文芸時評6月(東京新聞6月27日)「如何様」、「ラップ 最後の旅」、「花束と水葬」=佐々木敦氏
物語の舞台は先の戦争が終わって間もない頃、記者をしながら探偵のようなこともやっている女性の「私」は、知り合いの榎田から奇妙な仕事を依頼される。
榎田がよく仕事を頼んでいた画家の平泉貫一が、大戦末期に兵隊に取られ、終戦を迎えてからもしばらく捕虜として収容されたのち、復員した。貫一の両親と、手違いで貫一とは一度も顔を合わせることなく嫁入りした妻のタエはよろこんで息子であり夫である男を迎えたが、やがて貫一は行方知れずになってしまった。しかも貫一の人相は、戦争に行く前と帰ってきてからでは、似ても似つかないほどに違っていた。
榎田は別人が貫一に成り済ましているのではないかと疑い、事の真偽を調査するよう「私」を雇ったのだった。「私」はタエや貫一とかかわりのあった人たちを訪ね、失踪した男の正体を探っていく。
高山の小説はいつも、明らかに故意に選び取られている読者に対する説明の抑制が、ただでさえ謎めいた物語を、より不可解に、それゆえ魅惑的にしていくのだが、この作品も途中から迷宮に入り込んでゆく。
戦前と戦後の貫一の二枚の写真は、どう見ても別の男なのだが、証言者たちの話を総合すると、それでもやはり同じ人物であるかのように思えてくる。そして「私」は、貫一が極めて腕の良い贋作(がんさく)画家であり、自分自身も変装の名手であったということを知る…。
題名の「如何様」には「イカサマ」とルビが振られているが、「いかよう」とも読める。まさにこれはいかようにも読める小説である。超常的な描写は一度も出てこないが、これは一種の幻想譚(たん)でもある。本物と瓜(うり)二つの贋(にせ)物、本物の代わりを完璧に務めている贋物は、もはや贋ではないのではないか。そもそも「本物」とは何か? 「本物」であることにどれほどの意味があるというのか? 作者はこんな問いを発しているように思われる。
仏文学者で文芸評論家の芳川泰久による小説「ラップ 最後の旅」(『文学界』7月号)は、私小説のような体裁を取っているが、かなり野心的な作品である。
五十五歳を迎えた大学教授の「おれ」は、自分は五十五歳で死ぬと予言して実際その通りになった母親のことを思い出す。母が亡くなってまもなく生まれた娘も今は二十三歳で、クマのような男と結婚すると言っている。「おれ」は母親が死ぬ前に口にした「また生まれてきたら、おまえを生みたい」という言葉がひどく気になり始める。
それからもう一つ、なんと母方の一族が松尾芭蕉の血筋を引いているという妄想めいた話も。母親の遺(のこ)したノートには俳句が記されていた。「おれ」も俳句を始めようと思うが、実は娘も小学校の時に俳句を詠んでいたことが発覚する。その娘が妊娠した。ということは娘は母親の生まれ変わりで、生まれてくる子は「おれ」の生まれ変わりになるのか?
テーマは「輪廻(りんね)」である。亡き母親の過剰な愛情の記憶に衝(つ)き動かされるように右往左往する「おれ」の姿は笑いを誘うが、更(さら)には題名通り、俳句だったはずが、なぜか後半今風のラップ調になってしまうのが面白い。本気なのか巫山戯(ふざけ)ているのかわからない、妙な味のある小説である。ラストも綺麗(きれい)に決まっている。
高橋弘希「花束と水葬」(『すばる』7月号)は、学生時代にインドに短期留学をした「私」がその後に体験した、衝撃的といっていい出来事を、しごく淡々とした筆致で綴(つづ)った短編である。偶然だが、この作品でも「輪廻」という考え方(をどう捉えるか)が重要な意味を持っている。書き込めばもっと長くなる内容を、敢(あ)えてこの分量に留(とど)めることによって、却(かえ)って小説としての密度が増している。芥川賞受賞後、高橋は少しずつ作風を変えつつあるようだ。この路線は支持したい。(ささき・あつし=批評家)
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