文芸同人誌「海」第100号(いなべ市)
【「エスケープ」川野ルナ】
三紀由良という女性の「私」は、大学卒業後、勤め続けた小さな印刷会社が倒産してしまう。失業してやっと、再就職したのが、TKソリュ―ションという印刷会社。石川県にクライアントの会社があって、そこに出向した形になるらしい。そこでの、理不尽な仕事ぶりに、ふりまわされる。たまらず、逃げ出す。作業の手順のおかしさや、勤め先の社長や社員の行動の矛盾が、細かく描かれているが、必ずしもブラック企業ではないらしい。ただ。変な会社から脱け出したという愚痴に近い話だが、退社の意思を伝達する代行業が流行っているというから、時代を反映しているようだ。会社の使用人としての立場の発想の典型として、貴重な表現になっている。ただし、自分が現役でビジネス社会にいた頃は、まず就職してからも、会社の経緯状態を観察し、約束した報酬が得られるかを判断して、話が違った責任者と話をし、うまくいかなかったらすぐやめていた。かつて年越し派遣村を取材した時に、なんでそんな不利な契約をしたのだろうと、不思議に思い、調べて社会が変化していることを実感した。自分の社会観察の資料となる作品である。
【「老日模様」紺屋猛】
老後の夫婦の生活ぶりと、若い頃の思い出話が混ざり合って、ご長寿時代になすまし詐欺など、どんな出来事に見舞われるかを語ったもの。現在は人生の終末を意識しながら、若い頃の仕事ぶりなどを語る。淡々として、共感ができる。人さまの生活ぶりは、読んでいて興味深いが、勤め人時代と、現在の老年期がまじりあっているため、小説としては散漫になっている。
【「貝楼岬」白石美津乃】
日本の周辺にある小じんまりした島での話。そこの夏のイベントのアルバイトに、短大2年の女子大生が応募して、島に渡る。そこに関口さんという夫婦がいた。島の出身ではなく、何か事情があって、ここで生活しているらしい。夫の関口さんがダンディで恰好がよい。イベントが終わって島を出てから。時間を置いて、再び島に行ってみると、すでに関口さんという魅力的な夫妻は、すでに島にいなかった。いわゆる、ひとつの異世界に近い雰囲気を、架空の島をもって表現し、軽快な明るさをもった、作品にしている。同人誌作品らしくない、明るい開放的な語り口感覚が生きている。
【「姉」宇梶紀夫】
農民文学賞受賞作家である。相変わらず、手堅い。読むたびに、その姿勢に感銘させられる。そつのない語り口で、自在な文章。姉の人生をたどり、終末を語って味わい深いものがある。直樹という弟が、姉の子供と野球見物をする。語りどころでは、場面を具体的描いているので、読みどころの濃淡がはっきりし、味わいが生まれている。
【「水郷燃ゆー長島一向一揆異聞」国府正昭】
織田信長の各地制圧の過程で、浄土真宗の信徒の多い長島城の地域一帯の僧兵や武士、農民が激しく抵抗する様を描く、歴史小説である。権力者である信長の徹底した宗教抑圧には、現代にも通じるものがある。人間性の考察のヒントになる。文学性を増すのに、阿弥陀信仰と共同体の存続にかける精神をえがければ、最高であろう。
発行所=三重県いなべ市大安町梅戸2321-1、遠藤方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。
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