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2020年1月25日 (土)

相模原市の施設の殺傷事件の推論

 植松被告が法廷で、人類繁栄のためにやった、と解釈できるような、行為の正当化する発言をしたとメディアが報じている。思想としては理屈になっている。その趣旨に、反感を持って受け取った人と、戸惑いを感じる人がいることだろう。自分は、彼が物心ついた時期からその思想があったのだろうか? と考えた。おそらく、そうではないであろう。それと成人してから生活のために施設に就職したと述べた、という情報がある。生活費を得るために就職するならば、なにも施設に勤める必要はない。ほかの仕事も選べたはずである。このことから、彼はある時期から障碍者の存在を気にしていたのではないか、と推察することができる。人間は先天的に真・善・美への価値観をもつと考えられている。要するに、その価値観を感情のなかに取り込む能力をもつ。そうとすると、健常者が障害者に接した時に、なんらかの感情が湧く。まず「可哀想」。それと可哀想だが自分がそうなったら困る、いやだという、恐怖感も持つであろう。自分がひとつの仮設として考えるのは、植松被告は、自分はそうのような運命にありたくない、という恐怖感を抱えていたのではないか。その無意識の恐怖感を抑えるために、自分の納得する理屈を考え、行動したのではないか?という推論が成り立つ。実際は障害者は、人類が絶滅しないための備えとして、存在しているという発想もある。例えば、集団で多くの健常者とされる人々が、過酷な環境に置かれたとき、一斉に同じ行動をしたならば、それが誤りであったならば、全滅する可能性もある。しかし、それと全く異なる障害者とされる人がいて、行動を別すれば、その人たちは生き残る可能性がある。そのために障碍者とされる人が生まれるように、人間に仕組まれているもかも知れないのだ。近年では、福島原発事故の際、飯館村の人たちは、放射能から避難したつもりで、放射能のホットスポットに入り被ばくしてしまった。もし、放射能が強かったら、全滅していたかも知れない。しかし、そのなかに、わけのわからない障害者とされる人がいて、「自分は、そっちに行きたくない、別の方向に行く、と主張して実行したとすれば、彼は生き残る可能性があるのだ。そして、人類の存続を維持しることができる。著者宣伝サイト《「文学が人生に役立つとき」(伊藤昭一)の目次と解説

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