文芸同人誌「私人」96号(東京)
【「啄木のDNA」根場至】
作者が56歳の時に、彼の父は91歳でなくなっている。風呂からあがって、鏡をみると、そこに父親が立っているように見える。意見のあわなかった父親に似てきているということだ。その父親は山好きで、別荘を購入していて、そこで石川啄木を愛読していた古びた歌集がみつかる。山好きと啄木好きは、父親と同じであった。啄木を通して、感性の血筋のようなものを実感するが、その歌集も今はどこかに姿を消してしまっている。感慨に同感できるものがある。
【「ロッテルダムの味噌汁」根場至】
作者が家族と一緒に六年間にわたり欧州のロッテルダムに住んでいた時の話。そのなかで印象的だった隣人のシャインフェルド家の一家と交流をかたる。その隣人は、ユダヤ人であった。ナチス時代には迫害をうけたらしく、なかなか用心深い生活ぶりを、観察眼を良く働かして描く。食べ物も豚肉、エビ、烏賊、牡蠣などは宗教上のタブーで食べないのだという。彼らが、」イスラエルに住むというので、お別れの食事を提供する。ユダヤ教のタブーに触れない食材を選ぶ話は、海外生活の普通でありながら、スリリングな気配りの環境が良く描がかれている。
ユダヤ教は、キリスト教の元祖で、ユダヤ教は救世主がまだこれから現れるとするのに対し、キリスト教はすでにイエスが救世主として存在しているとされる。米国ではユダヤ人は差別の対象であるが、トランプの婿はユダヤ教のようだ。米国は宗教と政治が複雑な関係になっているようだ。
【「ロングフライト」えひらかんじ】
世界を飛び周る仕事をしているために、各国の空港と飛行機の関係が面白く語られる。優れたエッセイといえるであろう。自分のように語学力がなく、平凡な社会人にとっては、目をみはるような海外の情報に満ちている。
【「桜子の恋」みやがわ芽生】
現代における古風なロマン味を残した味わいある恋愛小説である。読んでいて、忘れがちの愛の姿が基本が具体化され読んでいて楽しい。もともと小説を書く人の第一の動機は読者を楽しませようという意図が大きな動機のひとつである。これを大衆小説とする。その一方で、人間的存在の不完全や内面の闇を追求するのが、純文学としている。時に、読んで気分が悪くなることもあるのが、純文学である。ただ、本誌は小説教室の学生の習作集とも読めるので、様々な試みを期待したい。
【「赤い眼鏡」成田信織】
多津は、夫を亡くしてから70代でヒッタイト語を学習し、82歳になる現在でも、学習している。そのため高齢者の学ぶ姿勢についてテレビ局の取材を受け、放送された。
それ視たという男から手紙をもらう。読んでも見知らぬ人という印象であったが、じつはまだ男女交際の不自由な時代の昔に、はじめて男を意識し、恋心をもったころの男であった。彼女は、ある抵抗感をもちながら、同時に心ときめかす。彼の誘いに応じて、一度は素敵なデートをするが、今は亡き夫のことなどを想い、そこで交際をやめることにする。
誰かが書きそうで、なかなか書かれないテーマと手法でそれを描く。こういう心の持ち主だからあされる。同時に、愛にこそ人間の心のときめきがあることを示す好短編であった。
【『河出書房』を語る三著・佐久間文子『「文藝」戦後文学史』、田邉園子『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』、藤田三男『楱地和装本』尾高修也】
河出書房といえば、経営難の連続でありながら、多くの名作を生み出した文芸史の脇役というべきか。自分は、1960年代、河出書房が倒産し、その倉庫に山積みされている場所に行ったことがある。大判の箱入り豪華本を勝手に手によって読んでいた。隣に水道橋能楽堂があって、配管工事改修のバイトに通っていたのである。工事のため能楽堂と倉庫の仕切りがなかったのである。もしかしたら、そこに古山高麗男がいたのかも知れなかった。とにかく、想いの吹き上がるような懐かしいものである。
発行人=〒346-0035埼玉県北本市西高尾4-133、森方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。
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