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2020年4月30日 (木)

池上に住んだ文学者たちと馬込文士村

  馬込の文士村は西馬込商店街の名所的存在であるが、自分が長年住んでいた池上にも著名な文学者が居た。「アカシアの大連」で芥川賞の清岡卓行もそうだ。彼が小説に書いたバッティングセンターがまだあったのを覚えている。池上本門寺のお山の隣の崖上の墓地の隣には、森村桂が住んでいた。自分はメーカーのPR誌の編集をしていて、原稿用紙2枚ほどののエッセイを、依頼して、承諾をもらったので、家の近くだったので、原稿を受け取りに行った。玄関でブザーだっか、呼び鈴だっかを鳴らすと、修業中らしい大学生のような若いかわいらしい女の子が出てきて、約束した原稿を受け取った。馬込文士村には、その地域の古書店にはいったが、それほど頻繁にはいってなかった。《参照:コロナ禍の世間録!馬込文士村付近(下)康成と足穂 》は事実だが、散文詩のような詩小説にしたものがある。連休中には、それをブログ「コント・ポエトリー」としてのせようと思う。話が飛ぶが、このごろのパソコンは、スマフォ向けにできているので、マウスを動かすとひょとした拍子に、広告に立ったするらしく、出た広告を消す作業が面倒で、特に書いているものが途中で突然消えてしまうのに、悩まされている。ネットの道具はスマフォであるが、このようなコラムを世に通せるとは思えない。自分はガラケーで通す。スマフォは月に7~8千円かかるらしい。ガラケーは古いので、まだ2千円ですんでいる。スマフォ貧乏にはなりたくない。

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2020年4月28日 (火)

文芸時評5月(産経新聞)石原千秋教授

    それにしても-近未来は閉じこもる時代なのだろうか。近代の扉を開いた鉄道が、現代の扉を開いた飛行機がいまや過去のものになりつつある。国境や県境という過去の境界線がこれほど強固に作用する時代が来るとは思ってもみなかった。 文学界新人賞は三木三奈「アキちゃん」。問題提起的な作品であることはまちがいない。「わたしはアキちゃんが嫌いだった」で始まる。実は、アキちゃんはアキヒロ、つまり「男」。トランスジェンダーであることが、最後に明かされる。ミッカー(語り手)はアキちゃんに女として好きになってほしいのだが叶(かな)わない。それで「嫌い」なのだろう。このテーマに興奮しきっているのが川上未映子だが、いまさら感がある。あえて言うが、トランスジェンダーは小説の構成に利用されているだけで内実がない。「種明かしはこれだけ?」というのが、正直な感想だ。参照:【文芸時評】5月号 「コロナ世代」への責任 早稲田大学教授・石原千秋

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2020年4月27日 (月)

馬込文士村の万福寺を歩く

 コロナ禍で外出自粛のなか、パソコンのメンテに出かけた。たまたま馬込文士村に近いので、モダン時代の文壇に縁のある大森の万福寺にいった。《参照:コロナ禍の世間録!馬込文士村付近(上)東京・万福寺》。万福寺と言えば、馬込文士村の室生犀星が居を構え、池上寄には、尾崎士郎や山本周五郎が住んでいたことで、有名だ。ノーベル賞作家の川端康成も1年間ほど住んでいた。池上本門寺のお会式の風景などをエッセイにしている。稲垣足穂も一時住んでいて「馬込日記」なるものを書いているようだ。

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2020年4月24日 (金)

文芸同人誌「駱駝の瘤―通信」第19号(福島県)

 本誌は、福島の原発事故について、現地からの声を文学的な立場から表現している。ジャーナリズムとして≪参照:「駱駝の瘤・通信」19号、福島もう一つの緊急事態宣言の拘り ≫で取り上げている。
 もともと、安倍首相は、オリンピック開催を無理やり誘致するために、日本では福島原発事故で「緊急事態宣言」下にあったにも関わらず、それを「アンダーコントロール」と虚偽の発表をして、東京開催を申し出た。新型コロナの世界的流行で、開催延期から、中止の方向に進んでいる。この全責任は、自民党政権の安倍首相にある。国家の道具としての国民と、個人の尊厳にこだわる諸国民とは、別である。シンガポールや北朝鮮は、独裁国家であるため、国民は国家のために存在する。メディアに関しては、他の国でも国民のために働く。文学者は諸国民としての自由な立場を貫くべきであろう。安倍首相はなぜ、新型コロナについて「アンダーコントロール」と言わないのか。それは道具である国民が事実を知りながら利権にこだわって、支持しているからである。福島原発には、国民が事実を身に沁みて感じていないことから、安倍首相のウソに同調したのであろう。
【「郡山日記―認知症から考える」鈴木二郎】
 身内の人の認知症と、その関連出来事を記す。自分は、両親の介護をしていたが、二人とも認知症にならないで病死した。父親は、82才で死ぬまでヘビースモーカーであったが、肺がんにはならなかった。父親にタバコを与え続けた自分は、医師から強く叱られ続けたたものだ。友人の話では、ニコチンは認知症になりにくい要素があるそうだ。真偽のほどは知らない。また、母親は42才の頃から、統合失調症と診断されていた。これも友人の説によると、統合失調症は、認知症に罹りにくいそうである。真偽のほどは知らない。本篇の事例では、参考になることが沢山ある。なかでも、人間の愛について、エロスとアガペーについて、解説しているのが珍しく、注目される。どういうわけか、文芸同人誌の作品には、好き嫌いの話はあるが、愛に向き合ったものが皆無である。同人誌にはそうした題材や論を避ける傾向があるらしい。
【「煙霧中人間話」秋沢陽吉】
  作家・ 丸山健二と加藤周一の「羊の歌」についての、文学的感慨が述べられている。自分は、初期の丸山健二の著作は、ほとんど読んでいた。自分は、1942年生まれだが、丸山は2年下の同年代の44年であろう。彼の社会的な体験と似たようなことを経験していたので、共感をもって読んでいた。彼の初期作品は自らストイックな体験を反映した、体力の必要な締まった文体をしていた。自分の文章体験でも、肉体を動かしている時期に書いた文体と、無運動の時の文体に差があることに気付いていた。その現象が丸山作品にも表れていたので、興味深かったのだ(この時の自分の作品を、師である直木賞作家・伊藤桂一氏の生前に読んでいただいた。そうしたら、大変評価して、文学賞に応募しても良いような出来だーーと言われた記憶がある)しかし、同じく丸山作品を愛読していた友人が亡くなってからは、丸山文学について、誰かと語り合ったことはない。その意味で、懐かしい思いで読まされた。また、加藤周一については、名前は知っていても「羊の歌」は読んでいなかったので、勉強になった。現代においては「羊のうた」というコミックが若者の間で、よく読まれていて、こちらの方が有名らしい。
発行所=「駱駝の瘤・通信」19号、福島もう一つの緊急事態宣言の拘りに記載。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2020年4月22日 (水)

文芸同人誌「文芸中部」第113号(東海市)

【「裁判沙汰」本興寺 更】
 文明開化が一段落し、明治になって、新聞の普及がすすみ、大新聞から小新聞まで時事ニュースや論調が読まれていた。本篇はその時代の小さな新聞社の記者の真三が、事件を取材する。シリーズ物である。今回は、村の農民と檀家寺の土地の支配権をめぐって、争いがあり、農民側が契約条項の解釈で敗訴する。農民の味方をする浄真という僧侶がその事態の一部始終を語る。題材は、当時の裁判制度で、興味深い書き出しである。中編と言えるほどの長さであるが、浄真の人物像に、魅力がすくなく、労多くして、物語の面白さという点での成果は期待したほどではない。歴史的な裁判の事例としての紹介に力点を置いたということらしい。
【「美しい村」西澤しのぶ】
 アイルランドで牧師をしている「私」に日本にいる先輩牧師から、アイルランドの「美しい村」というところに、娘がいるので様子を見て来て欲しいと頼まれ、会いに行く。アイルランドの風物が描かれるが、所詮は他人の頼み事。そうでしたか、という読後感。
【「影法師、火を焚く(第14回)」佐久間和宏】
 連載長編で、どこからどうよんでも良い感じだ。なかほどにいろいろなダジャレを含んだ帽子をかぶった人たち登場する。阿面帽や喰心帽、癌細帽、中世脂帽など、目無帽など、かなり創作性に富んでいるのが、面白い。
【「秋の夕暮れ」堀井清】
 高齢者の「私」は、ある日、めまいを感じるが、医師に相談すると、重大な病気の気配はないといわれる。書店にいくと、そこで美しい同年代の女性が、俳句の本のコーナーにいたので声をかけお茶に誘う。いわゆる団塊の世代の少し前の世代で、悠々自適の人生をおくる人の生活を描く。作者は、多くの多難な出来事を無事に乗り越えてきて平和な時代に人生を過ごす高齢者の立場から書く。情感を抑えたクールな筆使いの独自のスタイルを確立している。そのなかに現代の世相の反映もある。エッセイ欄の連載コラム「音楽を聴く」(83)で、昨年、東京で開催の「第3回全国同人雑誌会議」に参加したことが記されている。そのなかで、同人誌の運営者のたちの団体としての活動への意欲と勢いについて意外に思ったとする。「少なくとも私は、今回の主要なテーマは、文学のあるべき方向をみんなで模索しようということだと思っていた。」――という。例えば<いま何についてどのように書くことができるか>といったことについて、討議するころだと思い込んでいた。――とも。
 自分は、文芸同人誌というものは、同趣味の人たちのクラウドとしての懇親会のように思える。そのことで、一定数の人数の集団としての社会的役割があれば、そこに貢献すべきであろう。堀井氏は、純文学的な方向性をさぐるものとして、小説が自分探しの役割は終えた、と捉える発想のようだ。その意味では、人間は時代と共に、人間性を変化させており、自分探しよりも、人間性の変化の様子を探求するのは、純文学の果たす役割の一つであろう。不幸なことに、世界は新型コロナウイルスの大流行で、カミユの「ぺスト」がベストセラーになったそうである。第三次世界大戦争なみの共通素材と、問題意識を持つことになった。それにどう向かうかは、文学の世界では、個人の表現の問題であろう。いえることは、そうした問題意識の表現の主役ジャンルは、コミックや映画、ネット画像であって文学ジャンルではないような気がする。文学的には、国文学のジャンルと割り切って、その芸術性を発揮するのは、意味があると思うが…。
【「『東海文学』のことどもから」三田村博史】
 「東海文学」という同人誌がどのような作品や作者が、中央文壇とかかわってきたかという、歴史が語られている。純文学系の同人誌と同人作家の系譜が読めて、大変面白い。同時に、文学ジャーナリズに馴染まないと、純文学作家として世に出られないということで、作品の品質とは別の問題があるということがわかる。
【「ガラス瓶の中の愛」朝岡明美】
 高齢者を支援する団体に所属する女性が、ある高齢者の人生の終わりを見送る話。良く整っているが、もっとドラマチックな表現でないと、印象が薄いのでは。
発行所=〒477-0032愛知県東海市加木屋町泡池11-318、三田村方、「文芸中部の会」。
紹介者=「詩人回廊」編集者・伊藤昭一。

 

 

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2020年4月21日 (火)

国の10万円は、もともと諸国民のもの

 国から10万円の支払いを受けうけるので、何時なのかという話題がしきりだ。この資金はもとは国債を発行して作る。国が国債を発行することは、国民がそれを買うことになるので、(銀行が国民の預金で買う)国は借金をするので、貧乏状態であるとする。国民は預金を国に金を貸しているので豊かであるという見方ができる。もともとは、国民が銀行に預けた金が10万円の資金になる。こうしたことをすることは、ベーシックインカム制度でしておけば、時間的な遅れがない。つまり、毎月国民に10万円を渡すかわりに、健康保険や年金などの社会保障金の徴収をしない。無料にする。そして、政治は自治体が中心になって行う。ダイレクト民主主義制度という発想がある。コロナの対策で自治体ごとに対策が異なるのがそれである。《参照:欧州・アジアの直接民主制の動向に学ぶ=外山麻貴氏 》現在、北欧フィンランドやカナダなどででこれを実験している。

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2020年4月19日 (日)

コント・ポエトリーは、123で終わったので序破急にした

 詩に行替えが必要なのか? という問題意識をもってコント・ポエトリーを考えたのだが、やってみたら1、2、3で終わったので、それなら序破急という構成を明確にしたほうが、いいかな? とやってみた。《参照:詩小説(コント・ポエトリー)上田城の花幻影(急)伊藤昭一》。オチを入れることで、コントらしくなったような気がする。内輪話をすれば、北一郎詩集には、こうしたオチのある物語形式の散文詩が多いのので、それ時流に合わせて応用したもの。北の詩集「有情無常、東京風景」には、「リバーサイド無情」という詩にはーーバクーニンは百年前に言った。「国家は人間の意志の合法的強制者であり、自由の否定者なのだ。国家が善を命令する時ですら、命令するというそのことのために、善を無価値にしてしまう」というフレーズがある。その思想を反映させた。

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2020年4月18日 (土)

コロナウィルス禍での幽閉的生活における「自同律の不快」

 幽閉状態のなかで、できることは、考えることであろう。精神的健康からすると、ものを考えないことが、気持ちを乱さないので、それが利口な過ごし方らしい。埴谷雄高は、たまたま多摩刑務所に拘禁されていた時に、ドストエフスキーを読み込み、精神の思考の中での小説「死霊」を書き始めたという。埴谷は脳内活動の素晴らしさを、行きたい場所を思い浮かべれば、すぐにそこに行けるというようなことを、語っている。そうした思考のなかの感覚の一つが「自同律」の不快である。《参照:埴谷雄高「洞窟」&伊藤桂一「形と影」の自己存在観(6)》まあ、確かに、いつに時点の自分が、本当の自分であるのか。常に連続して定まっていない、というのが腹立たしいというか、自分の記憶の一番快いものが、過去ののもので現在でないということであろう。
 「死霊」の冒頭は、こうある。---最近の記録には嘗て存在しなかったといわれるほど激しい、不気味な暑気がつづき、そのため、自然的にも社会的にも不吉な事件が相次いで起った或る夏も終わりの或る曇った、蒸暑い日の午前、× ×風癲病院の古風な正門を、一人の痩せぎすな長身の青年が通りすぎた。--
 これを読んで、小説はこうでなければーーとうれしくなってぞくぞくとした、記憶がよみがえる。じつは、ドストエフスキーの「罪と罰」に似ているのだがーー《七月はじめ、めっぽう暑いさかりのある日ぐれどき、ひとりの青年が、S 横町のせまくるしい間借り部屋からおもてに出て、の;ろくさと、どこかためらいがちに、K橋のほうへ歩きだした。》(江川卓訳)
 しかし、「死霊」のーー自然的にも社会的にも不吉な事件が相次いで起った或る夏も終わりの或る曇った、蒸暑い日の午前、ーーという言語の順が、完全に別作品になっている思わせるのだ。

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2020年4月17日 (金)

赤井都さん「言壺便り」~行く春を惜しんで立ち止まる号~

  その後お元気でお過ごしでしょうか。おかげさまで、私は元気に過ごしています。先日豆本の取材を受けまして、放送予定が決まりましたのでお知らせさせて下さい。《「言壺」赤井都紹介サイト
 4/23(木)AM8:00-8:17 TokyoFM系列 Honda Smile Mission
ミヤコアカイミニチュアブックミュージアムと、>そのまま豆本の紹介(たぶん)オンエア後一週間は、インターネット上のアーカイブRadikoで聴けるそうです。
 5月1日(金)PM7:30-8:00 NHK BSプレミアム「美の壷 小さな幸福ミニチュア」-5/9(土)AM6:45-7:15 再放送Eテレと4K放送も後日予定されています。豆本とは? という話から、活字箔押しのようす、籠込鳥)MBS最初の受賞作の紹介)など。どちらも、編集が入っています。私はしゃべりは下手でお知らせするのも自分で視聴するのもとても恥ずかしいのですが、編集に期待しています。
 お時間ありましたら、気晴らしにお楽しみ下さい。
■最近、どうでしょう
 ほぼ毎日、インスタとツイッターを更新しています。フェイスブックは週一回くらいです。インスタが、一番地味に、黙々と作る動画で、ツイッターは、作る動画と豆本鑑賞、解説、取り混ぜて、フェイスブックは、まとまったコンテンツが、好評です。
人とのつながりに、何だか充実を感じてます。
これまで、お互い忙しすぎて、声をかけられなかったかなと。こうして時間の流れがゆっくりになって、効率を求めすぎて
た部分を見直すきっかけになってるかなと。自分にとって何
が大事か、とか。元のさやに納まるんじゃなく、もっといい形に、変革するきっかけになればよいなと思います。
 海外との郵便事情が、これまでのようにはいかなくなっていて、航空便が減っているので、時間がかかって動いているところもあり、もはや動かないところもあり、欲しい道具はギリギリ手
に入らなかったけれど、あるもので当面何とかして待ちながら、制作を続けるつもりです。グレープフルーツは、まだ来ない!
私の方では、製本はもうできていて、函に箔押しして、本を入れれば出来上がるのだけど。仕方ないです。函は磨いたりの手間もまだかかるはずだから。待ちながら、私は他のを作っています。
 4月の小さな本の教室はお休みにしました。5月はできるといいなと思っています。規模が自粛要請の1/20の面積で、まさにミニチュアです。

■関連情報=赤井都さんが国際”豆本コンペ”2016で3度目の受賞

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2020年4月16日 (木)

ファクトチェック(FJI)が活躍!誤情報に注意を

 コロナウィルスに関するいかがわしい情報が多く流されている。スマートフォンを利用する人は要注意。コロナウィルスは、予防注射BCGを打てば、大丈夫? など誤情報にまどわれないために活動する「ファクトチェックイニシャティブ」が、活躍している。

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2020年4月15日 (水)

散文詩に物語性を持たせて「詩小説」としてみた

 詩作品で多くのものは、行替えをするだけで、散文化したものが多い。昨年の「文学フリマ東京」では、北一郎の詩集を並べて置いて、そこに「詩小説」という札をつけて置いたら、何人かの人が質問をしてきた。そこで、この名称を使おうと決めた。そのうちに、それなら物語性を重視してコント・ポエトリーとした方がいいかなと考えた《参照:詩小説(コント・ポエトリー)上田城の花幻影(2)伊藤昭一》。たまたま、コロナウィルスで、人のいない上田城の桜を写真に収めたものを送られたので、北一郎の詩集にある「花円舞」をアレンジして表現してみた。

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2020年4月13日 (月)

文芸同人誌「季刊遠近」第73号(横浜市)

【「茶箱」小松原蘭】
 「茶箱」というのは、元はお茶が湿気にように、木箱の内側に光るアルミ板を張って、密閉した箱に保存するもの。それを、海苔問屋では、湿気防止のため、乾燥海苔の保管に使うのである。女性の「私」の語り手は、母親の施設入りするので、家の片付けをしていると、古くなって放置された茶箱を見つける。未婚の「私」の母は年老いているが、実家が木更津の海苔問屋であった。
 その茶箱を発見して、「私」従兄妹の保と仲が良く、家族に隠れてこの茶箱に二人で入って遊んだ。子供心に好き合って、結婚の約束などもしたことがある。成人になっても、「私」は、その気持ちを持ち続けていたが、従兄妹は近親だといって、家族から反対される。そのうちに海苔問屋の跡継ぎをするつもりだった保は、考えを変えカナダの大学に留学し、「私」との交際をやめてしまう。しかし、かれはカナダで3年後に病死してしまう。それが原因か、「私」は結婚をすることなく、両親の老後を支え、父親は看護の末に亡くなっている。そして、一人暮らしの母親も、それが難しくなり、施設に入ることにし、住まいの片つけをしている時に、茶箱を見つけたのである。いろいろと無駄の多い話運びであるが、「私」と施設に入る前の車いすの母親との会話には、多くの人が経験したであろう、老いの悲哀と同時に老いるであろう「私」の語りに身につまされる思いがする。自分は、冬は浅草海苔、夏は地元の魚を捕る湾岸の漁師の子であった。茶箱は冬に収穫した乾燥海苔を、茶箱に入れて夏まで保管し、値段の高い時期に売る。海苔の種付けに木更津、姉ヶ崎、浦安なども小型エンジンの漁船で行った。親戚関係の難しさなども、従兄弟関係で結婚することの抵抗になったのではないか。木更津の郷土史にもなるような題材である。
【「頑張らない」逆井三三】
 コンピュータのAIの計算に従って人生の方向性を決める時代。主人公の山内洋士という男に生き方と思想が語られる。人生を自然のままに無理せず、成り行きに従い、生き抜くことの価値を、ニヒルな筆使いで語る。生きる意味のモチベーションを理解した人生論にも読める。
【「オリンピック画塾」難波田節子】
 高齢者の絵画教室に通う間に、生まれる人間関係を丁寧に描く。何を題材にしても小説にできる文才を感じさせる。それほど面白く感じなかった。自分の感性も鈍ってきているのかも。
【「もぐらの子」花島眞樹子】
 会社経営をしている女性が、妻子ある男との交際相手に区切りをつけられて、別れを宣言される。その喪失感を紛らわすために、スイスに住むレイコという女性に電話をし、彼女を訪問する。72号に寄稿した「逃げる」を、書き直したものだという。たしかに、形が整い整理がきいている。
発行所=〒225-0005横浜市青葉区荏子田2-34-7、江間方、「遠近の会」。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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2020年4月11日 (土)

穂高健一の歴史講座と作家への道

  作家・穂高健一氏は、会社員時代から同人誌に作品を発表していて、その間、小説の公募に応募し、いくつもの賞を受賞。山岳登山を趣味とし、穂高という筆名はそこらとった。(ネットの「穂高健一ワールド」タイトルも、マーケティングライターとしての自分が考え提供した。)穂高氏はマラソンも習慣としてしていた。会社を定年退職してから、同人誌作家から、本格的な職業作家になる努力をしはじめた。体力的に優れていたためか、行動的で小説も取材をして創作をするため、知られていない業界や世界の探査性が、時代を反映していることで、小説公募に多く当選したものと思う。その間、自分は機関誌編集や小説雑誌に小説を発表していたころ、自分がライブドアのネットニュース外部記者になったのを機に、彼もそれに参加した。そうしたら、自分はそれまでの商工会ジャンルの取材記者として、ものづくり世界を紹介してきた。それに対し、彼は日本文藝家協会を取材し、そこの広報部門として活躍の場を広げた。《参照:後藤新平がつくった世界最大級の似島検疫所(上)》いまは、日本の文明開化時代の歴史作家として活躍している。今だから、言えるが、直木賞作家の故伊藤桂一門下生による「グループ桂」というのには、定価がなかった。これは、これは門下生の習作テキストとしての立場をしめしたもので、発表作品ではない。そのため穂高氏も、自分も「グループ桂」に掲載作品を、売り込み向けに修正して、応募したり、出版社に持ち込んだりして未発表作品として採用されている。作品は商業誌に売り込むためだから、自分の生活や体験とは関係ない。自分も、作品を門下生から「手垢に汚れた文章」とか、「汚らしい世界」とか、強い口調で批判されたら、「これは印象に残るらしい」と出版社に持ち込むと、採用されたものだ。およそ、コピーラーターとは、皆が身近に感じる手垢にまみれた言葉で新しい概念をつくるのであるから、結構難しいのである。よく読み込まないとわからないような文は、誰にも読まれないで、泡沫文として消える。これはべつに、否定的な意味でいうのではない。自分のために書いているのが、他人に読ませるために書いているのかという意識の違いをいっているのである。

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2020年4月 8日 (水)

「2020年本屋大賞」の「流浪の月」(凪良ゆうさん)無観客発表会

 全国の書店員が選ぶ「2020年本屋大賞」が凪良(なぎら)ゆうさん(47)の小説「流浪の月」(東京創元社)に決まった。凪良さんは昭和48年、滋賀県生まれ。現在は京都市在住。平成18年に中編小説「恋するエゴイスト」が雑誌に掲載され、翌年出版された「花嫁はマリッジブルー」で本格的に作家デビュー。男性同士の恋愛を題材にしたボーイズラブ(BL)小説界で十数年にわたり活躍してきた。今回、一般文芸作品で初の単行本となった「流浪の月」で賞を射止めた。
 受賞作は、誘拐事件の被害者とされた小学生の少女と加害者として断罪された男子大学生の「その後」を描く。互いに深い傷を抱えたまま大人となり、15年の時を経て再会した2人の姿を通して、世間からは理解されない痛切な真実を浮かび上がらせる。東京創元社によると、昨年8月の刊行で、累計部数は36万部。
 2位は小川糸さんの「ライオンのおやつ」(ポプラ社)、3位は砥上裕將(とがみ・ひろまさ)さん「線は、僕を描く」(講談社)。翻訳小説部門は韓国の作家、ソン・ウォンピョンさんの「アーモンド」(矢島暁子訳、祥伝社)に決まった。
 新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、今年の発表会は受賞者や報道関係者も出席しない無観客で実施。発表会の様子を撮影した動画が7日午後に大賞の公式サイトで配信された。

 

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2020年4月 7日 (火)

文芸時評3月「東京新聞」(3月31日)=佐々木敦氏担当・最終回

(抜粋) 砂川文次「臆病な都市」(『群像』4月号)は「新型感染症」をめぐる物語である。だが今現在、世界中で猛威をふるっている新型コロナウイルスのことではない。舞台は今から数年後、「K」は「首都庁」に勤める若手官僚だが、現実とは組織の名称などが変えられており、一種のパラレルワールドのようである。物語は「鳧(けり)」が媒介する新型感染症の発生が疑われるところから始まる。早々に専門家から事実無根の風説であることが示され、Kたち役人も最初はことを軽視しているのだが、市民からは不安の声が次々と上がり、国と都の方針に反して或る自治体が独自の対策を打ち出したことから、行政も対処をせざるを得なくなる。その結果、存在しないはずの新型感染症が不気味なひとり歩きを始める。
 主人公の名前といい、官僚機構のナンセンスな駆動ぶりといい、現代版のカフカを志向した作品であることは間違いない。だが読み進んでゆくと、この小説が撃とうとしているのは、統治する側よりもむしろ「民意」の暴走であるらしいことがわかってくる。後半、状況はどんどんエスカレートしていき、ディストピア的な世界が現出する。私が考えてしまった「余計なこと」というのは、それが現在の状況を反転したネガのように見えてくるということである。この小説では存在しない病気が在ることになっていくのだが、この国では現在、明らかに存在している病気を見えにくくしようとするメカニズムが働いているように思われるからである。これは作者の意図したことではないかもしれないが。
 劇作家の松原俊太郎による文芸誌初小説「ほんとうのこといって」(同)を興奮しながら読んだ。松原は過去に「またのために」という短編小説を発表しているが、前作をアクロバティックな助走とすればこれは大胆不敵な跳躍である。「淀川河口付近の緑地の堤防」で「イヌ」が「発見」される。イヌというから犬だと思ってしまうが、イヌは年齢不詳の男性のヒトであり、駆けつけた警官の人差し指を顛(か)みちぎって現行犯逮捕される。イヌは右目の視力がなく、左目もほとんど見えていないようだ。取調室で「私」がイヌから聞く長い長い身の上話(?)が、この小説の内容である。
 岸田國士戯曲賞の代表作「山山」にも顕著だが、松原は物語の結構よりも「台詞(せりふ)=声=言葉」の濃度と速度と強度において際立った才能を発揮する劇作家である。その天分は小説にも遺憾なく披露されており、とりわけ前半、イヌが異常に猜疑心(さいぎしん)の強い恋人かさねとの顛末(てんまつ)を語るパートの壮絶にして切実な滑稽さには舌を巻いた。最後まで読んでも多くの謎や隙間が残されるが、そんなことは全然気にならない。こういうわけのわからない、だが凄(すさ)まじく面白い「小説」を、もっと読みたい。
◆「文芸誌」にこだわって
 さて、私が本欄を担当するのは今回が最後である。ちょうど丸五年間、私はこの時評を敢(あ)えて「文芸誌」の「小説」に対象をほぼ限定して執筆してきた。文芸時評にはいろいろなやり方があり得ると思うが、私が選んだのは、ある意味で最も狭いアプローチだった。なぜそうしたのかといえば、文芸誌(の小説)はなかなか読まれないからである。この選択にどれほどの効果があったかはわからないが、自分としてはこれでよかったと思っている。文芸時評を降りることにした理由は複数あるが、そのひとつは初めての小説「半睡」(『新潮』4月号)を発表したからである。さまざまなジャンルで長く批評をやってきたが、これをきっかけに私は今後、創作をしていくつもりでいる。つまり評する側から評される側になったのだ。だから文芸時評はひと区切りつけるべきだと考えたのである。ご愛読、ありがとうございました。(ささき・あつし=批評家)
 *佐々木敦さんの文芸時評は今回で終わり、四月からは文芸評論家で明治大文学部専任准教授の伊藤氏貴(うじたか)さん=写真=が執筆します。 伊藤さんは一九六八年、千葉県出身。二〇〇二年に「他者の在処(ありか)」で群像新人文学賞(評論部門)受賞。一四年から「高校生直木賞」実行委員会代表を務めている。著書に『同性愛文学の系譜』『告白の文学』『美の日本』など。
松原俊太郎「ほんとうのこといって」 砂川文次「臆病な都市」 佐々木敦

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2020年4月 5日 (日)

文芸同人誌「R&W」第27号(名古屋市)

【「風の居場所」霧関 勉】
 こども食堂「まどか」を運営する5人の大人たちと、そこを頼りにする子供たちの姿をそのまま描く。純文学的な主題で、しかも登場する子どもたちの境遇のそれぞれを、自然な感じで表現され、興味を誘った。食堂の運営の手順などは、体験したのか調査したのか判らないが、自分には参考になった。子供たちの置かれた、それぞれの辛い事情も説得力がある。現代の大人と子供の諸問題を表現することそのままが、ケースバイケースの形で問題提起になっている。ドキュメント性とと文学性の面で現代的である。
【「指と耳朶」小路望海】
 生まれつき、片手の指が足りない兄と、小さく変形した耳朶の妹が、親の遺産で一軒家に住む。兄は大学を卒業して、4年程働くが、それから引きこもりになる。語り手は妹で、兄と妹の彼氏の三人と自分の関係を語る。このような設定を考えたのは、面白い。ただ、それが人間の生来の何かが欠けている意識とそれにつながる行動をする人物としての色合いが弱い。これも現代性があるので、そこが惜しい。
【「御伽草子」寺田ゆうこ】
 古典の現代語翻訳で、<妬忌~1・2>は、妻を残して都に出た男が、好き勝手に過ごした上、家に帰る。妻が居なかったが、しばらくすると姿を現し、待つ身の辛さ、恋しさを訴えて激しく夫婦の営みをする。そして、朝に目が覚めると白骨が横たわっていた。2章は、そこで霊力に目覚めた男が、薬師として、嫉妬心がもとで愛人と寝ている夫を、恨みの霊力で殺してしまった妻の相談に乗る。出典は「雨月物語」と「今昔物語」。その他、古典から取り出した生と死の世界のつながりの話で、物語の面白さを楽しめる。
【「般若は知っている」松本順子】
 夫婦で探偵事務所を経営している。そこで、依頼人がやってきて事件を調査する。同人誌作品のなかでは、かなり長く中編に属する。最後まで書き切ったのは、根気の良さが感じられる。いわゆるミステリーのタイプには、謎解きものと、ストーリ―を追う物語ものとがある。この二つの手法が混在してしまって、容量を得ない趣味的作品になっている。それと苦し紛れに視点を移動させるなど、手際が悪い。特に、同人誌作品に多いエッセイ、生活日誌的な書き方なので、文章と語る内容が合っていない。とは言え、趣味的自己表現のものと割り切ってしまえば、これでよく書けているといえる。
【「人々、そして映画たち」渡辺勝彦】
 以前は、社会派的な内容の作風で力んだものが多かったが、ここでは、肩の力を抜いて、自然体で過去の出来事や映画と人間的な成長について語る。自分より年齢が4、5才若いようだが、同時代性をもった味わいを感じて、大変面白かった。本誌は、自分が読み始めたのは3号くらいの初期であったろう。そのころは、作家志望のモチベ―ショウンがあったのと、自分は事務所をもっていたので、本サイトを読んでの渡辺氏への住所問い合わせが、多くあって記憶しているような気がする。あの頃は、自分も出版社に原稿を買ってもらったりしていて、業界の動向がわかっていたが、今は現代の世相すら把握できず、作家業は隠居してしまった。そうなると、編集者に気に入るような、とか、読者が驚くような仕掛けをーーといった書くモチベ―シュンも失われてしまっている。作品紹介が遅くなったのは、自分はどういうポジションで、読み紹介文を書くか、考えてしまっていたからである。
ーーその他、すべてに眼を通しているが、名古屋「朝カル」の藤田充伯講師・小説教室の作品テキストでもあるようなので、「みな読みました」で済ませたい。
発行所=〒460-0013名古屋市中区上前津1-4-7、松本方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2020年4月 4日 (土)

文芸時評4月(産経新聞)石原千秋氏

 今月どこか気になるところがあったのは田中慎弥「完全犯罪の恋」(群像)だ。小説で人を自殺に追い込む物語である。登場人物の田中は、上級生の森戸を、好きだった高校生の真木山緑の恋人だと思い込んだ。そこで次のように伝えろと言う。「ほんとに三島由紀夫が好きなんやったら、お前のことがほんとに好きなんやったら、三島とおんなじ死に方、してみいって」と。しかし、緑はそれを伝えず、後に自殺したのは緑自身だった。緑の娘である静という女子大生と作家になった田中とのやりとりが、というか田中の心を先取りするようにけんか腰で話す静がとても魅力的なだけに、後半になって、田中が郷里の下関での講演のあとに、聴きに来ていた森戸と話して種明かし気味になってしまうのは、残念だ。この小説の着想が、静を殺してしまったようだ。こっちが「完全犯罪」? まさかね。《参照:【文芸時評】4月号 民主主義を守るために 早稲田大学教授・石原千秋

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2020年4月 3日 (金)

WEB同人文芸「熱砂」と当会について

 「季刊文科」80号に同人誌運営者の情報提供欄がある。そこにWEB雑誌「熱砂」の運営者・伊神権太氏の活動ぶりが紹介されていた。「季刊文科」は、会員購読制をとっていて、1年分の雑誌の購読料金は、6000円程度であるが。それを維持するための資金不足を補うために、それに同調する購読者は4000円を寄付するという形で1万円を支払うという共済的なシステムとっている。共済的なプラス料金は、希望しない人は6000円でも購読できる。さらに同人誌参加者の原稿を優先して掲載しているようだ。その同人誌運営者の欄に「熱砂」の紹介があった。そのような形式にのものがあるのを知らなかったので、驚くと同時にサイトを運営するモチベーションの高さに感心した。このなかで、活字本の販売の宣伝にどれだけちっからを入れ、成果が上がっているのかに関心を持った。自分は、ネットサイトは、自分の本を宣伝して、文学フリマで販売するのを基本的にサイト設計をしている。実際に数は少ないが、毎回ぼちぼち売れている。短編評論を同人誌に書いたら、フリマで自分の書いたものを付箋をつけて、注目されるようにすると、その同人誌も売れる。そうできるように意識したものを書いている。《参照:文芸同志会のひろば》ただ、コロナにかかっかったら、死ぬと思っているので、目下のところは販売を中止している。注文があたっとしても、死んでいないかも知れないからだ。

 

 

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2020年4月 2日 (木)

西日本文学展望「西日本新聞」3月30日(月)朝刊=茶園梨加氏

題「風土と方言」
冒頭、日巻寿夫さん「終わらないジェンガ」の第50回九州芸術祭文学賞最優秀作受賞と古川真人さん『背高泡立草(背高泡立草)』の芥川賞受賞に触れる。
あびる諒さん「漆の贅」(「詩と眞實」849号、熊本市)、島夏男さん「和江婆」(「照葉樹二期」17号、福岡市)
椎窓猛さん「イノシシ退治は苦笑い」(「九州文学」49号、福岡県中間市)、水木怜さん「やまぶき」(「照葉樹二期」17号)
随筆から、屋代彰子さん「芽生えのとき」(「九州文学」49号)、高野藍さん「魔の285A」(「照葉樹二期」17号)
《「文芸同人誌案内・掲示板」ひわきさんまとめ》

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2020年4月 1日 (水)

同人文芸の二つの機能

 「K」という生活作文的雑誌の話が、面白いかどうかはわからないが、まだ伝えてもいいかな、と思うことがあるので、続けて見る。自分は普通の人が、物を書くのは、作文に神経を注いでいる間の無心な充実感だと思う。それから誰かにそれを伝えたいと感じても、一人で雑誌を作るのは経費の負担が大きい。そこで同人仲間を造れば、費用分担になるし、読者になってくれる。実際に、「K」の会は、H女史の指導によって一時、250人にもなり、新年会をやることにしたら、当時の上野の会館を借り切って満席だったっという。しかし、その割には雑誌「K]に寄稿する人は毎月30人程度だったので、会費が余り、それを印刷費にあてたから、掲載者の負担を軽くできた。20年間400字を300円でやっていた。書きたい人の共済システムが機能した。そういうものであったので、時代がかわり経済成長時代になって、夫人も恒例になり、役割を終えたとして、その時点で解散した。それまでの間に、作文の会から、純文学で新潮文学新人賞をもらった人が出た。たしかに、純な心で自らの心情を吐露したものは、みな美しい文章でそれを書いていた。その時代の人たちのような文章に、現在文芸同人誌で出会うことはない。自分より少しはましであるにしても、濁りがある。自分は、H女史の指導によっても文才のなさを実感してきたので、いまでも、文章感覚の優れた人のものに気持ちを惹かれるし、敬意を抱かざるを得ない。H女史が、会を解散したので、残った会員たちが「砂」という同人誌を始めた。自分は、すでにメーカーのPR誌や団塊の世代の商品販売プロモーションカタログ説明などに時間がとられ、そのいきさつは知らない。ただ、「砂」を運営している女性から、H女史が、自分のことをしきりに話題にしていいたという。そこで、運営者がその男を入れないのは、「砂」の存在が、「K」の継承と認められないのではないか、と不安になるので、入会をしてほしい言ってきた。自分は、原稿を書かない人でも、会費を納め共済的なものを維持するなら良い、と入会した。その時には、「砂」には江戸川乱歩に認められ「宝石」に作品を書いている笹沢佐保と同期の人もいた。この同人文芸のシステムの維持のためには、書かないで長年会費を納める人がいないと、会費が蓄積できず破たんする。「砂」の時代には、掲載費が安いので入会して大量い書いて、すぐやめてしまう人が続出した。心の濁った人たちの文芸の時代になったと、いまでも怒りを覚える。「砂」とは付き合うだけの関係が続いた。

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