書籍の寄贈がありました。水田まりさんの2冊
現在、同人誌「果樹園」第36号と「港の灯」13号を読んでいる最中だが、両誌に手法の共通した記録的な家庭の伝記があるのに、ちょっと驚いた。そこに、厚い立派な小説集が届いた。水田まり・著「記憶の綵」(日本図書刊行会)と、「欅のある家」である。《参照:アマゾンレビュー》大変良い作品らしい。同人誌「勢陽」で読んだ記憶のある作者です。
現在、同人誌「果樹園」第36号と「港の灯」13号を読んでいる最中だが、両誌に手法の共通した記録的な家庭の伝記があるのに、ちょっと驚いた。そこに、厚い立派な小説集が届いた。水田まり・著「記憶の綵」(日本図書刊行会)と、「欅のある家」である。《参照:アマゾンレビュー》大変良い作品らしい。同人誌「勢陽」で読んだ記憶のある作者です。
本号は、2020年9月発行とあるが、寄贈されてより、見出し読みと拾い読みをしていたが、どのような視点で紹介すべきか、その方向性が自分の中で定まらず、保留していたもので、ある。最近になって、やっとなんとなく、思いつくものがあって、ここに紹介する。
【「おじゃりやれ」そらいくと】
八丈島は江戸時代の罪人の島流しの地であった。そこの住民と流人との交流からはじまり、情を通わせた島の若い女性と流人が赦免され、島を出るまでを描く。それで終わりかと思えば、島帰り後の生活まで描かれている。そつのない熟成した文章力で、創作への才能を読み取れる。あとは、題材の選び方と、長篇への構想力で職業作家になれそうでもある。が、無理になる必要もないというような、気軽さも感じる。
【翻訳小説「小説九段」、「山の上の小屋」-中国人作家のカフカへのオマージュー・莫言作、津之谷季・訳】
9編の掌編がある。訳者の津之谷氏によると莫言(モー・イェン)は、ノーベル文学賞作家で、ガルシア・マルケスの影響受け、マジックリアリズム手法で中国農村を幻想的に活写する作家だそうである。その他、残雪の「山の上の小屋」(原題:山上的小屋)がある。訳者の解説によると、残雪は女性。新聞社を経営していた父親が、文化大革命で、資本家として打倒され、彼女は小学校しか出ず、旋盤工として働いたりしながら、創作をした。カフカの影響を受け、難解な作品を書いているという。カフカの作品は、自分なりに、ある立場が書かせた稀に見る奇書として読んでいたが、こういう作品を生み出す要素もあるのかと、驚いた。もっとも、どこがオマージュなのか不明で、よくわからないものだが、それでも作者の生の声を知ったような気がして、これを書かせた境遇に思いを馳せた。
中国人作家の一つの傾向を知ることが出来る、翻訳作業である。津之谷李氏は、「私家版中国小説翻訳集」刊行をしており、原作者と連絡が取れないために、テキスト扱いである。で、あるならば、これを、翻訳作業の過程を解説にを入れながら、順繰りに出来上がりを記録すれば、全文掲載と、翻訳のできるまでの翻訳者の創作として、独立した作品になり、販売が可能なのではないか、と考えるに至ったものである。そのために、これを記した。
発行所=〒440-0057豊橋市萱町20、矢野方「果樹園」の会。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。
寄贈されて積み上げられ文芸同人誌の厚さもだいぶ減ってきました。とにかく到着順に読んでいるつもりだが、必ずしもその順とは限らない。「詩と眞實」という雑誌などは、もう4月号が来ている。だいたい到着するとパラパラと目を通して、積み上げる。文芸同人誌の紹介で難しいのは、その作品がどんな読者を想定して書いているのか、の判断である。だいたいは、その同人会の会員を想定して書いているのはわかる。それと、何も考えずに自己表現として無心で書いたようなものもある。正直言って、そういうのは、紹介の対象にしにくい。ごく個人的な生活レポートで平凡であるからだ。ところが、「詩と眞實」の4月号に、「赤毛夫婦旅ー10年ぶりの東京」(宮川行志)がある。なんでも、2017年、身内のひとの亡くなることが予想されていた時期に雑誌「文芸思潮」エッセイ賞を受賞し、表彰式に出席するように招待状が来たそうである。拾い読みしていると、九州から飛行機で、羽田まできて、そこからバスで、蒲田駅にに来るつもりが、大森駅駅行きに乗ってしまい、そこで蒲田にきて、大田区の下丸子の会場である大田区区民プラザまで来る手順が詳しく記してある。感心したのは、バスの途中の停留場の名まで記してある。完全に自己表現の旅行記で、紹介するほどでないな、思ったが、まてよ「文芸思潮」の表彰式に遠法から来た人は多いのではないか。すると、同人誌仲間には普遍性があるのかな、と考えてしまう。読んでから、紹介文を書くまでに、いろい悩むのである。じつは、自分は転居したことで、その近くに住んでいる。「文芸思潮」の五十嵐編集長とも顔見知りで、同人雑誌優秀賞の選考前の下読みをしたこともある。作家として寄稿もしている。《参照:「『超文学フリマ』に観た日本文学の潜在力への挑戦」の概要》ーー普段は何を書くか、わからなくなってきた。こんな話はどうなのかな。
【「不一致の選択」小路望海】
ある日、「私」の家に電話がかかってくる。相手は夫と同じ会社の女性だという。そこで夫がゲイだということを知らせてくる。「私」は、理解ができず電話を切る。現在、夫婦は対外受精の不妊治療をしているところであるが、そういえば、ある時から、夫婦の営みはない。話が進むと、夫に同性の恋人がいることわかる。夫は子供が欲しいという。さらに、同性の男との関係も終わったという。難しい選択を迫られたところで終わる。題材がいかにも小説的で、それも結構複雑な心境を描いて、面白かった。電話から始まるところが、つかみがOKという感じで、読ませられる。
【「添乗員は荷物を失くさない」長月州】
国際旅行会社の添乗員が能村育海が、欧州の空港に立ち寄る旅で、ツアー客の荷物が亡くなっているので、それをみつけるための苦労話。旅先でいろいろの出来事がある仕事のようだ。小説の要件を満たしていないのが残念。
【「黄色い花」峰原すばる】
「私」の勉強部屋は、以前は物置小屋だったので、半分に仕切った隣には、レコードプレヤーとレコードがたくさん置いてある。それを聴くのが好きなのだが、それは私が幼いころに亡くなった父のものであった。あるとき、突然自分が男子生徒になっているらしい。それが父の学時代にタイムスリップしたことの出来事のようだ。その時代から戻ってみて、それがわかるという、童話風なもの。
【「私のうつ病体験記」加藤申二郎】
うつ病にもいろいろなタイプがあるが、その症例として読ませられる。同病のT山さんのことが気になる理由を掘り下げると厚みがましたかも。ちなみに、自分は朝が憂鬱なので、朝うつ病タイプだと、長年思い込んできたが、医師に診断してもらったら、として躁うつ病タイプで、うつだと感じている時はうつで、正常だと感じている時は、躁病なのだそうだ。今は、うつの時なのであろうか。この時期に紹介文を書かれた作者は、気の毒なのかも知れない。
【「正常性バイアスな人々」霧関忍】
コロナ時代に入って、名古屋市の住民で、佐藤家の場合を描く。いかにもありそうな状況が細かく描かれているので読んでしまうが、コロナ禍のなかで正常バイアスなど、ないことを感じさせる。
そのほかの作品も読んだが、うつのせいか紹介するのに、そのための視点が浮かばないので、ここまで。
編集発行所=〒460-0013名古屋市中区上前津1-4-7、松本方。
紹介者=「詩人回廊」・北一郎
【「女友達」花島真紀子】
剣持智恵子という女性は、夫の女友達である。子供も小さく、まだ若い主婦時代の頃、舞台女優をめざしていた「私」だが、夫から彼女の訪問を知らされる。「私」の釈然としないこだわりを無視して夫は、智恵子が離婚したばかりだから寂しいのだろうと、思いやりを見せる。夫は彼女と同じ同人雑誌で小説を書いていた。智恵子がやってくると、畳の上で寝ころぶほど寛いでいる。やがて夫が病を得て入院、その時に智恵子が見舞いにきて、「私」二人の心のつながりの強さを感じる場面を目撃する。やがて、夫は45歳の若さで亡くなる。すると、智恵子は、くよくよとしないことと励まし、彼女の家に遊びにくるように勧める。
その後、智恵子の家に遊びにいくと、多くの友人が彼女に出入りし、麻雀などで交流が頻繁に行われていることがわかる。中には妻帯者で子供いる男性もいて、偶然に彼女がその男性に、一晩泊って行くように頼み、それを男性が断って帰る様子をみてしまう。
智恵子が、家族制度を超えて自由に人間関係をつくり、そのことに価値観を見出しているようだ。そうなった要因について、彼女が話してくれたことを思い出す。「私」は、彼女の行動にある程度理解をしながら、今の家族制度のなかで、生きていくことを自覚する。
短編小説としてよくまとまっている。まず、問題提起をし、物語の運びは、それを示す具体的な場面でする。そして、小説テな意味での問題提起の答えもきちんと示す。手堅い創作手法が生きている。
【「江合川」浅利勝照】
なぜか、姉と弟とが夫婦になった家庭に生まれた兄妹のうち、妹の凜という女性の短い生涯を、同情的に描く。素材が平凡でないが、表現としては、とりたてて印象にのこるものがない。
【「ボレロ」山田美枝子】
47歳の女性が、娘とその友達の現代っ子ぶりに振り回される話。彼氏の評価のなかに、性交時のコンドームのつける様子の良し悪しがあるとか。なんとなくわかる話だが、人物の身の上話との緊密度が薄い感じ。
【「裏庭の木槿」難波田節子】
甥の昇に気に入れられている夏子の視点で、彼の行状を温かく見守る。離婚して再婚したらしい姉の様子や甥の性格、行動の観察などを、読み手の気を逸らさず面白く語る。作者は、なんでもない出来事を、それなりの環境を創作して、人間的世界を作り上げる文章技術は抜群である。日本のジェイン・オースティン的な存在だが、日本では、時代と場とタイミングが合わなかったのであろう。
【エッセイ「サラリーマン海道物語(二)」結城周】
鈴鹿といえばホンダでしょう。ボクシングの原田、海老原といえば、昭和の戦後復興期のすぐあとのころの話。懐かしいのが、事務作業のコンピューター化初期の時代で、カードにパンチを入れていた時代。すっかりそういう時代があったことを忘れていた。自分はおそらく同時代に、東京スポーツの印刷工場と同じ会社に、原稿入稿や校正に通っていたものだが、それまで職人さんが鉛の活字を拾っていたのが、女性が原稿の文字を紙テープにパンチを入れると、そのテープを読み取って、活字が出てくるのである。懐かしい時代を思い起こして感慨無量である。
【「何を求めて」逆井三三】
鎌倉時代の足利直義と尊氏、後醍醐天皇に楠正成、新田義貞と、それぞれの思惑で、風見鶏風に行動する様子を描く。
発行所=〒235-0005横浜市青葉区荏子田2-34-7、江間方。
紹介者=「詩人回廊」・北一郎。
■「あるかいど」の佐伯晋さんはコロナ禍のテーマで作文を同人に求めた。御自身は既存の方法を排し「事実だけを拾い集める」――え? 文学的方法すらとらない? その結果が『独房の中の「自由」』(あるかいど69号)、永山則夫を俎上に。引きこもり期間を逆手に取り、バーチャルな積極的三密で事実を集積し、その結果――「死刑によって閉ざされた彼の短い生涯は、いかなる状況にあっても人間の精神が広大無辺で自由であることを教えてくれる」。
『言語の彼方を言語で語ること―霜田文子「地図への旅」をめぐって―』(柴野毅実/「北方文学」82号)――言語以前の世界へと遡り遭遇した風景。フランソワ・ビュルラン『深い闇の奥底』――「半人半獣の姿をした呪術師のような存在が、口から原始的な生物のようなものを掃き出している」(柴野)。非言語の世界が広がる。アール・ブリュット(Art Brut)の舛次崇、游文舎(柏崎市穂波町)企画展を飾る作品、川田喜久治の写真集『地図』。だが、言語の彼方を言語で捉える? 非言語世界への通路は“テキストクリティック”にあり! 作品を作家自身から切り離した粉飾のない裸のテキスト、「文学批評の基本はそこにしかない」(柴野)。
「群系」45号では平成文学そのⅡで座談会を企画、永野悟さんを座長に土倉ヒロ子、間島康子、草原克芳の面々。その中で『宮原昭夫評論集――自意識劇の変貌』に触れた――二葉亭以来の理想と現実の自我内部の分裂・対立が、社会のそれと対をなしていた構造が崩れ、現代は自我が“異形化”に追い込まれている。藤村・直哉には強烈に存在していた自我が衰弱・曖昧化し、代用品としての私小説を生み、そして“異形化”に逢着した。笙野頼子、村田沙耶香の作品を例示しての論。
人生を映すイメージの連鎖――『うたかた』(樋口虚舟/「飛火」59号)――〽もののふの八十うぢ河の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも(人麻呂)。少年は宇治川の網代木が生む波と泡を見つめて飽きない。幼児の頃、泡に包まれる白日夢――ヒエロニムス・ボッシュ『快楽の園』、左下に球体、中に裸体の男女。切り落とされた男性器にまとわりつく泡から生まれたアプロディーテー――幼児期の雪国での暮らしへと回帰――〽雪の降る街を想い出だけが通りすぎてゆく(詞・内村直也)。
「私」と母とボレロのコラボ――『ボレロ』(山田美枝子/「季刊遠近」75号)。冒頭、私と娘の友達との会話――「新しいボーイフレンドのどこがすてき?」「ゴムのつけかたがうまいんです」。こんな私と娘達との様子に母が大好きだった兄の想い出を語り出す。呉服問屋の次男なのに浅草、エノケン志向、ボレロの舞に憑かれヒロポン中毒であの世へ。美形でモテモテ。女中や兄嫁とも関係し、葬儀では棺にとりつき号泣する女も。性愛は世代ギャップなんて無縁!。
『グレートデンと黒いロバ』(山本直哉/「層」133号)――副題は「一九四四年~五年の頃 敗戦前後の満州でのこと」。短い春が予感されだしたころ、内地から叔父がやってきた。反体制活動で官憲の監視下におかれ、満州でも同様の扱いを受ける。しかたなく山奥での自然人のごとくの生活を強いられたものの、「ぼく」にとっては叔父の手足となる犬とロバが仲間となった。しかし、ほんの短いメルヘンの時を経て、叔父は徴兵され戦死、8月13日避難命令、犬とロバの遺棄という悲劇がまっていた。
昨日のことは忘れても、あの頃のことは忘れない――『イトコの姉ちゃん』(山岸とみこ/「こみゅにてぃ」109号)。昭和19年、「私」は生後まもなく高崎の父の弟の家に預けられ、東京大空襲の難を逃れたものの、一家もろとも行方知れずとなった。預けられたのは4歳半までで、原風景・原体験は全てこの時期に詰め込まれた。イトコの姉ちゃんは、温泉旅行のくつろぎのなかで、赤ん坊が突然やってきた当時のことを「赤ん坊のことなんか可愛いなんて思えなかった」と、蟠っていた思いを吐露。赤貧の時代だった。
『槇』中興の祖、松葉瀬昭さんは槇の会会長の座を乾浩さんにバトンタッチ、43号で『はるかなる国』を発表。四世紀朝鮮半島、統一王朝新羅誕生、金海一帯の小国は滅亡の危機、倭への逃避行の物語。船は流れ流れて不明の地に到着。山越え谷越え遙々と、着いた! どこに? 前半の物語に対し後半は文献精査。日本書紀仁徳天皇の項に登場する、上毛野国竹葉瀬君の件。日朝間の外交で活躍した人物。稲荷山古墳は竹葉瀬君の墓!?
青壮老年引き籠もりの末路?――『火葬まで』(城戸祐介/「九州文學」574号)――会社を首になり、とある店で、絶対に永遠に切れない、と説明されたロープを購入し首吊りした田中君。が、意識がロープとともに死体に密着。不審死で解剖した女医はロープが不気味な生きものに思えてそのまま火葬場に。やっと永眠、いやロープが輝きだし……ひとりの友もなくロープに絡まった孤魂は往生できず彷徨うばかり。
なお、九州文學は編集発行人を波佐間義之さんから中村弘行さんにバトンタッチ、第8期へ。
(「風の森」同人)《参照:評者◆越田秀男~独房の中の広大無辺な自由、永山則夫(「あるかいど」)――言語の彼方を言語で語る、霜田文子(「北方文学」)》
【「浄土への岬」入江修山】
四国遍路の38番札所の足摺岬に「私」は行く。内心の絶望の中で、補陀落渡海という海に身を投じ浄土に行くという宗教心に殉じることを希んでいた。そこに。50代くらいの割烹着をきた女性に声をかけられ、投身を止められる。そこで、彼女の家に泊る。彼女は、ここで一人暮らしをしながら、自殺しようとする人をとどめているのだった。そこで、一ýの男女の関係などあって、男は気を取り直して、帰宅する。別の年にこの岬に来てみると、彼女はすでに病死していた。よくある話がだが、この作者の文章における感性が良い。風景も平凡に書いているようで、落ち着いた風情が満ち溢れている。心が静まり、読者を癒してくれる。独特の優れた文章感性がある。
【「風の行方」由比和子】
夫を亡くして一人暮らしをしていた麻子の義母がやんで入院する。そこで、義母の見守りと、留守の家を守るため、義母の実家に帰る。すると、昔から知り合いの近所の人たちの付き合いが復活する。実は麻子は、親が判らず、それを他人の義母が、自分の子供のように、して育てあげてくれたのだ。近所の人達は、それをよく知っている。そこでの生活ぶりと在所の頃の男女の友達たちとも会う。
血のつながりのない戸籍上の母子を軸に、しばらく離れていたその母を最期まで見届けようとする麻子。そして、思春期からの付き合いのある友人たちもそれぞれの生活を過ごし、年老いてゆく。日本の家族制度の変わる中で、晩年になって失わない人間性をさり気なく描く。旧い時代感覚での問題提起とその答えになっているところが、とりあえず文学的である。
【「蓑の棲家」野原水里】
蓑虫を愛好する森の老婆と、彼女と出会って手伝うことになった青年の幻想を伴った変わった物語である。日常と異世界の融合をさせたような、何かがありそうな味のある短編。
【随想「生きてるかぎりオペラ・アリア」八谷武子】
趣味であったイタリアオペラに力を注ぐ80代の女性が、突然、足回りに激痛が走る。原因は、血液循環の不全らしい。とにかく、書く力に勢いがある。切実感にあふれていて、本作品で、第一の表現力である。実は、自分も昨年秋に、突然脚が痛み歩けなくなった。脊椎神経圧迫で、痛み止めと血行促進剤を服用するしかない。作者に共感する。漠然とモノを書くより、短くても切実感のある文章を書くことが、読者をひきつける。
【「舌びらめ」鈴木比嵯子】
K市の小観光都市に住む悦子。通りの脇にある椿餅専門店を営む。彼女の視点で、町での出来事が、次々と語られていく。おそらく身近な生活のなかから生まれた作品であろう。タイトルを「舌びらめ」にした意味が、最後に出てくるだけでは、わからない。そつのない筋と意味ありげないタイトル。書き方も雄弁である。どんどん考えが浮かんで、書き込んでいるように読める。そこに才気を感じると同時に、筆の滑り過ぎを感じる。おそらく、マラソンのランナーズハイがあるように、何のための書いているのか意識しなくなる、ライティングハイとでもいう状態になっている痕跡がある。今回の作品の思い付きにそれなりの良さがあるが、深みに欠ける。思いつきの浮かぶのが早く、そこは天才肌でありながら、不発。文学性が不足している。
【「巣ごもり」小笠原範夫】
高齢者が、現在形のなかで、過去の出来事を回想させながら、家族制度のがっちりしていた時代の出来事を描く。それでも、失われた時代に雰囲気を濃密に描くことに成功していて、面白く読める。村社会の風習の継続性と断絶が表現されている。高齢者には懐かしい風習なども、懐かしくユーモアもって描く。その時代なりに活き活きとした表現もある。ただ、視線が平淡であるのは、懐古的な情感の範囲にとどめて、テーマ性が半分ほどしか読み取れない。
発行所=〒812-0044福岡市博多区千代3丁目2-1、小笠原かた。「ガランスの会」
紹介者=「詩人回廊」北一郎。
児玉雨子(93年生まれ)「誰にも奪われたくない」愛憎のない関係求めて/瀬戸夏子(85年生まれ)「ウェンディ、才能という名前で生まれてきたかった?」性愛の嫉妬消しても…/山下紘加(94年生まれ)「エラー」-「女の役割」が私を壊す/李琴峰(89年生まれ)「彼岸花が咲く島」根の部分で繋がる差別ーー。
《対象作品》
児玉雨子「誰にも奪われたくない」(「文芸」春号)/瀬戸夏子「ウェンディ、才能という名前で生まれてきたかった?」(同)/李琴峰「彼岸花が咲く島」(「文学界」3月号)/ 山下紘加「エラー」(「文芸」春号)。
<抜粋」 ■小説では、山名恭子の「百日紅の夏」(「長良文学」第28号)が、昭和二十年七月九日の岐阜空襲の悲劇を綴る。小学六年の留美の親友・妙子が空襲を逃れようとするさなか焼死した。留美は、逃避するとき、布袋が邪魔で石垣をうまく登ることができない。妙子は、その布袋を持ってあげるから、先に行くようにと留美に告げた。留美は袋を妙子に渡し、石垣をよじ登ったが、近くに焼夷弾が落ちた。戦争の悲劇・空しさが読者の心を抉る。留美の家も、妙子の家も焼失した。妙子の家の庭に焼け残っていた白い花の咲く百日紅の木。歳月が流れ、留美は白い花の咲く百日紅の木を庭に植える。妙子・留美ふたりの友情、思いが胸を打つ。悲しい、しかし、秀作だ。
梶原一義の「協力者」(「私人」第102号)がよく構想の練られた作品。昭和四十年代、大学生を語り手としてストーリーを展開。間貸し屋を営む坂口家が警察から住んでいる学生の部屋を調べさせてほしいと頼まれた。過激思想の学生がいないか調査するためだという。間貸し屋の主婦は、躊躇逡巡しながらも、学生の部屋に警察官が入ることを許可した。その結果、下宿人に対する良心の呵責に耐えられず、主婦は手首を切って自殺を計り、自分たちには間借しをさせる資格はないと思い、家を処分して主人の故郷の信州に移り住む。協力したため、善良な家族が苦しみ続ける不幸。当時の社会状況もよく描かれている。
祖父江次郎の「靄の回路」(「季刊作家」第96号)は、認知症に罹りかけの男の姿を描く。男は、子どもの頃は「神童」と崇められ、一流大学を卒業した。それが、三年前に死去した上司から呼ばれているので勤めに行かねばならないと思ったりする。外出したものの自分の家の方角が分からなくなり、パトカーで送り届けられる。近所の人はもとより、妻の名前、財布の置き場所を忘れたりする。もどかしい場面が次々と展開するのだが、このもどかしさを感じさせるのは、作者の適切な描写ゆえ。地方公務員の失墜、認知症の遺伝の不安感も示される。認知症になるかもしれぬ危惧感。現実と幻覚とのはざまに身を置かねばならない不安感をつきつけられる思いがした。推敲に推敲を重ねた、見事な作品。
梅宮創造の「七十の秋」(「飛火」第59号)が会津藩士秋月悌次郎の高潔な人間像、生涯を綴る史論的小説。小泉八雲の登場も作品に厚みを与え、末尾に松平容保と徳川慶喜の人間像が比較される形で記されているのも興味深い。簡潔な文章にも感服。
歴史資料では、「花の室・21」の「視点」の項に「義民地蔵供養並に頌徳碑建立への挨拶」(野村七十郎著・昭和九年)が掲載されている。『岩瀬町史史料集』からの再録であるけれど、寛延三年時の直訴で斬に処された磯部村の清太夫・亀岡村の太郎左衛門・富谷村の左太郎の三義民に関する記録。心に重く残った。
研究雑誌では「吉村昭研究」が第52号を重ねた。作品論・作家論・吉村関連のエッセー等が満載。
秋田稔の「探偵随想」第137号には、小泉八雲・岡本綺堂らの作品を想起させる読物、江戸川乱歩から『乱歩全集』全冊を贈られた思い出、興梠武の絵「編みものする婦人」のモデルについての随想等が掲載されている。昭和文学・文化走馬灯の感。
エッセーでは、園田秋男の「『文藝首都』の頃」(九州文學第574号)が、勝目梓との交流や保高徳蔵・みさ子のもとに出入りしていた頃のことを伝えて貴重。勝目に対する園田の思いが滲み出る追悼文でもある。
ーー「九州文學」の第八期がスタートした。同人諸氏の今後の活躍をお祈りする。「さて、」第8号が丹治久惠、「野田文学」第二次第21号が上野菊江、「文芸静岡」第90号が臼井太衛、「玲瓏」第103号が岩田憲生と岡井隆の追悼号(含訃報)。ご冥福をお祈りしたい。(相模女子大学名誉教授)
《参照:評者◆志村有弘ーー戦争の惨禍を伝える山名恭子の秀作(「長良文学」)――「協力」したことから良心の呵責に苦しむ主婦を描く梶原一義の文学(「私人」)、認知症へ歩んでいく男を綴る祖父江次郎の力作(「季刊作家」)
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