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2019年5月16日 (木)

流れをつくるのか、流されるのかのカルチャー

 たまたま雑誌「TH}を読む機会ができたので、目を通していた。グラビアには、前衛アート作品と作家紹介。あとは、時代評論とイベント評と書評が多い。小説そのもは見当たらないか、地味でみつからないかだ。《参照:文学フリマを雑誌「TH」に広告記事で寄稿=奥村と伊藤 》 すると、そこに扱われたものは、時代を表すのか、時代をつくるのか、の想いがが出てきた。いわゆる、デジタル配信映像・音楽などと一線を画すには、コンサートや演劇の実観賞についての情報が主になるので、これが時代の流れに沿い、時代を引っ張ることになるのかもしれない。

 もうひとつ、目を惹いたのが、作家・友成純一の「建設という破壊ー極私的平成の30年間ー街並みから人間の匂いが消えていった」である。彼は、作家として平成時代を謳歌したが、同時に落ちぶれる時代であったという。大衆小説というのは、時代に沿ったものを書かねばならないが、そのためには、編集者の意見を聴き、アドバイスが必要とされる。彼はある時期、本の金が入ったのでロンドン行ったていたらしい。おそらく、そこで編集者との情報交換が来たためであろうか、書くことから離れた生活に入ったことが書かれている。

 生活をするということは、時代に沿っているということだが、それが編集者の求める作風と合致しないと、書いても買ってくれないというこtpなのだろう。

 

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