や壮太や、その家族の話から、隠れキリシタンにも地域に差があって、「オラショ」一つとっても、多種類あるあることがわかった。信仰の伝承と宗教共同体と個人の信仰心のずれなどの悩みがあることが知らされる。現代のカトリック教会のきまりと、隠れキリシタンの子孫の信仰のあり方の現状が語られる。現在に至ってのさまざまな、社会的な軋轢があることがわかる。多くのことが萬べて、自分には大変意義のある良い作品である。「イエスの足音」というのは、生月島のある場所で聞こえるところがあるという設定で、なかなか面白い。前の「姫子さん」は、日本の社会福祉制度について、の視点を避けており、も本作も信仰の自由と社会制度問題提起になるものであるが、それをごく個人の心境小説にしているところが、初々しく、いかにも同人雑誌的である。広く社会に読まれるものとしては、問題点の追及があまく、尖ったところがない。自分が同人誌に関心をもって紹介するのは、これらの問題がどのように表現されるか、というところのフィールドのワークでもあるので、本号の2作品にとくに興味をもった。
発行所=862-0963熊本市南区出仲間4-14-1.今村方。詩と眞實社。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。
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