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2019年8月31日 (土)

文芸時評・9月(産経新聞)石原千秋教授

 千葉雅也「デッドライン」(新潮)は、ゲイとして生きる「僕」が現代思想(ジル・ドゥルーズ)を学ぶまでを書いた一種の青春グラフィティーである。終わり近くの「僕は線になる。/自分自身が、自分のデッドラインになるのだ。」を読んだとき、ごく自然に次の一節が頭に浮かんだ。「血を縁に残したガラスの破片は夜明けの空気に染まりながら透明に近い。/限りなく透明に近いブルーだ。僕は立ち上がり、自分のアパートに向かって歩きながら、このガラスみたいになりたいと思った。」(村上龍『限りなく透明に近いブルー』)である。何かになりたいと思うこと、それが青春の終わりだと教えてくれる。しかし、「デッドライン」に『限りなく透明に近いブルー』の衝撃はない。

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2019年8月28日 (水)

日本は本当に「独立国家」なのかと

  日韓関係ばかりが、話題にされるが、この前提にある日米安保の不平等性にについて報道されない。アメリカの極東域の権益は、日本の基地なしに維持できない。日本は独自に米軍支援をするといって、安保条約を改正すべき時がきた。トランプは、日本に有利な条件を持っていると思っているようだが、とんでもない。日米基地協定の不平等性を主張すれば、世界はそれを当然とするであろう。米軍に100%依存するアフガニスタンですら、基地活動は政府の許可が必要としている。《日米地位協定の重大事故発生時の対応の他国との違い=島袋氏

   遠藤誉氏の発言 「日本は本当に「独立国家」なのかと考えた時に、迷いなくそれを「是」とできる人も少ないだろう。第二次世界大戦で敗戦国となってしまった日本は、アメリカの占領下で「民主化」が進行しただけであって、サンフランシスコ平和条約で「独立」を勝ち取ったと言っても、同時に日米安全保障条約の締結を余儀なくされて、アメリカ軍の「保護下(?)」での「独立」でしかない。ーーアメリカ軍の保護は要らないと言った瞬間に、日本は軍隊を持つしかないところに追い込まれる。ーー「再軍備はするが戦争はしない」と誓って軍隊を持つのか?ーーそうすれば完全な独立国家になるだろうが、それをアメリカが歓迎するのかと言えば、これもまた複雑だ。ーーここまで考えて来ると、日本もまた、実は「仮初めの独立」しか持っておらず、強い方を向くという傾向は否めない。軍隊を持ったところでよほどの強軍でない限り「強い方を向く」傾向はなくならないだろうが、少なくとも今ドナルド・トランプという大統領が現れて言論弾圧をする中国にも堂々と立ち向かっているというのに、日本は何をしているのか?ーー習近平国家主席の来日のための赤絨毯を敷くのに必死になっていたり、どこかの大臣が中国の外交部女性報道官と自撮りでツーショットを撮って嬉々としているのを見ると、何を考えているのかと、ふと「奴隷根性」という言葉が頭をよぎるのを打ち消すことができないのである。

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2019年8月27日 (火)

寝ている間に戦争が始まっていたー早乙女勝元氏

 昭和7年生まれの早乙女勝元氏は、眠っている間に戦争がはじまり、勝つと信じさせられて、東京大空襲にあい、ひどい目にあった。平和になったと思うまもなく、終戦5年目で朝鮮戦争がはじまったという。米軍はの戦争の間、米国から物資調達や軍備品の補修など、本国でやっていたら間に合わないので、日本で調達したため、日本は大忙しになった。生活のため、戦争に関連したための仕事とわかっていたが、工場で働いていたが、平和のために何かできないかと考え、20代で、小説を書いたら、それが認められ映画にもなって、20代で作家になったという。《参照:反戦は一人から始める勇気を!作家・早乙女勝元氏

 ニュースがあっても、隠したいことがあると、別の情報を流して、気づかないようにする。現在、日韓関係ばかりで、日本が米軍の基地化され、費用は日本の負担であることには触れようともしない。何十兆円も使いながらである。

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2019年8月23日 (金)

文芸同人誌「文芸復興」第38号(東京)

 堀江朋子氏の編集後記による、読解力に秀でた絶妙の掲載作品紹介があり、雑誌の品位を高めている。本号は、第二次文芸復興の同人で、第三次文芸復興の代表兼編集長を務めた会田武三氏の追悼特集を組んだ。寄せられた追悼文を読みながら会田氏が偲ばれ、寂蓼しきりである。ーーとある。
【「あしたへの心得」中嶋英二】この作品は、オーソドックスで、巧みな文章力で、兄弟の愛と異性愛(兄嫁)とを組み込んだ欲張った内容を、心理的な描写を組み込んで描いて、野心的な試みに読める。同人誌作品なので。短編であることの限界性のなかで、興味を広げる書き方に注目した。伝統的な作風があっての現代文学なので、ほっとする落ち着きを感じさせる。

 なお、あらすじについては、堀江氏の良い編集後記を引用する。ーー和夫が兄健一を嫌いになったのは、健一の専横で不遜な振舞いに気付いた小学生の頃。以来、ずっと不仲だった健}の嫁直子から、父の古稀の祝をするという知らせが来た。一方的な知らせに反擾しつつも、直子であるためと父の古稀祝の品を買いに行く。昔から直子に惹かれていた和夫は、積極的な直子に恋心を募らせる。和夫には長い付き合いの山内という、忌憚なく話せる友人がいる。その山内が、郷里の北海道に帰った。長年付き合った女から逃れる為である。直子からの電話で、健一が胃がんの手術をするという。健一の死という事が頭をよぎった、直子も同じ思いだった。直子も同じ思いだった。和夫は、北海道の牧場を経営している山内のところに行くことに決めた。幸せと不幸せの隙間をそこに見つけたのだ。今迄の作品と少し違う結末である。ーーと、ある。

発行所=〒169-0074新宿区北新宿2-6-29-415、掘江方「文芸復興社」。

紹介者=「詩人回廊」北一郎

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2019年8月21日 (水)

文芸誌「中部ぺん」第26号(名古屋市)

 カラーグラビア写真つきの「中部ペンクラブ」機関誌とみるべきであろう。地域作家の同人誌の結集力を示すもので、勢いがある。概要は《第32回中部ペンクラブ文学賞発表=中部ぺん第26号 》で解説した。ここでは、「北斗」転載の1作を紹介する。
【「うげ」棚橋鏡代】伊勢湾台風1959 年(昭和34年)の前年までの日本の家族制度のなかでの「きん」という娘の視点から見た、村社会的な共同体を形成していた時代の家族を描く。国鉄の操作場が近くにあり、無人踏切の事故では、線路工夫や自殺者の遺体が菰かぶっておいてある。焼き場のおんぼうの利一さんのこと、父親の栄一の傍若無人のふるまいも、時代のなかでは、普通のことである。とにかく、「きん」のみたことをそのままリアリズムで描き、「きん」の心情を除いて、栄一の死んだところで終わる。書き手の価値観が表現されることはない。これは、「仮想人物」を書いた徳田秋声の小説作法と並ぶところがある。ただ、書き記すことに徹する。混迷する現代文学に、投げ出されたひとつの小説の姿であろう。編集者の問題意識に感銘を受けた。
発行所=〒464-0067名古屋市千種区池下1-4-17、オクト王子ビル6F、「中部ペンクラブ」事務局。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

 

 

 

 

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2019年8月19日 (月)

ツイッターも使いよう

 ツイッターは、本来は時間の無駄。ただし、なにか商売をしている人には必需品らしい。自分は、頼まれた時だけ登録して、用が済んだら削除をしてた。今は頼まれることに対応する必要がなので、やっていない。ジャーナリストの寺澤有氏は、アマゾンで電子書籍を出版しているのと、情報提供者からの対応にやっていたが、このところ停止されたという話。《参照:ツイッター社などSNSの検閲性について寺澤有氏が語る 》このサイトの一番下にあるyoutubuは、そのビューア数からすると、本来なら5~6万円の報酬があるはずかな?。60万人くらい視て1万円の報酬だそうだから。でも、いろいろ理由をつけて払われないこともあるそうだ。

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2019年8月17日 (土)

小説のリアリズム的表現の遊離性

 小説のリアリズム表現の原則として、「ものの特徴をとらえるのに、そのものを取り囲んでる他のものとの関係の中でとらえなければならないわけだから、文章によって、モノの内容を表し、つきとめようとすれば、そのものを取り囲んで他のものに、ただちに目がとどくということがなければ、そのものの内容もまた正しくとらえることができない」と、全体小説志向の作家・野間宏は説いていたのだが、昭和前半の時代に生まれた人間には、ものの特徴のどれが特徴なのかがわからない。だから、かれらのわかり範囲のものをわかり人達向けて書く。世界は世代によって分断され、価値観も異なっている。そうなると、自分などは書くことへのモチベ―ショウンが失われてくる。書く必要がないように思える。《参照:文芸の世代的断絶の部分(5)伊藤昭一

 卑近な例でいうと、日韓関係について、識者があれこれ語るが、そこに物の本質が語られることがない。その問題のもっとも特徴的なな関係性は日米安保の日本の従属的立場にある。日韓条約の時点で、反対があって、朝鮮半島がひとつにまとまってから条約を結ばないと、条約にならないとしていた。それを米国と米国に食わしてもらっている連中が、無視黙殺して米国のご褒美をもらっているのだ。昔のことのように思うかもしれないが、歴史的にみれば昨日のことなのだ。この関係性を表現しても理解する人がどれだけいるか。リアリズム表現の理解範囲の限定性が、そこにある。

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2019年8月16日 (金)

同人雑誌季評「季刊文科」第78号=谷村順一氏

 --人生の細部ーー《対象作品》津木林洋「フェイジョアーダ」(「せる」第110号・大阪府)/中村徳昭「裸梢」「梅干茶漬け」(「30」14号・東京都)/水口道子「親切な隣人」(「あらら」第10号・香川県)/沢口みつを「縄文の祀り」(「こみゅにてぃ」第104号・埼玉県)/鮎沢しほり「アゲハチョウ」(「樹林」vol.650・大阪府)/中川由記子「ほのか」(「季刊午前」第57号・福岡市)/瀬戸みゆう「墓じまいの夜」(「(「半月」第9号・山口県)/刑部隆司「セーラー服じいちゃん」、池戸豊次「春の獅子」(「じゅん文学」第99号・愛知県)。

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2019年8月14日 (水)

東浩紀氏が「表現の不自由ーー」アドバイザー辞任へ

 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が開幕3日で中止となった問題で、芸術祭の企画アドバイザーを務める評論家の東浩紀氏が14日、辞任を申し出たことをツイッターで明らかにした。(毎日新聞8月14日)芸術祭実行委員会は「対応を検討中」としており、受理するかは未定という。
 東氏から実行委へは同日朝、連絡があったという。東氏は芸術祭の芸術監督でジャーナリストの津田大介氏に対し、企画を助言する役職に就いている。
 東氏は同日、ツイッターに「津田監督にはこの1週間、いろいろ善後策を提案していたが、採用されず、アドバイザーとしての職務を果たすのが困難な状況になった」などと投稿。辞任を伝えるメールを津田氏と実行委事務局に出したことを明かし、出展者らに謝罪した。  芸術祭に参加した作家による作品の取り下げ表明が相次いでいることを受け、東氏は13日夜、ツイッターに「これ以上ひとりでも作家が展示辞退したら、アドバイザーを辞任する」と投稿していた。【竹田直人】記者ー
ーーあいちは、天才的気質の発想をする。だからこような画期的企画も容認したのだろうけども、平凡な有象無象への現代社会に広めるのは無理でしょう。

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2019年8月13日 (火)

日本国の小規模化と生活感覚

  10年以上前に、今は亡き 鳴門道夫氏は、国家生命力の盛衰サイクルからして、当時の日本の現状を「政策の喪失による人口減」、「軍事・外交・経済、学力などの低迷」、「格差社会の到来ではなく中流階級の下流転落」、「心理的萎縮と魔女探し」、「財政破綻と次世代への付け回し現象」など、国力は歴史の峠を越えたという見解を示した。そして今後、大企業の事業部崩壊で、研究所の受託先がなくなり、さまざまな企業内の人材が社会に出ていくことを予測している。そして、同時に経団連による新事業推進への企業内意識調査報告書(2004年)の概要を説明しながら、安定志向から、退路を断った新事業開拓精神の重要性を説いた。
 いまだに、同じことを言い、大した国だといいう雰囲気に満ちている。安倍政権が「日本をとりもどす」というキャッチコピーは、かつての日本国のようでない方向に向かっていることを、示している。しかし、生活感覚ではクールジャパンとかスポーツの国際的進出などで、現実に即した感覚を失っている。隣国韓国などの話も、朝鮮半島全体が瀬戸際外交をしはじめただけのことで、そのことは大した問題ではない。問題なのは日米安保をどうするのか、が問題なのである。トランプは、北のミサイルは米国に届かなければ良い、という本来の核兵器拡大路線になっている。安保条約は、役に立たない。こうしたことになることを想定、見越してして、60年~70年の安保反対運動があったのだが、その本質を知らないひとばかりになってしまった。世界を支配する資本家の姿も変化している。ものごと、どれが正しいなどということはないのが、事実である。それを自分たちは正しいと思い込むと、異常に残酷なことを平気でするようになる。はやりのアニメカルチャーのなかに、それがあるような感じがしている。世界文学というヨーロッパ文学中心の概念も失われた。世界の潮目が変わったことを意識しないでいる生活感覚に、違和感を覚えながら、世間を眺める日々となった。《参照:文芸の世代的断絶の部分(1)伊藤昭一

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2019年8月12日 (月)

文芸誌「北方文学」第79号(柏崎市)

文芸誌【「北方文学」第79号については、「玄文社主人の書斎」に詳しくある。
【「ヘンリー・ジェームスの知ったこと(二)」柴野毅実】
 H・ジェームスの作品は、映画化された「ねじの回転」しか思い出せない。S・モームの書いたもので、触れていたような気がする。それで、他にも読んだものがあるかもしれないが、気の長い書き方にあきれて、遠ざけていた。しかし、驚いたことに、心理小説がサディズム精神に満ちたものだという指摘には、まさに、「眼からうろこ」である。イジメの原理もまさに心理的な苦痛への働きかけであろう。人間は、快感と苦痛の強いものを記憶にとどめる。評者はH・ジェームスの心理の論理的展開を解説している。そういわれれば、作品の始まりの長々しいという印象も、心理の論理的展開の前提条件であったのか、という思いもある。随所に有意義な指摘があり、思わず引き込まれてしまった評論であった。
【「泉鏡花、『水の女』の万華鏡(二)『沼夫人』における旧さと新しさ」徳間佳信】
 泉鏡花の作品が、西洋の名作から影響された様子を解説する。言葉の芸術の面でみると、かつて前衛的表現とされたものが、時間と繰り返しのなかで、成熟と進化によって、前衛性を失い、通俗化することを考えさせられる。
【「新潟県戦後五十年詩史―隣人としての詩人たち<13>」鈴木良一】
 労作であるが、今回は「北方文学」の同時代性における、詩誌の複数参加かかわる部分興味深かった。中にある詩誌「岩礁」の大井康暢( 2012年没)とは面識があった。三島での活動とも縁があったらしい。

【「和歌をめぐるふたつの言語観について(三)」石黒志保】
 仏教の基本かどうか分からないが、自分は空の概念といた金剛経の道場に通ったことがある。論旨と異なるかもしれないが「沙石集」と無住という著者の関係を知り、和歌のリズムが経文のそれと類似することへの関係について納得するものがあった。金剛経に「応無所住而生其心」とという有名な文言がある。
【「緑の妖怪」魚家明子】
 少女の語りで、植物的存在となった兄や両親の家族のなかで、妖怪の存在を信じる少女が緑の妖怪をみる。そして、成人してからも兄の秘密への想いがつきまとう。それからというところで終る。秘密性と軽やかな語りが面白く読ませる。
【「かわのほとり」柳沢そうび】
 見寿という女性は、父親が誰かもわからない子供を産んで育てている。病弱な赤ん坊の診察をしてくれるのが、カワセドウジという、何かの化身のような医師である。子供が成長すると男は姿を消す。超常的で限定的な心情を表現する。
その他、小説に【「賜物」新村苑子】がある。息せき切った当事者的迫力があるが、息子が不審死する家庭とその親族の話。事件としたものではありがちなこと。冷静に物語の、冷ややかな感覚で語る手順もあるのではないか。【「北越雪譜と苦海浄土」榎本宗俊】厳しい現実のなかに、雪に埋もれ、公害に埋もれていく多くの民衆の存在を想起させるものーーなどもある。
発行所=〒945-0076新潟県柏崎市小倉町13-14、玄文社内、「北方文学会」
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

 

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2019年8月10日 (土)

文芸同人誌の運営のコツ

 ローカル性を守ることで文芸同人誌「相模文芸」は、繁栄を継続している。ほかの自らが関連する運営について<外狩雅巳のひろば>でふれている。同人の求心力をどう作るかがコツのようだ。文芸同志会の関連同人誌は、先が見えている。それなりに努力をしたが、やむを得ない事情がある。

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2019年8月 9日 (金)

文芸時評8月(産経新聞7月28日)石原千秋教授・村上春樹と文学の老い

 半期15回の村上春樹の授業を終えた。読み直すたびに僕の作品の評価が上がっていくのがわかる。『騎士団長殺し』(新潮社)ならば、第1部が「イデア」であり、第2部が「メタファー」。イデアはある概念であり、その具体的な姿が騎士団長である。メタファーというレトリックはあるものと別のあるものが似ていることで成り立つ。これはラングとパロールとの関係で説明できそうだ。 ラングとはたとえば日本語のような概念であって姿はないから、イデアに相当する。パロールは現実に話し、書かれる日本語だから具体的でそれぞれがちがう姿をしている。では、あの人の話す言葉とこの人が話す言葉がなぜどちらも日本語だと「わかる」のかといえば、それはその2つの言葉が似ているからだ。つまりメタファー。騎士団長が1つのパロールならば、この世界にはそれに似たパロールがたくさんあるはずだ。この世界は騎士団長に似たものであふれているにちがいない。

《参照:【文芸時評】8月号 早稲田大学教授・石原千秋 村上春樹と文学の老い

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2019年8月 7日 (水)

小説に単行本と文庫本と、二回のチャンス=額賀 澪

 新人作家の単行本はびっくりするくらい売れないから」 「とりあえず、文庫が出るまで頑張って」
 家デビューした直後、いろんな人からそう言われた。二〇一五年の夏のことだ。それからおよそ三年がたち、私は十冊の単行本を刊行した。一冊出すたびに、「びっくりするくらい売れない」という言葉の意味を噛み締めることになった。
 文庫本の多くには、親本と呼ばれる元となった単行本が存在する。単行本が刊行されて数年たってから廉価版として刊行されることが多いが、最近は文庫書き下ろしという形で世に送り出される作品もたくさんある。
 大学時代、私はとんでもなく貧乏だった。飲食と家庭教師とライターのバイトを掛け持ちして、空いた時間で小説を書いて過ごしていた。書店に行っても、単行本の小説を買うことができなくて、もっぱら大学と街の図書館のお世話になった。文庫本でさえ、「この本を買うお金って一日分の食費より高いな……」などと考えながらレジに持っていった。
 普通の大学生に比べたら本を読む方だったはずの私でさえ、なかなか単行本に手を出せなかったのだ。自分の単行本がそう易々と売れるわけがない。しかし、ポジティブに捉えるなら、一つの小説に単行本と文庫本と、二回のチャンスがあるとも考えることができる。

週刊読書人ウェブ《新しい読者の入り口 作家・額賀 澪

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2019年8月 6日 (火)

文芸時評8月(東京新聞8月1日)佐々木敦氏

 今村夏子の最初の芥川賞候補作「あひる」は、先ごろ終刊となった文学ムック『たべるのがおそい』の掲載作だった。つまり今村は既存の文芸誌=純文学専門誌の掲載作では一度も芥川賞候補に挙げられていないのである。それがどうしたと言われそうだが、私にはこの事実はとても興味深いことに思える。何度か書いていることだが、考えれば考えるほど定義が困難に思えてくる「文学」は、今や実質的に「芥川賞」に紐(ひも)づけられている。『小説トリッパー』のようなマルチな小説誌から遂(つい)に芥川賞が出たということは、そのまま「文学」の地殻変動を示しているとも言えるのだ。

 村上春樹はデビュー作『風の歌を聴け』と第二作『1973年のピンボール』が芥川賞候補となったが、受賞はせず、その後は候補に挙げられることはなかった。その村上の最新短編二作が『文学界』8月号に掲載されている。約一年前に同じ雑誌に発表された「三つの短い話」(『文学界』2018年7月号)の続編だが、連作短編「一人称単数」という前にはなかった総題が附(ふ)されている。「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」は、もちろんビートルズの想(おも)い出話から始まるのだが、やがて一九六五年、高校二年生だった「僕」と、その夏に初めて出来(でき)たガールフレンド、そして今の言葉で言えば「引きこもり」に近い生活を送っていたと思われる彼女の兄との、俄(にわか)には信じがたい物語に入っていく。もうひとつの「ヤクルト・スワローズ詩集」は、ヤクルト・スワローズ(旧サンケイ・アトムズ)と神宮球場をこよなく愛する作家のエッセイ的な作品だが、題名通り途中に自作の野球詩(?)が何度も挟み込まれるのが面白い。注目すべきは、この小説の語り手が、はっきり「村上春樹」と名乗ってみせるということである。つまり「一人称単数」とは要するに「私小説」ということなのだろうか。更(さら)なる続編があるのかどうかはわからないが、これまでになく作家自身の素が表れているように読めるのは確かである。

《参照:今村夏子「むらさきのスカートの女」 村上春樹連作短編 『文藝』秋号二度の増刷 佐々木敦

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2019年8月 4日 (日)

文芸同人誌「北狄」第387号(青森市)

 本誌の前号に掲載の笹田隆志「一九九九年九月三〇日」は、東海村の原子力施設の人的なミスによる事故を、その災害対策に出動した消防隊の立場から小説化したもので、出来事の事実を伝えないでいたことに触れているので、暮らしのノートITO「文芸と思想」に特記した。何が起きているかを、メディアが伝えない風潮に対する警告にもなっている。
【「選ばれし民」福士隆三】
 イスラエルのユダヤ民族の流浪の歴史の苦労と、発想の優秀性を「イスラエルがすごい」(熊谷徹・著)をベースにした全体像を語る。そして、日本の民族性について、その比較をし、見習うべきではなかろうか、としている。たしかに、ユダヤ人系の優秀頭脳は、アインシュタインやマルクスなどノーベル賞ものの発想思想で世界的に影響を与えている。また、そうした功績があるし、頭脳的総合的優秀性は際立っている。ヤハヴェのユダヤ教と日本の神社神道と発想が異なるが、似ているという説もある。そこで、経済循環的に衰退期に入った日本国の参考に出来る面を取り上げたもの。ただ、イスラエルという国家とユダヤ民族とは同一に思えないが、こうした論は少ないので参考にはなる。
【「回想する伊都子」秋村健二】
 70代後半の女性の体験談の独白を記録した形式の話。女性は思春期ともいえる若さなのに、村の有力者から頼まれる。何でもその家の息子が嫁をもらう筈であったが、どこかに無理があって、恋人らしき男と共に姿を消したという。そこで、家の手前、息子の結婚の披露宴をしなければ恥になる。そこで、形だけでも整えるため、披露宴の花嫁の代役だけをして欲しという。しつこい依頼に折れて、それを承諾。嫁ぐことになる。そこから女性の数奇な人生を送る。数奇と言っても、日本の家長制度と村社会のなかで翻弄されたもので、今でもその名残を知る人には、納得のいく興味深い内容である。
【「天守に祈る」青柳隼人】
 多発性骨髄腫というのは、大変な難病らしい。息子がその病気になったことと、家族としての心痛と、友人関係を描く。小説としてあれこれ、旅先での風物などを細かく描いた労作である。このような状況を描く創作は珍しいので、なるほどこのようになるか、と納得した。実際には、自分は、ずっと若い妹が癌で、あっという間に亡くなって、2度の見舞い面会しかできなかった思い残しがあるが、そのことについて、なにも書いていない。まだ、物語化する手がかりをつかめていないのが現状である。そこが創作の難しさであろう。
発行所=038-0021青森市安田近野435-16、北狄社。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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2019年8月 3日 (土)

西日本文学展望「西日本新聞」7月31日・朝刊・茶園梨加氏

題「題名」
寺井順一さん「紫の雨に濡(ぬ)れて」(「西九州文学」42号、長崎県大村市)、山川文子さん「アイスキャンデー」(「佐賀文学」36号、佐賀県嬉野市)
川村道行さん「FAIR & UNPREJUDICE」(「海」22号、福岡市)、六月田語さん「個室の窓から」(「風」21号、福岡県筑紫野市)、西浜武夫さん「誾千代姫 第二話」(「ほりわり」33号、福岡県柳川市)
「草茫々通信」13号(佐賀市)

文芸同人誌案内・掲示版」8月1日(ひわきさんまとめ)

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2019年8月 1日 (木)

自由報道協会が名称を(公社)日本ジャーナリスト協会に

 自由報道協会が、令和1年8月1日より名称を「公益社団法人日本ジャーナリスト協会」に変更した。かつての協会の役割は、世間に自らの意見、見解をもつ人々に記者会見の場を提供するというものであった。また、ジャーナリスト志望の学生たちをインターンとして採用し活動できるというものであった。設立したのは、現在は、僧侶でジャーナリストでジャーナリストであった上杉隆氏であった。《参照:上杉隆氏が僧侶に!新時代へ「犀の角のごとく」》自分が入会したときは、ライブドア外部ネットニュース部門PJニュースの記者をしていた時である。民主党政権での政治家たちの記者会見があり、有意義なものであったが、次第にその活動が不活発になり、自分は文芸同志会の方が活動として意義があると判断、昨年退会をしている。今後についてはHPに苫米地会長の展望がある。似ているが違いがある。文芸同志会では本サイトほかに「暮らしのノートITO」と「詩人回廊」の表現の場をもち、代表の認証を得ることで、サイト掲載一回800円の手数料で、表現掲示をしている。表現の場を持つという点では、当会により意義があると思う。

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