同人誌評「図書新聞」(6月1日)評者・越田秀男氏
(一部抜粋)「あるかいど」の佐伯晋さんは昨年のGWにタンザニアを訪れ、旅行記『クレーターの底で』を発表(65号)、その末尾のマサイの格言がおもしろい――「孤独と危険は見分けにくい」(孤独でいることは、危険に直面していることと同じで、不吉である‥佐伯さんの解釈)。木枯し紋次郎はカッコ良かったが、実際の人間は〈孤独〉と〈群れ〉の両端の間を右往左往、右顧左眄している。
『親切な隣人』(水口道子/「あらら」10号)――一人息子が犬の武蔵を残して東京に出てしまうと、主人公は妻に家庭内離婚を迫られ、ふて腐れて承諾。物語前半の狐憑きの話も後半を暗示しおもしろい。家庭内離婚、一度試してみたら?
『岩陰の金魚』(小川結/「穀雨」24号)――少女らの性的稚戯はごく自然な行為。しかしそれが思春期まで、となると……主人公と従姉の場合は従姉が義父に性的虐待を受けていた。それが主人公に感染して男に対する強度の人見知りに陥っていた。従姉は自分の姿を井伏鱒二の『山椒魚』に喩えた。
『春の獅子』(池戸豊次/「じゅん文学」99号)――神戸育ちの主人公のキシは、大震災と婚約者の不倫を契機に母方の祖母の家(岐阜・郡上)に身を寄せる。やがて奥美濃に住む幼なじみと結婚、子を授かることなく8年……この村に食い詰めてやるかたなく〝叫ぶ男〟に変じた鼻つまみ者が出現。キシはなぜかこの男に同情する。根に流産した元婚約者との児への思いが。
『成人―続・ミタラシ―』(南奈乃/「てくる」25号)――母・姉妹の母子家庭完結編。姉はようやく生活の道を開くも、妹は離婚調停中。二十歳となり、母親に元亭主から養育費打ち切りの連絡、わずかな繋がりが切れた。母娘にまとわりつくストーカー男、彼も母子家庭だったのだが、母が急死、二人から身を引く。娘に自立の心が芽生え「ママこそいい加減に、自分の人生を生きてよ」。
『行く人』(城耕悠/「南溟」6号)――「谷をはさんで、南北に二つの丘がある」、一方は「丘の上の葬祭場」、一方は「天空農園」。都会を逃れて農園を拓いた女性と、死に直面した建設会社会長との交情と看取りの物語。幼少期の記憶と大震災、母の死を重ねた。『行く人』の丘も死と生の象徴だが、なんとも羨ましい看取られ方。
『暗い谷へ』(糟屋和美/「ふくやま文学」)――遠い地の小学校に転校した主人公は、人見知りを解消してくれる明るい少女に出合った。少女の父親は戦地で結核に罹り歩行不全、母親が夫・姑・四人の子の生活を支えていたが、支えきれず出奔。夫は自殺。一家離散。空き家には兎の縫いぐるみが、主人公が遊び飽きたものを母が少女にプレゼントしていた。明るい少女と無残な縫いぐるみ、明暗の対比。
『西大門』(小松原蘭」/「季刊遠近69号)――妓生ツアーが盛んなバブル期、商社外商部の父親は妻と娘の私を伴い韓国に。妻娘の日常は雇ったメイド任せ。私はその娘と仲良しに。だが台風と洪水でメイド親娘の家が倒壊、再建に父は娘を買った!私は15年後に再び韓国を訪れる。近代化顕著な韓国社会、日本に向けた愛憎の一断面が活写される。
『フェイジョアーダ』(津木林洋/「せる」110号)――医者の息子二人は順調に跡継ぎの道を進んだのに、三男は座礁し、退潮期の学生運動に加わる。内ゲバ、殺人幇助罪で指名手配。ストリップ小屋に身を隠すと、日系ブラジル人のダンサーと懇意に。彼女の手料理がフェイジョアーダ。その後警察が劇場に踏み込み彼女は強制送還。彼は懲役刑。出所後、必死に彼女を探すがみつからず……彼はブラジル料理店を自前で開き、今も彼女の帰りを待っている。
同誌では、益池成和さんが『義歯を洗う』を〝エッセイ〟として発表。仲間に、小説と随筆の違いを問われた。小説は「言うべきこと」を「物語に仮託」する。この婉曲法は、なかなか便利ではある。だが益池さんはこの仮託が苦手になってきたと編集後記で書いている。年のせい? 〝義歯を洗う〟は母の義歯、介護・介助の象徴だ。切実な思いを表現化しようとするとき、仮託的方法が逆に煩わしくもなる、と理解した。(風の森同人)《参照:家族という小さな群れの中で(「あらら」「穀雨」「じゅん文学」)・韓国社会の日本人に向けた愛憎の一断面を活写(「季刊遠近」)》
| 固定リンク
コメント