文芸時評1月「東京新聞」(1月30日)ー佐々木敦氏
第百六十二回芥川賞は古川真人(まこと)「背高泡立草(せいたかあわだちそう)」(『すばる』2019年10月号)が受賞した。作品については初出時にこの欄で取り上げたので、あらためては述べない。古川氏は四度目の候補作での受賞であり、今回の中では最多ノミネート保持者だった。その意味では順当な結果と言えるかもしれない。
話題にしたいのは、選考委員を代表して受賞作決定直後に会見に臨んだ島田雅彦氏が、あやうく受賞作なしになりそうだったのをなんとか回避できた、という主旨(しゅし)の発言をしていたことである。芥川賞の選考会では、審議に入る前にまず一回目の投票を行うのだが、今回はその結果が非常に厳しかった。それでも受賞作を出すべく議論を続け、どうにか最終的に「背高泡立草」に受賞を可とするだけの票が集まった、ということであった。
実は同様のことは文芸各誌の新人賞の選考過程の説明でもしばしば述べられている。賞であるからには受賞作を出すことが基本的に望ましいことは確かである。選考会に至るまでには幾つもの審査の過程があり、そこをくぐり抜けて候補となった作品の中から相対的に最も優れた作品を選出するのが筋なので、受賞作なしは事前審査と最終選考の間の乖離(かいり)を示すことになる、という見方もあるだろう。もっとドライなことを言ってしまえば、賞に掛かる費用対効果的にも受賞作を出さないのは好ましくない。
とはいえかつては芥川賞も「受賞作なし」は結構あった。一九八〇年代には全二十五回中、九回も「受賞作なし」だった。これが一九九〇年代になると三回に減り、二〇〇〇年代には一回、二〇一〇年代も一回となっている。第百四十五回以後「受賞作なし」は一度もない。これはやはり多少無理をしても受賞作を出すことを是としてきたという事実を示すものだろう。先の島田発言も、このような経緯を踏まえてのものだったと考えてよい。私も基本的に賛成である。
「受賞作なし」がまずいのは、ひとたびそれをありにしてしまうと、ことによると連続しかねない、という暗黙の危惧があるからではないか。いや、実際にはそうはならないだろうが、しかし「受賞作なし」の次の受賞作は、理屈の上では前回の候補作全部との比較に晒(さら)されることになる。だからいったん受賞作を出さなくてもよい、という選択を認め始めると、自然と次第に選考は厳しくなっていかざるを得ない。
考えるべきなのは、相対評価か絶対評価か、ということである。
私の考えでは、文学などの芸術にかんして絶対評価を設けることは本当は不可能だし、設けるべきではない。だがそんなものはない、と言ってしまうことがむつかしいのも事実である。「受賞作なし」とは、候補作の中で相対的にはいちばん優れているとされた作品でさえ受賞には値しないと判断された、ということだから、絶対評価的な規準(きじゅん)がほの見えてくる。そして、そういう考え方が前面に出てきたら、受賞に値する、という評価は、どんどんハードルが高くなっていくことだろう。ある意味では、厳しくしようと思ったら、いくらだって厳しく出来るのだから。選考委員が全員一致で価値や才能を認めるぐらいでないと受賞に値しない、これが絶対評価である。問題は「賞」というものが、そういう文句なしの傑作のみを送り出すためにあるのかどうか、ということであり、これは意見が分かれるところだと思う。
『すばる』2月号で「すばるクリティーク賞」が発表されている。結果は設立以来初の「受賞作なし」である。先々月になるが「群像新人評論賞」も「受賞作なし」で、それを承(う)けて『群像』2月号では選考委員の東浩紀、大澤真幸、山城むつみによる座談会が掲載されている。公募と候補選出は違うし、創作と評論では事情が異なるところもあるだろうが、「受賞作なし」が続いていることが気になる。芥川賞もそうなるところだったのだ。とはいえ「無理をして受賞作を出した」という島田氏の正直過ぎる発言には正直驚かされた。
《参照:芥川賞「受賞作なし」回避 そぐわぬ絶対評価 厳格化防ぐ判断は妥当 佐々木敦(ささき・あつし=批評家)》
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