文芸同人誌「奏」42号(静岡市)そのⅠ
【「ランタナの花」小森新】
町のどこかで見かけるのだが、30年前にそれが「ランタナ」という花であることを教えてくれたのが出口さいんという、ひと回り年上の出口さんであった。語り手の私は、ミッションクールの教師で、自らは神父などの聖職につかず、俗人でいる。同じような立場の先輩教員が出口さんであった。その出口さんから、ランタナの苗をもらう。しかし手入れが悪く、枯らしてしまう。すると、今回は許しましょう、とまた苗をくれる。そこから禁煙する話や。遠藤周作の「黄色い人」に出てくる、聖書のエピグラフの出典の資料研究など、学ばせてくれた人であることを語る。クリスチャンであることや、文学的な交流が一味違う人物像を浮き彫りにしている。想い出の人を語る話は多い。同人雑誌ならではのものであろう。
【「梶井基次郎『器楽的幻覚』ノート」勝呂奏】
こういうテーマを読むと、タダで読ませてもらっていいの? という感じである。梶井の作品は「青空文庫」で読める。すべてではないが、幸運にも「器楽的―」も読める。その読解が記されている。梶井が作品を「近代風景」誌に掲載した時に、「詩」のジャンルにされていたのだが、梶井は「小説」として考えていたというようなことが記されている。「檸檬」なども、そうした過程があったのであろう。ここでは、音楽会での演奏時の感覚と、聴き終わった時の感受性の感覚について、どのような手順で筆を運んだが、本稿でわかってくる。梶井には、鋭い感受性の心的変化の過程や揺らぎを文章に定着させることに重点を絞ったものが多い。自己の感受性の世界を宇宙的に把握し、表現している。その発想を感受性からくる表現の仕方が、天才的なのであろう。今回の題材の「器楽的幻覚」という作品テーマにしてもそうだ。奇妙なタイトルのようでいて、実に明瞭に作品の内容を表現している。この解読ノートでも、鋭い感受性が把握してしまった感覚を、どこまで明瞭に表現するかに苦心する過程が解説されている。そして、鈍感な読者でも、おお、そうなのかと、理解できるように明瞭にしていくのである。本誌掲載の別論で、伊豆における宇野千代と梶井が、夜を徹して語り合ったという出来事が、恋愛事のようであったとするエピソードに触れている。自分は、梶井の「ある崖上の感情」などの小説を読むと、宇野が梶井の感性の特殊性に惹かれただけで、彼の心的で実存的な宇宙感覚とは断絶があるように思う。恋愛的なものがあったようには思えない。とにかく、このような純文学的追求に興味のある人には、お勧めの作品。評論の軸になりそうなところがある。
発行所=〒420-0881静岡市葵区北安東1-9-12、勝呂方。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。
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