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2018年12月31日 (月)

「西日本文学展望「西日本新聞」12月28日/朝刊・茶園梨加氏

題「希望」
雲川(ゆかわ)あささん「牛乳の海に咲く花は落ちない」(「文芸山口」文芸山口大賞受賞作特集号、山口市、準大賞受賞作)、佐々木信子さん「ヤマガラの里」(第七期「九州文學」44号、福岡県中間市)
村谷由香里さん「かもめの鳴く海は 今日も」(文芸山口賞準大賞受賞作)、箱嶌八郎さん「ほくろ」(第七期「九州文學」)
文芸同人誌案内掲示板:ひわき さんまとめ)

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2018年12月30日 (日)

2011・.3・11以前の初詣の記憶から

  年末になると、未来予測が発表されるが、天変地異が起こると予測するのは、占い師ぐらいであろう。しかし、これまでの事実からは、占い師もまんざらでもない的中率である。異常気象時代に初詣で、災害が起こりませんように、と祈る人も多いであろう。そこで、3・11以前のー初詣の記憶ーを自分のブログから探してみた。当時、PJニュースというサイトに載せていたので思ったより記録が少ない。---
自分は、自然災害が未来のテーマだと思う。

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2018年12月29日 (土)

貧乏人が大資本組織を支える社会構造と弁当屋さん

 東京新聞の12月28日付の最終面記事に2008年の年越し派遣村のことを、(平成10年)記事にしていた。懐かしくも湯浅誠氏の話も出ている。そこで、「もやい」の会のことを転結させて記事にした。《参照:貧困支援に問題提起をする「もやい」(NPO)の2018年
当時は、ライブドアの外部記者PJニュースで報道していたので、これらの記事は、どこかのサイトに転載されているがクレジットがない。これがネットのまとめサイトの特徴であろう。
  それはともかく、現代資本社会の例として、街のお弁当屋さんを考えてみよう。街角で店を開ていたお弁当屋さんのおじさんがいたとする。すると、近所のコンビニがもっと安く多彩なものを売り出した。
 お弁当屋のおじさんは、もう歳だし、儲からないから廃業する。すると、今まで自分の仕入れた弁当を食べていたのが、仕方なくコンビニで買って食べるようになる。すると、コンビニの弁当は売り上げが増える。
 人口減でも、いままで買わなかった客を貧乏にすれば、まだ売り上げが増えるという構造があった。これをやるので、商店街の主人がみなコンビニの客になる。薄く広く利ザヤを稼いで金儲けをするので、いよいよ大資本が生き残ることになる。中国も、国民を貧乏にすれば国は金がたまるので、アメリカの経済制裁に耐えるであろうとみている。その見本が北朝鮮であろう。

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2018年12月28日 (金)

【文芸時評】1月号(産経新聞12月23日) 石原千秋教授

--2頁から抜粋ー
もし近代国家も崩壊した果てに、AIが物語を作ったらどうなるだろうか。AIが物語を作ることそれ自体が問題なのではない。AIが作った物語を人々が物語だと心から信じたときが、人類が人間ではなくなるときだ。ミシェル・フーコーは、世界の主体としての人間の終焉(しゅうえん)を説いたが、それとはちがった意味での人間の終焉がはじまっているようだ。僕たちは自らを理解するために、「人間」とはちがった言葉を用意した方がいい時期にさしかかっている。
 河出新書再始動第1号の橋爪大三郎と大澤真幸との対談『アメリカ』は、アメリカの政治から思想までをも縦横に語った読み応えのある本だが、このアメリカは明らかにトランプ以後のアメリカである。大澤は、いまのアメリカは本気でキリスト教を信じている一握りの人々がいるから、まあアメリカはキリスト教国家としておこうという「なんちゃって」キリスト教国家だと言うのだ。僕たちは、これまで自らを人間と呼んできたから、まあこれからも人間と呼んでおこうという「なんちゃって人間」になってはいないだろうか。
《参照: 【文芸時評】1月号 僕ら「なんちゃって人間」?! 早稲田大学教授・石原千秋 》

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2018年12月27日 (木)

文芸同人誌「奏」第37号2018冬(静岡市)

本誌には「評伝藤枝静男」(勝呂奏)の連載第4回が、掲載されている。読んでいて、ちょうどモダン文学とポストモダン文学の橋渡しをするような評論に思えたので、《「評伝・藤枝静男」勝呂奏(連載)を読む」》として、私小説を考えるヒントにしてみた。自分はあまり藤枝作品を読んだ記憶はさだかでないが、小説「悲しいだけ」だけは、ある共感をもって読んだ記憶があり、いまだに自分が悲しくなると、この作品を思い起こしてしまうのだ。
  そのほか、藤枝静男のエッセイ「滝井さんと原勝四郎氏」が『南苑集』第5号に掲載されているのがわかり、図書館資料から転載されている。
【「女たちのモダニティ(1)=岡本かの子「過去世」連鎖する美=」戸塚学】
 岡本かの子の作品「過去世」(「文芸」昭和12年7月)における文章表現の芸術的追求を行った部分を解説している。いわゆる近代小説の純文学のひとつの技術的な工夫を岡本かの子の美意識の資質的な面から分析している。「過去世」という抽象的ともいえる仏教的な思想を、その言葉を使わずに、感覚的な言葉と造形美的なイメージで、その意味する世界観を表現する工夫を分析している。岡本かの子らしい官能性を帯びた言葉の活用が分かりやすく分析されている。その引用部への解説ではーー引用部、梅麿の肉体に対する「健やかな肉付きは胸、背中から、下腹部、腰、胴へと締まつていきこどもの豹をみるやう」という描写は、欧州旅行でのダビデ像の印象の抽出の直後に接続されている。身体のパーツをひとつひとつ数え上げて行く描写は二重化し、梅麿とそれとダビデの像の理想化された肉体とをともに描きだすかのようである。――とする。
 ポストモダンとされる現代文学では、いまのところ、ここに示されたような伝統的な手法を意識的に読みとって、文章を楽しむという傾向は薄れているのではないか。また、コミックの画像化は、描くひとによって異なるであろう。文学のカルチャーとして地位の低下の中でこそ、大衆性にこだわらない文学性の追求が顕在化することの意味性を期待させる。
絵画を自宅に飾る人が多くないように、文学書もそうなってしまうのか。デジタル化の時代の文学芸術には、ある程度、データ―ベース的情報の共有知識が必要になるのではないだろうか。
【「小説の中の絵画(第九回)川端康成『美しさと哀しみと』-人体を描く」中村ともえ】
 ノーベル賞作家の川端康成の作品は、多く読んだ記憶がない。この作品も読んでいないが、美意識に結びついた官能性についての表現をめぐる評論としては上記の岡本かの子と問題点が似ている。この作品には文学的小説のための「方法論」が多く記されているという、珍しい作品らしい。このような作品を書いていたのかという興味と、川端が官能色を帯びさせて書くのに、女性の乳房の表現に乳首のみを重点したのは、母性へのイメージより、エロチックな刺激を盛り込むところに、川端色が出ているところが納得できた。
 人間は生きていることの充実感というのは、欲望をつくってその実現に向かう姿勢にある。その重要な手立てとしてエロスがある。その点で、岡本かの子も川端康成も、意識的にエロス感覚をもって欲望の立ち上がる世界に導くものであるのだろう。
【「堀辰雄旧蔵書洋書の調査(十四)-プルースト⑧」戸塚学】
 プルーストは良く分からないが、本は何巻か文庫で持っている。堀辰雄のフランス文学に対する研究心のすごさを感じさせる。まさにモダン時代の文学的な追及の開拓精神のなせる技なのであろう。恋愛のエロスはもちろん、自然現象やと社交現象に生きる欲望を見つけ出す作業なのだったのか。
発行所=〒420-0881静岡市葵区北安東1-9-12、勝呂方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2018年12月24日 (月)

【文芸時評】12月(東京新聞)文芸この1年(下)佐々木敦さん×安藤礼二さん

◆反現実的小説の時代(佐々木)
 佐々木 第百五十九回芥川賞の候補作「美しい顔」の問題にも触れたい。東日本大震災で家族を失った少女を主人公にした小説で、ノンフィクション作品との類似表現が問題になりました。デビュー作だった北条裕子に脇が甘いところがあったのは事実。この作家は二作目が書けるかどうかが勝負でしょう。
 安藤 震災を題材にしたのが全ての原因だと思います。歴史を描くか、フィクションを描くか、位置取りが明確でなかった。震災は非常に強いリアルなので、題材にするにはたいへんな覚悟が必要。
 佐々木 確かに、本人も被災地に行かずに書いたと公言していて、盗作疑惑がなくても批判される可能性はありました。ただ、それでも擁護したいと僕が思うのは、あれが新人の第一作だったからです。推測するに、彼女はテレビ報道で震災ポルノ的なものを見て、心の底からムカついたんだと思う。だから主人公の少女はやっぱり作者自身なんです。その個としての切実さは認めたい。
 安藤 でも、震災を文学に利用しては駄目ですよ。確かに、文学作品は究極の反社会性を持たざるを得ないところがある。笙野頼子(しょうのよりこ)の『ウラミズモ奴隷選挙』には、男性の痴漢する自由が、『新潮45』問題の起きる前にパロディー的に嘲笑されています。ただ、彼女は自分が言葉の暴力を行使しているということに自覚的。作家は言葉の暴力にあらがうと同時に、その主体であることを踏まえ、それに伴う責任を引き受けなければいけない。
◆言葉の暴力に自覚を(安藤)
 安藤 今の作家たちが未知なるものに挑む力をすごいと思う一方で、どこか既視感もある。例えば人間にとって性的な欲望とは何かという問題。かつては性を正面から描くのがある種の解放でしたが、今はむしろ性の交わりがない中で、どうやってコミュニケーションを取るかという主題が目立ちます。
 佐々木 その問題をはっきりリアルに描いているのが村田沙耶香。性や生殖が人間の営みの基本になっているという人間観自体にノーを突きつけている。『地球星人』というタイトルも秀逸。『殺人出産』『消滅世界』、そして本作と、家族とか人間関係とか、常識だと思われていたことを全部壊していく。一方で、「日本」を徹底的に相対化し、ドメスティックな問題自体を無効化するという立場を取るのが多和田葉子です。『地球にちりばめられて』では、日本という国そのものがなくなっている。
 安藤 多和田と書き方も主題も対極的に見えるのが平野啓一郎の『ある男』。主人公は在日三世の弁護士で、戸籍を交換した男を追ううち、彼自身もアイデンティティーを失っていくという話。ストーリーテラーとしてうまい。多和田作品が外側に開かれているとしたら、平野は内側に同じような問題を追っている気がしました。
(後半省略)
<ささき・あつし> 1964年生まれ。批評家。著書に『新しい小説のために』『ニッポンの文学』『シチュエーションズ』など。
<あんどう・れいじ> 1967年生まれ。文芸評論家、多摩美術大教授。2015年、『折口信夫』でサントリー学芸賞。近著は『大拙』。
《参照: 文芸この1年 佐々木敦さん×安藤礼二さん 対談(下)》


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2018年12月23日 (日)

【文芸時評】12月(東京新聞)文芸この1年(上)佐々木敦さん×安藤礼二さん

   文芸時評を執筆している批評家の佐々木敦さんと、文芸評論家で多摩美大教授の安藤礼二さんが2018年の文学について語り合いました。(文中敬称略)ー一部抜粋ー
◆奥泉、巧さの極致に(佐々木)
 安藤 今年を振り返ると、歴史と物語の関係を再考するものが多かったと思います。平成が終わることが決まり、もう一度、作家が歴史をどう解釈し、自分なりの物語として書くかが問われました。
 佐々木 新書でも歴史ものがベストセラーになっており、歴史への関心が無意識的なレベルで高まっていると感じます。その点で今年を代表する作品としてまず挙げたいのが、戦前の昭和を舞台にした奥泉光の『雪の階(きざはし)』です。彼のお家芸ともいうべきパターンですが、ミステリーの形式を取りながらどんどん話が混沌(こんとん)としていく。普通のミステリーのように結末で物語が収束することなく、読者を異世界に連れていく。今作では文章も語り口も巧(うま)さの極致に来ている。
 安藤 奥泉は、この本で三島由紀夫と松本清張とを一つにしたかったのかなという気がします。
 佐々木 それは明らかにありますね。僕は先日「豊饒(ほうじょう)の海」の舞台を見たのですが、昨年は「美しい星」が映画化され、今年も大澤真幸が新書(『三島由紀夫 ふたつの謎』)を出すなど、三島のプチブームが来ている。古川日出男の最新の戯曲も「ローマ帝国の三島由紀夫」だし。これも平成の終わりと関係があって、三島というスクリーンの向こう側に見えるのは天皇なんです。
◆異質排除する論壇(安藤)
 安藤 女性作家が増えたとはいえ、やはり文学界は根本的に男社会だったことが露呈したのが、早稲田大の文学学術院で起きたセクハラ問題。大学の問題と文学の問題が連動している面があります。教育現場では、教える側と教わる側が非対称で、権力関係が醸成されやすい。そして、文学というものを本当に教えられるのかという点も問われました。誰もが作家になれるわけではない。小説を書きたい学生が大学の教員から学ぶのは、不幸な出会いではないかと以前から感じていました。
 佐々木 あの案件については一切擁護できない。被害を申し立てた元大学院生の勇気ある行為によって問題が表面化したことはたいへん良かったし、再発に対する歯止めにもなり得る。また、寄稿がLGBT(性的少数者)への差別的表現だと批判され、『新潮45』が廃刊になった問題では、文芸誌が意外なほどビビッドに反応しました。そうしないわけにもいかないということもあったでしょうが。
 安藤 右と左に分かれがちな論壇誌を見ると、どちら側も異質の意見を入れる余地が全くなく、うんざりします。
《参照:文芸この1年 佐々木敦さん×安藤礼二さん 対談(上)》

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2018年12月21日 (金)

同人誌季評「季刊文科」第76号=評・谷村順一氏

≪対象作品≫
特集「何を書くかよりどう書くか」(「樹林」Vol.643・大阪市)/藤本紘士「小説友達」(「同」)/稲葉祥子「贋夢譚」(同)/染谷庄一郎「小説の生まれるところ」(同)/三好久仁子「音の海に身を沈め」(「夜咲う花たち Female」(夢陰文学会・神戸市)/水無月うらら「ひかり透く」(「星座盤」Vol.12・岡山県)/北条ゆり「天空の文学」(「まくた」第294・横浜市)/井上重萌「ミナモ」(「BABEl」第2号・大阪府)/宇野健蔵「ジョンとヨーコとスカイのタネと」(「じゅん文学」第97号・名古屋市)/高原あふち「食う寝るところ住むところ」(「あるかいど」第65号・大阪市)。


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2018年12月20日 (木)

文芸同人誌「メタセコイア」第15号(大阪市)

【「想いを運ぶ 風」櫻小路閑】
 掌編小説的な散文が四季4編で成り立っている。「夏風落穀」、「秋風蒼月」、「冬風一葉」、「春風漂香」のタイトルで、それぞれの季節を軸に、それぞれの人間の経験する喜怒哀楽を表現する。俳句や短歌でも形式的な違いがあっても、連作で可能のように思える題材とテーマである。だが、やはりきめ細かに物語的な感性を働かせられるのは、散文詩的なものにするのがベストと思わせる。とくに夏の編では、枯れた視点で人生を回顧。文学的な詩想を埋め込むことに成功している。他の季節は、夏の話と同じレベルに詩想を盛り込む努力が感じられる。苦心の試みであろう。詩歌の世界の人には、参考になる手法ではないか。
【「まねき食堂」和泉真矢子】
 女子大学の近くにある「まねき食堂」を養護施設にいる義母から承継している佐代子。夫の真一は、店を放りだして、行方不明である。義母のいる養護院は老朽化で、よそに引っ越しを迫られている。そんな時、長時間店にいる高校生らしい女性が気にかかる。
 訳ありそうな彼女は、やはり家出娘で、今夜、泊めてほしいという。泊まって複雑な家庭事情を話す。彼女は、翌日去るが、また戻ってくるかもしれない。「まねき食堂」の状況は変わらないが、そこで佐代子は成り行きにまかせて、辛抱するしかない。市井の生活小説として、読ませる。やはり人物像の描き方が良いのであろう。
【「渇けども、渇けども」吉村杏】
 咲音は、結婚して子供が生まれ、主婦をしているが、友達ができずに孤独である。スマホで、フリモリというサイトで、売り物をインスタで写して出すと、それがすぐ売れる。その反応を見るのが快感になって、むりやり売り物をつくってでも、インスタ販売をやめられない。依存症になってしまっている。
 そのうちに、昔の彼氏の真山信が、昔の彼女のラブレターをフリモリに出品しているのを知る。その後、彼氏が病気なった話が出てくるが死んだような気配もある。フリモリ中毒の依存症のところは面白いが、それが真山信の喪失感につながるのかどうか、わからない。だからいろいろなことを書いてあるのか。エピソード集め小説のようなところがある。
【「金魚」多田正明】
 昭和18年の頃の話からはじまり、戦時中に金魚を飼う話を通じて、戦後すぐの子供たちの生活ぶりを描く。「奉公」や「藪入り」など昭和でも江戸時代からの生活習慣が残っている話などと、土地柄の風物が記録されている。
【「御香宮」楡久子】
 京都見物記。
【「屋上庭園で」マチ晶】
 年配で独身の私は、百貨店ウィンドーショッピングを楽しむ。園芸売り場から屋上庭園にでて、写真を撮っていると、女性から声をかけられ、レストランの料理の話をされる。美しいが服に汚れが目立つ。ミミという名だとわかる。食事に誘うべきか迷うが、なにもせずに別れる。
 それから数週間後、同じ屋上庭園に行き、ミミに会えることを期待するが、周囲から奇異の目で見られてしまう。帰りにエレベーターホールの鏡をみると、落剥した感じの自分の姿が映っているのが見える。男の孤独を描いて、話の仕掛けが面白いが、もう少し工夫の余地が欲しかった。ただ、読後なにかモノを言いたくなるような作品である。
【「原石」北堀在果】
 松岡達貴というN高の生徒相談室と、女性教師の川上の間系の話からはじまる。達貴が発達障害らしい。定年間際の川上の達貴への対応ぶりを描く。仕事が特殊な精神で維持運営されるのがわかる。ただ、全体に平板。
【「カンナ」永尾勇】
 カンナという性的、性格的に奔放な情勢と、それに絡んで反応する主人公の僕の関係を、具体的な場面を挟んで描く。理屈っぽいところのある話だが、場面の連続で、その場その場が読みとおせるが、それを楽しめるからどうかは、人によるのではないか。長編小説の一部のようだが、ぼくの思想が真面目なのか不真面目なのか自意識の色が薄いので、カンナの行為の印象も薄味になってしまうーー力を入れてかいているのに。自分には、面白さ中くらい。
発行所=〒546-0033大阪市東住吉区南田辺2-5-1、多田方。「メタセコイアの会」
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2018年12月17日 (月)

文芸同人誌「駱駝の瘤」通信15号(福島県)

本誌の第15号(2018年春)で「3・11、7周年号―木村幸雄先生を偲ぶ」(84歳で昨年9月他界)を特集にしている。そこに、本誌が木村幸雄氏により、2011年の3・11の地震・原発災害をうけて創刊したものであることが判った。原発事故に関する貴重な現場報告は、こうした創刊の由来があるのだということがわかった。木村氏は野間宏の日本文学学校にかかわったり、して福島に教員としてきた人らしい。
 現在の東京には、福島から上京してくるひとや、現地にブランティアに定期的に通う人もいる。すると、いろいろな病気を発症している人が多かったり、鳥の鳴き声の現象を感じたりしている話を聴くが、どれも普通より少し変だということしか言えない。しかし、原発が気がかりを増幅させていることは、確かである。《参照:気がかりをそのままにするか=事故と放射能被ばくの影響
 私自身、個人的には3・11の災害が起きる前から、東電の送配電独占が、地元の産業生産性圧迫している、という問題意識をもち、地元企業と東電を取材していた。高い電力料金による利得を要所に結びつけ、巧みな誘導手法は、事故前から知っていた。電気代の請求用紙をよく読んでみれば、もっと安くできるはずなのに、原発の経費がそれをさせない仕組みが、ネット検索でたどって調べればわかる。スマホでは無理なので、活字化が必要かも。
 本誌の執筆者の秋沢陽吉氏「雪はしきりに」が「丸山健二塾」の塾生作品としてネット公開されている。
 それぞれ興味は尽きないが、野間宏、丸山健二の作家の愛読者である自分の意見を述べるのは、いまは面倒で、怠けさせてもらう。
 発行所=福島県須川市東町116、「駱駝者」。
 紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2018年12月16日 (日)

安田純平氏解放前の刑務所の不可解

 シリアで拘束されていた安田純平氏が、久しぶりに姿を見せ、拘束された状況を語った。解放前まで拘束されていた刑務所のようなところの話がほとんどだが、拘禁されていた期間に安田氏が読み取った部屋の外の気配を、自分の記憶を確認するように語っていた。《参照:安田純平氏がシリアでの過酷拘束の不可思議の実態を語る》
 そのなかで不思議に感じたのは、まず大規模な刑務所のような施設で、ほかにも様々人種がこうきんされていて、そのと2男以上拘束されていたイタリア人は、いまだに解放されたという情報ががないこと。また、ヌスラ戦線であること示すポスターが多く貼ってあり、これはヌスラ戦線を騙るそしきではないか? とか、イスラム教徒のこだわりがなく、拘束者のスンニ派やシーア派の区別にこだわらなかったこと。他の宗教者でも区別をしている様子がなかった。コーランの教義にも外れたことを平気でするなど、イスラム法廷のよる有罪者の刑務所を請け負っている場のようにも見えたという。その事情は《安田純平さんシリア拘束の事情で判ったこと=高世仁氏》にある。

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2018年12月12日 (水)

【「百歳の母の人生」田中修】の誤りのご指摘で訂正しました

  同人誌作品紹介で「アピ」誌の【「百歳の母の人生」田中修】の記事中、お母さんの家の距離が5メートルと誤記したので、訂正しました。申し訳ありませんでした。ただ、福島原発の立地がむりやり、高い山地を削って低くしていた事実の問題は、変わりません。もしというのも変ですが、高地をそのまま使って建設していれば、二人の東電の社員さんが犠牲になることはなかったでしょう。東電経営者と経産省の良心がうずくことがないのでしょうか。たた、土地がたかいままだと、経費がかかるというのであれば、原発は安くできないということで、発電費用が安いというのは、ウソだということです。また、原発の地震に弱い構造がどの場合でももっているということを、今後、暮らしのノートITOで、福島の同人誌「駱駝の瘤通信」などを引用させてもらいながら、記していきたい思います。

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2018年12月10日 (月)

文芸同人誌「アピ」第9号(茨城県)

【「百歳の母の人生」田中修】
 寿命が百歳というのは、日本ではそう珍しいことではないようだ。だが、亡くなったのは作者の義母。東京電力福島第一原発の事故により避難指示区域になったところが長年の住まいであった。作者の夫人の実家で、そこは、南相馬群小高市で、原発から北西訳10キロ、海岸から約5キロメートル(5メートルを訂正)程、離れているという。山沿いにあったために津波の影響はなく、地震で屋根瓦の一部が破損しただけだという。
 原発の事故の津波を考えると、そんな地形があるのか、思う人もいるかと思うが、変ではない。原発は冷却水の放出の費用策削減のため、もとは高かった山地を切り崩して低くしたのである。それで、津波を被ったのである。それが電源喪失の唯一の原因とは限らないという説も出てきている。ともかく、義母が事故に遭遇した時は、93歳であった。避難に行政からの指示もなく、避難場所を転々と変え、やっと親戚の家に落ち着いたという。避難生活では、死んだ娘のところに行きたいと言っていたそうだ。その後、体調を崩して入院すると、そこでアクリルたわしを作って、配ったそうである。不幸な晩年生活で、震災関連死者のひとりであろう。それでも、最期は穏やかなものであったという。
【「混沌の地平線」西川信博】
 何とかタウンという場所で、アパートを借りている僕と妻の二人の生活のなかでの、出来事を描いたもの。妻は、普通の人には見えないものが見える。小さなコンピューター会社のプログラマーである僕もそれを受け入れて、暮らす。会社はブラック企業的な社員待遇で、35歳ぐらいになると、退職を仕掛けてくるようになる。
 こういっても意味はないほど、人間的な精神の運動を中心に話がすすむ。実に文学的センスに優れ、純文学的な面白さで、読者として惹きつけられた。かなりの才能ではないかと、期待させられた。
【「エルムの丘へ」さら みずえ】
 敗戦後の帰還兵であった康冶は、青函連絡船に乗って北海道の炭鉱労働者となる。彼と家族は、さまざまな難を逃れ、鉱山会社の無事勤めていたが、働き手の康冶が、十勝に旅行に行って、その広大な風景に見せられ、そこで農地を買い農業を始めるまでを描く。手堅く丁寧に、話が語られる。ただ、メリハリに欠けるのは、言いたいことの何かの表現が足りていないのかも。
〒309-1722茨城県笠間市平町1884-190、田中方。「文学を愛する会」
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2018年12月 6日 (木)

西日本文学展望 「西日本新聞」11月29日・朝刊-評・茶園梨加氏

題「戦争と記憶」
宮脇永子さん「しんけいどん」(「南風」44号、福岡市)、武村淳さん「朝(あした)に道は知らずとも」(「詩と眞實」833号、熊本市)
友尻麓さん「窓辺にて」(「砂時計」2号、福岡市)、吉田秀夫さん「T四作戦」(「ら・めえる」77号、長崎市)
「宇佐文学」(63号、宇佐市)は「宇佐文学まつり」報告も、「敍説」Ⅲ-15号(福岡市)は夏樹静子特集
文芸同人誌案内掲示板:ひわき さんまとめ)

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2018年12月 5日 (水)

同人誌評「図書新聞」(2018年12月1日)評者=越田秀男氏

  (一部抜粋)
  『島の墓標』(宮川行志/九州文學43号)――世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン」、この登録に乗じた、天草上島沖に浮かぶダデグ島の古文書と埋蔵金をめぐる、正義の味方対、利権市長、生臭坊主の戦い、で結果ウィンウィン、ハグハグ。ところで〝ダデグ島〟なんて聞いたことないが、全部作り話とも思えない。
  同誌巻頭の『出島甲比丹』(中野和久)は幕末フェートン号事件を題材に出島商館長を主人公にした歴史小説仕立ての物語。この作品も史実と虚構の境界が楽しめる。
  『大和川』(稲葉祥子/雑記囃子23号)――竹や桃からかぐや姫や桃太郎、ならばPCの立ち上げ時間を寄せ集めて人造人間を虚構っちゃえ? ピノキオより不自然! 歳は20に、70半ばであの世、に設定。アラ40の主人公と日本一汚い大和川でおにぎりデートして結婚、子はご飯の炊きあがり時間を寄せ集めて……この提案は却下。やがて彼は設定年齢でタケコプター装着練習中、落下して死亡。彼女は気づいたら100歳、浦島花子。
  『きらいなにおい』(三上弥栄/星座盤12号)――大和川は水質改善が進み鮎の産卵も。隅田川も今や白魚が棲める。みんな清潔、消臭剤大繁盛。で、臭いに超敏感女現る。彼女もその夫も会社仕事に不適合。今まで支えてきた縁者にも見放され……。この小説、おもしろいのは、超過敏女の自己中的愚痴を聞いていると、みな五十歩百歩で、今やこの世の中一億総過敏症時代のようにも感じてくる。
  〝現代〟の居場所は険しい――『居場所』(小林忍/てくる24号)――夫婦娘三人家族マンション生活に妻の母が同居をはじめて、居場所を失った夫。飲み屋にやってくる女との不倫、娘につきまとうストーカー、飲み屋の隅の席に陣取る猫、猫の席を奪う酔客、なんや満席かいな! と止まり木無く帰る客。冒頭の失神雀を含め材料を上手に関係づけて、あなたの居場所は? と問う。
  同誌の『赤いポール』(井川真澄)も老人の居場所がテーマだ。日当たりの良い公園のベンチでヒネモス、の爺ではなく、ベンチから追われ、追われ、消えた爺……。
 『虹の輪』(水木怜/照葉樹14号)は公園を清掃するボランティア爺の話。その爺に、いつもジョギングで出会う青年は、ある不自然さ、異常さを感じ、爺の暮らしの内側に立ち入っていく……と、その奥には20年前、愛ゆえのほほ笑ましい些細な行為が、神の存在など信じ得ぬ惨劇に転じてしまった事故と事件があった。
  『丸山のフキの下に』(白川光/北狄383号)――時代は江戸、弘前。三内丸山の地に自生する葉が二段の蕗? その下にコロボックルが住む? どこでも探検隊、発見! 桑の実ワインを呑みすぎて蕗の葉からスッテンコロボックル! だが、21世紀のコロボックルの住処は?
  『夏野旅路』(加藤康弘/矢作川40号)――「背にもたれていた木から、一匹の蝉が羽ばたき、西陽の彼方に消えていく」――町の札付き問題児に、年上の幼馴染みへの恋心が突然やってきた時、それは別れの時でもあった。思春期の喪失感が歌われる。
  沖縄の歌――「南溟」5号では、平敷武蕉が「玉城寛子論」を展開。「くれない」195号では、翁長知事哀悼の歌を特集。「コールサック」95号では、同社が刊行した『沖縄詩歌集』の書評などを紹介している。惨・怒・怨・哀に満つるなかで、心の芯に響く歌――
【参照:史実と虚構の境界を楽しむ(『島の墓標』『出島甲比丹』)――臭い過敏症や居場所喪失など“今”を写す――『きらいなにおい』『居場所』

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2018年12月 4日 (火)

文芸同人誌「文芸中部」109号(東海市)

【「開化の新聞屋」本興寺 更】
 文明開化を時代背景にした小説の題材は、昭和時代には、時代小説か現代小説かの分け方が曖昧に見えたらしく、読まれないという話があった。だが、平成も終わりの現在となると、もう時代小説として読まれるであろう。
 本編は、瓦版から新聞に変わったばかりの頃の話。真三は情報屋の探ってきたネタを元にして巷間記事を書いた。すると、投書があって、記事にした家族の居所を教えてほしいという。筆文からして武士らしき手紙である。そうはいっても簡単に教えるわけにはいかないので、渋っていると、本人が新聞社にやってくる。やはり武士で、上野の彰義隊の生き残りで、戦いで怪我をしていたとことを、記事の家族にすくわれたのだという。恩人にお礼を言いたいという。実は、真三の兄も彰義隊の戦いで行方不明になっているので、武士の話を理解し、あらためて上野を探すがみつからない。
 しっかりした時代背景の描写と構成で、時代を超えた戦争の悲惨さを良く表現している。
【「でんでれりゅうば」広田圭】
 江戸時代、長崎の出島でオランダ人たち唐人の相手をする芸妓たちは、キリストの絵踏みをさせられる。白妙はオランダ人との間に伊助という生後間もない息子と、苑というその姉を産んでいる。しかし、伊助と妙の父親のクルトは、伊助だけを連れてバタビアに赴任してしまう。それから何年かして、クルトがオランダに帰ったという噂を聞く。そしてさらに、時が経て、若いオランダ人がやってくる。その接待を手伝う白妙は、そのオランダ人が伊助と妙が幼児のころ唄っていた「でんでれりゅうば」をうたったことで、彼が伊助であることを知る。オチの効いた時代小説である。
【「絹のストッキング」ケイト・ショパン作、吉岡学訳】
 翻訳小説というのは、同人誌でも掲載されるようになった。本作品は、ソマーズ夫人が、たまたま15ドルが手に入ったことから、気に入っているストッキングを買って身につけるまでの、精神的な面での矜持を高めるというもの。買い物をするにも、女心の揺るがぬ信念と自意識の働きがあることを短く表現していて、読んでいて何のさわりもなく、ソマーズ夫人の心理に没入できる秀作である。
 というより、描き始めから、本題を提起し、その様子がどうであるかを、すっきりと描き、主題を浮かび上がらせるーー。正当な小説の形式に安心感をもつ。読んでいて、話があっちに行き、こっちに行き、結局何を伝えたいのか? 作者に心の整理のついていない話を読むのも疲れるものだ。ただ、自分は良く書けた作品だけを読みたいわけでもないのでーーそうなら市販してる職業作家のもだけを、読めば良いのだから、そうもしているがーー、小説に対する意識の変化を、ここから読みとっているので、時間の無駄とは思わない。ただ。下手でもないが、主題のわからない小説の推理をしているなかで、このようなすっきりとしたものが読めるのは、清涼剤である。
【「回生の六月」堀井清】
 独自の文体を確立し、それに合った素材を使って、修練の技をみせる作者である。自分は、それほど新しい展開を期待しないで安心して読んでいた。しかし、今回の作品では、開拓者精神の一端をみせて個性的な方法で、家族、特に老いた父親と息子の関係を描き出している。息子の結婚式の前日に、母親が自死し、結婚を取り辞めて以来、息子は結婚をしていない。彼は40代になる。婚約者であった女性は、他の男と結婚。子供がいるシングルマザーで、息子と再会する。父親の死への覚悟と、かつての婚約者であった女性と未来に向かおうとする。その語り口のなかに、作者の長い人生体験が反映されており、読み応えがあった。
発行所=〒477-0032東海市加木屋町泡池11-318、三田村方。「文芸中部の会」
紹介者=「詩人回廊」編集者・伊藤昭一。

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2018年12月 3日 (月)

文芸時評(東京新聞11月29日)=佐々木敦氏

 「アジサイ」(『新潮』12月号)は、『送り火』で第百五十九回芥川龍之介賞を射止めた高橋弘希の受賞第一作である。「妻が家を出てから、庭にアジサイが咲いた」という一文から始まるのだが、ある意味で物語はこの最初の文章を延々と堂々巡りして終わる。証券会社の営業マンである主人公は、三十代にして庭付き一戸建ての自宅を持ち、十分な蓄えもあるというのだから、勝ち組と言っていいだろう。結婚して三年になる妻との間にまだ子どもはないが、夫婦仲は何ら問題がない、少なくとも彼の方はそう思っていた。ところがある日とつぜん、妻は家を出て実家に戻ってしまった。彼には思い当たることが何もない。妻の置き手紙にも理由は一切書かれていない。妻の実家に電話を入れてみるが、気に入られていると思っていた義父母も妙に冷淡で、妻は電話に出ない。携帯にメールしてみても、返信はない。
 ごく短い作品である。主人公にとっては甚だ不条理な状況だが、けっきょく妻の家出の謎は最後まで解かれることはない。終始、夫の側から描かれているので、彼が気づいていない重大な問題や落ち度があるのかもしれないが、読者がそれを推し量るには材料が決定的に足りない。そのように書かれている。答えを得るためのカギというわけではないが、題名に選ばれたアジサイは意味ありげである。その花は妻がいなくなるのと入れ替わりに咲き出したようであり、色彩を変化させつつ、あれからずっと庭に存在している。
 不穏な気配がじわじわと高まってくる様子は、この作家の真骨頂と言ってよいが、いわば結末を欠いたミステリアスな短編としてさすがによく書けてはいるものの、やや技巧が目立つ感もなくはない。
 『新潮』には社会学者の岸政彦による三作目の小説「図書室」も載っている。一作目の『ビニール傘』は芥川賞候補になった。今回の舞台も作家自身の暮らす大阪である。五十歳になる女性の「私」は、十年前に十年一緒に暮らした男と別れてひとり暮らしを始めた。堅い仕事に就いており、生活に不安はない。だが最近、子どもの頃のようにまた猫を飼いたくなってきた。そして「私」は小学生の時を思い出す。物心ついた時点で父親はおらず、母親はひとり娘を育てるために夜の仕事をしていた。家には何匹も猫がいて、毎晩「私」は猫たちと一緒に寝ていた。「私」は別の小学校の同い年の男子と知り合い、親しくなる。
 何と言っても、この作品の読みどころは、小学生の「私」と、その男の子が交わす大阪弁の会話である。子どもらしい他愛(たわい)ない話ばかりなのだが、まるで漫才のような活(い)き活きとしたテンポがあり、おかしみとともに不思議な幸福感が滲(にじ)んでくる。岸の社会学者としての研究スタイルは、取材対象からの聞き取りを基盤とする「質的社会調査」と呼ばれるもので、要は相手の喋(しゃべ)りを丹念に記録するところから始まるのだが、『ビニール傘』と同様に、小説家としての岸はそこで得た感触を最大限に活用している。物語は回想を終えて現在に戻ってくるのだが、小説として綺麗(きれい)にまとめようとしないで、いっそ次は会話だけで書いてみたらどうか? 岸の筆力なら、それだけで十二分に魅力的な「小説」になると思うのだが。
 第六十二回群像新人評論賞は長崎健吾の「故郷と未来」(『群像』12月号)に決まった。長崎は東京大学大学院の日本史学博士課程に在籍中で、当選作は柳田国男論である。一見素朴とも思える題名と同じく、まず論を紡ぐ文章の平易でありながら品のある佇(たたず)まいが良い。ケレン味や鋭さはないが、じっくりと一歩一歩、足元を踏みしめてゆくような文章である。大澤真幸、熊野純彦、鷲田清一の三人の選考委員も、内容以前にそこに惹(ひ)かれたのではないか。これはまぎれもなく「文学」の文体である。
《参照:岸政彦「図書室」 長崎健吾「故郷と未来」 佐々木敦










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2018年12月 1日 (土)

なぜか人気のある金子兜太と仲間であった原満三寿氏

  アナキースト詩人・秋山清を偲ぶ「コスモス忌」というのがある。今回は、囲碁の有段者で自分も何度も教わったことにある原満三寿氏が講師。金子兜太と「海程」で同人として活動した経験から、存在者としての金子兜太を語った。《俳人「金子兜太の戦争」を語る=詩人・原満三寿氏
 最近まで「騒」という詩誌があって、じぶんは「詩人回廊」で紹介もしてきたが、解散してしまった。原氏も西氏もその同人であった。
 できればこの詳細を、同人誌「砂」に書いて、文学フリマで販売したい。先日のフリマ東京では、前年のコスモス忌の記事を読んで買ってくれたひとがいたので、またうれるかもしれないから…。

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