幼少期の経験を反映ー同人誌作品で読み取れる
長々と連載で再掲載してきた。実質的には今回で伝えるべきことは終わっている。あとは吉屋信子の山田順子論である。その表現力の巧さで、これは自分の論より数倍面白いと思って、取り上げなかった。ところが、修正前の作品を読んだ読者から、吉屋信子の評論を扱っていないのは、バランスを欠く、追加して書き直した方がよいと、その部分をコピーして送ってくれた。そこで、この章のあとに追加しただけである。《参照:徳田秋声「仮装人物」が描く山田順子の人間性(15)伊藤昭一 》自分は、送られてくる文芸同人誌の作品を読むときは、この評論のような読み方をしている。その人が人生で、どのような発想で生きてきたかを、推察する。そのため、それが作文であるか、文章芸術の範囲であるかは、匂わすが、批判的なことはしない。人生いろいろ事情によって成り立っているからである。もともとこれを書くヒントになったのは、「文芸時事月報」を発行している時に、著作権の侵害問題で記事の概要を書いて、販売するのは(当時は、新宿「模索舎」と中野「タコシェ」で販売していた)けしからん。使用料を払えという訴えがあったからである。そこで、近所にいた評論家の浜賀知彦氏に相談したりした。その基準を話し合っているうちに、「馬込文士村」を書いた榊山潤の夫人の話が、地域誌に掲載されていることを知り、それを読んで、世界文学の潮流と日本の文学との関係を結びつけるヒントになった。それはともかく、著作権の問題は面倒なことが多く、このブログに広告が出ないのは、非営利活動なのを明確にすることで、文句が出にくくするためである。
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