文芸誌「浮橋」第5号(芦屋市)
今号は、橋をテーマに同人のエッセイが、並べられている。それぞれ面白いが、随所に新型コロナウイルスについてふれているのが、時代の感触の表現として、時宜にあっている。
【「橋から橋へ」春水】
生き物には、ホメオシタスという言葉があって故・丸山圭三郎の著書に「アメリカの生理学者W・B・キャノンが提唱したもので、生物の生理系に見いだされるー自律的平衡作用ーのことである」。定温動物には外気温の変化に応じて自らの体温を調節し、これを常に一定の保つセンサーのごときものを身のうちにもっているという。それに対し、人間はその能力をねじ曲げ、外気を変えるエアコンを造った。自動車の利用で脚を弱らせうなど過剰な文化をもったゆえに、「核」を開発するなど、大罪を犯すーーなど様々知見を披露。人間性の正当性に疑問を呈している。人間の善のみを拡大解釈する現代への一つ視点を語る。地球を消耗させる人類への行為と、自己存在の正当に罪悪感をもつところまで、話を運ぶところは深みがあって、読みごたえがある。
【「橋を断たず」岡本俊輔】
勝鬨橋の思い出を、懐かしく読んだ。自分は夜間大学で、学生運動に巻き込まれ、専攻が資本論研究であったため、就活が不調和。とにかくその付近の企業で採用してくれたので、しばらく通った。無能な劣等社員であった。アカの学生ということで、他の大学の新入生が企業内組合の結成に動いたらしく、それの首謀者であろうと、身に覚えのない嫌疑をかけられ、総務関係者から襟髪をつかまれて振り回されたりした。昼休みに、勝鬨脚の根元の幅広のところに寝転んで、どうも、自分は企業の部外者としての人生しかなさそうだ、と感じていた。本作でも、六甲の大石川の橋で、生きるか死ぬかの思案をするところなど、共感するところがある。当時の築地本願寺は、平日の昼は人もいないので、バレーボールを持ち込んで遊んだが、どこからも苦情が来なかった。運河のそばに紀文の社屋らしき看板があり、築地の外通りは、マグロ丼が安かった。
【「渡れなかった橋のはなし」】
橋を渡る前に、老婆が向こうから渡ってきて、語り手にあんたは橋を渡れないと断言して、邪魔をする。そのため語り手は、そこに立ち往生する。カフカ的な世界の表現で面白そうだが、表現力不足で、なんでもない作品になってしまった。
【「六歳の記憶の断片」藤目雅骨】
終戦間際の1月15日に、明石市で米軍の空襲があって、その当時が6歳だったという。その当時の記憶を呼び起して語る。証言として貴重であるが、事実によりかかり、文学的な成果はそれほど多くない。
【「街の灯りを避けて」山際省】
宛てもなく街を歩くなかで、修一は不審者にねらわれているような恐怖を感じ、そこから逃れる。話は語り手の身の上話にうつり、浮き世の生活の話になる。何かが語れそうで、語られない。無理にまとまりをつけにない方が良いのかも。
【「四十年ぶりの手紙」矢谷澪】
文字通り、40年前の女性から手紙がきた。読んでみると、彼女の創作が同人雑誌に載っていて、それを掲載したもの。
【「ある転生」青木佐知子】
もうし、ただいま、わたしに寄り添うように歩いておいでのお方。あなたさまはいったいどなたなのでございましょうか?―という出だしが面白そうだが、その後はそうでもなかった。
【「夜の花」小坂忠弘】
高齢になって体調に様々な変化がでて、それをたどりながら、これまでの体験談のなかの「夜の花」の意味をさぐる。力みのないところで、それなりに興味を誘う私小説的な思想の書か。
【「激震」(二)】曹達】
昭和の不動産バブル経済の京都の場合を、みっちりと儲けのしくみや、その後の変化をア語る。現地は現在のアパート、マンション業界と変わっていないのだが、その細部が面白く、本誌で、一番小説らしい小説である。
発行所=〒659-0053芦屋市松浜町5―15-712、小坂方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。
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