文の修業は観方の修業
徳田秋声の描き出した山田順子の人物像によって、幼少期に周囲から愛情を豊かに注がれて育つと、卑屈になるという姿勢がとれなくなる。自分に絶望することができない性格を育てるということを指摘している。《参照:徳田秋声「仮装人物」が描く山田順子の人間性(12)伊藤昭一》つまり、子供が生まれたら、充分かわいがり、ちやほやして育てれば、人間性が豊かな人間になる可能性をもつー、ということだ。自分には、二人の子供がいるが、2番目は最初の子が物心の付き始めた時期に生まれた。そこで失敗をしていた。生まれたばかりの子供は何してわからないのだから、そこはいい加減にして、最初の子供に最大の関心をもって、第一にかわいがるべきだった。上の子から、あの時は、両親の愛情を取られたともって、寂しかった。赤ん坊の妹が憎くなって、大嫌いだったーーときいた。なるほどと、それからは、人の性格をみるのに、この人は愛情が足りて育ったか、愛情不足の育ちをしたかーという観方をすりようになった。徳田秋声の「仮想人物」の表現法のポイントを強調しているが、そういう観点を与えてくれる書き方だと思う。この評論はその意味で役に立つと思う。そこに、書くモチベーションがあるので、読者から多くの助言をもらえて、それを取り入れた結果、長くなったのでである。菊池寛は「文章読本」(モダン日本社)で、「観方の訓練」として、「文の修業は観方の修業」としている。この観方の視点を自分は重要視する。ものを書くときに、書くことがないのに、無理にかいている事態は多くの人に見られる。そのことを自分で意識するかしないかが、観方を造るひとつの要素であろう。
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