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2019年5月29日 (水)

文芸同人誌「あるかいど」第66号(大阪市)(下)

【「ヒナネコの唄」切塗よしお】

 小さな芸能プロダクションが、スター芸人などはいないのに、なんとか興業を続けている様子を描く物語。とにかく読んで面白い。しかもそうと長い話でエピソードも充分。納得させる読み物である。物足りないところもあるが、まとまっている。これほどの読み物でも、自費で発表するしかないの、と思ってしまう。しかし時代の環境を考えれば、そんな発想は古いものになるのであろう。

【「むらすすめ」奥畑信子】

 第4回藤本義一文学賞受賞作品とある。ほんのりとしたホームドラマ風の登場人物と筋の運びが、手際良く整理された文章できれいにすっきり描かれている。同系統の作風の普通の同人誌作品と異なるのが、どこかというと、話が横にそれずに問題提起がはっきりしているところであろう。普通多くあるのが、読み始めてこの作者が何を語ろうとしているのかが、しばらく読み続けてからでないとわからないところがある。だから、出だしで興味を失い読むのをやめてしまうのもある。この作品にはそれがない。このことは、微差のように見えるが、広い読者に向けてを考えれば、大差になる。余談だが、藤本義一には彼の全盛期、企業PR誌向けにコラム原稿依頼をした。放送局に入るので、取りにくれば良いというので、大阪の社員に行ってもらった。その社員のいうのには、注文をそこで訊いて、放送の合間に2枚の原稿をさらさらと書いて渡してくれたそうである。内容もオチがあって面白い。流石……と驚嘆した記憶がある。

【評論「関係性の文学―ポスト・モダン」高畠寛】

 これは10年程前に作者が「樹林」に書いたものをまとめたものだとある。これを読むと思想のテーマは時間軸が長く、特に昔の話だからどうのこうのということもなく読める。リオータールの説く、ポストモダンが、マルクス主義思想を含む「大きな物語」からの脱却をはかろうとする思想。ここでは、筆者がポール・オースターの作品を読み、構造主義を論じ、そのなかでポスト・モダンの文学的位置づけを論じている。モダン(近代)「主体性の文学」から、ポスト・モダン(現代)関係性の文学へ。真の主人公(主体性)の喪失。主人公にともなうスト―リー喪失。それにかわるものとして、偶然(関係性)への移行。などとして、関係性の文学としたもののようだ。そして日野啓三の小説「夢の島」の作風にその興味を収斂させていく。なるほど、なるほどと、その視点の面白さに引き込まれる。ジャーナリズムに操られる国民批判も生きている。こういうのは大いに頭の体操になる。

【評論「十四歳で見たものー林京子『祭りの場』より」向井幸】

 今、林京子の作品を読むには、どうすれば良いのか。存在を知っていて、そのうちに読もうと思っているうちに、簡単に読めなくなる環境になっている。本作で、非常に恐ろしい原爆被爆者のことを描いていて、その抜粋が大変迫力がある。高畠氏の評論でもそうだが、適切な引用の大切さを思い知らされた。

発行所=〒545-0042大阪市阿倍野区丸山通2-4-10-203、高畠方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

 

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2019年5月28日 (火)

同人誌評「図書新聞」(6月1日)評者・越田秀男氏

 (一部抜粋)「あるかいど」の佐伯晋さんは昨年のGWにタンザニアを訪れ、旅行記『クレーターの底で』を発表(65号)、その末尾のマサイの格言がおもしろい――「孤独と危険は見分けにくい」(孤独でいることは、危険に直面していることと同じで、不吉である‥佐伯さんの解釈)。木枯し紋次郎はカッコ良かったが、実際の人間は〈孤独〉と〈群れ〉の両端の間を右往左往、右顧左眄している。
 『親切な隣人』(水口道子/「あらら」10号)――一人息子が犬の武蔵を残して東京に出てしまうと、主人公は妻に家庭内離婚を迫られ、ふて腐れて承諾。物語前半の狐憑きの話も後半を暗示しおもしろい。家庭内離婚、一度試してみたら?
 『岩陰の金魚』(小川結/「穀雨」24号)――少女らの性的稚戯はごく自然な行為。しかしそれが思春期まで、となると……主人公と従姉の場合は従姉が義父に性的虐待を受けていた。それが主人公に感染して男に対する強度の人見知りに陥っていた。従姉は自分の姿を井伏鱒二の『山椒魚』に喩えた。
 『春の獅子』(池戸豊次/「じゅん文学」99号)――神戸育ちの主人公のキシは、大震災と婚約者の不倫を契機に母方の祖母の家(岐阜・郡上)に身を寄せる。やがて奥美濃に住む幼なじみと結婚、子を授かることなく8年……この村に食い詰めてやるかたなく〝叫ぶ男〟に変じた鼻つまみ者が出現。キシはなぜかこの男に同情する。根に流産した元婚約者との児への思いが。
 『成人―続・ミタラシ―』(南奈乃/「てくる」25号)――母・姉妹の母子家庭完結編。姉はようやく生活の道を開くも、妹は離婚調停中。二十歳となり、母親に元亭主から養育費打ち切りの連絡、わずかな繋がりが切れた。母娘にまとわりつくストーカー男、彼も母子家庭だったのだが、母が急死、二人から身を引く。娘に自立の心が芽生え「ママこそいい加減に、自分の人生を生きてよ」。
 『行く人』(城耕悠/「南溟」6号)――「谷をはさんで、南北に二つの丘がある」、一方は「丘の上の葬祭場」、一方は「天空農園」。都会を逃れて農園を拓いた女性と、死に直面した建設会社会長との交情と看取りの物語。幼少期の記憶と大震災、母の死を重ねた。『行く人』の丘も死と生の象徴だが、なんとも羨ましい看取られ方。
 『暗い谷へ』(糟屋和美/「ふくやま文学」)――遠い地の小学校に転校した主人公は、人見知りを解消してくれる明るい少女に出合った。少女の父親は戦地で結核に罹り歩行不全、母親が夫・姑・四人の子の生活を支えていたが、支えきれず出奔。夫は自殺。一家離散。空き家には兎の縫いぐるみが、主人公が遊び飽きたものを母が少女にプレゼントしていた。明るい少女と無残な縫いぐるみ、明暗の対比。
 『西大門』(小松原蘭」/「季刊遠近69号)――妓生ツアーが盛んなバブル期、商社外商部の父親は妻と娘の私を伴い韓国に。妻娘の日常は雇ったメイド任せ。私はその娘と仲良しに。だが台風と洪水でメイド親娘の家が倒壊、再建に父は娘を買った!私は15年後に再び韓国を訪れる。近代化顕著な韓国社会、日本に向けた愛憎の一断面が活写される。
 『フェイジョアーダ』(津木林洋/「せる」110号)――医者の息子二人は順調に跡継ぎの道を進んだのに、三男は座礁し、退潮期の学生運動に加わる。内ゲバ、殺人幇助罪で指名手配。ストリップ小屋に身を隠すと、日系ブラジル人のダンサーと懇意に。彼女の手料理がフェイジョアーダ。その後警察が劇場に踏み込み彼女は強制送還。彼は懲役刑。出所後、必死に彼女を探すがみつからず……彼はブラジル料理店を自前で開き、今も彼女の帰りを待っている。
 同誌では、益池成和さんが『義歯を洗う』を〝エッセイ〟として発表。仲間に、小説と随筆の違いを問われた。小説は「言うべきこと」を「物語に仮託」する。この婉曲法は、なかなか便利ではある。だが益池さんはこの仮託が苦手になってきたと編集後記で書いている。年のせい? 〝義歯を洗う〟は母の義歯、介護・介助の象徴だ。切実な思いを表現化しようとするとき、仮託的方法が逆に煩わしくもなる、と理解した。(風の森同人)《参照:家族という小さな群れの中で(「あらら」「穀雨」「じゅん文学」)・韓国社会の日本人に向けた愛憎の一断面を活写(「季刊遠近」)

 

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2019年5月27日 (月)

文人碁会のこのごろ

 文人碁会に土曜日に参加してきた。記録を調べるとずいぶん参加してきたものだ。これを楽しみに近県からやってくる人たちもいるから、気分転換にはなる。自分は「詩人碁会」から参加したので、くわしい経緯はわからない。世話人の三好徹氏にも第18回かの時に、顔を出したが、それ以降は、もっぱら朝日新聞の観戦記者をしていた秋山賢司氏と郷原宏氏が世話人をしている。自分の参加した時を集めてリンクしてみたら、結構多い。《参照:文人碁会(第24回)2019年(春)を開催

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2019年5月26日 (日)

小学館が黒字決算に

    小学館が5月24日、株主総会および取締役会を行い、第81期(H30.3.1~同31.2.28)決算と役員人事を承認した。売上高は970億5200万円(前年比2.6%増)、経常利益は43億9800万円(同1305.1%増)、当期利益は35億1800万円(前年は5億7200万円の損失)。第77期以来4期ぶりの黒字決算となった。売上高の内訳は、「出版売上げ」544億8500万円(前年比4.1%減)、「広告収入」105億7200万円(同10.6%増)、「デジタル収入」205億3100万円(同16.0%増)、「版権収入等」114億6400万円(同9.6%増)。

 デジタル対応がビジネスになってきているのと、 過去ので遺産での収益改善である。

 

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2019年5月24日 (金)

文芸同人誌「あるかいど」第66号(大阪市)(上)

文芸同人誌「あるかいど」第66号(大阪市)

【「何もないところ」木村誠子

 28歳の「ぼく」がナミビアに行く。そうする事情は、ぶんちゃんと呼ぶ父親か祖父筋とかの親族の意志によるのらしい。これは、作者が物語づくりに必要される設定上の仕組みであろうか。このなかでの読み物はナミビ砂漠とその周辺に関する描写である。湿潤な日本とはかけ離れた風景の雰囲気が心を明るくする。これは、実際がどうかというより、作者の想像力の表現によるものであろう。その表現のために、細く薄い物語の糸を埋め込んでいる。その小説の理屈に沿った仕掛けと、砂漠の組み合わせが巧いと感じ、良質の詩精神をみる。自分の考えでは、まとまりを重視しないで純文学に向かう方法もあるのではないか。砂漠を体験している「ぼく」精神をもっと深めた方がそれらしいような形になるような気がする。

【「そこからの眺め」高原あうち】

 「ぼく」の小学生時代の時、クラスに両手の小さい身体障害をもつ女性生徒ヒロコがいた。彼女がクラスでイジメを受けて、それを撃退する様子をみている。その彼女と30代にになって再開する。「ぼく」が副業的な落語家をしている時に、彼女が現れファンを増やしてくれる。彼女はバツイチで子持ちの立場に負けずに意欲的に生活している。その彼女が「私」に求婚してくるが、それを断る。そのことで、彼女に対するコンプレックスを意識する。話の運びと現代的な風俗を組み合わせて、気をそらさない話の運びである。話の構造もしっかりしている。はっきりした性格のヒロコと曖昧な「ぼく」その二人の人生態度が、会社の貸借対照表のようにピタリと気持ち良く合って、きちんと納まっている。面白いからいいか、と思う一方でドストエフスキーの「2+2が4であることが、人間的には納得できない」という発想が頭をよぎる。

【「蘇鉄の日」久里しえ】

 近年、女性の性的な被害が、表ざたになってきている。しかし、社会はその味方をするような動きは鈍い。抵抗運動の活発化の範囲を出ていない実情がある。しかし、ここでは佳子という少女が、変質者による性的な被害を受ける。誰にも話せず、祖母に打ち明けるが、誰にもいわずにいろと言われる。その隠されたトラウマの深さを表現する。おそらく、多く女性が何らかの形で経験してるが、語らずにいる一例なのであろう。書くモチベーションの強い作品である。家族の設定とその様子の表現力も優れている。仮に、この佳子が成人して社会でどれほど成功者としてスポットライトを浴びたとしても、その心の奥にこの事件は、トラウマの影を刻んでいるのであろう。おそらく多くの女性の琴線に触れるものがあるのではなかろうか。

【「死にたい病」住田真理子】

 裕福な家の一人娘の絵里の母親が、夫を亡くして病もちになり、79歳になって、夫と暮らしたマンションを売って、豊橋の高層マンションに住む。彼女の夫は義母と性格が合わず、絵里だけが母親の相手をする。母親には、娘だけが頼りなのであるが、絵里にすれば悪い物に取りつかれたような、気分になる。そうなった事情も語られる。なかで、母親の面倒を絵里が見るところの、典型的な状況の説明は、具体的で女性ならではの、きめ細かい描写で圧巻である。母親の死にたい、死にたいという口癖があっても、精神病ではないと診断されるというのも、皮肉な話である。

 発行所=〒545-0042大阪市阿倍野区丸山通2-4-10-203、高畠方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

 

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2019年5月23日 (木)

作品紹介のあり方を検討

 御恵送される文芸同人誌は、到着順に読んでいるが、なにしろそれぞれの文芸観が理解できてありがたい。最近読んでいる途中のメモがみつかって、読み直してみると、メモしにある重要な意見が盛り込まれていない。読むより、それをどう紹介するかの、自分の文学観との照合をして紹介文を書く方が時間がかかる。いろいろ感想がいくつもあるために、メモにしたものを書き忘れているらしい。そこで、今後は、終わりまで読み終わらいが、先に読んだ順に分割して紹介することを考えている。

 それと、最近のことだが、小説家になろうに、投稿してあった北一郎名義の小説は、18禁に相当する部分があるので、書き換える、その部分を削除するように、という連絡が来た。パスワードをわすれたので、対応が遅れたら、削除されていた。この作品は文学フリマの公募がったので、一種種の盛り上げ参加だったので、どうでも良いのであるが、この作品を詠んだ形跡のあるのは一人だけであった。それだけ読まれない作品から、チェック条項を見つけたのは、おそらく人工知能を使ったにちがいない。ただ、それほどとは思えない、しかもストーリーの伏線の部分がだめということは、それを公開するには紙媒体が適しているということになる。

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2019年5月21日 (火)

文芸時評5月(産経新聞4月28日) 早稲田大学教授・石原千秋 「社会貢献」

 保坂和志と郡司ペギオ幸夫の対談「芸術を憧れる哲学」(群像)が面白い。郡司ペギオ幸夫は『天然知能』(講談社選書メチエ)で、何事も数値化して世界に働きかけるAIに対して、「徹底した受動性の肯定的転回」を主張しようと考えたと言う。郡司ペギオ幸夫の話はほとんど現代思想の良質の解説を読んでいるような趣があるが、なかに科学の社会貢献の話題が出る。物理学の社会貢献をずっと考えてきたという学生に、こう語ったのだと言う。「物理がいいといっても、カップに水を入れると、水はカップの形になりますね。そうすると、水はカップの形をしたものだと。自分の観測装置だとか認識様式に応じて物事を決めて、あとはできるだけ徹底してそれだけを見るという形にすれば、水はカップの形をしているのが正しいということになりますね。それは極端な言い方に聞こえるけれども、結局、科学の正しさというのはそういうもので、それを全面的に展開しているだけなんです。外部に対する違和感だとかいうものを考えることは全く関係がない話だと、僕は言ったんですね」と。

今月は文学界新人賞発表の月。受賞作は奥野紗世子「逃げ水は街の血潮」と田村広済「レンファント」。どちらも見かけ倒しの尻すぼみで、読んでいて「小説をなめるな!」と腹が立ってきた。

 奥野紗世子「逃げ水は町の血潮」は、もう26歳なのにまだゴアゴアガールズというグループで地下アイドルをやっている工藤朝子が、まあそれなりにセックスややんちゃをやって、最後は同じグループの星島ミグと少しだけ遠出をして、2人で朝風呂に入る。染めたばかりの髪を洗うとピンクのお湯が流れて、「視界がピンク一色に染まっていた。結露したガラス越しに星島ミグがこちらを見た。/地団駄(じだんだ)を踏むように大きく『はやく』と言ったのがわかった。」でおしまい。はい、いかにも小説らしく少しおセンチに終われました。セックスややんちゃが既視感バリバリで、「限りなく透明に近いピンク」にはまったくなっていない。参照《文芸時評】5月号 早稲田大学教授・石原千秋 「社会貢献」

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2019年5月20日 (月)

新刊「感情天皇論」で「天皇制の断念」を主張 大塚英志氏

 天皇制を断念しよう-。批評家の大塚英志(えいじ)さん(60)は四月に刊行した『感情天皇論』(ちくま新書)で、そんな主張をした。「天皇制はわれわれが公共性をつくることを妨げている」。日本で民主主義を機能させるために、導き出した結論だという。

 「近代より前の庶民は村の中で人生を終えることができた。誰かとすれ違ったら、あの人は誰ってすぐに分かる」。そんな暮らしは明治以降に一変した。「村から東京にやってきたら、隣の人が何を考えているかも分からない。そういう状態から、社会はどうあるべきかという公共性をつくらなければいけなかった」

 社会を築くためには言葉を闘わせ、ともに暮らせる条件をさぐる必要がある。「それが『みんなが天皇を好きだから』でおしまいになった」。戦前・戦中には「天皇」という言葉によって、国民は不合理な政策も受け入れるようになる。

 新憲法のもとでも、公共性をつくる難しさは変わらない-と考える。憲法第一条は天皇の地位について「主権の存する日本国民の総意に基く」と定める。「その総意を示す手続きがないのに、天皇は公共性を表していることになっている」

 大塚さんは二〇〇〇年代に入る頃まで、天皇制を認める立場をとってきた。「天皇は権威として権力の暴走を抑止する機能があるかなと思っていた」。考えを変えたのは、イラク戦争が起きた〇三年のとき。フセイン政権が大量破壊兵器を保有しているかどうかあいまいなまま、日本政府はイラクへの自衛隊派遣を決めた。「一つの主権国家を滅ぼすことが、言葉による合理性ではなく、感情で是とされてしまった」。社会の右傾化が言われ始めた時期とも重なり、「これは公共性をつくれなかったからなんだなって」。

 『感情天皇論』は日本の民主主義の難点として天皇制とともに社会の「感情化」を挙げる。「気持ちと気持ちが通じればいみたいなコミュニケーションが広がった」。感情に共感しあうことは議論で合意することとは違う。共感できない「他者」を社会から排除することにつながるからだ。

 大塚さんは「感情化」が天皇制を巻き込み、天皇の「象徴としての務め」のほとんどが国民に対する感情労働になっていると指摘する。「前の天皇の夫婦は最後まで立ったまま列車の中で手を振っていたけれど、あれがどれくらい人としてストレスがたまるか」参照《東京新聞=「感情」で社会築けぬ 新刊で「天皇制の断念」を主張 大塚英志さん(批評家)

 

新刊で「天皇制の断念」を主張 大塚英志さん

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2019年5月18日 (土)

文芸時評4月(産経新聞3月31日)石原千秋教授

    総長が祝辞で「いま人類は最も変化の速い時代を経験している。しかし、これほど変化の遅い時代を経験することは二度とないだろう」というようなことを言っている。「ホー、洒落(しゃれ)ているなあ」と思ったら、カナダの首相の言葉だそうだ。要するに、これから人類の経験する変化はこんなものではありませんよということだが、みごとなレトリックだ。 なにがそれほどまでに変化を加速させるのだろう。もちろん科学である。いま科学は脳と人工知能の研究に集中しているようにさえ見える。いや僕が問いたいのは、なぜ人類はそんなに変化を加速させたがっているのかだった。もちろん欲望がそうさせるのである。それは誰の欲望で、その欲望に宛先(あてさき)はあるのだろうか。

 川上未映子「夏物語」(文学界)千枚が、先月と今月で完結した。精子提供で生まれた人が連鎖する人工授精をめぐる物語。作家になった夏目夏子は若い頃からセックスに拒絶反応があり、未婚のままAID(配偶者の関係にない者同士の人工授精)を選ぶ。相手は、AIDの会合で運命のように出会ったフリーの医師・逢沢潤。彼もAIDでーー

 こうしたストーリーを踏まえると、終わり近くのこの文章をどう読めばいいのか途方に暮れる。「逢沢さんと子どもを作ることを決めたのは二〇一七年の暮れで、わたしたちはいくつかの約束をした。」。問題は「と」だ。「逢沢さんと」「作る」のか、「逢沢さんと」「決めた」のか。「逢沢さんと」「決めた」ことはまちがいない。しかし、これを「逢沢さんと」「作る」と言えるのだろうか。だとすると、「と」だろうか。それに、二人は互いに好意を持っている。だとすれば、このAIDは夏目夏子のセックスへの拒絶だけが理由になる。そういう恋愛小説なのか。かつては「借り腹」という残酷な言葉があった。それなら、夏目夏子が逢沢潤に精子を提供されて子どもを生むのではなく、逢沢潤が夏目夏子の腹を借りるのではないのか。「精子提供で生まれた人が連鎖する人工授精をめぐる物語」と読むなら、主人公は夏目夏子ではなく逢沢潤であって、その方が筋が通っている。参照《【文芸時評】4月号 早稲田大学教授・石原千秋 宛先のない欲望》》

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2019年5月17日 (金)

総合文芸誌「ら・めえる」第78号(長崎市)

【「八十路を越えて」田浦直】

 作者は82歳だとある。健筆ぶりに感心する。このなかで、医師になろうとした時に、命のかかわる病気と事故にあったが、それらを切り抜けたという。その後、政治の世界に入り、田中派、中曽根派、二階堂派など、派閥の活動の盛んな自民党から参議員議員に立候補したようだ。人間の人生行路を知ると、宇宙空間での生死の運動の不思議さを感じざるを得ない。

【「長崎の唐寺を世界文化遺産に」新名規明】

 唐寺というのは、航海女神馬租を祀る廟がある寺で、長崎にしかないそうである。寺というのは、時の世相にしたがって、宗旨がかわって、承継されているものも多い。解説によると、隠元禅師がかかわっているということで、禅宗の系列に入るのであろうか。まったく知らない話なので、興味深く読んだ。多くの文化遺産のある長崎の重要地を知る人は少ないように思う。

【「『電力の鬼』に思う」関俊彦】

 現在の電力会社と業界の礎を作ったとして、松永安佐ヱ門の存在は有名であったが、戦前のことや戦後のGHQとの交渉の詳細は知らなかったので、参考になる。本論でも触れているが、東急電力のその企業体の継承について、松永精神であったら、原発についても違った対応があったのではないか、と思わせる。国策民営という名目で東電は倒産をしないでいる。その負担が世界でも高い電力料金にかかっている。電力を安くすれば、生産性が上がるのに。さらに松永のような交渉力をもった人が駐留米軍基地の協定にあたっていたら、現在の米軍占領的不平等はなかったろうな、と考えてしまう。

【「『国家と宗教』忠誠と反逆~信仰に育まれた世界遺産(その2)」城戸智恵弘】

 前号おけるこの論は、読者反響が大きく、潜伏キリシタンについてなど、いろいろな意見が届いたという。本稿では、中国のキリスト教徒とバチカンとの間が、妥協するのか、対立弾圧をするのかという、不透明な現状に触れている。中国の共産党独裁のもとでは、無神論と宗教の自由を建前にしながら、人民の心情的集団化は、警戒排除する方向にある。はたして、人間が物質的な豊かさへの夢だけで、多民族国家社会を形成しうるのか、大きな問題を考えさせる。本論では、江戸時代にポルトガルが占拠した長崎の出島権についての権利関係の実態に迫る資料の検証が有益である。いわゆる領土問題の支配に関する名目と実際の形は、現代にも通じるものがあるからだ。

【「教会領長崎」吉田秀夫】

 江戸時代の長崎に思い入れの強い「私」の意識が1500年代にタイムスリップするのである。表現力に無理がなく、説得力をもって、読者を長崎の過去と現代を往復させる。

 本誌にはその他、長崎に関する歴史的な資料に満ちものがある。

発行・長崎ペンクラブ事務局〒850-0918長崎市大浦町927、「ら・めーる」

紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2019年5月16日 (木)

流れをつくるのか、流されるのかのカルチャー

 たまたま雑誌「TH}を読む機会ができたので、目を通していた。グラビアには、前衛アート作品と作家紹介。あとは、時代評論とイベント評と書評が多い。小説そのもは見当たらないか、地味でみつからないかだ。《参照:文学フリマを雑誌「TH」に広告記事で寄稿=奥村と伊藤 》 すると、そこに扱われたものは、時代を表すのか、時代をつくるのか、の想いがが出てきた。いわゆる、デジタル配信映像・音楽などと一線を画すには、コンサートや演劇の実観賞についての情報が主になるので、これが時代の流れに沿い、時代を引っ張ることになるのかもしれない。

 もうひとつ、目を惹いたのが、作家・友成純一の「建設という破壊ー極私的平成の30年間ー街並みから人間の匂いが消えていった」である。彼は、作家として平成時代を謳歌したが、同時に落ちぶれる時代であったという。大衆小説というのは、時代に沿ったものを書かねばならないが、そのためには、編集者の意見を聴き、アドバイスが必要とされる。彼はある時期、本の金が入ったのでロンドン行ったていたらしい。おそらく、そこで編集者との情報交換が来たためであろうか、書くことから離れた生活に入ったことが書かれている。

 生活をするということは、時代に沿っているということだが、それが編集者の求める作風と合致しないと、書いても買ってくれないというこtpなのだろう。

 

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2019年5月11日 (土)

文芸同人誌「弦」第105号(名古屋市)

【「ヨウシュヤマゴボウ」木戸順子】

 ――魔が差したとかいいようがないーーこれが書き出しである。48歳の木綿子は、離婚し娘が手元を離れている時期に、妻子のある男と情事をしているさなかに、母親が亡くなっていた。これがこの小説の問題提起であろうと思ってしまうのだが、それは話のなかのひとつの出来事で、そのほか、それから彼女が60歳を過ぎた時の話まで、いろいろなエピソードが語られる。少ないページ数で生活感覚に満ちた話を詰め込むことを実現する文章力に感心する。非日常性を含んだ物語性の面白さを求める読者には、薄味に感じるかもしれない。その意味で、同人誌ならではの作風であろう。

【「地下茎を切る」山田實】

 主人公の桑原は、妻子と離婚して一人暮らしをしている。それは母親がなくなる以前のこととあるので、高齢になってからのことらしい。そこに、三年前に会社を65歳で辞めた会社の上司であった大塚から、会いたいという電話をもらう。そこから、大塚の裏山の筍をとり、同時に竹林の管理のための地下茎を切ることを手伝う。その作業の様子が、小説的描写の読みどころとなっている。高齢者にかかわる小説には、老けた雰囲気のものが多いが、ここではそれを感じさせない力作業の場面が活きている。

【「岸辺に立つ」小森由美】

 長年連れ添った夫を亡くした妻の喪失感が、丁寧に描かれ、共感を得て読む。文学的表現としてもきちんとして、優れている。私小説作品としては、あれこれ書かずにテーマに沿って喪失の情念を表現した点で、優れている。

【「俳人 河東碧梧桐への誤解」有馬妙】

 自分は余り俳句のことを知らないので、いちど俳句結社に入って、実作勉強をしたことがある。たした虚子の門下生による写生俳句であった。とにかく、簡潔な風景描写や情景表現が主であった。自分はだらだらと書くことで、言葉の揺れを活用したいと考えていたので、簡潔であることの効用を学んだが、表現の幅の狭さは散文家にはまったく別の世界と知った。本作では、虚子と碧梧桐のちがいが明確であると同時に、それぞれの主張があることを学べた。

【「彼方へ」高見直弘】

 カラスの俺が空腹をかかえて、生きる糧をえようする状況を描く。

【「池の畔で」森部英生】

 大学の元教授が、散歩道で知った元大学教授との交流を軸に、知られざる大学教師世界の内部構造について描いたもの。

【「夏樹とケイ」市川しのぶ】

 遠い親戚の息子のケイの両親が交通事故で亡くなってしまった。ケイの引き取り手として、近くにいる夏樹だと病院に言われ、一時的に預かることになる。ケイは、事故の結果を知らない。難しい立場の夏樹の心境を描く。

【「叫び」空田広志】

 同人誌作家の男と同じく同人誌作家の中で優秀とされる女性作家の話。ムンクの作品などをからませて、なかなかロマンテックに書かれ、生活的でない非日常性をもたせて文学的雰囲気を楽しめる。

【「紀泉高原」長沼宏之】

 高齢になって、見知らぬ女性から手紙をもらう。そこには、過去に親しかったが、結婚にまでいかなかった女性との交際にかかわるものであった。その女性の娘から当時の母親の出さないで、密に仕舞ってあった手紙を見せられる。そこにちょっとしたトリックがある話。

【「同人雑誌の周辺」中村賢三】

 同人誌の作品の概要と感想が記録されている。当サイトのような紹介文を超えて、深く食い込んだ読み方で、交流活動が多彩であることがわかる。労作であろう。

発行所=〒4630013名古屋市守山区小幡中3丁目427.中村方「弦の会

紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

 

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2019年5月 7日 (火)

文学フリマ東京(第28回)は、並べておくとどれかが売れる

 文学フリマ東京に参加して、その後の整理をしているが、とにかく入場者が増えた。《参照:大混雑の第28回文学フリマ東京に埋没せず

 これが、弁証法における「量の拡大は質を変える」につながる動向なのか、疑問をもちながらその意味を考えたい。情報があっても、意味が読めないとつまらない。

 

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2019年5月 5日 (日)

6日の文学フリマ東京の準備完了

結局、いろいろ在庫を調べたら去年発売の「砂」も少し出てきたので、それも追加する。これらは大田区町工場もの記事が主であったが、同時掲載の「60歳からフリーライター」記事に興味を示すひとがいたので、残部をならべることにしました。作家の森まゆみ氏が文壇バー「風紋」のママだった林聖子氏へのインタビュー記事もあるし、結構、時代性がある。

昨年秋の文学フリマ東京「文芸同志会」の販売宣伝。

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2019年5月 4日 (土)

とにかく出店の準備をしています。

■【第二十八回文学フリマ東京】2019年5月6日(月祝)開催せまる!────GW最終日にあたる 5/6(月祝) に第二十八回文学フリマ東京が開催されます!
第二十二回(2016/5)以来の東京流通センター“第一展示場”開催となります。広いワンフロアのなかに約1,000ブースが集結します。
今回の東京開催では【初出店】の方が【約4割】です。ぜひ新しい作品や作者と出会いに来て下さいね!
第二十八回文学フリマ東京
  開催日 2019年5月6日(月祝)
  会場   東京流通センター 第一展示場(東京都大田区)
  主催   文学フリマ事務局
   ブース数 約1000ブース

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2019年5月 2日 (木)

文芸時評4月(東京新聞4月25日)『たべるのがおそい』「台風の目」が終刊に=佐々木敦氏

 翻訳家、小説家、歌人、アンソロジストなど多面的な顔を持つ西崎憲(けん)が編集長を務め、福岡の小出版社である書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)が版元の『たべるのがおそい』は、創刊以来、意欲的な誌面作りに取り組み、二作の芥川賞候補(今村夏子「あひる」と宮内悠介「ディレイ・エフェクト」)を輩出したことで、やや大袈裟(おおげさ)に言えば近年の文芸シーンにおける台風の目のひとつとなった。まだ終刊号から三たび芥川賞候補が出る可能性も残されているが、そうならなくてもこれはすでに画期的なことである。終刊号の特集は「ジュヴナイル-秘密の子供たち」。銀林(ぎんばやし)みのる、飛浩隆(とびひろたか)、櫻木みわ、岩井俊二、西崎憲の小説/エッセイに加えて、ドイツ文学の研究者/翻訳家の松永美穂が初の小説「物置」を寄せている。

 特集ではないが、ラテンアメリカ文学を専門とする柳原孝敦(たかあつ)の初小説「儀志直始末記」も載っている。松永作は特集に合わせて、少女の瑞々(みずみず)しくも透徹した視点から祖母の想(おも)い出を描いた小品だが、柳原の作品は、十数年前に四十歳で亡くなった友人「伊地知孝行」の遺品から見つかった「儀志直」と題された短編小説と編者による付記という凝った構成のメタフィクションである。高校の時に「ボルヘスになる」と宣言した友人は、その早過ぎる死までの間に、アルゼンチンが生んだ博覧強記の幻想小説家に、どこまで迫り得ていたのか。むろん全てが柳原の創作なのである。まさにボルヘスばりに知略と奇想が張り巡らされた濃密な作品であり、柳原の長編小説をぜひ読んでみたくなった。

 編集長とアートディレクターが交代して大がかりなリニューアルとなった『文藝』は、今号から特集主義を採るということだ。特集は「天皇・平成・文学」。池澤夏樹と高橋源一郎の対談、東浩紀のエッセイ、温又柔(おんゆうじゅう)、岡田利規(としき)、福永信、飛浩隆、小川哲の短編、そして古谷田奈月(こやたなつき)の長編一挙掲載『神前酔狂宴』。いかめしい題名だが、明治の軍神を祀(まつ)る神社に併設された結婚式場でアルバイトをするフリーターの話である。軍神も神社も架空のものだが、いかにもなリアリティがあり、ワリの良い仕事だからと軽い気持ちで働き始めた主人公を通して、読者は「天皇制」の「日本」の「社会」と「家族」の不可思議に対峙(たいじ)させられる。力作である。その他、新連載が幾つも始まっており、表紙にあしらわれた「文芸再起動」という惹句(じゃっく)に偽りなし、次号以降も期待したい。

 片岡義男「窓の外を見てください」(『群像』5月号)が今月のベストである。短編小説の連作を書こうとしている男が女たちに会いに行く、それがそのまま長編小説になってゆく。「昭和」から「平成」の終わりまで片岡の文章の手触りは、ほとんど変わることがない。だが、ここには何か時代を超えた絶対的な新しさがある。(ささき・あつし=批評家)

《参照:『たべるのがおそい』「台風の目」が終刊に 片岡義男「窓の外を見てください」 佐々木敦

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