« 2018年12月 | トップページ | 2019年2月 »

2019年1月30日 (水)

文芸愛好同人がいない人は「文学フリマ」で

  文芸同人誌の同人になりたいが、なかなか適当なものがみつからない。そのほか、同人誌をするのに自分が主体になってする自信がないとかいう人が多くなった。地元の同人誌に入ろうと思ったが、歴史があって高齢者ばかりで、話が合わないーーそんな人向けに、文学フリマも独り文学活動の機会を作っている。《参照;本を書いて文フリに出よう》。本を売るという表現をしないところがみそか。

| | コメント (0)

2019年1月28日 (月)

2019年本屋大賞、ノミネート作10作品が決まる




本屋大賞実行委員会は、昨年11月1日から今年1月6日まで受け付けた1次投票で、全国493書店、書店員623人が参加。集計の結果、下記の10作品がノミネート作に決まった。
三浦しをん『愛なき世界』(中央公論新社)
平野啓一郎『ある男』(文藝春秋)
木皿泉『さざなみのよる』(河出書房新社)
瀬尾まいこ『そして、バトンは渡された』(文藝春秋)
森見登美彦『熱帯』(文藝春秋)
小野寺史宜『ひと』(祥伝社)
知念実希人『ひとつむぎの手』(新潮社)
芦沢央『火のないところに煙は』(新潮社)
伊坂幸太郎『フーガはユーガ』(実業之日本社)
深緑野分『ベルリンは晴れているか』(筑摩書房)

| | コメント (0)

2019年1月27日 (日)

サルには電話詐欺ができない。不立文字の世界。

  私は、一度も海外に行ったことがない。行きたかったし、機会もないわけでもなかったが、そのたび事情が出来て行かずじまいである。だから、外国の姿を実際にみたことはない。しかし、それでも海外にいろいろな国があることは知っているし、わかっている。本やニュース報道で、観たこともない国が実在することを疑わない。
 しかし、実際にみないで概念で理解することが、すべて本当とは限らない。この世には言葉の概念で得た情報のウソが沢山ある。言葉のウソがいかに多いか、サルが言葉の機能を持たないために電話詐欺をしないことを考えればわかる。私はマルクス主義思想を学んでいたので、唯物論者である。
 それでも、50歳のころ、金剛経道場の師に出会って、すこしばかり座禅を習った。そのときに、人間の五感の機能を意識させられた。そして「無我相」という境地を学ぶ段階ににある。ジャーナリストの上杉隆が得度したという。《参照:上杉隆氏が僧侶に!新時代へ「犀の角のごとく」》
 この世界は、定まった形というがあったならば、物事は変化できない。形をもたないから、変化できるのである。

| | コメント (0)

2019年1月26日 (土)

「日曜作家」は文芸誌=外狩雅巳(会員投稿)

 第25号が送られてきた。季刊発行で7年目である。
 文芸同人誌ではない文芸誌だと表紙にも明記してある。
 しかし、創刊の言葉は同人誌界実情批判からなっている。
 同人誌界での位置づけと取れる文でもあるし後記にも掲載著者を同人とも呼んでいるが文芸誌と自負する面もある。
 30人の同人から年同人費一万円が集まる大集団である。
 同人には十部配布している。定期読者・会員も33名抱えているし図書館など50以上の送付先も掲載してある。
 掲載負担金は頁千円なので合わせて年間150万は集まる。
 今号は168頁である。データ送稿で30万円で作成か?
 五百部で送料等負担すると大原代表は財政的に大丈夫か。
 そんな心配も吹き飛ばすような躍進である。
 大原正義代表の個人作業での大奮闘振りがよくわかる。
 受け取る度に分厚くなり会員増大も明確である。
 時代に立ち向かう意欲を感じて応援したくなる。
 三年間の予定表が掲載されている、貫徹して下さい!
《参照:顔を合わせ語り合う「町田文芸交流会」の現況=外狩雅巳


| | コメント (1)

2019年1月25日 (金)

同人誌時評「図書新聞」(2019年1月26日)評者・志村有弘

No.3384 ・ 2019年01月26日


<一部抜粋>
  根場至の「啄木のDNA」(「私人」第96号)。「私」は死んだ父を憎んでいた。母に暴力を振るい、母の姉との許せない関係……。父が造った山小屋にあった石川啄木の歌集に、父は気に入った歌に丸印を付けていた。「私」は父との共通点があることを恐れながら、父の付けた印が見えないようにして、印を付けていった。その結果『一握の砂』では六首、『悲しき玩具』では共通のものは一首もなかった。好きな歌を探そうしたのは、「父から引き継いだ感性」が自分の内に「養われている」のを「確かめたかったのではないか」と思う。これが作品の梗概。心の奥底に潜む父への思い。佳作。
 波佐間義之の「スモモ」(「九州文學」第567号)は、少年時代から好感を抱いていた一つ年下のヒロちゃんとの別れを綴る。「ぼく」は陸上競技の力で就職できたけれど、壁にぶつかり、ヒロちゃんへの思いがつのる。ヒロちゃんとトシオの結婚という残酷な結末。「ぼく」の心に残る「甘酸っぱ」さと「顔を顰めてしまいたくなる」憎悪の交錯。青少年時の恋の苦さ。読ませる作品である。
 木下径子の短編「詐欺に遭う」(「街道」第32号)は、銀行協会の者という人物にカードを渡し、預金を引き落とされた話。暗証番号を知られていた不気味さ。男は捕縛されたけれど、警察は犯人が暗証番号を知り得た理由を教えてくれない。「わたし」の心には不愉快なもどかしさが残ったことだろう。詐欺の恐怖を考えさせられる作品だ。
 山口道子の「島崎商店」(「南風」第44号)も詐欺事件を扱う。煙草・菓子等を売る島崎商店のおばさんが詐欺に遭った。犯人は孫の友人で、女友達が事故を起こした車の修理代をなんとかしたいと思ったのだという。これまで交流のない広美(作品の語り手)にバス代を貸し、孫の友人を信じて五十万円を渡してしまうおばさん。孫の友人は根っからの悪人ではないが、罪を犯した瞬間、その人は悪の烙印を押される。広美の情報が詐欺グループの名簿に記されていた不気味さも看過できない。平易な文体で作品を展開させる技倆が見事。
 吉田慈平の「鬼の住む世界」(「風の道」第10号)の主人公である鬼は何かのはずみで人間世界に堕ちたらしい。作者は丁寧な文章で、人間世界に棲むものたちの醜さ、したたかさを描こうとする。地獄という言葉を聞いて懐かしく思う鬼が可愛らしくさえ見える。
 奥野忠昭の中篇「世に背く――西行出家遁世秘録」(「せる」第109号)が力作。十六歳から二十三歳(出家時)までの佐藤義清(西行)の純朴な風貌がよく描かれている。藤原秀郷の亡霊が登場するように「内容はすべてフィクション」というが、『山家集』をはじめ、中古・中世の歌人の歌集を随所に引き、義清の言動を素直な文体で綴る。待賢門院と義清ふたりの交流の姿も美しく描かれ、行尊・西念など仏教世界の人、賀茂一族の陰陽師の登場も作品に厚みを与えている。
 「どうだん」は、昨年、通巻八五二号を重ねた。どうだん短歌社が始まったのは発行人清水都美子(創刊者清水千代三女)が小学三年のとき。「坂道を車を押して登り行く年毎にこの坂きつくなりたり」という年輪を示す都美子の歌。同人誌は続けることが肝要だ。「虫のくせに優雅な名をもつしらが大夫栗の大樹を音たてて食む」と、軽妙な歌を詠む編集人吉岡迪子の努力も称賛に価する。
 麻生直子が詩集『端境の海』で、北海道新聞文学賞(詩部門)を受賞した。詩誌といえば、「コールサック」も文学を通して〈平和〉を願い、世の中の不条理を訴え続けている。(相模女子大学名誉教授)
《参照:<父を忌み嫌いながらもそのDNAが自分に流れていることを心の奥底で願う根場至の小説(「私人」)――青年期の西行の姿を綴る奥野忠昭の歴史時代小説の力作(「せる」)。詩人たちの活躍に瞠目

| | コメント (0)

2019年1月24日 (木)

文芸同人誌の岐路が見える

 文芸同人誌の現象として、話題にしているのが小野光子のひろば「文学同人誌の衰退とその影響]である。これは、高齢化などで、同人誌の書き手で構成員が減ると、原稿そのもの集まらない。そのため、発行が出来なくても、誰も困らない。それまで、それが成立してきたのは、読者が不在で同人が読者であったからである。
 私自身、「砂」に参加してきたが、幾度も言ううように取材対象選んで、その人だけは読者になるという方向性をもたせて、辛うじて他人が自分が書かれているから読むという、システムを作った。しかし、専門編集員がいないので、どうできるのかがわからず、やりようがなかった。取材先だって、漠然とした話では、相手にしてくれない。
 文学フリマでの状況では、若い人たちが、是非とも他人に読んで欲しいというものを書いて、フリーマーケットで売り込んでいる。他のブースからどんな風にすると売れるか、調べに来ることもある。読んでもらうための工夫をしているところが、やはり売れているのである。

| | コメント (0)

2019年1月23日 (水)

文芸同人誌「文芸多摩」第11号(町田市)

【「誕生日」一条まさみ】
 キミエはもうじき80歳になる。歯科医から自分の歯が26本も残っているのは、いいことだいわれる。そこから歯の丈夫なDNAを受け継いだことは、幸運であるが、そこが自分の血筋を語る伏線になっている。
 キミエの両親は、重い結核により別々の病院に入院してしまう。母親は、若くして亡くなってしまう。父親は入院し、キミエは兄の翔太と弟の敬二と3人で暮らす。いつの間にかキミエは主婦のする仕事をするようになっていた。3人は成長するが、そのうちにキミエは、自分が亡くなった母の子供ではないことを知る。父親が、姉を頼って同居した母の妹と関係をもって、産ませた子供だったのだ。この自分の実の親の探求と、兄の存在を描き、勉学に強い学習意欲を結実させるまでの生活の苦労を描く。時代の説明をしないで、出来事と場面で時代背景を表現する文章力には、非凡なものがある。
【「地底からの出征兵士」木原信義】
 昭和13年、日本の近代社会(モダン)は欧米列強に対に方を並べようと、中国大陸侵略戦争を展開する時代に入る。この時期、欧米から資源の供給を止める経済制裁がはじまる。
 炭鉱夫の高橋正勝は、国家総動員制により、徴兵される。国内資源の開発も重要だか、兵士の必要性も増していた。そのなかで正勝は出征前に結婚し、妻の兄が危険な炭鉱事故で亡くなっていることを知る。国家主義社会の桎梏のなかで、自分の意志にそぐわない行動をさせられる民衆の姿を論理性をもってきちんと語られている。
【「書との出会いと良寛の般若心経」佐久健】
 敏行は書道や絵画など、文人趣味に多才なものをもつ。そのなかで良寛の「般若心経」の挑む。すると良寛と対話をしているような気分になる、という話。自分は書はやらないが、般若心経のなかの「空」について「空」という概念のない時代の「金剛般若経」を座禅道場で修行体験をしたことがある。その境地がどのように維持できるか、これからの自分の課題であることから、興味深かった。
【「ある老姉妹の戦後」原秋子】
 多摩丘陵に住む「私」は、地域のカルチャースクールで、学徒出陣した婚約者を11年間待ったという先生に出会う。そこから、老姉妹の戦時中の苦労が語られる。この間の作者の挟む四季の風景の表現が透明感をもっている。暗くなりがちな話に光を与えている。
発行所=町田市中町2-18-10、日本民主主義文学会・町田支部。事務局=町田市南大谷1637-7、神林方。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

| | コメント (0)

2019年1月22日 (火)

文芸誌「駱駝の瘤 通信」16号2018秋(福島)

  本誌は、福島県民の現地からの情報発信と、文芸評論の中野重治の「むらぎも」論で構成されている。
 【「扉の言葉」澤正宏】
 ここでは、米国における放射線被ばく人体実験の事実が示されている。ーー1945年から47年にかけて、マンハッタンに集まった科学者たちは、国の機関としてプルトニウムを使い、4歳から69歳までの18人(男性13人、女性5人)に人体実験を行った。
 被ばくによる死亡年は1945年から91年まで(死亡年齢は5歳から85歳まで)とまちまちだったが、彼らは人間が一生に浴びる平均的な線量の6倍から844倍までを注射によって身体内に注入された。人間であることを放棄した米国科学者たちのおぞましい事実は衝撃であり、放射能被ばくによる18人の死は残酷極まりない。(1993年以来、米国のTHE ALBUQUERQUETRIBUNE(アルバカーキー・トリビユーン)』紙が伝えた報道記事による)。
 福島での核災事故から7年半が過ぎ、放射能被ばくはもうないかのように、政府は次々に福島への政策を打ち出して来ている。例えば、高線量のため立入り制限されている帰還困難区域に再び人を住ませるために、国が整備する「特定復興再生拠点区域」計画がその一つだ。各地元の行政区長の人割が、放射能への不安などを理由に「実現不可能」と回答している(毎日新聞アンケー)(中略)
 米国でも放射能被ばくの非人道性を訴える運動が出ている。米国立歴史公園(マンハッタン計画関連地)は、広島、長崎両市の要望を踏まえて原爆投下の人的被害を展示する方針を固めた。1951年以降、米国がネバダで行った核実験で被ばくした地元の住民(4500人が発がん、約45%死亡)は、今年、オペラ「風下の人」(ニューメキシコ州で上演)で死の灰の酷さを訴えている。
 あらためて放射能被ばくが語っている恐ろしさを考えたい。(澤正宏)ーーというものである。
 日本では、原爆による日本の原子力否定感情を変更させるため、米国CIAに媚びて、原発を導入に力を入れた
正力松太郎は、「プルトニウムを「プルトンくん」と呼んで、食べても大丈夫だというパンフを作って、配った」という話をジャーナリストの上杉隆氏から聞いた。そうしたバカげた論理もこうした事実を根底にしていたのかと、思う。
結局は、正力は米国に利用されただけに終わった。《参照: 「原発の父」と呼ばれる正力松太郎は、総理になりたかった
 通信についても、携帯電話の電波人体害が、やっとすこしずつ研究が進んできた。メディアでは、ほんとど報じられないが、携帯電話は身につけて持たず、カバンなど身体から距離を置いて持った方が良い。自分は、過去に左胸のポケットに入れていたところ、胸の疼痛を感じ、それをある人にはなしたところ、それをやめるようにアドバイスされ、電波害という存在を知ったのだ。資本主義は、知る権利を阻害することは確かだ。
 その他、【評論「農をつづけながら2018秋」五十嵐進】、【評論「ジェノサイドかチェルノブイリ法か」澤正宏】、【
記録と批評「福島の核災以後を追う(一)」秋沢陽吉】、【記録「まぼろしの子ども避難」鈴木二郎.】、【短歌「カタバシスもできずにー1」澤正宏】、【研究「服部躬治関係書簡-3」磐瀬清雄】、【評論「『むらぎも』論(四)」 石井雄二】
 ほかにも、触れたいことが多いが、長くなるので……。秋沢要吉氏は本誌のほか雑誌「労働者文学」にも、「フクシマの虚偽に抗す」を発表している。
 福島及び関東は、すでに被ばくしており、健康への影響も明らかにされている。最近でも、11歳の少女が100ミリシーベルトを被ばくしていたことがわかっている。20年30年後に、何らかの影響があるのではないか、と憂慮する。じつは自分の妹は、12歳の時に、道路横断中にひどい交通事故に遭い、1キロ引きずられて、頭蓋骨骨折、手足骨折で3日間意識不明だった。長期入院で一応、怪我はなおったが、とにかく幾度もレントゲン写真を撮らなければならなかった。医師に思春期の娘なので、レントゲン照射をそんなにしても大丈夫かと訊いた。医師は、治療のためだから仕方がない。許されるのですよ、といった。そして妹は子供を産み育てたが、53歳の時に、突然卵巣がんを宣告され、間もなく亡くなった。兄弟姉妹のなかで、一番下の者がまず亡くなった。自分は、あの小学生の時のレントゲン検査が原因であると今も信じている。思春期の一番生殖細胞の増える時に、DNA切断があったのであろう。
発行所=須賀川市東町116、「駱駝社」。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

| | コメント (0)

2019年1月21日 (月)

文芸同人誌「群系」第41号(東京)

【「葉片私小説(二)」澤田繁晴】
 「神品」、「お香の話」、「飲み屋の屋号」、「無欲」「雪下ろし」の生活の回想や趣味について断片を重ねている。散文しというより、エッセイふうである。自分確認の作業で、自己表現の色彩が強いが、千差万別の個々の人間の心の相(すがた)を切り取った文学のタネにはなっている。沢山書けば、断片集が長篇小説に変貌するという面白い結果を産むかもしれない。
【「東京に憧れた姉」小野友貴枝】
 悦子の姉、美代は70代だが、体調を崩したので救急車で病院に行ったら、入院がひつようだという。しかし、美代はそれを拒否。自宅で療養しているが、「悦子がきたか?」と、たびたび言うので、会いたがっているのではないか、と美代の娘から電話がある。
 悦子の姉妹は、長姉、次姉がいるが、美代だけ都内に住んで過ごしたという。電話を受けて悦子が美代に会うと、短時間の間に老化が進み、衰弱しているのに驚く。人の人生の終幕は、それぞれ異なるが、その一つの事例として、自分の体験と似たところと、異なるところなど、いちいち身つまされて読んでしまう。長い女の一生が、その人柄の特性を作者特有の人生観察眼の視点でピックアップされる。悦子の予感力の強さなどを挟んで、饒舌的文体がここでは有効に発揮されている。
 さらに息子が成人してから、引きこもり癖のような生活美代の精神を支えるところが、巧く表現されている。旺盛な執筆意欲が、文体の世俗性を超えて、文章に艶と光を帯びるように作用しているのが感じられる。
編集部=136-0072江東区大島7-28-1-1336、永野方。「群系の会」
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

| | コメント (0)

2019年1月20日 (日)

女性の通勤地獄の痴漢股割男

 女性の痴漢被害の実態として、ここまであるのかという実態である。本来はこの部分だけ抜粋しようと考えたが、痴漢場面だけでは、妙な誤解を生むのではと、迷っているうちに掲示が遅れてしまった。結局全文掲載とした。《「いのちの籠」堀場清子氏の提言(2)》。食欲、睡眠欲、性欲と動物的な生存本能に、人間の幻想的な欲望を作り出す存在であることが、良くも悪くも特殊現象を起こす。

| | コメント (0)

2019年1月18日 (金)

文芸同人誌「R&W」第25号(名古屋市)

【「熨斗(のし)をつける」亀山誄】
 母と娘の「私」でマンション住まいをしている。自動車は使わなくなったが、駐車場は親類が車でやってくるので、契約を維持している。そのため駐車場は日ごろは空いていることが多い。すると、新しく入居した若い女性が、恋人の来訪ごとに、高級車のアウディをそこに無断で停車するようになった。図々しいカップルに、自治会に報告して、注意をしてもらう。すると、「私」の肥満を揶揄する張り紙がつけられて、反撃される。毛局は、彼等に「「熨斗(のし)」をつけてお返しをすることになる。
 その他。会社の事情や人間関係が、軽快なタッチで描かれ、面白い風俗小説になっている。
【「スピカ荘の女」小路望海】
 海外勤務を終えて日本に帰国するこことなった僕。妻は神経を病みセラピーに通っているらしい。その妻が、日本に戻るならシェアハウスが良いと、物色し「スピカ荘」が良いと、決める。夫婦でシェアハウスに住むというのも変だが、神経質な妻が寂しがらないのなら良いであろうと、同意する。すると妻は、そこに住む正体不明の女性と仲良くなってしまう。そこで、つぎつぎと異常な出来事に巻き込まれる。とにかく神経症の妻という人物設定が、うまく、大変スリリングな味わいをもった物語づくりに成功している。
【「カオスの目覚め」霧関忍】
 夢の中のことが現実になっているように書かれたファンタジー。人間の生活感覚の幻影性を強調したお話。これはこれで現代性を感じる。
【「負のトライアングル」松本順子】
 佐合家の息子、真一が行方不明になる。母親のリエが見ると、庭に何かが投げ込まれている。拾ってみると。指と血液が入っている。異変を感じたリエが息子のことを調べると、登校した真一がまだ学校についていないとわかり、行く不明がわかる。指の説明が変であるが、ミステリーである。その謎解きは、リエの夫の二重人格てきな側面とか、社会的な人間関係などを語ることに重点があり、犯人もそれなりのものになっている。アマチュア的な発想のミステリア小説として面白く読める。
【「五木寛之論」藤田充伯】
 本論は、講談社の「五木寛之小説全集」月報に掲載の評論を一挙掲載したものだという。五木作品論としてのものと同時に、文学の時代性を捉えた点で、現在の文学動向に関連した優れた評論である。話はカバーニ監督の映画「愛の嵐」から糸口をとくり、思春期までの体験が、人生観に大きな影響を与えることを示す。そして、五木の思春期以前の体験がニヒリズム含んだ優しさを持つと分析する。さらに、作家として成功するなかで、当時有名になったエンターテイメントにおける量の拡大が質の変化を起こすと、弁証法的な五木の論理について、その思想のアンビバレントな精神を解説する。大衆性のなかに純文学的な問題提起を盛り込んだ、見事な評論である。月報をまとめて読むことの意義を思い知らされた。
発行所=〒460-0013愛知県名古屋市中区上前津1-4-7、松本方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

| | コメント (0)

2019年1月17日 (木)

「詩と思想」新人賞の草間氏は、彌生氏へのリスペクト

   「詩と思想」の新年会で、草間千鳥子氏への新人賞授与式があった。受賞者はすでに、ポップカルチャーに踏み込んで、かなり活躍しているようだ。草間というペンネームは草間彌生氏へのリスペクトによって名付けたようだ。
 このなかで、中村不二夫氏が「詩学」という詩の雑誌とそのグループは、不偏不党を主張していたが、主宰者が亡くなると、間もなくなくなってしまったーーという話をした。不偏不党という姿勢は格好がよいが、なにかあってもなにもしないただの人になる、という危険性を指摘していた。《参照:草間小鳥子氏が第27回「詩と思想」新人賞受賞で語る
 

| | コメント (0)

2019年1月16日 (水)

カルチャーのなかで存在した金子兜太

 金子兜太の前衛俳句というものを、私は読んでいなかった。しかし、その存在は知っていた。つまり、メデアのカルチャーとして登場していたからであろう。その彼の基本はトラック島での過酷な現実を体験したことにあるようだ。とにかく、国家というものが、個人を追い込むのである。《参照:詩人・原満三寿氏「俳人・金子兜太の戦争」を語る(3)》
原満三寿氏は、金子光晴の研究家で、賞ももらっている。近年は、金子光晴関連書籍を図書館か記念館だかに寄贈したという。神田の古書店に売れば、何百万かになったのかも…。

| | コメント (0)

2019年1月12日 (土)

アナーキズム詩としての金子兜太の俳句

 秋山清というアナキースト詩人がいて、「コスモス」という詩誌でかつどうしていたようだ。その「コスモス」誌の関係者が、秋山清の死後、「コスモス忌」という集いを例年実施さしている。アナーキーとはなんだ、ということになるが、権力ー国家であることが多いーに強制されずに自由に生活をしたいという人間のもつひとつの欲望をめざす思想であろう。人間、日常生活の衣食住のなかで、国家(役人の出す命令)の意向を気にしながら買い物をすることはないであろう。でるあるから、普通の人はアナーキーな生活者なのである。
 アナーキスト詩人としては、小野十三郎の「現実を描いて、語らせる」という詩の表現法を語ったことがあるようだ。その点では、前衛俳句の金子兜太も、原満三寿氏もアナーキーであるようだ。《参照:詩人・原満三寿氏「俳人・金子兜太の戦争」を語る》
 もっとも有名な「アベ政治を許さない」は、ただのプロパガンダで、政治活動のツルーでしかない。安倍政権でなくても、労働者は抑圧され、強制されていくであろう。

| | コメント (0)

2019年1月10日 (木)

ニセモノにご用心「ある免税店にて」

  現代は技術が進んで、陶製美需品などは本物と見分けがつかないくらい、複製ができる。「ある免税店」で、1万~4、5万のものを、100万円で買った話。作者は、友人から聞いた体験談をもとに、発表したそうである。そうしたら、読んだ友人から、「あれを書いたわね」という連絡があったという。さらに、その店の場所が明記していないが、それは中国の万里の長城の周辺での話だそうで、観光客に注意喚起したいと言っていたそうである。クレジットカードだから取り消しができた。スマホのキャッシュレスシステムだったら、大損をしていたことになる。《参照:【わが国でキャッシュレス化が進まないのはなぜか?】》

| | コメント (0)

2019年1月 9日 (水)

文芸同人誌「ガランス」第26号(福岡市)

【「そうぞうの時間」野原水里】
 中学校の生徒の話とは思えないほど高度な知的レベルの生徒と教師たちの話。「そうぞうの時間」というのを教師が設定する。想像でも創造でもよいから、そこで話し合いをしようというものだ。生徒の中に、愛美という生徒がいて、登校すると教室にいかず保健室にいって、好きな絵ばかり描いている異端の生徒がいる。
 この生徒が、「そうぞうの時間」に、芥川龍之介の作品「蜜柑」の解釈について、感想を述べ合うと、俄然興味をもち、クラスに溶け込んでいく。教師の苦労と、生徒の関係について、イメージの膨らむ良い作品であった。
【「十五歳の遺書」櫻芽生】
 夏鈴が中学高学年。彼女の母が、結核で入院。事情があって実家の神職をしている兄の家に世話になる。すると夏鈴は、母親の兄の光彦に強姦されてしまう。そのことは、秘密にして恨みが残る。光彦には結婚した妹がいて、その息子に蒼一朗いた。夏鈴とは幼なじみで、子供の頃よく遊んだ。そうしたなかで、ある雨の夜、光彦は妻の京子と寝室で寝ている時に、何者かの侵入者に襲われ殺されてしまう。
 その日、夏鈴は犯罪のあった部屋で、かつて蒼一朗にあげたストラップを見つける。それを、蒼一朗にそっと返す。そこで、蒼一朗が夏鈴と光彦の秘密を知っているのではないか、と疑う。その結果、彼が光彦を殺したと思いこむ。そこで、蒼一朗を救うため、自分が光彦を殺したという遺書を書いて、入水自殺をする。ですます調で、ミステリー雰囲気小説でまとまっている。ただ、読者に感じさせたいことを作者がどんどん語るので、何となく横溝正史を想い浮かべてしまった。
【評論「プラトン・ミュートス考(その3)」新名規明】
 ギリシャ哲学の学問的追求のようで、難しそうに思ったが、読んでみると現代思想の基本がここから出ていることがわかり、終わりまで通読してまった。結果的に面白かった。
 編集発行人=小笠原範夫。発行所=「ガランスの会」〒812-0044福岡市博多区千代3丁目2-1、(株)梓書院内。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

| | コメント (0)

2019年1月 8日 (火)

【文芸時評】東京新聞(2018・12・27)佐々木敦

   今月はまず『新潮』1月号が「読むことは、想像力」と題した「創作大特集」を組んでいる。ヤマザキマリ+とり・みきの人気マンガ『プリニウス』の連載が『新潮45』の休刊に伴い移ってきたことも話題だが、他にも瀬戸内寂聴、町田康、松浦寿輝の新連載が開始され、華やかな新年号と言っていい内容となっている。特集には総勢二十六人が参加しており、「創作大特集」と言いつつ「特別原稿」としてエッセイや対談、写真作品(杉本博司)なども混じっている。
 自らが率いる劇団の名前を題名に冠した山下澄人の「FICTION 01」は、左半身不随の実在の劇団員オギタをモデルにした自由奔放な書きっぷりに引き込まれるが、あらゆる者に容赦なく訪れる「死」に対する透徹した視線は悲劇性を増している。円城塔の「歌束」はごく短い作品だが、『文字渦』の「文字」に続いて「和歌」をめぐる連作が始まるのかもしれないと期待させられる。宮内悠介「ローパス・フィルター」は芥川賞候補になった『ディレイ・エフェクト』と同じく、SF的発想を用いて倫理的な問題に迫る好作。朝吹真理子「mameのブルゾンください」は『TIMELESS』の番外編的な掌編だが、言葉の凝縮度と突然に時空を超える跳躍の力はこちらの方が上かもしれない。「特別原稿」も含め、特集名にある「想像力」が緩やかな全体のテーマになっているようだ。
 『すばる』の特集は「本を読む」。インタビュー、ルポ、論考、アンケートなど、創作以外のヴァラエティに富んだ記事が並んでいる。アンケートの問いは「どうやって本を読んでいますか」で、諸分野で活躍する三十人の回答が寄せられているのだが、文芸雑誌でわざわざ「本を読む」ことが特集のテーマにされるというのはいささかアイロニカルではある。
 『群像』は特集「文学にできることを」。「I<短篇創作>」とあるので次号に続くようだ(「II」では何をするのだろう)。瀬戸内寂聴、笙野頼子、日和聡子、高橋弘希、小山田浩子の短編が掲載されている。その他、新年号らしいのは多和田葉子の『地球にちりばめられて』に続く新連載「星に仄(ほの)めかされて」が始まっていることだろうか。ちなみに今月、四誌全てに多和田は登場している。『すばる』はリービ英雄との対談、『新潮』は「特別原稿」の「沈黙のほころびる時」(このエッセイは『新潮45』問題へのレスポンスにもなっており、重要な内容である)、『文学界』は温又柔(おんゆうじゅう)との対談。今年は満谷マーガレットによって英訳された『献灯使』での全米図書賞翻訳文学部門受賞もあり、ベルリン在住の二言語作家である多和田の存在感はいや増している。そして近年、手を替え品を替え、さまざまな(時には文芸雑誌らしからぬ)特集を組んでいる『文学界』が、今月に限って特集をやっていないのがなかなか興味深い。これは明らかに他誌との差異化を狙ってのことだろう。
 その『文学界』では、磯崎憲一郎の新連載「日本蒙昧(もうまい)前史」が始まっている。他は多和田×温の対談と、メディアアーティストの落合陽一と『平成くん、さようなら』で芥川賞候補になっている社会学者の古市憲寿の対談。しかしここでは古川真人の中編「ラッコの家」に触れておこう。芥川、三島両賞の候補に挙げられた『四時過ぎの船』にも現実を不分明にさせる老境の印象的な描写があったが、この小説は視力の弱った八十近い叔母と二人の姪(めい)の話から始まる。古川のこれまでの作品と似通った世界ではあるが、うねるような語りがほとんど改行なしに延々と連ねられてゆく魅力的な文体は新たな局面に入ったようであり、結末も大変に鮮やかである。力作だと思う。
《参照: 古川真人「ラッコの家」 小山田浩子「小島」「夜神楽の子供」 佐々木敦

| | コメント (0)

2019年1月 7日 (月)

文芸同人誌「季刊遠近」第68号(横浜市)

【「青空フリーマーケット」小松原蘭】
 バツイチで32歳、一人暮らしの「私」。女友達に誘われ町のフリーマーケットに参加することにする。私には、マサージ師をしている22歳の男と恋仲になる。だが、男の方からは、最近は飽きられて、別れたがっている。そこへ、フリーマーケット専門の窃盗にやられる。困っているところに、フリマ慣れした若い男助けられる。そこで、その男に恋をする。女心は異常気象。気分だけで、物事を決める。その生活意識の女性的くだらなさを、いちいち書ききっているところに、現代的な作家手腕を感じる。
【「働かざる者食うべからずだと」逆井三三】
 出だしは21世紀の社会を論じているので、評論かなと思っていたら、浩一という男の半生記のようなものに変わる。まず、15歳くらいのころ、性欲がでてきて、女性と付き合うが、性的な関係には至らない。それを思春期の恋とする。美人が好きだということもなく、不美人でも良いと思っている。一部引用すると、
 ――21世紀に生きる普通の大学生であるはずの浩一は、未来に何の希望ももっていなかった。といって現在の生活に困っているわけでもないし、未来に対する危機感を抱いているわけでもないーーとするところがある。
 やがて大学生で明美という美人でもないが、太り気味の女性と交際し、童貞と処女が納得し合って男女の関係になる。
 要するに安定した社会の制度に適合して、なにも成し遂げなくて、50代の人生を問題なく過ごしているということが示される。そして、最終文にー私は幸福だったーという過去形のことばで終る。
 昭和で20年間、平成で30年間の平和な人生を描いて、この時代の人生の本質を浮き彫りにしている。
 純文学として理解するならば、一般的な人生観にこだわらないことに、こだわった点で、評価にできるかも。多くの人は、平凡であることの非凡さに同感するのではないだろうか。
【「妾子作家列伝」藤民央】
 それぞれ著名な作家の出生の状況をよく調べて、説明している。明治、大正、昭和の時代の環境で、人が自分の立場をどう理解するかの資料になる。取り上げている作家は次の通り。
 木村曙(1897-1890)/木村艸太(1889-1950)/木村荘八(1893-1958)/木村荘十(1897―1967)/千家元麿(1888-1948)/室生犀星(1889-1962)/高見順(1907-1965)/八木義徳(1911-1999)。
発行所=〒225-0005横浜市青葉区荏子田2-34-7、江間方。「遠近の会」
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。


| | コメント (0)

2019年1月 6日 (日)

草場書房さんの思い出と記憶と現在

 賀状をいただいたのに、対応が出来なかった人のひとつに「草場書房」さんがある。代表の草場影郎さんとの最初の出会いは、まだ雑誌「文學界」で、同人雑誌評を行っていた時期で、たしか「季刊文科」の企画をプロデュースしておられた。
  当時、自分は「文芸時事月報」を発行し読者から、藤沢の「リブロ」だったかな、評論家の松本道介氏(故人)が、作家・阿部昭について語るので、取材して報告して欲しいというものがあった。そこで、藤沢まで行って講演を聴いた。聴衆は主婦が多く、阿部昭の持ち味が理解できるのかという感じで、哲学者でもある松本道介氏も戸惑っていた様子。その司会をしていたのが下井井草に住んでいた草場さんであると、後でわかった。
 その後、地下鉄で偶然であったりしたが、今は佐賀県委に転居されている、在京時代には、弟の編集する「野上弥生子の文学とその周辺」(伊藤誠二編著)代行として草場書房にお願いした。この本は、文学フリマ東京のフリーマーケットで割引で出すと、毎回1冊か2冊は売れるのである。《参照:文芸同志会のひろば
 やっぱり現物を手に取って中味を読んでもらわないと、理解されない面がある。

| | コメント (0)

2019年1月 5日 (土)

文芸同人誌「海」第Ⅱ期(太宰府)

【「あちらこちら文学散歩(第八回)最終回」井本元義】
 ランボーの伝記を追って語る。並々ならぬ傾倒である。ここでは、病を得て商人を止めて亡くなるまでの経過を、しみじみと語る。なかに、詩作を止めたその後のランボーを気にかけるのは、無意味というクローデルの意見を紹介している。作者はそれに反発している。自分は、作者に同感だが、理由は異なる。詩才を発揮しきった詩人が、表現の意欲を維持することは不自然に思うからだ。商売ではないのだから。長生きして谷川俊太郎のような生活の糧になるようなら、ランボーではありえないないくらいのことはわかる。とにかく天才の内面はわからない。有象無象の凡人には面白く読めた。作品「永遠」の訳は、わたしは、堀口大學のー空と海がつがったーが好きです。
【「白い秋」有森信二】
 加代子という息子への愛情にあふれた良き母が、偏った愛の作用に依存し過ぎて、妹の恭子を姉夫婦にあずけている。そして、結局は息子を自死に追い詰める犯人になってしまう悲劇。とにかく、筆力に文句はない。場面場面を積み重ねて、物語をすすめるという手法を熟知していて、一気に読み通せる。要するに面白いのである。しかし、息子と娘の恭子の立場の表現に書き込み不足を感じる。しかもそれをしたら、長くなってしまう。どうしたらよいか、他人の作品ながらも、自分も工夫を考えたが、解決の方法がわからない。これだけの手腕があるのだから、地域を舞台にして小説を書けば、地元の有力作家として次第に全国に広まるのではないか、とも思う。まあ、結局は表現者として、どうありたいかに関わることなので、余計なお世話であるが。
【「巡査の恋」中野薫】
 警官は公務員なので、いろいろ制約がある。その窮屈な立ち位置を描いて面白い。最近、警備の働き盛りの警官がピストル自死している。内面に知られざるストレスがあるのだろう。私は、学生時代には公安に、社会人になってからは自転車窃盗、収賄の嫌疑で取り調べを受けて来たので、いろいろな警官に出会っている。外部からでも微妙な立場の警官の姿を知ることができる。本作は、リアリズムが目的のようなので、これで良いと思う。表現力は充分で判かりやすい。実録的な要素を薄めるためには、恋をした女性警官をむちむちして、しかも筋肉質の体形を色っぽく表現できたら、フィクション味が加わるのではないか。
【「パレイドリア」高岡啓次郎】
 タイトルも理解できず、主人公が男か女か出だしでは分からず、それから読み進めた。作者の「あとがき」を読んで、語る主人公が死者であることを知り、少し考えさせられ、面白く思った。こういう場合なら「あとがき」を「まえがき」にして、それからさあ読んでみなさい、とした方が親切。趣味の問題で、読者に親切だから良いとは限らないですが…。
【「姉と僕の関係」牧草泉】
 「姉と僕」ではなく、「関係」があるので、近親相姦の話かとおもって、わくわくして読んだら、文学趣味での近親関係の話でした。なにしろ、当方は専門が経済畑で、ある文学部の教授から、「どうりで、君の話はダメな奴だの部類だとおもったよ」と言われたものだ。有象無象が、ほかの有象無象を研究するのが好きなだけで、文学はほんのその一部でしかないと思う。でも、文学に対する情熱が伝わってきて、面白かった。ところで、3日にNHKの現代資本主義の番組をみていたら、シュンペイターの言葉があって、いいぞと思ってみていたら、社会学者が経済学者は一部しか見ていなと、貶してた。まったく、とんでもない話だった。
【「静かなる奔流」井本元義】
 また、井本さんの作。巴里の彷徨が軽快に楽しく描かれ、流れるような文体で味わい深い。書き手が楽しく書くと、読んでも楽しみが増す。サンテ刑務所には無政府主義者が入れられていたとは、知らなかった。ましてや、アンリ・ルソーが入れられていたなんて…。そういえば、辻潤もパリに行っている。
 カトリーヌに似た女のジーパンの腰つきなんて、想像させられる。絵のヌードのモデルにするためのフーラを待つ時間は胸がときめくだろうな。自分も絵が好きだから、いいなあと思う。
 ところが、日本の出来事の話になると、やはり湿潤な重い感じ。しかも、ラストは、主人公は死んでいたんだね。タイトルの意味がわかった。
発行人=〒818-0101太宰府市観世音寺1-15-33、松本方。「海」編集委員会。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

| | コメント (1)

2019年1月 4日 (金)

交流会で同人誌の印刷や誌面構成を話題に=外狩雅巳

 町田文芸交流会一月会合を前に各会の同人誌が完成しそれぞれの会内での合評会が始まっています。
 文芸多摩からの連絡では交流会前に内部の合評会を行い外評価に臨むそうです。
 同じ文学潮流の仲間での同人誌は外部からどのように読まれ評価されるかを期待しているようです。
 昨年末に「民主文学」誌を「群系」誌の永野代表に送りました。左翼だ、日共だ、との思い込みが変わったとしていました。
 そのことが彼のブログにも書いてありました。分断された国民感情にくさびを投げかけた事を実感しました。
 その「群系」同人も「日本民主主義文学会」町田支部の人も加わっての交流会会合なので、面白い時間を創れそうです。
 月例会なので顔なじみになれば、相互の会合の実態や経理上の事や印刷技術も討論できます。
 活字の大きさから紙質や色調とか目次の作り方や会費納入状況など等なんでも話せます。
 これが、顔を合わせるリアルな交流会の利点なのです。みんな親友になります。勉強になります。
 このような同人会の相互交流は稀有なので「文芸多摩」11号と白雲47号の同人誌上に紹介されています。
 昨年末に送付されてきた「日曜作家」誌からお手紙を頂きましたが合評が困難だとの事です。
 勝手我儘な参加者に振り回されるので会合を廃止してしまったとの事です。それは何処にもあります。
 それに負けずに参加者の満足を作り上げる会合運営を放棄している事です。
 文芸同志会の評価を期待してそれを誌上に掲載しているとの事ですが、自前の合評会も必要でしょう。
 連載もエッセイも短歌も掲載したからには、全ての作品著者は評価を待っています。
 みんな人間として平等です。作者が望むならすべて合評できる仕組みを追求しています。
《参照:外狩雅巳のひろば

| | コメント (0)

2019年1月 3日 (木)

出来ないからしない。今年の経済評論に自然災害の予測がない

 文芸同人誌が寄送されてきています。紹介された人だけが読んでも、月に10人は読者がいることになる。これは、2000年に文芸時事月報ではじめたもの。大手新聞や放送のニュースをまとめたデーター的なものであったが、これを始めたのは、文芸同人誌の仲間うちの合評会は、充実感がない。作文程度にまで、言及を迫られる。時間の無駄だー。
 そこで、印刷する前に、原稿を読みあおうということで、生原稿を読み合い、私がまとめ情報をつくって送っていた。そこから、文芸同志会を結成した。公募小説の傾向と対策を学んで、作家になった人もいる。卒業して行った。私自身、自分で調べた情報で、出版社を訪ね、持ち込み作品が採用掲載され、新人作家として表紙に名前が出たこともある。実際に目的を実現させている。しかし、主流系でないので、小説より経済雑誌の取材記事の方が、すぐ採用され、数をこなねせたので、経済記者になった。その時に、たいていの編集者から著者の肩書をどうしますか? ときかれ、そちらの便利な方でいいです、とういうと、経済評論家とか、経済ジャーナリストとかのことになっていた。
それをたしか2006年に、ネットで無料公開を開始したので、そのからでも10年以上経っている。その間に、知らない同人誌からも送られてくるようになった。無料で文芸同人誌の実際が見られるのは、大変ありがたい。ただ、紹介を約束するものではないので、気楽に読ませてもらって、紹介記事にしている。一応、これもプリントすると活字で残るので、否定的なことは書かない。自分で資金負担しているわけでないので、提案をするが、それは否定ではない。それを全否定されたように思うのは、勘違い。でも、勘違いする人がいるというのも、社会情報のニュースでもある。
 人の価値観が変わり、このサイトも転換期を過ぎて古めかしすぎるのは自覚している。
 いわゆるフェイスブックとツイッターの時代なのに、自分はガラケーしかやらない。このパソコンには、フェイスブックもツイッターも情報がとれるようにしているが、これを落ち着いて読む人は少ないであろう。
 となると、パソコンを主にする人だけが読者の対象になる。実際、昨年のアクセス数は同志会通信のサイトでも最低クラス。さらに、「暮らしのノートITO」サイトは、一人が複数個所みるが、観る人数は一日100人以下である。(原発事故の時は700人を超えていた)が、ビュー数は、その3倍くらい。月刊にすると、3000人前後の読者数になるだけ。
  自己ブログをやっているひとにとっては、多いというひともいるかもしれないが、ライブドアの外部ニュースの時には、一記事4万アクセスが目標で、アクセス不能になった時もあった。
 そういう視点からすると、小さなニュースサイトに過ぎない。そこで、年会費制度を廃止して身の丈にあったシステムにすることにしたのである。これから出来ないことはしない方針。今年の経済予測をいろいろ聞いたが、災害を計算に入れていないのがほとんど。信じてはいけない。やはり出来ないことはしないのであるから。
 今日は、冷蔵庫におせちがあるが、どう扱ったらよいかかわからず、取りあえずバナナをスーパーに買いにいく。町で休みのところがあるので、開店している店を探して、彷徨った。脚が痛い一日だった。

| | コメント (0)

2019年1月 2日 (水)

”賀正” 本年度もこのような穏やかで良い日和のようでありたい 

  良いお正月となりました。会員の方、賀状をいただいた方々には、まだ出していないものがありましたが、このまま失礼することになりそうです。文芸同志会は、今年より年会費制度を廃止しました。年会費だけ払って、病気や都合で投稿しない人が増え、さらにこのパソコンが不調で、運営者の能力不足とあいまって、活動が鈍くなってきました。ところが、さらに昨年31日に、家の者が倒れまして、バスルームで溺れたようになり救急車。一応、検査してOKになり、タクシーで帰ってきましたが、年が明けると、また意識障害を発症し、救急車。まさに「去年今年貫く棒のごときもの」虚子ーーのごときものでした。天気晴朗なれどしばらくは乱調子です。ITO.
■文芸同志会連携サイト
暮らしのノートITO
詩人回廊
 従来、会員は年会費を払って、このサイトに投稿できるのです。このサイトは、会員に関係のないニュースも流しますので、ついでに会員の作品も読むであろうという仕組みです。当初のブログは、リンクを張ったものほど、検索で上位に来る傾向がありました。過去形ですがー。そして、年会費を払っている限り、投稿したものは掲示jされつづけます。運営者に異変がない限り。この年会費をやめますので、2年くらいの間に、適宜なくなるものもあるでしょう。また、今後は投稿したものの手数料だけいただくことになります。

| | コメント (0)

2019年1月 1日 (火)

文芸同人誌「海」98号(いなべ市)

【「熟柿」宇梶紀夫】
 熟柿が嫁いだ妹から送られてくる。それを主人公の雅夫と妻の綾子とで食べる。家には、妻の母がフサが同居している。それが話の枕になっている。妻が肺がんの手術をして結果がよいので、2泊3日の北海道旅行に行く。そこで、蟹を食べるが、雅夫はひどい下痢を起こし、治らない。特別な細菌に腸をやられていたのだが、病院に行ってもどんな菌かわかるまで、治療に時間がかかったのだ。その下痢をしながらの過ごし方が、リアルで迫力がある。やがて、フサは亡くなるまでの話。家族と人生の晩年をみっちり描いて、身につまされる。それでいいのだと、思わせる生活感がある。風土色の強い作品を書いてきた作者の作品の方向性を変えたような味のある作品。
【「常田太助の晩節」国府正昭】
 理髪店を経営をする水谷という高齢職人の店内を舞台にした連作の最終回。いつの間にか理髪店が定年退職した人の自治会役員会のようになってしまっている。ユーモアを含みながら、町内に起きたエピソードを披露する。そういうことあるあると、同感させるものがある。
【「炎の残像」宇佐美宏子】
 老境を迎えた女性が、電車のなかで、昔の恋人とそっくりな若者が乗っているのに気付く。若者は眼をつけるように眺める老女をうんくさい視線をなげかけ、下車してしまう。彼女はその若者が、恋人が生きて存在していることを信じる気持ちになる。人間は現実と幻影のちがいを混同するというより、同一的に解釈する。作品は、ただ似ているという体験から、一歩先に出たの想像力の発揮が良いが、平凡感がある。だが、方向性は納得できる。
【エッセイ「音楽と日々―LA Musique Les Jours」久田修】
 周囲の人たちを病や高齢で失い、音楽を聴くことに生きがいを見出している。作曲家の名前や曲名を読むだけで感慨を覚える。読む自分は若い頃、オーディオ愛好家の家に取材で多く訪ねたことがある。音楽がセラピーになるようであった。うつ病を治した人もいる。自分は耳鳴りが常時していて、楽しみが減った。新年のNHKウィーンフィルの演奏ぐらいはTVで観るつもりだけど。
【「たらり たらりら」遠藤昭巳】
 神社の祖父は神職であるが、息子夫婦は家を出てしまった。その長男である幸輔は、祖父と暮らしながら、頼まれて神職の手伝いをしている。祖父の友人に喜多と言う人がいる。サラリーマンを退職後、神職になった人だ。能にくわしい。祖父に後継を期待されながら、その決心がつかない。喜多は、幸輔に能の謡の教本を与える。そこで、祖父の代理に広島の姉の家の新築地鎮祭を引き受ける。手堅い描写力で神職の詳細がわかり、大きなテーマはないが、面白く読めた。
発行所=511-0284いなべ市大安町梅戸2321-1、遠藤方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

| | コメント (0)

« 2018年12月 | トップページ | 2019年2月 »