人と会わないよう伝説の街を行く馬込文士村。
コロナ禍の外出自粛といっても、人と会わなければいいわけで、結構たくさん外出した。乗り物はがらがらだし、距離感充分である。ただ、20年前と、10年前と行くたびに、風景が変わってしまっているので、唖然とする。また、解説を書くのも、図書館が使えないので、自分の資料を出して書いた。ただ、奥野健男がこんなことを書いているとは、点検するまで知らなかった。《参照:《モダン文学の里「馬込文士村」の風景(3)尾崎士郎と宇野千代》
コロナ禍の外出自粛といっても、人と会わなければいいわけで、結構たくさん外出した。乗り物はがらがらだし、距離感充分である。ただ、20年前と、10年前と行くたびに、風景が変わってしまっているので、唖然とする。また、解説を書くのも、図書館が使えないので、自分の資料を出して書いた。ただ、奥野健男がこんなことを書いているとは、点検するまで知らなかった。《参照:《モダン文学の里「馬込文士村」の風景(3)尾崎士郎と宇野千代》
電通と言えば、泣く子も黙る広告代理店だが、テレビや新聞でその業務の内容が報じられることは少ない。理由はわかる。珍しく、東京新聞が6月28日の朝刊トップで、電話番号非公表、登記所在地は無人?「運営実態不透明、中小企業遅れ続出、電通など設立796億円受注」の見出しで報じた。前回のオリンピックで次回TOKYOの宣言で、ゲームのアベ首相の宣伝を引き受けたのも電通であろう。自分も若い頃、企業のマーケティング企画案を提出していたが、その予算がある金額以上になると、うやむやにされ、しばらくすると気のせいか、不採用となった案をベースにしたように思えるキャンペーンがその企業が実施しているような気がした。その話を担当者にすると、少額の市場調査の仕事をくれたような記憶がある。おそらく、企業から官僚や政界にも、手を広げていったのであろう。
今回は、立憲民主党の川内議員が、5月22日の衆議院決算行政監視委員会で質問したことがテレビでも報じられた。持続化給付金の事務を委託されたのは平成28年に出来たばかりの「サービスデザイン推進協議会」という会社。これは電通、パソナ、トランスコスモス(アウトソーシングの会社らしい)の三社が作ったものだという。この「協議会」というネーミングの会社は平成28年に設立されるとすぐに経産省から事務委託を受け始めるが、その請負業務をほとんど全てを再委託する単なるトンネル会社ーー川内議員が住所地を訪ねたところ小さなビルの2階で誰もおらず、「リモートワーク」の貼り紙がなされているだけで無人だったという。今回も、電通に再委託し、電通が「コールセンターや申請受付業務の管理」や「広報の実施」をしており、サービスデザイン推進協議会は「全体の統括業務」と「給付金の振り込み業務」を行っているとのこと。当初は、和牛の配布の話が出たりーー、なんとなく、陰謀に加担したような薄汚れた金をもらうような印象がするが、まだ、昨日マスクが郵便受けに入っていたが、お金はまだ、もらっていない。
本誌の作品に眼を通していて、生活のなかにマスクと健康維持に関する行為が、よく侵透していると感じたので、そのことを記した。《参照:市民文芸誌「勢陽」第32号に読む保健意識とマスク文化》
【「花咲くところに」落合伴美】
主人公の「俺」落合俊介は、父親が朝鮮半島の人間で名字も金である。母親が日本人で、その名字を使用している。子供の頃から「朝鮮人のこどもやーい」と蔑む仕打ちを受けて育った。そのためか父親がきらいだと、しながら現在の関係について語ることはない。話は昭和59年頃の青春時代の生活と恋愛が描かれる。ライトノベル風の文体で、その時代の風情をえがいている。在日朝鮮人としての立場を、重苦しくなく書いている。扱いによっては、重苦しいものが含まれる話だが、それを避けて書くという手法もあるものである。ただ、問題を避けるのではなく、正面から取り上げる作業も必要ではないか。自分は、企業のコンサルで生産性の向上のシステム構築にあたったことがある。そこに理屈っぽくて、とがったところがああるが、有能な在日の人がいた。そこで活動の役割をあてたが、日本人社員の差別意識とハラスメントに、彼の能力を削いでいるのに悩まされた。嫌がらせをする社員に、なぜ、そんことをするのか、とと詰めた。すると、親の世代から、さげすむ精神を教わった、というのには驚いた。現代人には歴史的な経緯だけでは、わからない精神構造があるらしい。政治的な思惑が個人的な感情に植えつけられると、始末に悪いことがある。それを踏まえて、国家組織の属人ではなく、個人としてその人を見るという意識を変えることが必要であろう。
【「定年カメラ」江崎芳子」
定年後の趣味で、カメラを始めた男の一部始終を描く。趣味を探している人や同趣味の人には興味深いのであろう。
【「鏡ちゃん」大山まるこ」】
アニメ風の文体で、視点を鏡に置いたことで、普通の家庭の典型的な姿を描く。視点を変えることで、物語化を成功させている。
【「手紙」野上淳】
紫織という娘の父親が、彼女の友人の父親を殺害してしまう。そうした出来事の後の娘同士の交際のあり方が題材になっている。思い事件性のある設定である。その割には、作者は平静で問題意識から離れた表現が目立つ。力まないでいるのか、表現力が不足なのか、切実性に物足りなさが残る。
【「待つことは楽しい」秋葉清明】
曹洞宗の座禅の会に参加し、実践する生活をしている。家族と別居していて、本宅と称し、妻と息子の関係を語る。息子の正は、社会人になって精神に変調をきたし、入院生活を送る。その後の対応座禅の精神で受け止める話。自分の母親も48歳になって精神的な不調に見舞われ、入退院を繰り返した。同時に、金剛経道場に通って座禅を体験したことがある。ただし、母について何か悩んでのことでなく、ひたすら理屈ではわからない不立文字んの体験をしたかったからである。座禅をしたことで悩みが解決することはなかったが、現実をそのまま受け止めるという精神を学んだかもしれない。座禅の効果を示す一例に読める。
【「いわさきちひろ美術館・東京(練馬区下石神井)」長木玲子】
大変興味深く読めた。若い時の神経症的な思想と、三宅裕司が息子であったことなど、知らないことを教えられた。
【「うのと駿之介捕り物帳余話」(第三話)】
趣味の時代小説である。文章が現代的で軽快。楽しませる精神も十分で、刺激的な題材を扱えば、読者層が広まるのではないか。
【「31号寸簡」】
読者による、前号の読後感想が掲載されている。大変によい試みだと思う。小説はかけても、評論文の書けない人はすくなくない。
発行所=〒517-0502志摩市阿児町神明588、水田方、「勢陽文芸の会」
紹介者=「詩人回廊」北一郎。
2020年度「春の書店くじ」、当選番号発表
春の書店くじ」まだやっていた。日本書店商業組合連合会が当選番号を発表。1等賞(110本)は各組共通下4桁が「3258」。賞品は5000円分の図書カードまたは図書購入時に同額充当。賞品引換期限は6月30日までその他の当選番号は以下の通り。▽2等賞(1000円の図書カードまたは図書購入時に同額充当・220本)=各組共通下4桁「1273」「4758」▽3等賞(500円の図書カードまたは図書購入時に同額充当・3300本)
=各組共通下3桁「069」「545」「693」▽4等賞(図書購入時に100円充当・4万4000本) =各組共通下2桁「05」「06」「47」「95」
ーー印刷した本の世界と電子書籍とのジャンルが2分されている現実が見える。
自分は、スマホを持っていないので、パソコンにスマホの機能をつけることに迷惑をしている。ちょっとタッチしたり、ポインター動かすとまったく必要のない画面が出てくる。ところで、5月20日に「怪物」連載の第一回がはじまった。その出だしには、1編の物語が始まる必要条件が、縷々と述べられている。そして、何が問題で、何を語ろうとするのか、その意図を語っている。先に物語の骨組みを語ってしまうのだ。この手法は、ミステリーが、わからない犯人探しにその手がリを、順次読者に知らしめて、謎を追い最後に犯人をわからせるという、エンターテインメント構造とはまったく逆である。犯人も動機もすべて明らかにして、それから物語を始めるのに等しい。それを考えると、「怪物」は純文学の正統的手法ではないか、という理解ができる。
小説作法の基礎を学ぶには、この第1回分だけを読んでも十分なほどだ。自分の小説感を満足させるものがある。圖司に、作者がこのような手法をとることにした、文芸界環境をおしはかることができる。
二十年間にわたり毎月の活動が停止したことがなかった「相模文芸クラブ」も活動休止中である。
月例会は月二回なので三月・四月・五月と合計六回で12作品の合評が滞ってしまった。
四月の年度更新も役員選出もできず、昨年度役員による延長運営中で毎月の通信連絡などを行っている。
六月発行の二十周年記念40号も、発行と掲載料集金や全員配布などに苦労することだろう。
相模原市は公民館使用を8月末日まで再延長した。9月会合で顔を合わせる時が楽しみである。
「町田文芸交流会」も三か月間は会合もできず、通信連絡で済ませている。
町田市は五月末で公民館使用中止を解除する方針なので、六月からは通常に会合を行い遅れを取り戻す。
交流会参加の各同人会や個人会員の活動についても、情報交換などが本格的に行えるだろう。
しかし、この間には参加者の一人が病没したり、参加同人会「みなせ文芸の会」の最新号発行もあった。
時が止まってしまったような自粛期間中でも、個々人の文芸意欲と創作活動は脈々と営まれている。
交流会活動はその相互連携の要として、自粛期間中も役割を果たしている。
《参照:作家・外狩雅巳のひろば》
「書を捨てて街に出よ」これを意味することを説いたのは、アンドレ・ジイド(1869~1951)の「血の糧」であるが、日本では、寺山修司(1935~ 1983年)同趣旨の発想の作品を書いている。思いが似ていることが多いということだ。いまのコロナ禍では、推奨する人はすくないであろうが。そして、国民が「青磁に無関心でも無関係でいられない」という亀井静香氏の言行録もある。文芸同志会での情報提供では、最近こんなことがあった。自分は、たまたまテレビを見ていたら、自粛警察関連の事例として戸越銀座商店街の密集ぶりを映像つきで、報道していた。自分は、それ以前、3月の時点で、戸越銀座商店街を見に行ったところ、関西としていた。そこで、外出して行っても良い場所として戸越公園付近を取材、閑散としてしていたので、推奨する自身のブログ記事を書いていた。そこで、テレビニュースの戸越銀座の風景に疑問を持ち、4月に改めて取材に行って見た。《参照:コロナ禍の街!戸越銀座と五反田の昼下がりを観察 》ところがそれから間も《参照:吉祥寺、戸越銀座の「自粛無視」報道写真のウソ(5月14日)spa》がネットニュースになっていた。これも身近なところでの情報検証である。
自分にとっての情報操作の問題は、日本人の進・善・美にかんする概念が、世代交代で変化し、その人間性が変わってしまったのかどうかである。
外出自粛の中で、不機嫌、苛立つ心になる。今回は自分が普通に読んでいる書店の雑誌と比較する視点で、紹介してみた。今は、ほとんどの軽文学の読み物がデジタル化している。その点、紙に活字化されたもので、一番残るのは同人誌であろう。改めて本誌のページを繰ると、【「母さんの生まれた日」国方学】【「庭先デリバリー」木戸順子】【「黄泉へ」小森由美】と、高齢者を主人公とした時勢模様が描かれている。なにか、時代離れをかんじる。作品「黄泉へ」は、いま、コロナ禍のなか、自分が外出して感染したら死ぬのだな、という思いと重なり、意味を感じるが、それ以前の2作は、危険な世情に生きる気持ちの自分には、切実感のない書き物の読めた。人生長生きすれば、その時々が書いても書き尽くせない、さまざまな出来事があるのだが、それをスケッチ風に書き流してすますのは、書き手は精神的に安定してくるのであろうが、なにか感情移入するような気分になれない。それだけ平和な世界包まれた人々の生活と描かれている。が、書き流された出来事そのもは、大変だったはずである。どれも薄味で、読み流しするしかない。
【「同人雑誌の周辺」中村賢三】 目を通して一番、印象的なのは本作である。毎号よく読み、味わい、書きまとめていて、その表現力に感銘をうける。
【「まぼろしの太刀(大森彦七異聞)」白井康】
時代小説の怪異譚であるが、自分の表現力を発揮しているので面白い。とにかく、場面が中心なので、飽きさせないのである。
【「ある介護」筧譲子】
老人介護の具体的な大変さが書いてある。オムツの汚物を畳みに投げつけてしまう老人の話が出てくる。しかし、それも聞き書きのように書き流されている。そうした事態を片つける介護者の様子が他人事である。介護者は爪の中にまで糞が張り込み、いくら洗っても臭いは取れない。部屋の畳はしばらく公衆トイレの臭いがする。これは自分と友人たちの実体験である。それらを表現しないと、よくできた作文としかいいようがない。
【「誕生」高見直弘】
孤独と寂寥感が生む精神的葛藤の幻想が、よく描かれていて、面白い。たしかに文学作品である。
【「二十七年目のブーメラン」長沼宏之】
出だしはいいし、その構成も、問題提起がなんであるか、明確なので、興味を逸らすことがない。もうすこし強弱をつける工夫があれば、もっと面白く読まめたかも。
【「青磁の壷」山田實】
想い出話が多い。父親のパチンコ通いなどは、しかも母親は、自死したかも知れないなど、材料やお膳立てはよく、場面として面白いのだが、同人誌には場面を書いてはいけないという法則でもあるように、説明で済ましてしまう。読んでいても、なぜか不可解な気分になる。終章も、どこかで読んでいたような余韻風のもので、なにか打ち合わせでもあるのだろうか、と考えた。おそらく同人仲間で、こうすればいいという、暗黙の了解の表現法があるのだろうと、思いついた。そうだとすれば、仕方がないことだ。
【「ゆずり葉」市川しのぶ】
本誌で一番面白い小説である。何が問題なのかと読んでいくと、夫婦の営みの膣痙攣のことで、それが病として治せずに、苦しむ様子が描かれる。いあわゆる夫婦関係の性愛と精神的な愛との葛藤を描く。ただの肉体的な現象をこのように、素材化したのには、作家的な手腕を感じる。文学フリーマーケットに、「父ちゃんのチンポが入らない」と、悩み相談のような中編作品を書いて、販売したケースがある。これも、専門医に相談すればいいことだが、そうせずに悩みとしてドキュメント風にしたらしい。それに出版編集者がめをつけ、長く伸ばして書籍化して、相当売れ行きがよく、話題になった。この作品も編集者に持ち込んでみたらどうだろうか、と思わせる。ただし、純文学にするなら、夫婦愛の変形としての愛の形を追求する方向にもっていくのは、どうであろうか。盲言多謝。
発行事務局=〒463-0013名古屋市守山区小幡中3-4-27-、中村方。「弦の会」
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。
10万円給付を「世帯主」にする「家」思想ー安倍氏を政界から追放し、壊憲を阻止しようと、浅野健一(アカデミックジャーナリスト)は、呼びかけているが、この問題に視点を当てている小説は少ない。たまに触っているひともいるが、少ない。おそらく、各地から東京に出てしまうと、そうしたものから切り離されたと思い込んでいるためであろう。自分は、一応東京出身で、いわゆる上野駅から金の卵とされた上京者たちと混じって過ごした。その人たちの価値観を勉強したものだ。まさか、日本の指導者が化石のような思想の持ち主だとは、……。
このところ、パソコンの操作にいろいろ支障が出て、同人誌雑誌などいただいたものを読んではいるが、それについて書くのが、操作が面倒で、連日で書けない。ところで、先日に作家でタレントの室井佑月氏(50)が、前新潟県知事の米山隆一氏(52)と婚姻届を提出したという。昔、文芸時事月報という情報紙を出していたころから、室井氏のことは耳にはいってきていた。室井氏は、モデルやレースクインをしていた肉体美人で、豊乳手術などもしていた。そのうち故・山村正夫氏の小説講座の教室に入った(現在は「山村記念講座」で、森村誠一氏が講師をしている。当時は、出版社の編集者がこれという作品を書く受講生を選んで、作家にしていく活動が機能していた。室井氏は1997年(平成9年)に 小説新潮5月号の「読者による『性の小説』コンテストに入選し、作家の道に入った。彼女の父も同じ講座で作家をめざしたと聞いた。やがて、1999年(平成11年)に 高橋源一郎と結婚した。当時、高橋氏には夫人がいて、豪邸に近いところに住んでいたが、高橋氏は離婚して、彼女と結婚したらしい。2000年(平成12年)に 長男を出産。2001年(平成13年)に高橋源一郎と離婚。「婦人公論」2001年10月7日号に発表された手記によると、離婚の原因は高橋が複数の女性と不倫していたことだという。そのため室井氏は、米山氏と2度目の結婚となる。女手一つで、作家でタレントをして、子供育てるという手堅い性格である。一方、米山氏は、医師免許と弁護士資格を持つ。16年に新潟県知事に当選し、18年に辞職した。現在は弁護士として活動しているという。知事を辞職したのは、女子大生に3万円払って関係を持ったが、その女子大生には彼氏がいた。そのことが、メディアに報じられることで、自ら身を引いたのである。しかし、新潟県と福島県の知事は、原発問題を抱えているので、その立場は微妙である。国は原発の推進に反対をする人間を、狙い撃つ関係にある。警察力を動員してである。《参照:検察と報道の伏線が見どころの映画「知事抹殺の真実」》。そうなると、ただでは済まない。親類縁者や友人に自殺者がでることもある。その前の、泉田知事も、そうしたひっかりがあると、さっと辞職した。その意味で、米山氏も早々と知事をやめたのは要らざる難を免れたということかもしれない。《参照:米山隆一新潟県知事講演会(eシフト主催)からのオピニオン 》
「西日本新聞」04月30日(木)朝刊「西日本文学展望」茶園梨加氏筆
題「女の生き方」
西田宣子さん「手袋とサボテン」(「季刊午前」58号、福岡市)、和田信子さん「猫、踏んじゃった」(「南風」47号、福岡市)
田中青さん「ドンコ川」(「南風」47号)、白石すみほさん「恋歌」(「ふたり」23号、佐賀県唐津市)、「筑紫山脈」(38号、福岡県久留米市)より表紙担当の大國留美子さんの紹介 。
《「文芸同人誌案内・掲示板」2020年 5月 2日、ひわきさんまとめ>》
本誌は、かなり専門性の濃い文学書で、目次を見て、どれを読んでも、面白そうである。そのなかで、自分が最も興味をもった中国文学から見た中国という不思議な国の構造である。この内情の一部が文学者によって明らかになるなんて、最高である。理由はわからないが、中国は今後世界制覇でのひと時代をつくるであろうという予測をしていた。その時に思ったのは、上海や福建省などの海岸沿いが発展しているが、内陸には砂漠や少数民族が存在し、おそらく中国共産党の意志に無関係に生活するであろうということであった。それに対し都市部では、コロナパンデミックからの回復をどうするか、が疑問であった。が、本論を読んで、富裕層が長貧困層を踏み台にして、再起するであろうとの予測がたつ。「北方文学」中国・農民工の作品翻訳と評論=徳間信佳(2) 毛沢東も、何万人もの農民を飢餓死に追い込んで、共産党をつくった。農民は道具にすぎなかったのだろう。
【「ヘンリー・ジェームスの知ったこと(三)」柴野穀実】
ヘンリー・ジェームスという作家は、映画「ねじの回転」の原作者として知られているが、比較的マイナーな作家である。しかし、文学文化が次第にマイナー化しいる時期には、こうした曖昧な表現の手法は注目される。文章でなければ表現が充分できない世界が作れる可能性を加持させる評論である。中村真一郎がその手法を文学そのものの原点としているのを、紹介しているも興味深い。ジェームスの手法の影響が、ゴシック小説形式として現代に受け継がれていることを示唆している。
発行所=〒945-0076新潟県柏崎市小倉町13-14、玄文社。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。
【「春が来た春が来た」衛藤潤】
文学的な工夫がなされた作品である。語り手は、「私」や「僕」と「彼」といった人称を一切使わない。もうひとつの工夫は、飼っているメダカの世話の詳細である。物事を詳しく語ることは面白いに通じる。話はフクちゃん(女性)からメダカの飼い方を教わって、飼い始めたメダカの様子と、その心理が述べられる。そして、フクちゃんと別れるまでの物語。もう少し、話が盛り上がる仕掛けがあれば、とも思うが、短編なのでやむをえないか。面白く、文学性を発揮しているように読めた。。
【「自分じゃないジブン」片瀬平太】
これは、現代のティーンネイジャーからヤング世代、いわゆるギャルの女性の手記という形式で、乱れた生活と、それを他人のように眺める自意識を語る。彼女らの世代の用語の翻訳的解説があるのが、現代人が技術の進歩の段階で、文化的な分断ができていることを示すことで、興味深い。
【「リレーエッセイ・わたしだけのYOKOHAMA-第3回大倉山界隈(港北区)」鈴木容子】
地元である街を散策する会があって、そのメンバーとして、街歩きをしたポイントとしての歴史的な経過がわかる。散策の会のメンバーはほとんどなくなってしまったという。自分の若い頃の昔、鶴見川を渡って、日立製作所の工業専門学校に通う友達がいたので、台風の季節になると、氾濫し渡れなくなる話をよく聞かされたものだ。今は、遊水地ができて洪水にならなくなったようだ。
【緊急報告「羽田低空飛行路の悪夢」(1)柏山隆基】
自分は、大田区のほとんど神奈川寄りに住んでいる。当初は、自分の区域の頭上のことなので、まず区議会議員に対応策を聴いた。すると、これは地域の政治問題ではなく、都議会でも問題解決能力はなく、国の問題である、ということであった。そこからさらに、東京の上空が不平等な日米軍基地協定の存在が根底にある、ということを実感してきた。本編では、これまで、ハイデガーの存在論を論じていた筆者が、生活的な問題に筆を伸ばすことは、大いに意を強くするところである。現在、コロナ対策で、航空路がガラ空きにもかかわらず、不必要な、新滑走方向を試しているという官僚の行い。これはまさに、二イチェのいう「畜群」という存在であることを、分かり安い事例として示したいものだ。
【「クラシック日本映画選―10-『用心棒』」石渡均】
黒澤明と三船敏郎のコンビの傑作「用心棒」に関する製作者側の、特にカメラ撮影における技術と、効果的な画面編集の工夫を詳しく解説している。特筆したいのは、見どころの脚本の抜粋と、主役だけでなく、脇を固めたベテラン助演俳優たちの詳細が記されていることだ。仲代達矢が黒澤監督の注文の厳しさにうんざりしていたことや、三船敏郎の迫力のある立ち回りの秘密を明らかにする。また、助演たちの多くは亡くなっている。加藤大介、志村喬、河津清三郎、東野英治郎、藤原鎌足、渡辺篤、山茶花究、などなど。彼等が画面に登場すると、躍動間で雰囲気が盛り上がる。そして、原作を使ってマカロニ・ウエスタン「荒野の用心棒」ができ、クリント・イーストウッドという映画人を生み出した。とにかく読み応えのある解説である。ここには、記されていないが、黒沢監督作品では、脚本に橋本忍と、菊島隆三が絡んでいると、活劇として精彩を放つ。黒沢単独の脚本映画は形式美の追求で静かなものが多い。さらに「用心棒」の構成には、ハードボイルド作家、ダシル・ハメットの「血の収穫」に似ている。ハメットは、「血の収穫」の前に中編「新任保安官」を書きそれを長くしたのが「血の収穫」である。また、主人公の行動原理として、用心棒の「桑畑三、四十郎」は、ハメットの「ガラスの鍵」の主人公、ネド・ボーモントに似ている。ハメットファンをも納得させる映画である。
その他、鈴木清美氏の写真は、ホームページからも鑑賞できるはずだ。
発行所=〒241-0831横浜市旭区左近山157-30、左近山団地3-18-301、文芸同人誌「澪」の会
紹介者=「詩人回廊」編集者・伊藤昭一。
文芸同人誌「みなせ」86号に、作家・小野友貴枝氏がブログ記事を転載した。文芸同志会のサイトでは、毎日10人の人が小野友貴枝「作家のひろば」を読んでいるようだ。毎月、最低300人が読んでいることになる。文芸同志会は昔からインフレーターの役割をしてきた。それは発足当初からのことだ。当初から、やってみなければわからないといことを前提に活動をしている。だから、中小企業の注目するところがある。多くの人に知らしめるためには、ホームページを作っただけでは、効果は薄い。思想を持った大衆に呼びかけることに、会の代表は意義を見出している。しかいし、ネットはいつかは消滅する。したがって、それを活字化することには、、意味があるのだ。
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