同人文芸の原点は、心の空虚を埋める役割
文芸同人誌が職業作家になるための手段というイメージがになったのは、近代(モダン時代)のことで、そのいきさつがわかるのが、菊池寛「無名作家の日記」であろう。ここでの肝は、次の終章にある。---そうするとシェークスピアの戯曲や、ミケランジェロの彫刻は蚯蚓にわらわれるかも知れない)なんという痛快な皮肉だろう。天才の作品だっていつかは蚯蚓にわらわれるのだ。まして山野なんかの作品は今十年もすれば、蚯蚓にだってわらわれなくなるんだ。《参照:無名作家の日記 (14・完) 菊池寛 》文芸が社会における自己存在の証明として利用されていることがわかる。ところが、自分はこの作品の存在は、同人誌の存在を知るずっと後から見つけたのである。1957年頃、17、8才であったが、詩を書いていて、それは萩原朔太郎の真似たものを書きたいと思い、詩と作文を教えるという女流作家のもとを訪れた。すると、ご主人も直木賞候補に幾度もなったが受賞することなく、講談社に大衆小説を、新潮社に戯曲などを発表する職業作家であった。だが、その夫人であった先生は、婦人公論などにも執筆していて、感じることがあったという。それは、なにかというと、「あなたはわからないかもお知れないけれど、米国との戦争に敗れて、食うや食わずの生活に追われて、家庭を守ってきた主婦の方々はね、衣食住が整うと、いったい自分の人生って何だったのだろうと、心に穴が空いたように、空虚感に悩まされているの。その女性たちのために、生活のその思いを、作文したものをガリ版の小雑誌しているの。」というのであった。そして、そうした原稿をもっと集めるために、新聞の読書欄に原稿募集をかけたのだという。「あなたは、女性の名だったので、彼女にしようとでも思ったのでしょうけど、母親みたいなもので、残念でしょうね。でも、あなたの持ってきた詩はは、まあ、朔太郎には似ても似つかないものだけど、良い出来ですよ。会員になって、発表しなさい」。「はあ、苦しい時期をの乗り越えると、心が空虚になるのですか」と応じたものだった。(あとになって、それがポストモダンの始まりであったと思えるのだ)。その後「K」という同人誌文芸として、存在感を高め、生活日誌の発表誌として、拡大していった。無着成恭の「綴り方教室」の熟年版であったとも言える。それが、の同人文芸の本質であると思うのである。
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