文芸時評4月(産経新聞3月31日)石原千秋教授
総長が祝辞で「いま人類は最も変化の速い時代を経験している。しかし、これほど変化の遅い時代を経験することは二度とないだろう」というようなことを言っている。「ホー、洒落(しゃれ)ているなあ」と思ったら、カナダの首相の言葉だそうだ。要するに、これから人類の経験する変化はこんなものではありませんよということだが、みごとなレトリックだ。 なにがそれほどまでに変化を加速させるのだろう。もちろん科学である。いま科学は脳と人工知能の研究に集中しているようにさえ見える。いや僕が問いたいのは、なぜ人類はそんなに変化を加速させたがっているのかだった。もちろん欲望がそうさせるのである。それは誰の欲望で、その欲望に宛先(あてさき)はあるのだろうか。
川上未映子「夏物語」(文学界)千枚が、先月と今月で完結した。精子提供で生まれた人が連鎖する人工授精をめぐる物語。作家になった夏目夏子は若い頃からセックスに拒絶反応があり、未婚のままAID(配偶者の関係にない者同士の人工授精)を選ぶ。相手は、AIDの会合で運命のように出会ったフリーの医師・逢沢潤。彼もAIDでーー
こうしたストーリーを踏まえると、終わり近くのこの文章をどう読めばいいのか途方に暮れる。「逢沢さんと子どもを作ることを決めたのは二〇一七年の暮れで、わたしたちはいくつかの約束をした。」。問題は「と」だ。「逢沢さんと」「作る」のか、「逢沢さんと」「決めた」のか。「逢沢さんと」「決めた」ことはまちがいない。しかし、これを「逢沢さんと」「作る」と言えるのだろうか。だとすると、「と」だろうか。それに、二人は互いに好意を持っている。だとすれば、このAIDは夏目夏子のセックスへの拒絶だけが理由になる。そういう恋愛小説なのか。かつては「借り腹」という残酷な言葉があった。それなら、夏目夏子が逢沢潤に精子を提供されて子どもを生むのではなく、逢沢潤が夏目夏子の腹を借りるのではないのか。「精子提供で生まれた人が連鎖する人工授精をめぐる物語」と読むなら、主人公は夏目夏子ではなく逢沢潤であって、その方が筋が通っている。参照《【文芸時評】4月号 早稲田大学教授・石原千秋 宛先のない欲望》》
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