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2019年12月11日 (水)

文芸同人誌の読者視線は、文字追い好き

 前欄で文げ同人誌作品の時評の仕方に違いを谷村氏が、記しているが、いわゆる大衆向きの文学作品を批評するのか、現代性を新手法で詩手法の評価をするのか、どちらかの役割を与えられていることであろう。批評者はおおよそ文学界では専門家として、依頼されるであろうから、原稿料を得ているであろう。当方も、文芸研究月報という情報紙を出している時には、出版社の動向を調べて、売り込む手立てにしてもらっていた。そのために、自分でも雑誌社に原稿を売り込み、採用されるとその状況を個人的な情報交換として聞かれた時に、応えていた。

 しかし、現在は自己表現も文学的な表現も区別せずに、気がついたところを指摘したり、紹介したりしている。新聞等の同人誌評では、自己表現ものは取り上げない。神田にフリーライター県編集者としての事務所があったときには、受付事務員がいたので、よく公共的なものとして、電話の問い合わせが多かった。また、古くからの会員支持者は、かなりの寄付をしてくれていた。いまは、認知症が進んで、1時間前に話したことを忘れてしまうそうだ。それを知らずに、何年も前から電話で連絡していたが、どうも変だと家族の方に聞いてそれがわかった。

 話が飛ぶが、「徳田秋声と山田順子」の私の評論のなかに、伊藤整が次のように秋声の文章を表しているーーたとえば「仮装人物」では作者その人である主人公の愛人であった女が、痔の手術のために入院する。その患部が主人公の眼には牡丹の花のような切開された肉として写る。その簡単な描写形式の後の何頁目かに、その女性が手術をした医者と恋愛に陥った、とこれも極めて簡単に、まるで力点というものの無い文章で書いている。すると読むものには、その残酷な対照が、作者が表現にこだわらないだけそれだけ事実だという理解から痛切に響き、生の現実のむき出しの怖ろしい感じで印象される。ーーこれが実は、現在自分が行っている作品紹介対象の文芸同人誌には、当たり前のように、わんさとみられる。徳田秋声は、新しさのある作家でもあるのだ。《参照:徳田秋声「仮装人物」が描く山田順子の人間性(1)

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