文芸同人誌「あるかいど」68号(大阪市)(上)
【「アフリカの手」木村誠子】
アフリカ旅行記であるが、ただ行ってきました、という程度のものでなく、きちんと前人の書いたものを資料に掲げ、学習教材になっている。驚いたのは、アフリかの最初のイメージが、山川惣治のイラスト付き物語「少年ケニア」ということが記されている。自分も、海外に行ったことがないが、山川惣治のファンで、マサイ族や密林の動物に対する知識は、まさに山川惣治に教わったものでる。成人になって、その後年のアフリカ民族の暮らしぶりが、山川惣治の作品で学んだものと大きく変わらず、その作品の調べの正確さに、舌を巻いたものだ。作者が自分と同世代らしいことから、読み方が変わる。ここでは、アイザック・デネーションという男性名の女性の「アフリカの日々」(out of afrik)という本と、作者の紹介がある。その解説が面白い。さらに「わたしの夫はマサイ戦士」という本を書いた長松という女性と「沈まぬ太陽」の主人公、恩地のモデルとなった小倉寛太郎、「あるかいど」65号の佐伯さんの旅行記など、そのつながりが前半部で紹介される。後半分は、作者の視点によるマサイ族の取材記になっている。本位、前半と後半は別にして作品化した方が、文学的な固定化が出来たろうと思う。コロナ騒ぎのなかで、落ち着かぬ心で読み終えた。
【「ゆうべのコロポックル」久里しえ】
コロポックルという座敷わらしのような幻想的な動物が、日常生活の中に登用する。多くを語る余地はないが、創作手法としては、現実的現象との融合性について、説得力が薄いと思う。いろいろ疑問があるが、そういうものある時代なのであろうと、感じた。
【「ゆずるゐぬ」切塗よしお】
家の井戸水が突然枯れる現象が起きる。同人誌小説特有のといっていいかどうか知らないが、テッセイという名の主人公の話である。しかし実質は一人称小説で、これが多層化し話の構造をわかり難くしている。テッセイは犬を飼っている。名はユズルである。良いところのない犬を譲る広告を出しているが、もとからそれほど手放したくないという心理が浮き彫りになっている。犬のユズルは、飼い主そのもので、取り柄のないさは、そのままである。いや、テッセイは遺産を相続して金があり、資産家をするのが仕事のようだ。資産家と結婚したいという女性がでてくるが、彼女との縁は失われる。そして、実在してもしなくても良いと思える人生の姿を描き、批判的にひねってみたのか。犬を手放すと決めたときに、枯れていた井戸水が復活する。どういうことか考えさせられる。
【「くるり」高原あふち】
語り手の中心となる加奈子という女性は、父親の妹だとかいう関係の女性である。すでに突然の病で亡くなっている。ところが四天王寺にの縁日で、(夫が同行してたか)お経を何倍にもして唱えることになる転法輪を廻すと、途端に加奈子との縁日見物や、その他の交流していた世界に入り込んでしまう。読み進むうちに、読者は加奈子と共に過ごした語り手の時間を味わい、切なくしんみりとした気持ちになる。また、縁日というのも、人間がありふれた日常に、華やかさを付加する営みであり、こうした情景を選び出す作者の感覚に才能を感じる。関西人らしいあざとさを持てば、多く読者の共感をえられそうである。いわゆる日常平談的な文章で、これだけの表現力を発揮することに感銘を受けた。
(ほかの作品についても紹介記事を書いていたのだが、突然パソコン他画面に移行し、文字が消失してしまった。次の回に続きを書きます。)
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