文芸時評(東京新聞11月29日)=佐々木敦氏
「アジサイ」(『新潮』12月号)は、『送り火』で第百五十九回芥川龍之介賞を射止めた高橋弘希の受賞第一作である。「妻が家を出てから、庭にアジサイが咲いた」という一文から始まるのだが、ある意味で物語はこの最初の文章を延々と堂々巡りして終わる。証券会社の営業マンである主人公は、三十代にして庭付き一戸建ての自宅を持ち、十分な蓄えもあるというのだから、勝ち組と言っていいだろう。結婚して三年になる妻との間にまだ子どもはないが、夫婦仲は何ら問題がない、少なくとも彼の方はそう思っていた。ところがある日とつぜん、妻は家を出て実家に戻ってしまった。彼には思い当たることが何もない。妻の置き手紙にも理由は一切書かれていない。妻の実家に電話を入れてみるが、気に入られていると思っていた義父母も妙に冷淡で、妻は電話に出ない。携帯にメールしてみても、返信はない。
ごく短い作品である。主人公にとっては甚だ不条理な状況だが、けっきょく妻の家出の謎は最後まで解かれることはない。終始、夫の側から描かれているので、彼が気づいていない重大な問題や落ち度があるのかもしれないが、読者がそれを推し量るには材料が決定的に足りない。そのように書かれている。答えを得るためのカギというわけではないが、題名に選ばれたアジサイは意味ありげである。その花は妻がいなくなるのと入れ替わりに咲き出したようであり、色彩を変化させつつ、あれからずっと庭に存在している。
不穏な気配がじわじわと高まってくる様子は、この作家の真骨頂と言ってよいが、いわば結末を欠いたミステリアスな短編としてさすがによく書けてはいるものの、やや技巧が目立つ感もなくはない。
『新潮』には社会学者の岸政彦による三作目の小説「図書室」も載っている。一作目の『ビニール傘』は芥川賞候補になった。今回の舞台も作家自身の暮らす大阪である。五十歳になる女性の「私」は、十年前に十年一緒に暮らした男と別れてひとり暮らしを始めた。堅い仕事に就いており、生活に不安はない。だが最近、子どもの頃のようにまた猫を飼いたくなってきた。そして「私」は小学生の時を思い出す。物心ついた時点で父親はおらず、母親はひとり娘を育てるために夜の仕事をしていた。家には何匹も猫がいて、毎晩「私」は猫たちと一緒に寝ていた。「私」は別の小学校の同い年の男子と知り合い、親しくなる。
何と言っても、この作品の読みどころは、小学生の「私」と、その男の子が交わす大阪弁の会話である。子どもらしい他愛(たわい)ない話ばかりなのだが、まるで漫才のような活(い)き活きとしたテンポがあり、おかしみとともに不思議な幸福感が滲(にじ)んでくる。岸の社会学者としての研究スタイルは、取材対象からの聞き取りを基盤とする「質的社会調査」と呼ばれるもので、要は相手の喋(しゃべ)りを丹念に記録するところから始まるのだが、『ビニール傘』と同様に、小説家としての岸はそこで得た感触を最大限に活用している。物語は回想を終えて現在に戻ってくるのだが、小説として綺麗(きれい)にまとめようとしないで、いっそ次は会話だけで書いてみたらどうか? 岸の筆力なら、それだけで十二分に魅力的な「小説」になると思うのだが。
第六十二回群像新人評論賞は長崎健吾の「故郷と未来」(『群像』12月号)に決まった。長崎は東京大学大学院の日本史学博士課程に在籍中で、当選作は柳田国男論である。一見素朴とも思える題名と同じく、まず論を紡ぐ文章の平易でありながら品のある佇(たたず)まいが良い。ケレン味や鋭さはないが、じっくりと一歩一歩、足元を踏みしめてゆくような文章である。大澤真幸、熊野純彦、鷲田清一の三人の選考委員も、内容以前にそこに惹(ひ)かれたのではないか。これはまぎれもなく「文学」の文体である。
《参照:岸政彦「図書室」 長崎健吾「故郷と未来」 佐々木敦》
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