文芸同人誌「メタセコイア」第15号(大阪市)
【「想いを運ぶ 風」櫻小路閑】
掌編小説的な散文が四季4編で成り立っている。「夏風落穀」、「秋風蒼月」、「冬風一葉」、「春風漂香」のタイトルで、それぞれの季節を軸に、それぞれの人間の経験する喜怒哀楽を表現する。俳句や短歌でも形式的な違いがあっても、連作で可能のように思える題材とテーマである。だが、やはりきめ細かに物語的な感性を働かせられるのは、散文詩的なものにするのがベストと思わせる。とくに夏の編では、枯れた視点で人生を回顧。文学的な詩想を埋め込むことに成功している。他の季節は、夏の話と同じレベルに詩想を盛り込む努力が感じられる。苦心の試みであろう。詩歌の世界の人には、参考になる手法ではないか。
【「まねき食堂」和泉真矢子】
女子大学の近くにある「まねき食堂」を養護施設にいる義母から承継している佐代子。夫の真一は、店を放りだして、行方不明である。義母のいる養護院は老朽化で、よそに引っ越しを迫られている。そんな時、長時間店にいる高校生らしい女性が気にかかる。
訳ありそうな彼女は、やはり家出娘で、今夜、泊めてほしいという。泊まって複雑な家庭事情を話す。彼女は、翌日去るが、また戻ってくるかもしれない。「まねき食堂」の状況は変わらないが、そこで佐代子は成り行きにまかせて、辛抱するしかない。市井の生活小説として、読ませる。やはり人物像の描き方が良いのであろう。
【「渇けども、渇けども」吉村杏】
咲音は、結婚して子供が生まれ、主婦をしているが、友達ができずに孤独である。スマホで、フリモリというサイトで、売り物をインスタで写して出すと、それがすぐ売れる。その反応を見るのが快感になって、むりやり売り物をつくってでも、インスタ販売をやめられない。依存症になってしまっている。
そのうちに、昔の彼氏の真山信が、昔の彼女のラブレターをフリモリに出品しているのを知る。その後、彼氏が病気なった話が出てくるが死んだような気配もある。フリモリ中毒の依存症のところは面白いが、それが真山信の喪失感につながるのかどうか、わからない。だからいろいろなことを書いてあるのか。エピソード集め小説のようなところがある。
【「金魚」多田正明】
昭和18年の頃の話からはじまり、戦時中に金魚を飼う話を通じて、戦後すぐの子供たちの生活ぶりを描く。「奉公」や「藪入り」など昭和でも江戸時代からの生活習慣が残っている話などと、土地柄の風物が記録されている。
【「御香宮」楡久子】
京都見物記。
【「屋上庭園で」マチ晶】
年配で独身の私は、百貨店ウィンドーショッピングを楽しむ。園芸売り場から屋上庭園にでて、写真を撮っていると、女性から声をかけられ、レストランの料理の話をされる。美しいが服に汚れが目立つ。ミミという名だとわかる。食事に誘うべきか迷うが、なにもせずに別れる。
それから数週間後、同じ屋上庭園に行き、ミミに会えることを期待するが、周囲から奇異の目で見られてしまう。帰りにエレベーターホールの鏡をみると、落剥した感じの自分の姿が映っているのが見える。男の孤独を描いて、話の仕掛けが面白いが、もう少し工夫の余地が欲しかった。ただ、読後なにかモノを言いたくなるような作品である。
【「原石」北堀在果】
松岡達貴というN高の生徒相談室と、女性教師の川上の間系の話からはじまる。達貴が発達障害らしい。定年間際の川上の達貴への対応ぶりを描く。仕事が特殊な精神で維持運営されるのがわかる。ただ、全体に平板。
【「カンナ」永尾勇】
カンナという性的、性格的に奔放な情勢と、それに絡んで反応する主人公の僕の関係を、具体的な場面を挟んで描く。理屈っぽいところのある話だが、場面の連続で、その場その場が読みとおせるが、それを楽しめるからどうかは、人によるのではないか。長編小説の一部のようだが、ぼくの思想が真面目なのか不真面目なのか自意識の色が薄いので、カンナの行為の印象も薄味になってしまうーー力を入れてかいているのに。自分には、面白さ中くらい。
発行所=〒546-0033大阪市東住吉区南田辺2-5-1、多田方。「メタセコイアの会」
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。
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