有象無象の存在を問題にした「観光客の哲学」の現象
デモ隊が通りすがりの観光客にアピールして何の意味があるのか? 一見、これは見当違いな誤った意思表示、郵便的な「誤配」である。世の中「一寸先は闇」とさせるのは、有象無象の人たちの動向である。トランプ大統領の当選が予測できなかたのは、リア充の失業者たち、貧富の格差のなかに隠された大衆たちが、投票したら世の中がひっくり返った。
カオスや複雑系の現象の要因を観察したものに、東裕紀の「観光客の哲学」がある。有象無象の観光客は、無責任な立場で、この世界の現象を見ている。《参照:デモを見る観光客の郵便的な誤配への期待について》
政治的に国と国がどう対立しようとも、個人同士はそれとは関係がない。無責任な交流ができる。
東氏は言う。
たとえば引きこもりとリア充という言葉があるけど、実際にはリア充のほうが世界には多いわけです。でもツイッターをやっていると、世の中引きこもりの「コミュ障」ばかりに見えてくる。それはそれで大事なことだけど、でもそれを真に受けていまの世界はコミュ障ばかりだとか言い出したら、単純に世界が狭いわけです。でも人文書の棚にはそういうところがある。あの世界にいると「単独者」だとか「切断」とか「他者」とか、そんな言葉ばかり聞こえてくるのだけど、それがどのような現実に結びついているのか見えてこない。世界には人文書以外にも素晴らしいものがいっぱいある。それを知っていてはじめて人文書の魅力もわかる。だから僕は大学もやめたし、こうやって一人で会社をやっている。そのうえで哲学書を書いている。
まず第一に本書の「観光」は抽象的な概念です。そのうえで「観光」という言葉を肯定的に使うこと、それそのものが階級的差別に無自覚だということだとすれば、そんなこと言ったら、そもそも哲学書を読むことにも経済的余裕が必要なんで、哲学書を書くことそのものが倫理的に正しくないということにもなる。だからそういう批判はよく分からない。だれもがアクセス可能なものごとについて、だれもが納得するかたちで語ることだけが「政治的に正しい」のかもしれないけど、そうなったら哲学なんて成立しないと思います。たとえば英語やフランス語を読めるようになるためにはかなりの投資が必要なわけです。だとすれば、英語とかフランス語の文献を引用するのは、もうだめなのでしょうか。
ーー 「韓国では純文学が主流で、中間小説などは一段低く見られてきたため、このジャンルに進出する力のある作家が少ない。そこで、エンターテインメント性の高い日本作品が次々と翻訳されてその隙間を埋めているわけです。最近では、日本の大学生より韓国の大学生のほうがずっと日本の作家の名前を知っているなと思うこともありますよ(笑)」
面白いのは、慰安婦問題などで日韓がもめると、日本では韓流ブームが一気に冷めてしまうことが多いのに対し、韓国ではいくら外交関係が悪化しても、日本の文化コンテンツが忌避される気配がないということ。
「1965年の国交正常化当時から、韓国には政情に関係なく日本のモノや文化がかなり入ってきた。芥川賞や直木賞作品の多くが翻訳出版されてきました。だから、徴用工問題で両国関係が最悪と報じられるこの時期でも、特に日本小説が問題視されるようなことにはなっていないのでしょう」(小針氏)
ちなみに、韓国の書店では「反日」本もほとんど見当たらない。
| 固定リンク
コメント