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2019年12月31日 (火)

文芸同人誌「奏」第39号2019冬(静岡市)

【「評伝・藤枝静男(第6回)」勝呂奏】読みだしたら引き込まれる、エピソードを豊富な関連文芸評論をとりあげている。よくぞ調べたと思われる資料群である。これを読んで、自分が無意志のうちに、藤枝静男の作品を読んでいることに気付いた。さらに、教えられたのは埴谷雄高の関係である。埴谷の「死霊」には「虚体論」や、「自同律の不快」など、閉塞された世界で、脳内イメージの展開があるが、それが藤枝の奇妙な死の世界へのイメージぢくりに影響を与えていたのではないかと、感じたりした。
 それと、彼を取り巻く人々に、高橋英夫、本多秋五、平野謙など、純文学における有力な評論家たちと親しかったことで、文壇という社会で一定の評価と地位を得ていたことがわかる。彼等の評価を頭にいれながら、前衛的な奇妙な発想の私小説を開拓していたことがわかる。近代文学からの文壇という作家ギルドの昭和の効用のひとつとして、藤枝を捉えることもできそうだ。また同じ作家の【『一家団欒』ノート」勝呂奏】には、日本の先祖血統重視の慣習の象徴のようである。死んだ人が先に亡くなった血族に出会うという発想にそれが見られる。自分は岸田秀の「唯幻論」に影響されているので、幻想は消えると感じている。今は、「墓じまい」の時代になっている。それはともかく、藤枝静雄の周辺と関連人物をさぐることで、戦後の昭和時代の文壇の本質に迫れる可能性もあるのではないか。
【「女たちのモダニティ(3)田村俊子『離魂』―偏在する感覚」戸塚学】これは、まだ現代のように情報ツールが発展していない明治45年の文章表現の事例である。思春期の女性の初潮の兆しを精密に表現する。この微細な表現法は、実は発達し過ぎた現代の文章表現の有り様に似ているのかも知れないと思わせる。言葉と意味の融合の原点であるのではないか。
その他、【「詩詩三篇」(ー存在移動ー月の光ー飛翔体ー)柴崎聰】音楽とのイメージ展開のひそやかな表現。/【「訳詩二篇・エミリ・ブロンテ」(ー眠りは喜びをもたらさない-共感ー)田代尚路(訳)】「嵐が丘」作者であるブロンテの内面として興味深い。現実への欲求不満的なのは牧師の娘だからか。/【「小説の中の絵画(第11回)ー宇野千代『この白粉入れ』ー東郷青児とのこと」中村ともえ】などがある。
発行所=〒420-0881静岡市葵区北安東1-9-12、勝呂方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

 

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2019年12月30日 (月)

地域商店会が同人誌コミックーマーケット大崎駅

 お台場の今年のコミケ冬は、東京オリンピック・パラリンピックの影響で期間を4日間にし、新たに建てられた青海展示棟を使って12月31日まで開催されている。大崎からのりんんかい線は、東京ビッグサイト国際展示場とテレポート駅が乗客の利用駅になった。これだけの動員客を引き寄せようと、コミックシェルターとして集客に活用している。《コミケ疲れを癒す「大崎コミックシェルター」駅前開催!》 出展者のなかには、勝った人の感想がないのが寂しいという声もあっちょうだ。

 

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2019年12月28日 (土)

西日本文学展望「西日本新聞」(12月27日)朝刊・茶園梨加氏

 題「父親」
木澤千さん「炭鉱(やま)の子歳時記」(第七期「九州文学」48号、福岡県中間市)、友尻麓さん「「赤とんぼ」(「砂時計」3号、福岡市)
寺井順一さん「真清水」(「西九州文学」43号、長崎県大村市)、野沢薫子さん「本所、深川みぞれ模様」(「長崎文学」92号、長崎市)、吉岡紋さん「線香花火」(第七期「九州文学」48号)
「あしへい」22号(北九州市)は今号で終刊。「葦平と天皇」を特集。同誌より玉井史太郎さん「手談-葦平打碁集-」
《「文芸同人誌案内・掲示板」より、ひわきさんまとめ。》

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2019年12月27日 (金)

文芸同人誌「駱駝の瘤」通信18号(福島県)

【「農を続けながら…フクシマにて‘19秋」五十嵐進】
 東電・福島第一原発事故の現場である福島県からの情報発信である。事故より8年。世は、ラグビー・ワールドカップ、オリ・パラリンピックに多くの希望があるようにして過ごしている。しかし、ここでは平成28年に逢坂国会議員が国会で提出した「原子力緊急事態宣言に関する質問主意書に」について述べている。
 自分が社会に出た時に、道具の扱いが下手で、他人の手に当たってしまった。謝ったが、その時に「怪我は自分持ちだからな」と鋭く言われたのを憶えている。政府や区がどう対応しようとも、当事者になることはできない。ここでは、ICRP(国際放射線防護委員会)の基準について述べている。この組織についての見解が国の基準作りに引き合いに出されるが、根本は核兵器、原発を普及を前提にした組織である。害があるから止めるべき、とすることはない。当事者目線での意見が述べられている。
【「福島の核災以後を追う(三)-2017年から2019年10月までを中心に」澤正弘】
ここで、説かれているなかで、トリチウムのことについて、追い書きすると、――原発が稼働すると、通常稼働でトリチウムが排出される。これは、人体に害がないからではなく、水に溶けてしまうので、除去ができないためである。世界各地の原発所在地では、癌患者が他地域の平均より多いことは、すでに知られている。また、もともと自然界に存在した物質とされるが、世界各国が原爆、水爆実験を開始後、ビキニ水爆実験などで、急激に増加したという説もある。また、親は長寿で子供はガン死するケースが増えたという都市伝説的な説もある。
【「これは人間の国か、フクシマの明日(11)―原発事故被災地は政府が恣意的に決めた範囲だ」秋沢陽吉】
 まさにタイトル通りの主張がある。政府や国の公表事項に対する不信感が出ている。風評被害とされるものは、ただの被害であるということだ。
【「煙霧中人間話」秋沢陽吉】
 オ―ム真理教の麻原の死刑から、歌人・鳥居の短歌、塚本邦雄の短歌、丸山健二、加藤周一などに関する情念にかかわる話題がある。「遊ぶ動物」としての人間性への哀しみを感じる。
【「棄民についてー野口遵をめぐる考察」鈴木二郎】
 イタイイタイ病とされた水俣病を発生させたチッソの創業者の話であった。事業家としての苦労をなめて、大企業にした結果の公害事件の裏面を描いて、興味深いものがあった。
発行所=須賀川市東町116、「駱駝舎」。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

 

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2019年12月25日 (水)

文芸同人誌「あるかいど」第67号(大阪市)

【「その風は蒼ざめていた」切塗よしお】
 中年男女の同居人関係が、女性が妊娠して結婚に踏み切るであろう、お話。物語の軸は、彼が競馬のビギナーズラックのような感じで、大当たりして大金を手にする。そこからさらに馬券を買う。書いていて張りがありそうで、退屈しないで読める。文学的にどうであるかとなると、同人誌で小説が楽しめるということが、こちらの意識に浸透してきているのかも知れない。
【「馥郁」高原あふち】
 施設に入所しているキトという80代の女性の暮らしと、その生きる姿を的確に描き、読者に襟をたださせるような趣のある作品である。感じのよい純文学作品に読めた。
【「拝啓 風の神様」木村誠子】
 敗戦後のシベリア抑留者の体験談を老人から、過酷な運命を聴く。詩人・石原吉郎論はよく読むが、彼の体験を資料にして物語を構成するのはめずらしい。
【「鼻」池誠】
 市井の近所付き合いを材料に、隣の家のトイレが汲み取り式なために、臭気出し口からの臭いに閉口して、いろいろ手を尽くし、騒ぎになる。話の運びは面白いが、汲み取り式の便所の臭気がそれほど近所迷惑になるのか、そこがあまりぴんとこなかった。
【「因縁の玉――岡っ引き女房捕物帳」牧山雪華】
 よく調べて楽しく書き上げた時代小説のようだ。であるが、登場人物が平面的。読みやすいのが長所だが、銭形平次物を途中から読んでいるような古風な感じがした。謎のつくりに工夫があるが、ミステリーは、登場人物に興味を持たせることが前提にあるのではないか。
【「塀の向こう側」高畠寛】
 昭和の戦後30年代の庶民の生活エピソード。ここにも汲み取り式トイレの話がでてくる。完全に時代小説化した、考えようでは単純な生活ぶりが懐かしくさせる。それにしても、。時代考証的に読み取ってみても、この時代のことをよく記憶しているものだ。
【「産着」石村和彦】
 肉親愛の基本は母と子である。この作品は、息子と余命短い老いた母の関係を語る。それが自然な形で語られる。認知症になった母親への思い。自分の両親はすでに亡くなっているが、そのときを思い出して、ジンとするものがあった。良い散文詩に読めた。
【「歪む」奥畑信子】
 人間は関係の存在で、そのなかで悩む。その関係を経つことで、悩みは解消するはずなのであるが、分かっちゃいるけどやめられないのが、人の性質である。また、関係が持てないとそれが悩みになる。このなかで、絡みついてくる知り合いと断絶する話。いろいろ考えさせる。
【「自作を読む」木村誠子】
 自分の作品を読むといつでも面白い。自分の心の言葉への転換作業の様子が手に取るように再現できるからであろう。ここでは、病気になった姉との関係が作品を書く動機になっていることを明かしている。米国の研究家による普通人の「書きすぎてしまう病」と職業作家の「書けなくなる病」に関する研究所を読んだことがあるが、日本人とは精神構造が異なるのか、ぴんとこなかったことを憶えている。
【「お守りの言葉」善積健司】
 人間の表現する動機と退屈心の関係に触れている。自分も表現と退屈とは関係があると思っている。
【「連想コレクション」佐伯晋】
 日ごろのインスピレーションを数行にして記録している。「はじめに」ふと何かが心にうかぶ。まだ言葉にならずふわふわとしていて、一枚の素描のようなもの。――というようなものを並べてある。小説化だけが文学ではないことを示している。
発行所=〒545-0042大阪市阿倍野区丸山通2-4-10-203、高畠方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2019年12月22日 (日)

書き足し評論の試み

 当初は、短いものであったのが、読者の意見などを参考に書き足していったのが、徳田秋声「仮装人物」が描く山田順子の人間性 である。基本は徳田秋声の表現力によって、山田順子という女性の性格を論じ、その自己肯定ぶりを指摘したものだが、それに付随して読者の意見を参考にして調べて見たら、長くなった。まだこの続編が書けるかもしれない。

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2019年12月20日 (金)

「第6回医師たちによるチャリティコンサート」を聴いて

  音楽という手段で、何をどう表現するか、何を語るかということこそ、演奏のおいて最も大切なことと考えます。これは「第6回医師たちによるチャリティコンサート」に、出演した医師の言葉である。第1回の時は、応募者もすくなかったのと、周知されていなかったのか、医師会会館講堂の会場は空席が多くみられた。全国から修練した音楽表現を観賞できるのは、大変稀有な体験である。久しぶりに、生演奏で音楽に浸る時間をすごした。《参照:医師達のチャリティコンサート2019風景》第6回目となって聴衆席は満席であった。プロなみの表現力とプロにはない、1回だけの演奏に情熱をかけてきた全国からの選ばれた演者の情熱が伝わって、風変りの音楽体験ができた。あると思われたものは、すでにそこになく、「色に住して心を生ずべからず、声香味触法に住して心を生ずべからず、まさに住する所なくして、しかもその心を生ずべし」(「金剛般若経」より)。

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2019年12月17日 (火)

新美南吉と石川淳の同時代性

 「キツネの手袋」など童話作家として知られる新美南吉だが、内心では大人向けの小説家を目指していたようだ。たまたま、石川淳が「普賢」で芥川賞を受賞したときに、彼は日本文学の本流ではなく、傍流の作家だと思う、というようなことを日記に書いている。自分はそれで二人が同時代に作家であることを知った。石川淳は、坂口安吾などと交流があって、無頼派とされているが、「酒をのんだ時は、書かない」とっ語っていたし、だれかとの文学対談で相手が、Aという作家がBという作品を書いているがーーとか話を向けると。それを読んでいない石川は「知らん」ときっぱり言って、話に乗らない。思わず笑ってしまうまじめさがある。無頼なのは疑似私小説における作品の主人公の「わたし」であった。自分には、作風が傍流であるようには思えない。

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2019年12月16日 (月)

第162回芥川・直木賞の候補作

日本文学振興会は第162回芥川・直木賞の候補作を発表した。計10人のうち7人が初のノミネートで、新鮮な顔ぶれになった。選考会は来年1月15日、東京都内で開かれる。
 芥川賞は、5人中3人が初顔になった。哲学者の千葉雅也さんが初めて発表した小説で候補に入った。作品は同性愛を扱った内容だ。木村友祐さんは2009年にデビューし評価を高めてきた書き手で、作品は英訳もある。乗代雄介さんは18年に野間文芸新人賞を受賞し、期待される新鋭。最多4回目の古川真人さんは独特の作風で知られ、前回から連続になった。5年ぶり3回目の候補となった高尾長良さんは医師でもある。
 直木賞は、唯一の女性となった湊かなえさん以外が全て初候補となった。湊さんは本屋大賞や山本周五郎賞を受賞しているほか、18年には米国・エドガー賞にもノミネートされた実力者。小川哲さんも前作で山本周五郎賞と日本SF大賞をダブル受賞。誉田哲也さんは警察小説で人気を集め、映像化された作品も多い。川越宗一さんは自身2作目で候補入りした注目株。呉勝浩さんの候補作は、無差別銃撃事件を題材にした話題のミステリーだ。【須藤唯哉、大原一城】 (毎日新聞・12月16日ーより。)
芥川賞=木村友祐(49)「幼な子の聖戦」すばる11月号=初/高尾長良(27)「音に聞く」文学界9月号=3/千葉雅也(41)「デッドライン」新潮9月号=初 /乗代雄介(33)「最高の任務」群像12月号=初/古川真人(31)「背高泡立草」すばる10月号=4。
 直木賞=小川哲(33)「嘘と正典」早川書房=初 /川越宗一(41)「熱源」文芸春秋=初 /呉勝浩(38)「スワン」=KADOKAWA=初 /
誉田哲也(50)「背中の蜘蛛(くも)」双葉社=初 /湊かなえ(46)「落日」角川春樹事務所= 4 。※名前、年齢、候補作、候補回数の順
※50音順、敬称略。年齢は選考会当日現在 。

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2019年12月14日 (土)

総合文芸誌「ら・めえる」第79号(2)

【「芥川龍之介と永見徳太郎」新名規明】
 芥川龍之介が28歳のころ、菊池寛とともに長崎にきたという。永見徳太郎という人の文壇的な人生が大変興味深い。芥川の貴重な資料もあるようだ。新名規明・著「芥川龍之介の長崎」(長崎文献社)、同「永見徳太郎」(同)がある。街には「永見徳太郎通り」があり、読売新聞の石田和孝・文化部記者を案内したという。通りの写真もある。やはり地元ならではの文壇史があるものだ。
【「長良川」吉田秀夫】
 10年前に30才代で結婚している語り手の「私」は、父親に育てられた。母親はいない家庭であった。その父親が病死した。そこから話が始まる。父親に「私」の家庭に住むことを勧めたが、独り暮らしを続けた。父は、母親のいないことや、「私」の生まれた当時のいきさつを語ることがない。生活のなかで、その事情を知るヒントを得ていく。出生の追求を問題提起にして、話の運びが自然で興味を掻き立てる。そして、父親の満州での悲惨な体験のなかで、亡くなった親友との思いを「私」は知ることになる。ざっくりとした文章のすっきりした味わいが魅力的である。
【「美術館物語~プラドからの風」麻生真】
 N県の政策企画部都市構築推進課のマコティンという職員が、美術館や博物館関連の建設に関する経過を語る。地元に人には面白いのではないか。
【「グランドキャバレー」砂田良一】
 昔、東宝映画で森繁が社長で、小林桂樹、加東大介、三木のり平などが出演の社長シリーズが流行してから、石原裕次郎の日活時代らしい。サラリーマンのキャバレー通い全盛期のお色気遊びのあれこれを描く。明るい筆致で、いろいろな女性の性癖などを軽い立ち居で描くお色気話。女性と行為をしたことをもって、一人前の男になったという、懐かしい発想などが描かれ、そういえば、そうだったという感慨もでる。自分は、これより弱めの性的な場面を説明した作品を「小説家になろう」に投稿しておいたら、2年後くらいになってサイトのチェックで、作品が削除された。しかし、当然だが書店販売の小説雑誌には、それ以上の過激な表現の作品が多くある。紙の本でしか表現できない作風の存在があるのではないか。

発行所=長崎文献社。紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

 

 

 

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2019年12月12日 (木)

総合文芸誌「ら・めえる」第79号(1)

 本号から書店やネット販売を拡大するため、雑誌コードを付け、長崎文献社のHPサイトの品そろえに加わっている。巻頭の評論【「逆立ちした公共事業『石木ダム』~憲法13条<幸福追求権の危機>~」城戸智恵弘】は、現在の国の治水政策の在り方を、地元地域にそって、その施策の影響を批判的に指摘している。「暮らしのノートITO」の《『石木ダム』を城戸智惠弘氏が評論「ら・めえる」79号》国のダム政策論に事例として一部紹介した。地域の問題には、解決のために原因をさかのぼると、県から国の方針にたどり着くものがある。その典型的な事例でもある。
【「朝鮮通信使の使行録に記述された壱岐・対馬」草場里美】
 朝鮮半島は豊臣秀吉に侵略攻撃を受けた。ところが徳川幕府になると、通信使がきていたという。1607年から1811年の第12次まであったという。姜弘重のその初期の記録から引用している。その中に、日本から、対馬藩が偽書を用いて、朝鮮との戦後処理を含んだ交流をはかっていた。対馬は朝鮮半島に属しているという意識と日本の国内事情が、分かるところが興味深い。このような関係のなかで対馬藩が朝鮮半島に誘いをかけ、それに応じた朝鮮側の様子からすると、感情的なものを押しのける相互に利益のある交易関係が続いたのであろう。豊臣時代に人的な略奪もあり、そこら日本に移住してしまった半島人が少なくなかったらしい。交流記録にも互いの感情的な内心の不満が見えるものもあり、また、虐殺した半島人の耳塚の記録などは、加害の記録がある。現在の日韓関係の感情的ないざこざの要素を、理解する手掛かりになる。
【「徴用工問題は存在しない」藤澤休】
 かつて日韓条約で日本の植民地化した時代の諸問題を、韓国側ですべて対応するという条件があったーーという日本政府の主張に対し、文大統領の指名した最高裁判所が、個人的な労働者の慰謝料は別として、現在の大企業の資産から慰謝料分を株式売却で埋め合わせるということにした。それまでの、日本に立場からの交渉のなかで、日本の出した支援や、その労働の実態への解釈から、韓国の姿勢が狡猾であるいう趣旨のものが主張されている。この問題には、政治問題を話題にしない傾向の他の同人誌でも、同様の主張がみられるので、よほど感情的に不満があることがわかる。客観的に言えば、日本と韓国は併合にあたって戦争をしていない。そのため、いまの韓国は、政府の大勢が変わったので、この条約は無効と姿勢であると判断できる。韓国は、さっさと事情が変わったとして、自国の法律に資産から没収すればよいのではないか。国際的にみて、それほど珍しい事例はないような気がする。大東亜戦争のロシアの裏切りの体験もある。国際的な取引には、リスクが伴うのは当然で、企業はそのリスクに対応するしかない。
  それが、そうならないのは、前記の「朝鮮半島通信使」にあるような、かなり朝鮮半島人の温血が続いた末に、感情的な類似性なども影響して、非論理的なやりとりが行われているのであろう。悲劇なのは、日韓関係のついて当事者に決定権がなく、米国が決めていることであろう。また、米国がかつての独裁国家として戦争したという主張に反するようなことはしないので、日本の味方をするわけがない。米国の慰安婦像も米国の戦争を正当化するから、設置を認めているのとしか思えない。世界の雰囲気は日本を含む過去の帝国主義的行動に手厳しい。戦争被害を国に弁償させるような活動「リドレス」といって、世界的な傾向だそうだ。これからも「反日商売」、「嫌韓商売」が両国にはびこるであろう。どれも、それで生活する人たちの宣伝合戦のように見える。距離を置いて、現代の時流として受け取るしかない。それはともかく、文大統領の韓国革命の南北統一の実現は遠くなったのではないか。
【「八十路を越えて(二)」田村直】
 参議院議員を勤めた人の回顧録。戦後文学青年であった作者は、45歳の時に海星学園の文学愛好家の先生、卒業生が集まって、海星ペンクラブを結成し「ら・めえる」が発行されたという。作者は、はじめて短編小説を書き発表した創刊のメンバーであった。橋本白杜編集長が10号まで担当し、その後継を作者が務めたという。そのなかで海星ペンクラブを「長崎ペンクラブ」にしたのだという。同人誌から地域のリトルマガジンになる過程が見えて面白い。
【「佐多稲子『樹影』文学碑建立の経過」宮川雅一】
 文字通り、長崎出身の作家・佐多稲子の長崎を舞台にした作品「樹影」の文学碑の建立の経緯を丁寧に記録している。建立には関係者の根回しや費用の調達など、詳細が記録されている。地域の文化事業方針に関連するが、参考になるであろう。それにしても、俳人で亡くなった金子兜太の碑が生前に、各地で80基も作られたと聞いているので、その時は、どんなだったのか、気になる。
【「『裏切られた自由』-ハーバート・フーバー大統領の『大事業』」長島達明】
 世界が帝国主義戦争をしている時に、日本が遅れて来た帝国主義を行っていたころからの、日米関係についてフーバー大統領の著書をもとに、そこにあった事実を指摘して老いる。たしかに、日本が石油の制裁を受けていた時に、日本からは鮎川義介が、米国商人から輸入する話を進めていたという話を聞いたことがある。それが突然の戦争で不可能になったという。開戦の謎である。また、自分が20代の頃、韓国の生活状態を写した写真集をみた記憶があり、さらに遊女の絵葉書集などもあって、その記憶からすると、とても今の韓流ドラマのようではなく、そのギャップに違和感がある。まだ創作に面白いのがあるので、次回に続ける。

紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2019年12月11日 (水)

文芸同人誌の読者視線は、文字追い好き

 前欄で文げ同人誌作品の時評の仕方に違いを谷村氏が、記しているが、いわゆる大衆向きの文学作品を批評するのか、現代性を新手法で詩手法の評価をするのか、どちらかの役割を与えられていることであろう。批評者はおおよそ文学界では専門家として、依頼されるであろうから、原稿料を得ているであろう。当方も、文芸研究月報という情報紙を出している時には、出版社の動向を調べて、売り込む手立てにしてもらっていた。そのために、自分でも雑誌社に原稿を売り込み、採用されるとその状況を個人的な情報交換として聞かれた時に、応えていた。

 しかし、現在は自己表現も文学的な表現も区別せずに、気がついたところを指摘したり、紹介したりしている。新聞等の同人誌評では、自己表現ものは取り上げない。神田にフリーライター県編集者としての事務所があったときには、受付事務員がいたので、よく公共的なものとして、電話の問い合わせが多かった。また、古くからの会員支持者は、かなりの寄付をしてくれていた。いまは、認知症が進んで、1時間前に話したことを忘れてしまうそうだ。それを知らずに、何年も前から電話で連絡していたが、どうも変だと家族の方に聞いてそれがわかった。

 話が飛ぶが、「徳田秋声と山田順子」の私の評論のなかに、伊藤整が次のように秋声の文章を表しているーーたとえば「仮装人物」では作者その人である主人公の愛人であった女が、痔の手術のために入院する。その患部が主人公の眼には牡丹の花のような切開された肉として写る。その簡単な描写形式の後の何頁目かに、その女性が手術をした医者と恋愛に陥った、とこれも極めて簡単に、まるで力点というものの無い文章で書いている。すると読むものには、その残酷な対照が、作者が表現にこだわらないだけそれだけ事実だという理解から痛切に響き、生の現実のむき出しの怖ろしい感じで印象される。ーーこれが実は、現在自分が行っている作品紹介対象の文芸同人誌には、当たり前のように、わんさとみられる。徳田秋声は、新しさのある作家でもあるのだ。《参照:徳田秋声「仮装人物」が描く山田順子の人間性(1)

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2019年12月 9日 (月)

同人雑誌季評「季刊文科」第79号~谷村順一氏ーより

 担当の谷村順一氏は「文学へのまなざし」として、大手新聞の「文芸時評」欄の各紙の批評担当者の姿勢について、朝日新聞の担当を2年間受け持った磯崎憲一郎氏の同新聞への一文について論じている。そこには、文芸誌に掲載された小説を印象に残った順から、網羅的に、権威的に寸評する、というスタイルよりも、それにとらわれずに、自らの目下の興味に対して忠実であった時評を行った作家・石川淳の手法を「破壊的」としながら画期的であったとする論について、述べている。石川のそれは「文林通信」として新書から文庫にまでなっている。

《対象作品》松本源「水かけ着物」(「樹林」Vol.653・大阪府)/鷹田雅司「ライダーをたおす」(同)/大梅健太郎「ハンドリガード」([樹林」vol.652・大阪府)/内藤万博「異★人」(mon vol.14・大阪府)/飯田美和「羽化」(同)/塚田源秀「ケージ」(「せる」第111号・愛知県)/宮城芳典「ツバメ石」(「カム」VOL.17・大阪府)/久里さと「蘇鉄の日」(あるかいど」第66号・大阪府)/高原あふち「そこからの眺め」(同)/住田真理子「死にたい病」(同)/猿渡由美子「スウィートスポット」(「純文学」第100号・愛知県)/今野奈津子「ジャック アンド ベティ」(「飢餓祭」第45集・奈良県)/渡利真「家族パズル」(同)/葉山ほずみ「夜を漕ぐ」(「八月の群れ」vol。68・兵庫県)。

 

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2019年12月 8日 (日)

【文芸時評】11月号(産経新聞11月29日) 早稲田大学教授・石原千秋氏

ーー後半部ーー「かか」はもちろん母親の意味。物語の中盤に「『かかのおなかに腫瘍ができて、子宮の摘出手術をしなきゃならん』と言い出しました。その顔色はわるかったけんど、どこか勝ち誇ったような顔でした」とあり、最後は「うーちゃんたちを産んだ子宮は、もうどこにもない」という一文で閉じられる。母であることはもう女性のアイデンティティーの証とはならないというテーマは古いが、それが子宮に局所化されて語られるところに現代が見えている。
 すばる文学賞受賞作は、高瀬隼子「犬のかたちをしているもの」。「わたし=薫」は子宮に病気を持っていて、同居する郁也と性交ができない。郁也はお金を払ってミナシロという女性とセックスをするが、ミナシロが郁也の子を妊娠してしまう。ミナシロは一度郁也と婚姻届を出して、その後すぐに離婚するから、子供は薫と郁也が育ててほしいと言う。この荒唐無稽な設定は、現代の女性にとって子宮とは何かという問いを突きつけており、先の「かか」と響き合う。ただ、作品としてはテーマが子宮なのか郁也との性交のない愛なのか薫の実家なのか、まとまっていない。タイトルを重視すれば郁也との性交のない愛がテーマとなるが、それは現代ではただの現実でしかない。
遠野遥「改良」は、タイトルが意味不明。少年時代に友人に「身体は男で心は女」と見破られて(?)しまったミヤベは大人になって女装するようになるが、「本番」をやらないデリバリーヘルス店のカオリと気があっていた。女装していたミヤベは男に襲われ、救いを求めるように美人ではない知人のつくねという女性の家に向かう。このラストでは、性の揺らぎの書き込みが弱くなる。
 新潮新人賞受賞作は中西智佐乃「尾を喰(く)う蛇」。介護施設に充満する歪(ゆが)んだ力と老人の満州体験を重ねるが、うまく構成されていない。とにかく退屈。早く終わってくれと思いながら読んだ。《【文芸時評】11月号 早稲田大学教授・石原千秋 「いま」を書いているか

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2019年12月 5日 (木)

西日本文学展望「西日本新聞(11月29日・朝刊)茶園梨加氏

題「再会」
和田信子さん「青葉山公園」(「南風」46号、福岡市)、出水沢藍子さん「流れ舟」(「小説春秋」30号、鹿児島市)
武村淳さん「ワンルームマンション」(「詩と眞實」845号、熊本市)、下村幸生さん「追跡者」(「宇佐文学」65号、大分県宇佐市)
米満淳子さんの随筆「幻の奄美」(「あかね」114号、鹿屋市)

<「文芸同人誌案内・掲示板」より、ひわきさんまとめ。>

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2019年12月 3日 (火)

文人と囲碁

 「文人囲碁」に参加してきた。《参照:「文人囲碁会」2019年(冬)は作家・竹本健二氏が優勝》 文人というのは、昔は作家を意味したようだ。しかも、他の職業についたことがなく、作品だけで生計を立てる職業作家という意味もあったのであろう。自分が17歳にのときに、私淑を申し出に家に伺った時に、やはり作家であった夫人が、「主人はね、ドラマ脚本と小説以外で生活費をえたことがないの。最後の文人になるかもしれないわね」と笑った。たしかに尋ねるといつも和服でいたし、用事があって呼び出されると、夜中でも「今すぐ来られないかね」と、いわれた。なるほど、文人だと思ったものだ。なつかしい記憶である。

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2019年12月 2日 (月)

文芸同人誌「文芸中部」112号(東海市)

【「二番目の人生」堀井清】
 息子と一緒に事業をしていたが、今は隠居している高齢者の生活ぶりを、独自の静かさをもった文体で描く。文体でこの作者の作品であることわかるという、希有な個性をもつ。これまで、作者が追及してきた、高齢男性の人生を二番目の人生として、普遍化した小説の完成形を目の当たりにできる。ただし、その前提に、生活が金銭的に不足がなく、さらなる金銭的裕福さを追求しない高齢者のケースという環境限定がある。
 季節は冬。町内の役員をしている主人公。息子夫婦と出戻りした娘と同居している。息子の慎一と翔子は、夫婦の間に倦怠的な雰囲気がある。孫は、家を出て独立している。語り手は、嫁の動向に不審なものを持っているが、それに言及しない。夫婦で外食した際に、妻に自分と結婚して幸せだたかと訊いてしまう。それを失敗したと、思う。まず答えのない問いである。孫は、女関係の慰謝料に10万円を貸して欲しいと言ってくる。結局、貸してやる。公園に座って空を眺めていると、詐欺師のような男が誘いをかけてくるが無視する。語り手には癲癇の持病があり、死ぬ時には発作で発狂して死ぬだろうという予感がある。そのた家族関係にも多少の変化があるが、ここではどれをドラマチックに表現しない。底に流れるのは、時間と自己存在への意識である。作者は、ひとつの作風と形式を発明しており、一連の作品には、その時の気持ちによって、妙に読みたくなる持ち味がある。
【「影法師、火を焚く、(第13回)」佐久間和宏】
 自由な発想による語り口で、話題にそって読み進むのに楽しめる。知らない詩の引用なども興味深い。なかでも「中論」の「帰敬偈」などは、現象の定まらぬ姿の本質とも思える空と無の世界をに思いを馳せるところがあった。
【「『東海文学』のことどもから」三田村博史】
 「東海文学」という地域文芸同人誌がどのように中央文壇とのつながりをも持ったかを江夏美好の「下々の女」という出世作が出たことに、どれだけの出来事であったかを、如実に物語られている。中央集権制度の日本ならでは事例として、良い資料になっているのではないか。ここに語られた「下々の女」(河出書房新社)の初版が1971年で大阪万博の翌年である。自分はオーディオ企業のPR機関誌の編集取材のため、新幹線で大阪、名古屋。航空では博多、札幌と飛び周っていた。オーディオマニアというユーザーに音色の好みなど地域色があった。文芸にしても同じであろう。それも情報化の進展で、変わってしまった。時空の隔たりを感じさせる―――。
 その他の作品も読んでいるが、紹介するためのポイントを書くことが出来なかた。こちらの感性の鈍りがあるようだ。本誌全体に作者が同人仲間だけに向けて書いているような、気楽な雰囲気がある。例外もあるが。すべての作品に共通するのは、渋滞がないということだ。巧さが増しているが、その分、惹きつける力が弱い。「水声」(和田知子)などは、鉄道の人身事故に遭遇する乗客のシーンからはじまる。読んでいて、それが問題提起だと思ってしまう。しかし、そうではないのだ。テーマは別にあるらしい。ただ、その違和感を打ち消す巧さもあるので厄介だ。「遠い日の花火」(朝岡明美)は、それなりに、「この人の生き方を見よ」という問題提起であるが、小説が短歌的になってきているのか、と感じてしまう。短歌にもそれなりの一的な感情を凝縮させる良さはある。自分は詩を小説に移行して、評論に向かっている。誰もが自分ならでものが書きたいであろう。その視点で考えると、紹介の仕方に迷うものがある。
発行所=477-0032愛知県東海市加木屋町泡池11-318、三田村方。「文芸中部の会」。
紹介者=「詩人回廊」編集者・伊藤昭一。

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2019年12月 1日 (日)

同人誌評「図書新聞」(11月30日)評者・越田秀夫氏

 優曇華の花は三千年に一度咲く。竹取物語では、かぐや姫が言い寄る男達をバッタバッタと振り倒す武器の一つに。一度見たい、が短絡して実際の花のあだ名に、その中の一つがフサナリイチジク。この房ナリから連想したのか、クサカゲロウの卵塊にも。それが由緒あるガラス製の美しい電灯のカサに生えて……
 『うどんげの花』(花島眞樹子「季刊遠近」71号)――昭和一八年、都内から奥秩父に疎開した主人公(小四女)の家族。引っ越しの前日、友達のA子が餞別に少女雑誌を。お返し……と思い当たったのが、祖母が曾て宰相で暗殺されたお方から戴いた電灯のカサ、不吉な花が生えたあの……。A子は教会の牧師の子、成績優秀・美少女、だから嫉妬の塊。疎開の地で、教会が放火されA子の焼死が伝えられる。十余年の後、A子の日記に邂逅、彼女のあたたかい心根を知る。“思い込み”は蟠りとして心に残ったが、懐かしさも醸す。次の作品も……。
 『八歳だった』(和木亮子「人間像」189号)――昭和二〇年七月一五日、主人公の住む富良野が空襲を受けた。家族は無事だったが仮住まいを余儀なくされ、主人公だけが単身で別刈の、母の従兄の家に預けられた。なぜ私だけ? 納得できない。慣れない言葉、素っ裸で泳ぐ子供達、石を並べた家々の屋根、五右衛門風呂、蛸の釜揚げ、蝋燭岩、どれも馴染めず、おいしい食べ物も喉を通らず、家に帰りたい。それに反比例するように読者は北海道経験皆無でも、懐かしさ、郷愁に満ちる。
 『すべてガ売り物』(マツイアキラ「穀雨」25号)――市職員であった主人公は、不倫デマで失脚↓失職↓離婚するも、土地建物の許認可業務経験を生かし中古住宅仲介業で生活を確保。と、厄介な豪邸物件、郊外に立地、持ち主だった男は破産、行方不明。そこに買い手が現れる。とても金持ちとは思われない風体の男。買えるはずない! いや買えるかも? 理路が通り、ついつい引き込まれる。小説自体がボケ老人相手の詐欺師?
 『飴色遊園地 再び開演』(谷口俊哉「雑記囃子」24号)――「さあ、災害で心身ともにお疲れの皆さま、この遊園地で夢のひと時を」。最初の小屋はメイズ(迷路)。企業戦士四人が挑戦。抜け出たのは窓際の初老男のみ、あとは迷宮入り。次のショーテント(見世物小屋)には二人の若い女。メイキャップが剥がされ、彼女らが見世物に。キャラクターショーでは悪童二匹。ワルガキは悪役蠅男に変身。彼ら全員、人型の飴細工となり、風船にぶら下がり夕日を浴び輝いた。
 『僕達の出典』(松江農「青磁」40号)――趣味おたくと人生賭けたおたくが織りなす、おたく史、特撮史、表現の不自由史。蔑称“おたく”がやがて森永卓郎に代表される尊称“オタク”へ。作品は小説そっちのけで“おたく道”の険しさを“論”じる。そのなかで注目すべきは、世間から指弾された梶山季之『ケロイド心中』が健在なのに、なぜ『ひばく星人』は闇に葬られたのか、という指摘。当否は別として、知事と市長の表現の不自由論争があったばかり、時宜を得ている。
 『りだつダイアリー』(三上弥栄「星座盤」13号)――うつ病薬からの離脱をめざした格闘日記。うつ病に対する啓発活動が進められて久しいが、いまだ社会的無理解は解けていない。患者は疾病との戦いの上に鎮座するこの無理解という石男とも戦っている。常に引け目を感じ、薬からの離脱を試みるも耐えがたい離脱症状が待っている。作品はこのような板挟み状態を捉える一方、社会そのもののヒズミをも結果として映している。
 《参照:終戦前後の懐かしい“思い込み”(「季刊遠近」「人間像」)――短歌評で言葉アートに通底する課題を提示(「塔」「コールサック」)

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