読者は一人でよい。書くことそのもので心を満たす。
「K」という同人文芸誌は、書いた会員には、主催者H女史が必ず寸評をくれ、文章の直し方を教えてくれたものであった。そのため会員は全国に増えていった。おそらく、会員の多くは、H女史に向けて心の打ち明けていたのであろう。記憶では内容は、戦後、食糧不足のために郊外に自分の着物とイモ類の交換に出たところ、尋ねた農家の男に身体を要求され、やむを得ずそうした、というような懺悔と屈辱と後悔の念を吐露したようなものもあった。書き手にとって、読者は女史ひとりでよかったのであろう。男性の会員も増えて、リヤカーで野菜の移動販売をして家計を支えている話などもあった。合評会のようなものも行っていたが、自分は時間が取れず、参加することは少なく、自分の都合のよい時に主催者宅を訪問して、個人的に会合の様子を聞いていた。同時に、女史の夫である職業作家のS氏も席に加わることがあって、S氏とも親しくなった。そのうちに作家のS氏の指導を受けたい、という会員も出てきたらしく、「K」という会員のなかに、作家志望者派と、生活作文派が別々の雑誌を発行するようになったようだ。そこから、S氏を中心とする集団ができ、自分もそこに誘われ中編小説を書いて提出した。そうしたらS氏は「君はねえ。プロットなどドラマ性をもたすのは、いいが、文章が下手だね。文章が下手では、もうだめだよ」と言われた。たしかに、周囲の人と比べても、文才はがないのがわかった。そのことで、自分の物書きの原点が生まれた。文才がないのであるから、どうして文才のある人と対等なものを生み出すか、という方法意識である。それから自分は、夜間大学に通いながら、通信社や新聞社でアルバイトをし、10年ほどして、結婚したが、仲人役をその作家夫妻にお願いした。その時に、S氏は「文才のない人間が、物書きの世界に入ったのは不思議だ」というような話をされたのを覚えている。
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