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2020年2月29日 (土)

文芸技法・小説の書き方=穂高健一

   現代的な小説と自己表現のでの作文の分類がここにある。《「穂高健一の文芸技法・小説の書き方」② 「わたし、書きたいものが一杯あるのです」》。穂高氏は、文章教室の講師もしているので、このようなコツを披露している。自分も読んで参考になるが、やはり「伊藤桂一小説教室」で学んだことと共通するものがある。ここでは、自己表現の範囲の作文は、対象外となっている。広く読者を獲得するための小説のノウハウである。ところが文芸同人誌には作文が圧倒的で多く、その場でで作文家を除いたら、同人雑誌成立し難い面がある。そういう意味で、自己表現としての作文を避けることはしていない。ただ「この作者は小説を書いたとおもっているらしいな」という感じはする。自分は、作文家であるのか、と教えられたのが、以前いに住んでいた地域新聞に、その街の情景を描く作文を書いていた時代のこと。近所の立ち飲み屋に寄ったときに、そこの女将さんから、「あなたの作文、読んでますよ。いいですね」と言われた時である。自分は散文詩の一つの手法を使ったともりだったが、なるほど、自分は作文家であるのだなと納得した。 

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2020年2月28日 (金)

人混みを避けた外出の川辺歩き

 コロナウィルス汚染の蔓延防止で、やたら人の集まる場所にはいかない方がよい、という世間の気分に合わし、最近は多摩川を歩く。そこで、堤防強化工事をしているのを見た。《参照:「矢口の渡し」旧跡付近多摩川築堤で「鋼矢板」工事が進捗 》これは土盛した堤防の下部に、鋼板を打ち込む工事である。これは、昨年各地で堤防が破れて洪水被害を生じたことの原因からきた対策であろう。全国的にこれを行うと、今年の台風シーズンも少しは安心なのであるが。それにしても、木にひっかかった草や枝の様子は、よく見ると芸術的である。こんどは、その側面から流木をみるために歩いてみよう。

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2020年2月25日 (火)

文学作品創作の原点=品質と読者数とは関係が薄い

  菊池寛の出世作「無名作家の日記」を詩人回廊に連載しているそこには「創作ということが、ある人々の考えているように絶対のものなら、なぜに人はただ創作するだけで満足することができないのだろう。佐竹君のごときは、六百枚の長篇を書き上げたことそのものによって、十分芸術欲を満足していなければならないはずだ。」《参照:無名作家の日記 (12) 菊池寛 》とある。現代では、純文学作家の多くが、大学などへ勤務している。自分は「文芸カラオケ化の分析」(「文学が人生に役立つとき」)の著作の前知識として、読んでいてほしいので、連載をしている。青空文庫で読めるものなので、著作権にかかわらない。

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2020年2月24日 (月)

幼少期の経験を反映ー同人誌作品で読み取れる

 長々と連載で再掲載してきた。実質的には今回で伝えるべきことは終わっている。あとは吉屋信子の山田順子論である。その表現力の巧さで、これは自分の論より数倍面白いと思って、取り上げなかった。ところが、修正前の作品を読んだ読者から、吉屋信子の評論を扱っていないのは、バランスを欠く、追加して書き直した方がよいと、その部分をコピーして送ってくれた。そこで、この章のあとに追加しただけである。《参照:徳田秋声「仮装人物」が描く山田順子の人間性(15)伊藤昭一 》自分は、送られてくる文芸同人誌の作品を読むときは、この評論のような読み方をしている。その人が人生で、どのような発想で生きてきたかを、推察する。そのため、それが作文であるか、文章芸術の範囲であるかは、匂わすが、批判的なことはしない。人生いろいろ事情によって成り立っているからである。もともとこれを書くヒントになったのは、「文芸時事月報」を発行している時に、著作権の侵害問題で記事の概要を書いて、販売するのは(当時は、新宿「模索舎」と中野「タコシェ」で販売していた)けしからん。使用料を払えという訴えがあったからである。そこで、近所にいた評論家の浜賀知彦氏に相談したりした。その基準を話し合っているうちに、「馬込文士村」を書いた榊山潤の夫人の話が、地域誌に掲載されていることを知り、それを読んで、世界文学の潮流と日本の文学との関係を結びつけるヒントになった。それはともかく、著作権の問題は面倒なことが多く、このブログに広告が出ないのは、非営利活動なのを明確にすることで、文句が出にくくするためである。

 

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2020年2月20日 (木)

文芸同人誌「海」第23号(太宰府市)

【「喫水線」有森信二】
  因習の残る時代のある島の家族の話である。あとがきには、看護師を看護婦としていた時代と説明がある。一昔前の、核家族の進行している時期であろう。話は語り手が二男で、未婚。実家に家族と住んでいる。話は、家長で高齢の父親の重病とその手術の様子を描き、そのなかで家族と島の住民共同体の姿が浮き彫りにされる。長男の俊一は、結婚し家を建ててしまっている。本来は、長男が実家に残り、次男が家を出るのか普通であった。そのパターンが崩れている。作者は、家父長制度のなかの土地柄と村のとの人間関係、それに気を使う家族像を描く作品を多く描く。核家族の進行する現代への移行する過程を想像させるが、それが過去の否定なのか、ノスタルジアなのか、混迷する現代社会の捨てたものの中に、失われたものを照らし出すような、微妙な読後感を残す。
【「エゴイストたちの告白-第一話 センナヤ広場の地下から」井本元義】
 これは、純文学のうち、特にドストエフスキーの愛読者に特化した作品である。登場人物は語り手の年配紳士と、彼の双子のような雰囲気の紳士との関係をミステリー風に絡ませる。密度の濃い落ち着いた筆致の語りで、読む者の気を逸らさせない。見事な手腕に感銘を受ける。なかに「罪と罰」のマルメラードフを登場させたり、スヴィドリガイロフ等に筆を及ばせることで、独特の世界を作り上げている。ドストエフスキーの生み出した人間像を、現代日本に移植するような、感性は魅力的で、面白い。感服させられた。
【「友誼を断つ」中野薫】
 昭和時代のベトナム戦争反対の機運があった頃、若者であった語り手と友人の三吉の人生を描く。三吉はジャーナリストになり、語り手は警察官になる。それぞれの生活のなかで、歳を経て意見の相違から、語り手が長い付き合いを断絶することにする。今さら何の影響もない出来事だが、多くの人がそうであったのであろうと思わせる生活史になっている。
【「束草の雪」牧草泉】
 主人公の男の語り手は、高齢であるが、教師の経歴から、かつてMという女生徒と韓国行きの手配を幾度か頼んでいた。そのMと共に韓国旅行をする。Mは、事あるごとに男に迫るような雰囲気を見せる。男はそれに無関心のような振りをしながら、韓国巡りをする。韓国の事情がわかって面白い。その後、Mが癌で亡くなったことを知る。味のある作品。
【「アイツの経歴」神宮吉昌】
 車いす事故で亡くなった、息子を父親が「アイツ」と称して、その人生を語る。気持ちを全部書いてあるので、解釈を間違えられる心配がないのが長所だが、読者の気分の入る余地がないのが短所。
【「見てくれじゃないよ」川村道行】
 語りかけるスタイルのお話で、出だし好調。しかし、その後は語りが単調で、結局は最期の2頁を読めばわかる話。語りを書ききった根気に感心。
発行所=〒818-0101太宰府市観世音寺1-15-33、松本方。海編集委員会。
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2020年2月19日 (水)

「小説現代」リニューアル発行予定部数は1万部

月刊小説誌「小説現代」(講談社)がリニューアル復刊し、22日に刊行される。長編小説の一挙掲載を軸に、短編小説、エッセー、対談、特集企画など、すべての企画を毎号読み切りとする。雑誌の電子化が進む中で、塩見編集長は「紙の小説誌を読んでもらうために何をすべきかを考えた結果、読者に興味を持った号から手にとってもらえる読み切りスタイルにした」という。
 柴田錬三郎、水上勉、山岡荘八ら当時の人気作家の作品が載った1963年の「小説現代」創刊号の初版部数は21万部。68年には48万5000部にまで達したが、休刊時の2018年には1万部まで減っていた。リニューアル後の発行予定部数も1万部でスタートするが「休刊前には落ち込んでいた実売部数を大きく伸ばしたい」と塩見編集長は意気込む。
リニューアル第1号には少年犯罪を描いた小説で知られる作家、薬丸岳氏の長編「告解」を載せる。罪を犯した青年の葛藤と再生の物語だ。同作は数カ月後には単行本として刊行する。「先に雑誌に掲載することで本の売れ行きが減るのではないかという懸念の声もあるが、むしろ作品を知ってもらうきっかけになると思う。実際、第160回直木賞を受賞した真藤順丈さんの『宝島』は(リニューアル前の)『小説現代』に一挙掲載したことが、作品の魅力を知ってもらう下地作りになった」という。
 失踪者を捜す調査員を主人公とする大沢在昌氏の「佐久間公シリーズ」をはじめ、林真理子氏、朝井リョウ氏らの短編を掲載。石戸諭氏らのノンフィクション、益田ミリ氏のマンガ、お笑い第7世代と呼ばれるトリオ、四千頭身の後藤拓実氏らのコラムにも力を入れる。
  

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2020年2月16日 (日)

伝達に有効な現代的な文章と文語体

  モダンガールをモガ、モダン男はモボといった時代はまさにモダン社会である。その時代から、文学的文章は、尾崎紅葉や泉鏡花の文語体が、口語体にかわってきたようだ。徳田秋声は、その時代を潜り抜けて、現代に伝達可能な文章で表現した。当初、そのことに気付くことなく、その描写力にひかれて「仮想人物」を読み、山田順子のことに興味を持った。《参照:徳田秋声「仮装人物」が描く山田順子の人間性(14)伊藤昭一》 出来事は、現代の芸能人の男女関係のように世間から興味を引いた。いまの作家にはそのような存在ははない。菊池寛は、昭和12年にモダン日本社から「文章読本」という著書のなかで、具体的な事例で有名作家の文章を紹介し、独自の見解を述べている。そのなかで、徳田秋声については自然主義文学のひとりとして名前だけをあげて、とりたてて論評がない。菊池寛の主張には哲学的ないみづけに興味があり、徳田は無思想的なさkkとして興味を持たなかったらしい。このところ、亡くなった野球の野村克也氏の言行をビデオ記録してあるのを観た。そのかで、データー観察の要所は、味方のチームにも教えてはいけない、と悟った出来事を語っていた。自分は、このブログで、何を語ったらいのか、困る時がある。そこで、自分には、自分なりの観察の視点があり、それをただで公開する必要がないという、発想があることに、気づいた。まだ秘密事項を意識するうちは、内心で何かを書き越したいという、意欲があることであろう。

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2020年2月13日 (木)

文芸同人誌評「三田文学」2020冬季号( 柳澤大悟氏/加藤有佳織氏)

No.140(2020年冬季号)で取りあげられた作品
・宮本誠一「慰留地」(「詩と眞實」VOL.842、熊本市南区)
・飯塚裕介「小さい絵」(「新奇蹟」第九号、東京都足立区)
・秋尾茉里「季節」(「babel」第3号、大阪府八尾市)
・内藤万博「機械兵団」(「マザー・グースREMIX」大阪市北区)
・谷口あさこ「新生」(「せる」VOL.111、大阪市旭区)
・篠原ちか子「ギプスが恋人」(「風紋」第14号、富山県富山市)
・稲葉祥子「あやとり巨人旅行記」(「雑記囃子」VOL.24、兵庫県伊丹市)
・北条ゆり「十六番目」(「まくた」第二九六号、横浜市青葉区)
・秋尾茉里「動く物」(「白鴉」31号、兵庫県尼崎市)
・さあらりこ「ミル・コリンのふもとへ」(「てくる」26号、滋賀県大津市)
・桜井夏実「まだら雲」(「青の時代」第46集、北海道函館市)
・木下衣代「十年食日記」(「黄色い潜水艦」70号記念号、奈良県北葛城郡)
・花島眞樹子「うどんげの花」(「遠近」第71号、横浜市青葉区)
・垣江みよ子「父の物語」(「樹林」vol.655号、大阪市中央区)
・真銅孝「エチ蚊」(「babel」第3号、大阪府八尾市)
・堀田明日香「ペイン・スレッシュホールド」(「中部ぺん」第26号、名古屋市千種区)
・水無月うらら「可燃」(「星座盤」vol.13、岡山市北区)

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2020年2月10日 (月)

文芸同人誌「海」第100号(いなべ市)

【「エスケープ」川野ルナ】
 三紀由良という女性の「私」は、大学卒業後、勤め続けた小さな印刷会社が倒産してしまう。失業してやっと、再就職したのが、TKソリュ―ションという印刷会社。石川県にクライアントの会社があって、そこに出向した形になるらしい。そこでの、理不尽な仕事ぶりに、ふりまわされる。たまらず、逃げ出す。作業の手順のおかしさや、勤め先の社長や社員の行動の矛盾が、細かく描かれているが、必ずしもブラック企業ではないらしい。ただ。変な会社から脱け出したという愚痴に近い話だが、退社の意思を伝達する代行業が流行っているというから、時代を反映しているようだ。会社の使用人としての立場の発想の典型として、貴重な表現になっている。ただし、自分が現役でビジネス社会にいた頃は、まず就職してからも、会社の経緯状態を観察し、約束した報酬が得られるかを判断して、話が違った責任者と話をし、うまくいかなかったらすぐやめていた。かつて年越し派遣村を取材した時に、なんでそんな不利な契約をしたのだろうと、不思議に思い、調べて社会が変化していることを実感した。自分の社会観察の資料となる作品である。
【「老日模様」紺屋猛】
 老後の夫婦の生活ぶりと、若い頃の思い出話が混ざり合って、ご長寿時代になすまし詐欺など、どんな出来事に見舞われるかを語ったもの。現在は人生の終末を意識しながら、若い頃の仕事ぶりなどを語る。淡々として、共感ができる。人さまの生活ぶりは、読んでいて興味深いが、勤め人時代と、現在の老年期がまじりあっているため、小説としては散漫になっている。
【「貝楼岬」白石美津乃】
 日本の周辺にある小じんまりした島での話。そこの夏のイベントのアルバイトに、短大2年の女子大生が応募して、島に渡る。そこに関口さんという夫婦がいた。島の出身ではなく、何か事情があって、ここで生活しているらしい。夫の関口さんがダンディで恰好がよい。イベントが終わって島を出てから。時間を置いて、再び島に行ってみると、すでに関口さんという魅力的な夫妻は、すでに島にいなかった。いわゆる、ひとつの異世界に近い雰囲気を、架空の島をもって表現し、軽快な明るさをもった、作品にしている。同人誌作品らしくない、明るい開放的な語り口感覚が生きている。
【「姉」宇梶紀夫】
 農民文学賞受賞作家である。相変わらず、手堅い。読むたびに、その姿勢に感銘させられる。そつのない語り口で、自在な文章。姉の人生をたどり、終末を語って味わい深いものがある。直樹という弟が、姉の子供と野球見物をする。語りどころでは、場面を具体的描いているので、読みどころの濃淡がはっきりし、味わいが生まれている。
【「水郷燃ゆー長島一向一揆異聞」国府正昭】
 織田信長の各地制圧の過程で、浄土真宗の信徒の多い長島城の地域一帯の僧兵や武士、農民が激しく抵抗する様を描く、歴史小説である。権力者である信長の徹底した宗教抑圧には、現代にも通じるものがある。人間性の考察のヒントになる。文学性を増すのに、阿弥陀信仰と共同体の存続にかける精神をえがければ、最高であろう。
発行所=三重県いなべ市大安町梅戸2321-1、遠藤方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

 

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2020年2月 5日 (水)

文芸時評1月「東京新聞」(1月30日)ー佐々木敦氏

 第百六十二回芥川賞は古川真人(まこと)「背高泡立草(せいたかあわだちそう)」(『すばる』2019年10月号)が受賞した。作品については初出時にこの欄で取り上げたので、あらためては述べない。古川氏は四度目の候補作での受賞であり、今回の中では最多ノミネート保持者だった。その意味では順当な結果と言えるかもしれない。
 話題にしたいのは、選考委員を代表して受賞作決定直後に会見に臨んだ島田雅彦氏が、あやうく受賞作なしになりそうだったのをなんとか回避できた、という主旨(しゅし)の発言をしていたことである。芥川賞の選考会では、審議に入る前にまず一回目の投票を行うのだが、今回はその結果が非常に厳しかった。それでも受賞作を出すべく議論を続け、どうにか最終的に「背高泡立草」に受賞を可とするだけの票が集まった、ということであった。
 実は同様のことは文芸各誌の新人賞の選考過程の説明でもしばしば述べられている。賞であるからには受賞作を出すことが基本的に望ましいことは確かである。選考会に至るまでには幾つもの審査の過程があり、そこをくぐり抜けて候補となった作品の中から相対的に最も優れた作品を選出するのが筋なので、受賞作なしは事前審査と最終選考の間の乖離(かいり)を示すことになる、という見方もあるだろう。もっとドライなことを言ってしまえば、賞に掛かる費用対効果的にも受賞作を出さないのは好ましくない。
 とはいえかつては芥川賞も「受賞作なし」は結構あった。一九八〇年代には全二十五回中、九回も「受賞作なし」だった。これが一九九〇年代になると三回に減り、二〇〇〇年代には一回、二〇一〇年代も一回となっている。第百四十五回以後「受賞作なし」は一度もない。これはやはり多少無理をしても受賞作を出すことを是としてきたという事実を示すものだろう。先の島田発言も、このような経緯を踏まえてのものだったと考えてよい。私も基本的に賛成である。
 「受賞作なし」がまずいのは、ひとたびそれをありにしてしまうと、ことによると連続しかねない、という暗黙の危惧があるからではないか。いや、実際にはそうはならないだろうが、しかし「受賞作なし」の次の受賞作は、理屈の上では前回の候補作全部との比較に晒(さら)されることになる。だからいったん受賞作を出さなくてもよい、という選択を認め始めると、自然と次第に選考は厳しくなっていかざるを得ない。
 考えるべきなのは、相対評価か絶対評価か、ということである。
 私の考えでは、文学などの芸術にかんして絶対評価を設けることは本当は不可能だし、設けるべきではない。だがそんなものはない、と言ってしまうことがむつかしいのも事実である。「受賞作なし」とは、候補作の中で相対的にはいちばん優れているとされた作品でさえ受賞には値しないと判断された、ということだから、絶対評価的な規準(きじゅん)がほの見えてくる。そして、そういう考え方が前面に出てきたら、受賞に値する、という評価は、どんどんハードルが高くなっていくことだろう。ある意味では、厳しくしようと思ったら、いくらだって厳しく出来るのだから。選考委員が全員一致で価値や才能を認めるぐらいでないと受賞に値しない、これが絶対評価である。問題は「賞」というものが、そういう文句なしの傑作のみを送り出すためにあるのかどうか、ということであり、これは意見が分かれるところだと思う。
 『すばる』2月号で「すばるクリティーク賞」が発表されている。結果は設立以来初の「受賞作なし」である。先々月になるが「群像新人評論賞」も「受賞作なし」で、それを承(う)けて『群像』2月号では選考委員の東浩紀、大澤真幸、山城むつみによる座談会が掲載されている。公募と候補選出は違うし、創作と評論では事情が異なるところもあるだろうが、「受賞作なし」が続いていることが気になる。芥川賞もそうなるところだったのだ。とはいえ「無理をして受賞作を出した」という島田氏の正直過ぎる発言には正直驚かされた。
《参照:芥川賞「受賞作なし」回避 そぐわぬ絶対評価 厳格化防ぐ判断は妥当 佐々木敦(ささき・あつし=批評家)》

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2020年2月 3日 (月)

編集者が不在のまま「砂」141号発行

 事情は忘れたので、詳しくはわからないが、文芸同人誌「砂」の運営者が、運営できなくなったと、急に退会してしまった。しかたなく残った会員の合議で発行された。その間に、他の会員がかなり退会してしまった。会員の高齢化で、病気になったり、亡くなった炉り、認知症になったりして、原稿が集まらず、自然に休刊や廃刊になる典型的な事例であろう。《「砂」142号を発行!以後ほぼ休刊状態に入る》伊藤は、4人の作家の談話を取材してあるので、それらの記録とその時の雰囲気を交えて話の内容を紹介した。特に辻井喬氏の晩年の談話が自分には印象深いが、現在でも課題になっている電子書籍に関する大沢在昌氏の話が一番時流に合っていると思う。ただ、枚数が多すぎるといけないと思い後半を省略した。これは、今年の春の文学フリマ東京で販売するつもりだ。

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2020年2月 1日 (土)

文の修業は観方の修業

 徳田秋声の描き出した山田順子の人物像によって、幼少期に周囲から愛情を豊かに注がれて育つと、卑屈になるという姿勢がとれなくなる。自分に絶望することができない性格を育てるということを指摘している。《参照:徳田秋声「仮装人物」が描く山田順子の人間性(12)伊藤昭一》つまり、子供が生まれたら、充分かわいがり、ちやほやして育てれば、人間性が豊かな人間になる可能性をもつー、ということだ。自分には、二人の子供がいるが、2番目は最初の子が物心の付き始めた時期に生まれた。そこで失敗をしていた。生まれたばかりの子供は何してわからないのだから、そこはいい加減にして、最初の子供に最大の関心をもって、第一にかわいがるべきだった。上の子から、あの時は、両親の愛情を取られたともって、寂しかった。赤ん坊の妹が憎くなって、大嫌いだったーーときいた。なるほどと、それからは、人の性格をみるのに、この人は愛情が足りて育ったか、愛情不足の育ちをしたかーという観方をすりようになった。徳田秋声の「仮想人物」の表現法のポイントを強調しているが、そういう観点を与えてくれる書き方だと思う。この評論はその意味で役に立つと思う。そこに、書くモチベーションがあるので、読者から多くの助言をもらえて、それを取り入れた結果、長くなったのでである。菊池寛は「文章読本」(モダン日本社)で、「観方の訓練」として、「文の修業は観方の修業」としている。この観方の視点を自分は重要視する。ものを書くときに、書くことがないのに、無理にかいている事態は多くの人に見られる。そのことを自分で意識するかしないかが、観方を造るひとつの要素であろう。

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西日本文学展望「西日本新聞」(1月31日・朝刊)=茶園梨加氏

題「集大成」
深田俊志祐さん「同志、逝く」(「九州作家」133号、北九州市)、井本元義さん『太陽を灼(や)いた青年 アルチュール・ランボーと旅して』(書肆侃侃房)
有森信二さん「喫水線」(「海」23号、福岡市)、小稲原ひろ子さん「黒糖と反骨の島から(上)」(「火山脈」25号、鹿児島市)、木山葉子さん「火鈴」(「木木」32号、佐賀県唐津市)

「文芸同人誌案内」ひわきさんまとめ

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