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2019年10月31日 (木)

同人誌時評11月「図書新聞」(11月2日)評者・志村有弘氏

 (一部抜粋)~■小説では、〈老〉を視座とする作品に注目。いずれも老人の〈孤独〉な姿を浮き彫りにする。天野律子の「夢の残り・タコ」(「黄色い潜水艦」第70号)が心に重い影を残す。逸枝は両親を知らず、祖母に育てられ、十九歳の時から一人で生きてきた。夫も子も孫もきょうだいもいない。地域の集会所の老人会には出席するものの、会の光景を眺めているだけ。「その他大勢の居場所」に身を置き、「どうでもいい隅っこがいい」と思っている。夕方まで何の予定もなく、夕食と風呂と就寝をすませば「今日という一日が終わる」。しかし、昔、食堂で働いていたとき、逸枝の口ききで働くことができた母子と自分の部屋でひと月ほど暮らしたことがあった。母子は、子を祖母に預けると言って出たまま戻ってこなかった。逸枝はその母子と共に暮らしてもいいと思っていたのだ。逸枝はタコの遊具を団地の中の広場に呼びたいと思う。人物の描写が細緻。読ませる力を称えたい。
 野上志乃の「アリババ」(「りりっく」第34号)が、童話的手法で不思議な感覚の世界に導いてゆく。「私」は古希を迎えた女。目が覚めても一日をどのように過ごしてよいものか戸惑う。冷蔵庫が空っぽなので、買い物に行こうと思い、外へ出ようとしたとき、アリが行列を作っているのに気づく。「私」はアリたちと言葉を交わす。食料を集めるのは老女アリだという。アリは「私」の年齢を聞いて、「七十? そりゃあ化け物だ」と驚く。「アリババ」とは、蟻婆。「私」は「死ぬまでやるべきことがある」と言うアリたちに羨望を覚える。「まだ死にたくない」「自分にもできる役がまだあるように気がした」という文章に救われる。「アリのように子どもをみんなで大事に育てる社会が来るだろうか」という文章も傾聴に価する。
 井上淳の「死ぬまでの日数を数えてみた」(「まがね」第61号)に、老いて目前に迫る死をどう迎えるかを考えさせられた。戸田は膵臓に腫瘍がある。余命四か月。七十七歳。定職に就かず、独身。親しい知人はゲーム仲間。以前は死が「気楽」で「待ち遠しい」気さえしていたのに、現実に〈死〉をつきつけられると「腹立たしく、悲しい」と思う。最後は仲間たちに囲まれ、「安らかに」息を引き取って荼毘に付され、骨は市の職員に渡された。「人目をはばからず、好きなように生き」たというから、救いはある。とはいえ、遺骸を引き取る親戚もなく、孤独であったことは事実だ。過疎、少子化……日本の未来は、戸田のような人生を送る人が多くなるだろう。
 星野充伸の「同窓会と惚けの効用」(「逍遥」第6号)は、大学の同窓会、友人との交流、そして今に至る自分を綴る。本間久雄や坪内士行の名や谷崎精二の言葉が記されるなど、興味深い話が展開する。同期の卒業生の中から教授は生まれたけれど、作家が現われなかったのは「近現代の優れた小説を読んでも創作方法まで会得しなかったのだろう」という言葉も見える。作者は「自営業方々、こつこつと短編や旅行記を書いて同人雑誌活動を続けてきた」といい、卒業論文のテーマとしたグレアム・グリーンの原書を耽読することで「英文学と繋がっていた」と述べる。これもまた、見事な文学生活。
 石毛春人の「詩の恵み」(「新現実」第141号)は、昭和文学走馬灯とでもいうべき作品。林富士馬の『詩人と風景』を再読し、「中勘助の戦争詩をやっつけている伊藤信吉や山室静などを非難」していることを「怒りが沈潜してひとつのエネルギー」となった「いい文章だ」と述べる。そうして「こんどフジマさんに会ったら、それを言おう」とユーモアをたたえた文章も示す。林が兄事した伊東静雄にも触れており、ふと林の詩「伊東静雄詩碑を尋ぬ」に見える芭蕉の「さまざまなこと思ひ出す桜哉」の句を想起した。暗記を否定した「戦後の漢字教育の間違い」と論じる文も見える。一読を勧めたい好作品。星野と石毛の作品は、エッセーとして読むこともできる。
  (相模女子大学名誉教授)評者◆志村有弘ーーー《参照:〈老〉と〈死〉を根底・視座とする文学群――〈老〉を根底とする天野律子(「黄色い潜水艦」)・野上志乃の小説(「りりっく」)。親族のいない老人の〈死〉を描く井上淳の小説(「まがね」)。〈死〉を凝視する本多寿の詩(「サラン橋」)

 

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2019年10月29日 (火)

根津メトロ文庫が廃止へ

東京メトロ千代田線根津駅に設置されたミニ図書館「根津メトロ文庫」が、撤去されることが決まった。SNS上では惜しむ声が相次いでいる。  根津メトロ文庫は1989年、根津駅に設置された。車両を模したボックスに駅利用者が本を寄付し、駅員が確認したのち、自由に借りることができる。地下鉄>(東京メトロ)の広報担当者は19年10月28日、J-CASTニュースの取材に、設置の経緯を「当時、お客様サービスの観点から飾り付けやイベント等を実施しており、その中の取り組みの一つとして設置しました」と話す。直近の蔵書数は約200冊で、1日5~10人ほどが利用しているという。
しかし19年10月ごろ、駅に「近々撤去する」との張り紙が掲出され、ツイッター上で「かなしい...高校の思い出...」「結構マニアックな本もあり、学生の頃は特に結構お世話になりました」「ファンも多いので、保存のためのクラウドファンディングや寄付が集まりそうですが...」と残念がる声が多数書き込まれた。
「設置当初の役目は終えた」東京地下鉄の広報は、撤去理由を「老朽化が進み、安全管理が難しくなってきました。時代が変わる中で、ご利用になるお客様も減少しましたので、設置当初の役目は終えたと判断しました」と説明する。現時点で撤去日は未定。利用者からは、同社の関連公益法人が運営する「地下鉄博物館」に展示してほしいとの声もあるが、撤去後の活用方法は決まっていないという。惜しむ声については「そういった声を頂けるのは大変ありがたい事で、長い間ご愛顧いただきありがとうございました」と感謝した。 

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2019年10月28日 (月)

第29回文学フリマ東京(11/24)出店場所はニ-12に

 当会は第29回文学フリマ東京(11月24日・東京流通センター)に出店します。出店の位置は「ニ~12」と決まりました。今回の販売本は、基本的に前回と同じで、「文学が人生に役立つときー菊池寛の作家凡庸主義と文芸カラオケ化の分析ー」伊藤昭一(文芸同志会発行)。定価700円を文フリ特価500円で販売。その他、小野友貴枝・著「 社協を問う」(文芸社) 。改革に挑んだ女性会長の物語。定価 1,404円 (本体 1,300円)> を500円で特価販売。また、「野上弥生子と宮本百合子」(草場書房)が前回で売り切れで在庫がないので、ありません。また、評論「徳田秋声「仮装人物」と山田順子(やまだゆきこ)ー北 一郎」を収録した。「カフカもどき」は、前回にて売り切れ在庫なしとなりましたが、会員2人がが手持ちの同書を提供してくれましたので、3冊のみ販売する予定です。《参照:文芸同志会のひろば》これら販売物は、それぞれ独自資料を用いているので、文学部の卒論の資料にも有効なものです。

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2019年10月24日 (木)

「みなせ」に発表した「氾濫」を通過点としたポストモダン文学…

 文芸誌「みなせ」は、本の内容をネットでも読めるようにしている。83号に伊藤昭一が『「氾濫」を通過点としたポストモダン文学考察』を発表した、それをブログで、「氾濫」(伊藤整)と文芸の世代的断絶の部分(1)伊藤昭一 に連載した。そのなかに「小説家になろう」(通称「なろう)」に投稿している多谷さんが、それに投稿しているが、そのジャンルがるのを知らなかった、という感想文を書いている。《参照:「みなせ」84号》。それこそ、世代断絶そのものであろう。

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2019年10月23日 (水)

文芸同人誌「渤海」(富山・石川)が終刊

サイト投稿台頭 衰退危ぐ
 富山・石川を拠点に45年にわたって誌齢を重ねてきた文芸同人誌「渤海」が、半世紀の歴史に幕を下ろした。編集を一手に担ってきた杉田欣次さん(72)=富山市向新庄町=の健康上の問題が理由で、78号をもって終刊した。インターネットの普及で、小説投稿サイトを発表の場とする書き手が全国的に増える中、日本文学の原点とも言える同人誌は岐路を迎えている。(文化部・中田真紀)
 「誠に残念だが、『富山に渤海あり』と存在はある程度認められたと自負している」。「渤海」編集委員の杉田さんはこう話す。
 渤海は1974年に創刊した。誌名は7世紀末に中国東北部に建国された「渤海国」に由来する。使節が能登半島から入り、北陸の文化を日本に広めたことにちなみ、全国に発信できる雑誌にしようと名付けられた。富山と石川の同人各15人で発足し、志を同じくする仲間が発表してきた。
 当初は金沢市の石川近代文学館気付で刊行していたが、石川の会員が減ったため、94年以降は杉田さん宅に事務局を移した。富山に移ってからは不定期だった刊行を年2回に固定し、文章力を高め合ってきた。
日本文学の原点 岐路に 文芸同人誌「渤海」が終刊
県内で発行されている同人誌
 同誌の評価は高く、文芸誌「文學界」の同人雑誌評にもたびたび同人の小説が取り上げられた。杉田さんは「質の良いものを書けば注目してもらえると、書き手の励みになった」と振り返る。
■病床で校正作業
 終刊を考えたのは今年に入ってから。健康に問題が生じ、3月に刊行した77号の詰めの段階で入院し、病床で校正作業を進めた。「今後万一のことがあれば責任を果たせない」と、今月刊行の78号を終刊号とすることを決めた。
 発足時に30人いた会員は50~90代の8人に減った。若手の入会はほぼなく高齢化が進む。高齢化は各誌共通の課題で、終刊を検討している県内の同人誌もある。「今回で最後」と連絡してくる他県の同人誌もあった。杉田さんは「高齢化で先細りしているのはどこも同じ。みんな毎回『今回が最後になるかもしれない』という思いで活動しているのではないか」と推し量る。
■役割が変化
 近代文学の名作を発表し、日本の文学史に大きな役割を果たした文芸同人誌は、変わりゆく時代とともに役割を変えつつある。

 「かつては文芸創作をしようと思ったら、仲間を作って冊子にして回覧するやり方しかなかった」。上市町出身の文芸評論家、田中和生法政大教授はこう説明する。それが戦後、書き手の発表の場が文芸誌の新人賞に移り始め、70年代終わり頃から、同人誌より新人賞の方が優勢になったとみる。

 さらなる変化をもたらしたのがインターネットの普及だ。近年、書き手が投稿するスタイルが台頭。日本最大級の小説投稿サイト「小説家になろう」には160万人が登録し、作品数は68万点に上る。田中教授は「若い人は文学観の違う人と同人誌を作るより、ネット上で直接、読者と出会う方を選びつつある」と分析。そうした環境がある以上、衰退の方向性が加速するのではないかと危ぐする。

 ネット上に気軽に作品を発表できる時代にあって、同人誌を刊行する意義は何か。田中教授は「文学作品は文学観の違う人にも伝わることで力を発揮する。便利な世の中になったからこそ、さまざまな価値観を持つ人と一緒につくることに新しい意味が生まれるのではないか」と問い掛けている。《北日本新聞:日本文学の原点 岐路に 文芸同人誌「渤海」が終刊

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2019年10月19日 (土)

文芸同人誌「澪」第14号(横浜市)

 本誌の【「大池こども自然公園生態系レポート<放射能と野鳥編>」鈴木清美】に関しては、放射能汚染と野鳥の生態を自然公園に観る=鈴木清美氏 に紹介した。
【「クラシック日本映画選9-天国と地獄」石渡均】
 今回は、黒澤明監督、三船敏郎主演の映画「天国と地獄」を制作側からみた、一種の専門的な裏話が記されている。黒澤映画と言えば、世界的に有名だが、その特徴のひとつである証明の技術による表現効果の秘密が記されている。集中的な画面効果の技術に証明やカメラの工夫があることがわかる。かつて映画界で天皇と呼ばれたのが、渡辺邦男、黒澤明、撮影監督の宮島義男だという。宮島撮影監督は、小林正樹監督の「切腹」を撮ったひとだという。個性的なカメラワークに頷けるものがある。俳優論があって、黒澤の演技指導の細かさに対し、溝口健二は、俳優に自ら役作りを発見させるという、やり方の違いがあるという。この辺は新藤兼人の書き物と一致する。また、面白いのは、三船の滑舌の悪さで、それを気にした小林正樹監督は、たまらず音声修正技術を使ったら、三船が腹を立てたという。確かに、彼が黒澤映画によって、世界の大スターになった要因には、映画のセリフが翻訳字幕や吹き替えの効果があったように思う。自分が思うに、黒澤と三船の作日には、セリフの字幕を付けて初期作品から上映したら、若い人たちにも支持されると思う。特に菊島隆三の脚本が入ったのは、すごい。
 本作では「天国と地獄」の脚本、カメラ、音声、音楽、三船、仲代達也、山崎努など、総合芸術の見どころを、まるで観賞しているような話の運びで、読む目をそらさせない魅力でかたる。自分は、20代の頃仕事場が京橋に近いところにあって、今は国立アーカイブ館の前身と思われる近代映画館に、夜に観賞した時期があった。小津安二郎の無声映画から観た記憶がある。黒澤作品では、「酔いどれ天使」の水たまりの前で、結核を病む三船が塀に寄りかって佇む場面はまさに、孤独の詩情があふれているのを思いだしてしまった。
【「ハイデガーを想う(Ⅱ)下(その3)『技術への問い』を機縁に」柏山隆基】
 「存在と時間」が愛国者でドイツナチスの党員であったことは、知られているが、その精神的な基礎に時流と彼の思想の底流とが、合流したものらしい、とわかる。ハイデガ―が「老子」に親しんでいたということは、東洋思想のなかに、存在の意味をさぐる価値があったと読んだ。自分は、道元禅師の思想をドイツの学者が時間論にとりあげているのを読んだ記憶がある。自分は日常生活は、マルクスやヘーゲルの重視する関係性の世界だと思う。そして、個人としてはそれを超越した形で、宇宙存在の認識者としての生を味わうものという感覚があり、一般人としての有象無象(マルチチュード)と「私」としての唯一者との間を行き来する存在と認識する。このような簡単にまとめてしまうのも、マルクス主義から「金剛般若経」の座禅思想まで触ってしまう文学的性癖による。自己流の読み方なので案外、見当はずれなのかも知れないが…。あとがきに、羽田飛行場の空路が品川区上空にかかるので騒音の話があるが、大田区でも海から滑走路に入るのに、それが多摩川の川崎に寄るので、すでに試験飛行をしているらしく、こちらの空に爆音が響くようになった。これも、日米航空協定が、他国と比べ格段に隷属してるためで、アフガニスタンですらこんなに隷属的な協定ではなく、対等な協定をしているのである。これを屈辱とせずに、他国をとやかくいう国民性が自分は好きでない。他国の反日の言い分はもっともである。また、国際的にも日本はそれほど信用されていないであろう。国際紛争で争っても、日本は負ける。それは、これからあらわれてくるであろう。ハイデガーのナチス党員時代にとやかく言う気はまったくない。

発行所=〒241-0831横浜市旭区左近山157-30.左近山団地3-18-301、文芸同人誌「澪」の会。

紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2019年10月16日 (水)

小野友貴枝著「高円寺の家」(文芸社)の特徴

 小野友貴枝氏の新刊「高円寺の家」(文芸社)が発売された。著者は本が、知人の間で評価が低いことを嘆いている。《参照:「高円寺の家」周辺の感想から、癒す想い=小野友貴枝 》。自費出版の世界では珍しいことではないが、狭い知人の範囲では、興味のない人がほとんどであろう。仕方がないことだ。作品は「高円寺の家」という中編と、それより少し長い「小田急沿線」という小説の2編からなっている。話の内容はべつに不動産の話ではなく、物語は、嫁ぎ先での夫の知られざる家庭内暴力癖に耐えてきた主婦の話という点で、共通している。そして、このような境遇におかれたうえで、共稼ぎする妻の立場が描かれてる。自分は、これを読んで大変に興味深く思った。ことの背景には、現在の核家族社会以前の、家長制度における夫の大家族のなかに、田舎の大家族の娘が、嫁入りした女性の立場から描かれている。つまり、家長制度のなかで風習の異なるの家風のなかに、嫁といういう立場で、その風習のちがいにカルチャーショックを受けたことから話が話が始まっているのだ。「高円寺の家」では、」つぎのような一節がある。--まだ、増築する前の古い家で、家族が一人一部屋持つだけの空間がなかった。--電話は居間にあって、家具のようであっとたとある。そこに、親代わりになってくれた荻窪の裕子からの電話で、何気なく義妹の縁談が決まった話をした。そしてーー「相手は四つ年下なの」と無意識にしゃべった。--すると、背中に物が飛んできた。夫が姫鏡台を投げつけてきたのだ。「身内のことを軽々と、他人に話すな」ということなのであろう。こうしたところから夫が家庭内暴力癖があるとわかるのだ、夫は母親にも暴力を振るってきたのだった。この時代の風習を乗り越えて、きた主婦の話なのである。

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2019年10月15日 (火)

同人誌「季刊遠近」第71号(横浜市)

【「うどんげの花」花島真樹子】
 昭和の第二次世界大戦とその戦後を生きて来たと思われる女性の独白で語られる。聴き手は、読書会で集まった仲間である。やや長いので、語り手と聴き手の関係に形式的には、定番的手法が用いられている。たとえば、コンラッドの「闇の奥」という古典的名作が代表するように、語り手と聴き手の形式があり、19世紀的小説のひとつの形式である。話は、昭和17年ころの、誰もが明日を知れぬ不安を抱えたなかでの戦時中の銃後の家庭の苦しい生活が、静かな調子で語られる。大叔父の東京の家に住まわせもらうことになる。そこで、灯火管制のためカバーを電灯に被せていた覆いをとると、そこにうどんげの花が咲いていた。ほんとうは花ではないらしいが、ここでは不吉な花とされている。それをクリスチャンのA子にあげるのだが、クリスチャンの彼女は喜んだが、その後彼女のいる教会のが放火され亡くなってしまう。地道で重厚な筆致で、雰囲気小説としてよく整っている。
【「ユズリハの木が時雨れて」木野和子】
 作品には美しき老女、という人が登場する。老女というのが、リアリズムから脱却して、夢幻的世界を語るのに適している。要は、人間は死ぬまで愛が去れば美しく過ごせるという話か。すがすがしさのある文章が印象的。
【「東京シティボーイ」藤田小太郎】
 南国九州の離島の学校の教師が赴任している。退任まえの「私」のところに、学びたいと離島勤務に来る青年がいた。彼は、鉄道マニアであった。上京した時に、東京の雰囲気を伝えたりするが、肝臓病で若死にしてしまう。何となく、年寄りが生き残り、若い新しい世代は死ぬことに、日本の衰亡を思わせ、侘しく感じる。
【「詐欺事件」森重良子】
 新宿に買い物いく途中に、携帯電話で話している同年配の女性が孫と電話をしている野に出会う。話は、幾らなのとか、どこに受け取りにくるのかとか、明らかに、なり済まし詐欺に騙されている様子である。主人公は、それは詐欺ですよ、と教えるが、迷惑そうにして、相手にする気配がない。警察に届けるかどうか、悶々とする過程を描く。読ませる筆力は充分あるが、題材が小さすぎて、その筆力が充分に生かせていないように思う。
〖「未来少年の悟り」逆井三三】
 近未来小説で、若者たちが未来社会のなかで、苦闘する状況を描く。ここでの日本社会では、中国の影響が強く、国民は都市民と農民とは戸籍は異なる。議員は50歳以上でないとなれない。その制度に反抗して革命を志す若者の話。そこまでなるには、日米安保はどうなったのか不明であるが、時代の流れを捉えた作品である。
【丘の団地に住む家族】難波田節子】
 団地の住民である則子はある日、若い頃にしっかりた考え方をする佐田涼子という主婦仲間であった女性が、だらしない室内着で、表を歩いている姿を見る。人違いかと思い、涼子の家族の情報を、子供たちの交際範囲から仕入れる。すると涼子は認知症にかかっているらしいこと、則子の娘と同級の涼子の息子は英国の有力大学を出て、現地の美人と結婚したというような情報が入る。基本は、涼子の家族のそれぞれの様子を、噂話によって、外部からの情報で、描きだすもの。ジェーン・オースティンの「傲慢と偏見」を思わず手法で、いかにも古典的な懐かしさを感じさせるものがある。
発行所=〒225-005横浜市青葉区荏子田2-34-7、江間方。「遠近の会」
紹介者=詩「詩人回廊」北一郎

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2019年10月13日 (日)

水害対策から日本の将来が決まってくるように思う

 今回の台風19号の襲来は、世界は変わらないと無意識に思っていることを変化させるであろう。異常気象を止めることは、もう難しい。世界経済を揺るがすであろう。地球規模の変化を理解しないトランプを大統領にした米国は、遅れた国になるであろう。トウモロコシの収穫はいつまでできるかと思うこともない。自然はディール、取引をしない。身近なことを言えば、短期的には日本経済は自然災害で落ち込むであろうが、壊されたもの新規需要や土木公共工事で、活性化を取り戻すと思う。これは世界的な傾向なので、モノづくりの分野が再び経済をけん引するように思える。多摩川の下流を散策して、その水位が想像を超えるまで上昇していたのにぎょっとした。《参照:台風19号通過後の多摩川(六郷)河川敷は泥に埋まる

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2019年10月12日 (土)

穂高健一「安政維新」が発売前に話題作

 穂高健一氏の歴史小説「安政維新」が10月15日発売予定だが、すでに購入できるという。長年、小説教室の講師をし、幕末歴史小説で新資料解釈で話題になったせいか、早くから注目作になっているようだ。《参照:釈たまご氏ー安政維新・穂高健一先生

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2019年10月 9日 (水)

「詩人囲碁会」に参加して

 日本棋院での「詩人囲碁会」に5日に参加してきた。将棋では藤井7段が最年少昇段で、話題になったが、囲碁の名人も芝野虎丸八段が最年少という、しかも囲碁を始めたのがマンガ「ヒカルの碁」だというから、世間は文字オンリーよりマンガ文化の主流になった。年配者が多い文系
囲碁会の現状である。《参照:第39回「詩人囲碁会」優勝者は熊野氏

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2019年10月 7日 (月)

芥川賞作家の目取真俊氏の国への損害賠償訴訟、控訴棄却される

  芥川賞作家の目取真俊氏が、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設に対する抗議活動をしていた際に、米軍と海上保安庁に不当拘束されたとして国に損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が7日、福岡高裁那覇支部であった。大久保正道裁判長は8万円の賠償を命じた一審那覇地裁判決を支持し、目取真氏側の控訴を棄却した。
 判決によると、目取真氏は米軍に約8時間拘束された後、海上保安官に引き渡された。大久保裁判長は一審同様、引き渡しは遅くとも2時間以内にできたとして、「海上保安官には、身柄を直ちに引き受けなかった違法がある」と判断した。米軍による拘束の違法性は認めなかった。
 目取真氏は判決後に記者会見し、「海保が来るのが遅ければ、米軍はいつまでも身柄を拘束してもよいのか問われるべきだ」と訴えた。
 判決などによると、目取真氏は2016年4月、辺野古沿岸の制限区域にカヌーで侵入したところを、米軍に拘束された。 【時事通信社】

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2019年10月 4日 (金)

【文芸時評】10月(産経9月29日)早稲田大学教授・石原千秋 芥川賞に未来はない

 (文芸春秋9月)を読んだ。今回の芥川賞については、小谷野敦の発言に賛成する(倉本さおりとの対談「芥川賞について話をしよう」『週刊読書人』9月13日)。受賞作は今村夏子『むらさきのスカートの女』だが、この作品よりすぐれている『こちらあみ子』で受賞とすべきだった。最近「もう少し様子を見よう」という雰囲気が強すぎる。直木賞は人に与える賞だが、芥川賞は作品に与える賞だ。選考委員に「作品を歴史に刻み込む」という使命感がないのではないか。
 古市憲寿「百の夜は跳ねて」に関して小谷野敦は、いつも厳しい自分から見ても、「ちょっと厳しすぎます」と言う。木村友祐「天空の絵描きたち」(文学界・平成24年10月号)を「参考文献」に挙げ、同じ高層ビルの窓拭きをテーマとしていることに対して、山田詠美「真似(まね)や剽窃(ひょうせつ)に当たる訳(わけ)ではない。もちろん、オマージュでもない。ここにあるのは、もっと、ずっとずっと巧妙な、何か」だとか、川上弘美「ものを創り出そうとする者としての矜持(きょうじ)に欠ける行為」だとか、吉田修一「盗作とはまた別種のいやらしさ」だとか、堀江敏幸「参考文献にあげられた他者の小説の、最も重要な部分をかっぱいでも、ガラスは濁るだけではないか」だとか、ほとんど人格否定。奥泉光だけが、そもそも小説とは「外にあるさまざまな言葉をコラージュ」するものだとまっとうな論理を述べて支持している。人格否定論者にはミュシャ展でも観てきたらいいと言いたくなる。どんな芸術家でもはじめは誰かに似ているものだ。そのプロセスを全否定したら、芸術家など育たない。《参照:【文芸時評】10月号 早稲田大学教授・石原千秋 芥川賞に未来はない

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2019年10月 1日 (火)

文芸時評・東京新聞(9月26日・夕刊)佐々木敦氏

 阿部和重の最新長編『Orga(ni)sm[オーガ(ニ)ズム]』の刊行を記念して、同作の連載誌だった『文学界』10月号が特集を組んでいる。『オーガ(ニ)ズム』は、一九九九年に連載が開始され二〇〇三年に刊行された『シンセミア』、一〇年の『ピストルズ』に続く「神町(じんまち)トリロジー(三部作)」の第三部完結編である。山形県東根市に実在する自らの出生地でもある神町を舞台とする小説を、阿部はこれら三つの大長編の他にも複数発表してきた(その中には芥川賞受賞作『グランド・フィナーレ』も含まれる)。約二十年の歳月が執筆に費やされた、壮大なる「神町サーガ」の終わりを告げる『オーガ(ニ)ズム』の主人公は、なんと「阿部和重」である。彼はある夜突然、自宅に血塗(まみ)れで転がり込んできたCIAのケースオフィサー、ラリー・タイテルバウムに請われ、首都移転(!)によって日本の政治の中心地となり、いまや飛躍的な発展を遂げつつある故郷神町に、幼い息子を連れて舞い戻る。
 阿部は一作ごとに文体やスタイルを一変させる作家だが、今回も前二作とはまったく異なるタイプの小説となっている。特集は、ロング・インタビュー「アメリカ・天皇・日本」(聞き手は私が務めた)、精神科医の斎藤環、アメリカ文化研究の大和田俊之、小説家の樋口恭介、翻訳家・書評家の大森望、アメリカ文学者の越川芳明による作品論、小説家の小山田浩子、鴻池留衣らによる作家論、そして「『Orga(ni)sm』キーワードをめぐるよもやま話」という充実の内容となっている。阿部の小説は多くの意味で「日本文学」の閉域に留(とど)まらないハイブリッド性を有しているが、『オーガ(ニ)ズム』はその集大成である。阿部が書いた最長の小説だが、何より強調しておくべきことは無類に面白いということである。渾身(こんしん)の大作にふさわしい特集となった。
 特集といえば『すばる』10月号が「『お金』を問う」という企画をやっている。この雑誌は以前から社会的な問題と文学の現況を架橋するのが上手(うま)い。経済学者岩井克人インタビュー、社会学者の大澤真幸、評論家の山本貴光、編集者の若林恵の論考、総勢十五人によるエッセイ(『文学界』と小山田浩子と越川芳明が被(かぶ)っている)も読みごたえがあるが、企業経営者としての顔も持つ三人の作家、上田岳弘と小佐野彈と加藤秀行の鼎談(ていだん)がとても興味深い。上田は一足先に芥川賞を射止めたが、加藤も二度候補に挙げられており、小佐野は短歌で複数の賞を受賞してから小説家としてデビューした。いずれも実力派の新鋭である。ビジネスでも結果を出してきた彼らが、なぜわざわざ文学を志したのか、という当然の疑問に、ある程度まで答えてくれる。
 『すばる』に古川真人の中編「背高泡立草」が載っている。二十代後半の奈美は、母親・美穂の命により、高齢の祖母・敬子が住む母方の実家にある棄(す)て置かれた納屋周りの草刈りに駆り出される。伯母の加代子、その娘の知香、美穂と加代子の兄である伯父の哲雄と連れ立って、彼女は家に向かう。そこには<古か家>と<新しい方の家>がある。納屋は二十年も前から使われていないのに、どうして草を刈らねばならないのか、と奈美は疑問に思う。そこから小説は「家」と「家族」の過去にまつわる物語へと入っていく。捕鯨の刃刺(はざし)(鯨に銛(もり)を打つ者)の物語や酒飲みの父親にカヌーで海を渡ってこいと言われた少年の物語は、独立した短編としても読める。
 太田靖久の「アフロディーテの足」(『群像』10月号)は、画家崩れの中年男が、地下アイドルもやっている女子大生(の足)に心奪われる話である。主人公はとにかく情けなくて気色悪いし、ヒロインの言動もかなり支離滅裂なのだが、読み進めていくと、奇妙な、だがひどく切実な、怒濤(どとう)の感動が襲ってくる。これは文芸誌にはめったに載ることがない「泣ける物語」である。いや、これで泣けるひとはやや特殊かもしれないが、少なくとも私は読みながら涙が止まらなかった。(ささき・あつし=批評家)
《参照:阿部和重「Orga(ni)sm[オーガ(ニ)ズム]」 古川真人「背高泡立草」 太田靖久「アフロディーテの足」 佐々木敦》

 

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