文芸同人誌「弦」106号(名古屋市)
【「睡蓮」長沼宏之】
尾形耕治は、大学を出て電子関係の会社員となるが、そこでパニック障害を発症、休職してしまう。その後、重要でない部署に異動し、収入も少なく、出世のない勤め人になる。そのうちに病歴に理解のある伴侶を得て、人生を過ごす。そのうちに妻が癌になり、生活上の困難を乗り切る話。パニック障害は、野球選手や芸能人などにも発症者が少なくない。症状も多彩である。一時、自分も頻繁に発作を起こすことがあったが、最近は少なくなってきている。そこからすると、主人公のパニック障害の対応は、特殊のように思える。とりあえずハッピーエンドでよかったと思うべきか。
【「胡蝶花(シャガ)」の友】小森由美】
高齢になってから夫を亡くした未亡人の喪失感と、その後の人生をどう過ごすかを悩む姿を描く。知り合いの先輩がいて、彼女の生き方と比較することで小説にしている。夫を失い、余生をどう過ごすかというのは重大事である。そこのこだわりを正面から描いた問題作である。作者はコラムでその問題意識を述べているのは印象的である。人間は何か目的をもって生まれて来たわけではない。人間の「実存は目的に先行する」というサルトルの言葉もある。このような問題提起を含んだ作品は、文芸同人誌の生活日誌的作品に多く見られる。しかし、テーマとして正面から追求したものは少ない。匂わすものは多いのだが…。先が見えた(と思い込む)人間の生きる努力に関する意識を分かりやすく、深堀してゆくのは、意味があると思う。
【「春の雪」市川しのぶ】
和歌という女性の人生を、年代を区切って描き、生きる姿を書きだす。時代が読んだだけでは不明確だが、過去の社会に生きた女性であろうとは、検討がつく。このような形式であることに意表をつかれたが、一つの手法として興味を持った。
【「来島海峡」船乗りの世界の話で、専門用語に解説がついているのが良い。話も、狭くて船の往来の激しい来島海峡を、無事に渡りきるところが大変スリリングで、面白く読んだ。
【「日蔭の絵師」山田實】
渡辺は、若い頃に親しかったが、結婚する機会を失ってそのままになっていた智ちゃんという女性から、何年ぶりかで連絡をもらう。そこに至るまでの、二人の付かず離れずの関係を手際よく語った短編。長編小説の梗概のようなところがあるが、文章表現に力があり、なかなかのものと感心させられた。
【「女はそれを望まない」国方学】
若いときにトライアスロンをやっていたことを語り、現在が老齢期であること示す書き出しである。客として知り合いになった自転車店の経営者夫婦が、高齢のために店じまいをした。その後、奥さんが病気になり、介護をしていたが、店主だった男は、妻を死なせて、自ら縊死したという知らせを受ける。そこで起きたことの出来事を想像して、描写する。ありそうな出来ごとを、ありそうな感慨と無念さで語る。理解でききる話である。
【「終着地」木戸順子】
老夫婦がいて、妻が癌で入院中である。余命を知らされた夫は、自分が妻の死を見届けてからでないと死ねないと思う。そうした男が故郷に行き、その地の山寺に行く。柔らかな表現力で、男がこの世とあの世の境を歩んでいることを暗示する。山寺の途中の道で、老境にちかい頃、情を通わした、妻でない女性に出会い言葉を交わす。また、妻にもあって、編んでくれていたマフラーを渡される。そして日暮れてより、電話があって、妻が亡くなった連絡であった。巧みな文章力で、我々の日常は、夢か幻かという思いにふけさせる朔分である。
発行所=〒463-0013名古屋市守山区小幡中3-4-27、中村方「弦の会」
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一
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