文芸同人誌「季刊遠近」第76号(横浜市)
【「西へ泳ぐ魚」小松原蘭】
純文学的な作品で、「私」の視点で、小学四年のころ住んだ小高い団地から、そこから見下ろせる町なのであろうか、そこの町の住人になって1年になる。町は地図で見るといびつな星に見えるように川が入り組んでいる。そこでタイちゃんという上級生らしい少年に出会うが、転校してしまう。話の主体は町の雰囲気であるように思えるが、タイちゃんを心で追う私の心の風景が並列的になっている。雰囲気づくりは文章的に巧く表現されている。話の手順にイメージを浮き出させる手立てが緩い。西へ行くというのは、西方浄土を意味するのであろう。才気があるようだ。が、構成にたどたどしさがあるという印象である。とくに「私」が少女の視点から抜け出ていない。それなのに、大人の考えるような死の話を進めているのが、アンバランスなのだと思う。「そう思った」というのが、結びの言葉である。自分が小学生の頃、先生は、生徒に作文の終わりに困っている子がいたら、「そこはね。自分がそう思ったか感じたことを、と思った、と書くのよ」と教えているのを見ている。せっかくの文学的な作品を結局、作文にしてしまった失策、と自分は思った。
【「寒風」浅利勝照】
安紀子は、総持寺で訳もなく倒れ気を失ってしまう。それから正月の三日に、亡くなった武田巧臣という男が夢枕に立つ話になる。それも二晩続いて夢にでて、身の回りの話をする。武田って誰? と思うが、居酒屋の経営者らしい。霊的世界との交流が、現世の続きのように語られる。それにしても、道元禅師の総持寺を引き合いに出すのは不似合のような気がした。
【「木漏れ日」花島真紀子】
市の職員で、係長代理に昇進して間もない私には、娘の千恵がいる。千恵は、貿易商社に勤めたが、5年ほどして、怪しい男が、いつも狙っていると、言って、会社を辞め家に引きこもっている。私は、千恵が小さい頃に、夫と離婚し。ている。彼の方からの一方的な、べつの女と暮らすためだ。夫は、家と娘の養育費は、与えて去った。千恵の方は、次第に精神に変調をきたしていて、その介護に私は悩ませられる。そこまでは、読み通すとわかることで、作品では、私が、病院で意識を取り戻すことから始まる。その理由は、ある日、千恵が隣の家に人が、嫌がらせをしていると、思い込みバケツに水を持って、抗議に行動を起こす。それをやめさせようとているうちに、神経が混乱し、倒れて意識を失ってしまったことがわかる。ところがそうした事態になると、娘の千恵が、母親を病院に運ぶ手配をてきぱきとやってのけたらしいことがわかるのが面白い。「私」にすれば、夫の離婚を納得しないまま、行ったことが、千恵の幼少期の精神に悪影響を与えたのではないかと、罪の意識がある。その後、娘は精神の不調から脱するために、現代的な精神病院に入院することなる。こうした家庭では、さまざまな問題が存在するが、それに悲観することなく、それを人生の一部として受け入れていくという、「私」の姿勢が好ましく受け取れる。
【「薔薇の季節」山田美枝子】
母親と若い娘のコミュニケ―ションのあり方を描きながら、その視線を若々しい娘の肢体において、眺める母と、娘は自分の恋人にしか興味を持たない関係が、描かれる。一種の中間小説的な面白さがある。「薔薇の季節」の題名でで、意味が読み取れるが、その香りはあまり強く感じさせない。
【書評―読書感想文「わら草履-下澤勝井」難波田節子】
下澤勝井という作家の「わら草履」という掌編小説集の内容紹介がある。昭和初期の戦争の時代の田舎の暮らしを描いたものらしい。下澤氏の名に記憶があるので、さがしてみたら「土曜文学」の創刊号の記録があった。どうして記録したかわかは、今はいきさつを覚えていない。《参照:同人誌「土曜文学」創刊号(東京・昭島市)発行日=050401》。
発行所=〒225-0005横浜市青葉区荏子田2-34-7、江間方。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。
| 固定リンク
コメント