文芸時評・2月(産経新聞・1月26日付)石原千秋教授
人は本当に悲しい体験は言葉にできないものだ。「悲しい」と言葉にすることで、その体験から自分だけにとって意味を持つ固有性が失われ、誰もが口にすることができるあの「悲しい」という凡庸な言葉になってしまうからだ。それは自分の人生が否定されるほど辛い。しかしそのことは、誰にも伝えることができないと信じていた体験を人に共有してもらうほとんど唯一の方法でもある。そして「悲しい」というとき、「悲しい」と口にするそれぞれの人がそれぞれ人には言えないほどの辛い体験があると身をもって知ることでもあり、「悲しみ」の固有性を諦め、「悲しみ」の共同体に参加することでもある。それでようやく社会の一員に復帰できる。それは自己治癒だと言ってもいい。事実、過去を話すアラムは限りない優しさと穏やかさを得たようだ。言葉、ことば、コトバ。言葉は人を傷つけ、諦めさせ、そして癒やす。文学に関わるほどの人なら誰でもわかっていることだが、それをみごとに舞台化したと思った。
フランツ・カフカに未完の遺作がまだ残っていたらという設定の、ケラリーノ・サンドロヴィッチ作・演出「ドクター・ホフマンのサナトリウム」(神奈川芸術劇場)はこのうえなくよかった。主演の瀬戸康史は「関数ドミノ」がすばらしかったが、テレビではなく、舞台がいい。
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