三島由紀夫より先に書いたと「痛恨の思い」をさせた直木賞候補作
前の続編で、直木賞候補作家の方井上武彦氏の「死の武器」について、三島由紀夫が「 文学でやりたいと思つてきたことの全部が、ここで語られてしまつたかもしれない、といふ痛恨の思ひです。」と述べていた。《参照:同人誌2007年「中部文芸」74号での直木賞候補作家・井上武彦》
「東海文学」という同人誌に書いていたが80号ごろで、雑誌がなくなったらしく、その後「文芸中部」に宗教心の追求をする作品を発表する晩年であったようだ。
前の続編で、直木賞候補作家の方井上武彦氏の「死の武器」について、三島由紀夫が「 文学でやりたいと思つてきたことの全部が、ここで語られてしまつたかもしれない、といふ痛恨の思ひです。」と述べていた。《参照:同人誌2007年「中部文芸」74号での直木賞候補作家・井上武彦》
「東海文学」という同人誌に書いていたが80号ごろで、雑誌がなくなったらしく、その後「文芸中部」に宗教心の追求をする作品を発表する晩年であったようだ。
【「左手のストーン」木村誠子】
ピアニストが、演奏力の芸術性を追及する話である。話は主人公の「僕」の音楽の芸術性の追及がテーマであるが、それはともかく、ピアノ演奏の心に訴える力を文章によって想像させられる音楽的個性。自分にはそれが素晴らしく表現力に富んでいるように読めた。なによりも、自分は慢性の耳鳴りが始まって長い。耳鼻科で検査したが高音の聴力が劣化しているだけで、問題にするほどでない、といわれている。実演奏には、不向きな聴力であるが、想像力でイメージを作れる。その点で、この表現力に関しては、作者の才気がよく発揮されている。文章力の発揮できるエリアを広げて見せたよい事例であろう。
【「いつかニライカナイへ」泉ふみお】
沖縄の伝説的な幸せな神の世界をニライカナイというようだ。沖縄のじいちゃんの話からはじまり、沖縄の美しい風光を描く。ワタルがそのニライカナイに近い沖縄を彷徨し、そのなかの迫害されて血に染まった時代を記す。沖縄の方言が効果的で、リズムのよいテンポで話が進み、美的な感興が味わえる。
【「焼け跡のフィナーレ」高畠寛】
作者は80歳だという。敗戦で焼け野原になった大阪の復興の生き証言である。自分は、76歳で、作者より4才若いだけだが、そこに起きている社会的、文化的出来事は、東京の羽田に住んでいた頃のものと、あまり変わらない。京浜工業地帯で徹底的に米空爆にやられたせいか、中学校の近くに高射砲陣地の残骸のコンクリートが、幾つも並んでいた。
読み物で、江戸川乱歩の「金銀島」があったそうだが、こちらは野村胡堂とか南洋一郎や高垣眸や海野十三などの読み物が、戦前の残りや、紙質の悪い再販本で読んだ。このように年下の自分の記憶と重なるのは、この時期はすべてが焼けて、社会文化の停滞があったので、あろう。我々の世代は、読書でも戦前の焼け残った読み物を読むしかなかったのであろう。また、朝鮮戦争の頃の話もあるが、東京の町工場の前を通ると、大忙しで鉄製の羽根の付いた弾丸を量産し、工場の中から道端に転がり出たのを拾った記憶がある。こんなものを空からバラ撒かれたら朝鮮人兵士もたまらんだろうと、痛ましく思った。本作は、同時代に生きた人間の記憶の様々を呼び起こす、心の揺れる回顧録である。
【「山寺にて」奥畑信子】
お寺で父親の33回忌をするかどうかの話であるから、かなり年配の人たちの話である。血縁の知られざる不思議な関係を述べる。心穏やかな平和な心境での話である。これだけ血縁関係の濃い時代は終わっている。
【「サソリのタトウー」向井幸】
幼稚園の時代から一緒だった拓也と「私」は、青春時代に恋心を抱くようになる。ところが拓也はアイドル的なミュージシャンとして世に出る寸前である。そのため、愛の心の交流を抑えてしまう関係を描く。幼稚園時代から語る必要があるか、とも思うがそれが恋心のもどかしさかと、今風でありながら変わらぬ女心が理解できる。
――その他の作品も目を通したが、例えばクリスチャンの話のものには、現在の日本におけるハローウィンの祭りの存在のいきさつや、祖母の生活を思い出すのは何故なのかなど、平和への認識の確認なのか? などの疑問について思いめぐらすことがあった。
発行所=〒545-0042大阪市阿倍野区丸山通2-4-10-203、高畠方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。
文芸賞は、日上(ひかみ)秀之「はんぷくするもの」と山野辺太郎「いつか深い穴に落ちるまで」の2作品。「はんぷくするもの」では、震災の被災地で仮設店舗を経営する毅の母が、客の古木さんに三千円ばかりの金を貸すが、古木さんは返さない。そのわずかなお金がこの地域の生活を壊していく。生活がお金を必要とするのではなく、お金が生活を回していく(はんぷくすること)ありさまが日常の中で語られていく秀作だと思う。「いつか深い穴に落ちるまで」は、日本からブラジルに最短距離で行けるような穴を掘る話。僕も子供の頃、そういうことができればいいと思ったものだ。そのバカバカしい話を大まじめに書くのがいい。しかし、「結末があまりにも安易」(町田康)という選評はその通りだ。
新潮新人賞は、三国美千子「いかれころ」。南大阪エリアを舞台に、差別問題と姉妹の結婚問題とを絡ませた作品で、谷崎潤一郎『細雪』と中上健次の諸作を混ぜて薄めてひっくり返したような作品。幼い妹の視点から語られるからそれが強くは出ない。この「新人」は「自分らしさ」を壊す力があるように思えた。
すばる文学賞は、須賀ケイ「わるもん」。これもある一家の出来事を幼い子供の視点から書く。したがって、何が起きているのかその全体がわからない。全体が家族の異化になってはいるが、それだけの作品だと思う。
《参照:産経新聞2018.10.28 早稲田大学教授・石原千秋 「自分らしさ」を壊す》
スイスは国民は、自国の徴兵制度に賛成し、その廃止に多くの国民が反対している。市民社会の市民の義務であると考えているようだ。日本近代社会時代の菊池寛は、今と変わらない文学原理を説いていたが、戦争に協力し、軍に従軍し、従軍記を書いた。GHQから排除されtが、要するに独立国の国民として当然のことをしたのだ。日本のポストモダンとモダンの違いは国民が独立心をもっていたか、どうかでもある。アメリカは正義を主張したのが東急裁判である。勝者の言い分はその時点では、聞かないわけにはいかない。核兵器を使うという汚れた手での裁判主導であった。《参照:近代(モダン)文学の原理との菊池寛の思想》
穂高健一の「神峰山」(かみのみねやま)は、中編小説集で、このうち「初潮のお地蔵さん」は、文芸同人誌「グループ桂」78号に特別寄稿しているもの。故人となった直木賞作家・伊藤桂一氏の門下生である縁による。とにかくよく調べて書いている。当初は同人誌に発表し、次第に商業出版になっていく過程を経た今は数少ないタイプの作家である。
《 穂高健一の新刊本「神峰山」(かみのみねやま)=10月25日から全国書店で一斉発売》
(編集抜粋)
北村くにこの力作「創成川慕情」(「人間像」第188号)。二代にわたる札幌の家具店の物語。初代の鹿子、その息子福太郎の嫁春代の気っ風のよさ。女道楽を繰り返しながら、結局は妻に舵取りされている菊太郎(鹿子の夫)と福太郎。そうした商家の人たちに寄り添うように流れている創成川。語り手役の次郎の息子の嫁(咲ちゃん)の言動も微笑ましい。登場する女性たちの姿が痛快だ。オリンピック開催に伴う立ち退き勧告、閉店となる状況、創成川への次郎の思い……。巧みな文章で綴られた、規模雄大なドラマ。
矢野健二の「故郷」(「残党」第46号)は、随想の色彩を有するが、私小説として読むべきであろう。八十歳近い作者の故郷は屋久島。昭和三十三年、急行列車で二十六時間余りかけて上京した。今はマンション住まいで一坪ほどの菜園に汗を流す。作者の住む町で、夕方、流れるメロディは「故郷」。それに端を発し、加齢をぼやきながら、故郷論を展開する。室生犀星の「ふるさとは遠きにありて……」の思い出、流行歌、高校野球を論じ、リンゴのような赤いほっぺたの娘がいなくなり、日本から故郷が「消えてしまった」のかと嘆く。鋭い文化論でもある。
西向聡の「幽霊」(「法螺」第77号)は、いくつかの怪談めいた話を綴る。私は、中学校の警備員となった友人が、夜、廊下に座っていた女生徒(警備員は最初幽霊かと思う)と結婚していた話(三十歳の年齢差)に恐怖を感じた。
豊岡靖子の歴史小説「藕糸織の仏」(「あべの文学」第27号)は、足利義政の傅役今参局と義政母との確執を綴る。今参局の凄絶な切腹の場も示す。歴史の流れに沿って書いている感じもするが、登場する女人たち一人々々の言動が個性的だ。日野富子を美貌の女人とし、婚儀のとき以外、目立った行動をさせていないのも一趣向かと思った。
本千加子の「鬼灯」(「黄色い潜水艦」第68号)の舞台は、大正・昭和期の遊郭。主人公は、大正九年、徳島から大阪の飛田遊郭に下働きに来た加代(十五歳)。下働きをしているうちに、資産家時任治平が加代を孫のように可愛がり、多額の金を与えて逝く。やがて加代は楼主から弟が営む大和郡山の飛鳥楼に手伝いに行くように頼まれ、そこで働くうち、二番頭の宗太と結婚する。加代は幸せな日々を送っていたが、高級おやま(娼妓)華奴に惚れ込んだ男が華奴を刺殺し、取り押さえようとした宗太をも殺すという事件が起こった。加代は飛鳥楼でおやまたちの着物の仕立てなどをして暮らしていこうと考える。梅毒をうつされた女、男に騙される女も登場する。加代の誠実な姿が読者の心に優しく響いてくる。佳作。
秋田稔の「幻想奇談」(「探偵随想」第132号)は、四篇全てに河童が登場する。「池」は、河童が探偵作家の行方不明のわけを語る内容で、作家の背中に手をやったら、作家は池にはまったのだという。「わたし、いけないことをした?」と訊く河童の言葉の恐ろしさ。「骨」は、酔った勢いで骨董屋から河童の左の鎖骨を購入したところ、博物館で見た河童の骨格は左の鎖骨が欠けていたという話。柔らかい筆致とは別に、それぞれの作品が発する恐怖感と着想の鋭さに脱帽。
資料的価値の高いエッセー群に注目。「草茫々通信」第12号が佐多稲子の特集。長谷川啓の巻頭論文「『時に佇つ』に到る道」は、佐多がいかに自分に厳しく誠実に生きてきたかを示し、他に、略年譜、主要作品案内など、佐多の文学世界を一望することができる。また、「詩界」第265号が『月に吠える』100年の特集を組み、大塚欽一の「萩原朔太郎詩にみる存在論的彷徨」など二十名が『月に吠える」、また、朔太郎をそれぞれの角度から論じ、思いを述べている。着実な歩みを示す「吉村昭研究」も43号を重ねた。 (相模女子大学名誉教授)
《参照:北村くにこの二代にわたる商家の物語を描く(「人間像」)――本千加子の大正・昭和期の大阪・大和郡山の遊郭に生きた女人の物語(「黄色い潜水艦」)。資料的価値の高いエッセー群》
文芸同人誌に描かれた社会を観察するという意味で始めた紹介作業であるが、これは2001年より文芸研究月報で開始。その発行をしなくなったので、このサイトではじめた。2006年が、その継続であった。その意味をふりかえり、記録化しようと思う。《参照:文芸同人誌2006年「文芸中部」72号に見るその時代性!記録》
いずれこれを記録集として、同人誌に掲載するつもりである。今回は井上武彦氏の姿勢が記録にふさわしいのではないか。
日本経済を繁栄させたのが昭和22~24年(1947~1949)ごろの第1次ベビーブーム時代に生まれた世代である。他世代に比較して人数が多く彼らの存在が、消費活動やインフラ整備に経済を好景気に導きバブル経済で終了を遂げた。雑誌「文芸思潮」では、「全共闘の時代とその闘い」をテーマに、五十嵐勉編集長が1968年に中央大学に入学した秋生騒氏に、その時代学生闘争を聞いている。
ここに語られているのは70年安保の時代のことで、60年安保で、日本対米従属が決まり、その時点では、戦後独立の精神の終わったことを確認できる時代になっていた。
市民社会というなかで、国家を防衛するのに自ら参加するという原則から外れ、国民が他国に防衛を依存するということを決め、その社会負担が経済的に有利に働いた結果、高度経済成長時代に入ったわけである。現代は、その果実をアメリリカに返せといわれている訳である。
そういう背景における段階現象として面白く読める。
世代が異なると、物事の歴史的な意味を知らない人が増えるので、本誌の記事でもそのことを明確にしないと、現在の沖縄基地問題も理解が出来ないことになうる。
《参照:重信房子さん、がんの手術「変革の意志を強く持てば、希望が育つ」の言葉も=東京》
■重信房子さんは「パブリック・ジャーナリスト宣言。」をこう読んだ
■北の丸公園に散る桜!観照する2012年
自由報道協会主催の「放送を語る会」のモニター結果の話をきいた。《参照: 「放送を語る会」が米朝首脳会談報道のモニター報告》。どうも、メンバーはかつて放送業界にいた人たちらしい。専門家の見る視線が興味深いが、モニター対象となった番組が、報道専門番組らしいとわかったことが有意義であった。
ここでは、文芸情報の収集をしているが、そのうちにメディアリテラシイ―の問題が意識に上がるようになった。こうした公共放送局は、国の認可制なのである。文芸作品はそうした認可を受ける必要がない。その強みを生かすことを考えたいものだ。
本誌のドキュメントと映画評論は≪「自然公園生態系レポート3植物編」鈴木清美≫の記事にした。ここでは創作について紹介する。
【大人の童話「ねこのくる日々 三夜(最終夜)」片瀬平太】
若者が引きこもりの生活から脱出し、再生の生活をする。文体が軽快で、読みやすく的確。リズム感がよく、普遍性をもつのではないか。
【「行列」衛藤潤】
行列することの多い日本社会を風刺するもので、ここでは幾日も行列が続く現象を追及するが、何のために行列をしているのか、判らないまま話と論理が述べられるのが、可笑しみのあるところ。それが現代の社会批判になっているようだ。
【「扉の向こうに」鈴木容子】
これは、コミック雑誌を発行する会社の女性編集員の「私」によって語られる職場の状況である。正社員とバイト員の関係。両親のいる自宅から通うが、編集業の長時間労働で、会社に泊ってしまうことが多い。そこで、会社の近くの安アパートを借りてみるが、実際にそこに寝泊まりすることがなく、契約を解除する。自分は昔のライターだったので、専門新聞社や経済雑誌、機関誌の編集をしていたが、とにかく裁量労働制で長時間勤務は当然であった。現代のマンガ雑誌でもそれは同じであるらしい。ただ、働く意識に関する部分は、かなり異なる。社会構造の変化で、現在の若者たちの立場と意識がわからないので、興味津々で読んだ。リアリティがあり、今はそうなんだーーと情報としても感心して読んだ。
発行所=〒241-0831横浜市旭区左近山157-30、左近山団地3-18-301。文芸同人誌「澪」の会。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。
一般に小説を書く場合、自分よりも年少の人物に視点を設定したほうがハードルは低いといわれる。年長の人物を描くと、どうしても人生経験の浅さが文章の端々に出て、人物像が薄っぺらくなってしまうからだ。25歳の若い女性がはるかに年上の男性を描く。その心意気に感心しながらページをめくっていった。
《産経10月15日: 紗倉まなさんの文芸誌デビュー作「春、死なん」 生と性と死に寄せる鋭いまなざし》
女優の松井玲奈 (27)が、自身初の短編小説『拭っても、拭っても』を執筆し、集英社の文芸誌『小説すばる』11月号(17日発売)で小説家デビューすることが12日、わかった。
デビュー作は、広告代理店に務めるアラサー女性・ユリが主人公。半年ほど前まで変わった癖(へき)を持つ男性と付き合っており、理不尽にフラれたことが心の傷になっていたが、小さな、しかし確かな希望を持って前を向くまでの物語がユーモラスかつ切実に、瑞々しい筆致で描かれる。
20日発売の読書情報誌『青春と読書』11月号では、はじめての小説執筆に関する松井のエッセイも掲載。自身の幼少期の思い出から始まり、小説のテーマを考えたプロセスなどをつづっている。
『拭っても、拭っても』の試し読みは、17日午前10時に『小説すばる』公式サイトに掲載。松井は今後も同誌で執筆する予定となっている。
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【関連記事】
自由報道協会が10月16日、「第1回米朝首脳会談についての日本のテレビ報道の問題点を考える〜第2回米朝首脳会談の前に〜」というテーマで、報道を語る会の記者会見を行う。
ーー 10月末〜11月にかけて実施されるといわれている米朝首脳会談。それを前に、今年6月に行われた米朝首脳会談を日本の各テレビ局がどのように報じたのかを「放送を語る会」などがモニター調査した。同会談の歴史的意義、安倍政権の姿勢はどのように報道され、会談に対する国内外の世論や識者の意見、見解などは広く紹介されたのか。調査からわかった問題点と第2回会談に向けたテレビ報道への期待を報告する。ーー放送されることが、すべて重要事項ではなく、自分にとって、何が重要かを考えて情報を得る必要がある。
自由報道協会というのは、あまり活発でない記者会見をする場を提供している。そのためか、放送メディアでは、ここの記者会見の実施をHPで流すと、それを先取りした意見を述べることがしばしばある。先日のBSTBSとBSフジでは、似たようなテーマで、トランプ報道の米国と日本の比較をしていた。ネタに困っているのかも知れないが。
会見には物書き一般人も申し込み参加できます。
事例記事=谷川俊太郎「真実・事実・現実 あることないこと」が主題歌に
(公財)自然エネルギー財団のイベントに出席した。《脱炭素化に向かう建築・住宅で シンポジウム》新しくできた東京ミッドタウン日比谷が会場で、すごく先進的なビルで驚かされた。それはともかく、この主催の財団がソフトバンクの孫正義社長の出資でできたことを思いだした。意外と地道、社会貢献ををする金持ちだと改めて畏敬した。またその運営の活発なのも頼もしい。
そこでのエイモリ―・B・ロビンス氏の基調講演によると、発想の転換で安く持続可能な建物がデザイン力があれば可能だとか。いずれにしても、温暖化による災害が世界に広がり、貿易関係の情勢変化があるであろうと予測している。
四日市出身の直木賞作家伊藤桂一氏(故人)と同郷なのが、シャンソン歌手の橘妃呂子氏《参照:シャンソンで真の恋心を唄う(10/26)》
である。「伊藤桂一先生を囲む会」というのがあって、四日市出身ということで、彼女に歌ってもらったことがある。自分の親友の一周忌でも墓参に同行してもらったことがある。感謝である。また、障碍者のチャリティを企画した団体に協力した時に、コンサート席で議員の海江田万里氏と隣席になり、それ以来マールマガジンをもらうようになった。今年はコンサートに出たいが、商業的活動をしていないのに多忙になって、当日にならないと行けるかどうかわからない。
坂上秋成「私のたしかな娘」(文学界)は、本名は由美子なのに「エレナ」という名を付けた知人の娘と、いや、彼女は「自分の娘だ」と感じる、エレナと名付けた34歳の神谷との奇妙な関係を書いた小説で、その隠微な感じがいい。しかし、それは冒頭近くでもうわかってしまう。「スカートの下に伸びる陶器のように白い脚が他人の情欲を刺激することは十分に考えられた」とあるからだ。この「情欲」が、こう想像する神谷のものであることはあまりにも明らかだからだ。ちょとばかり種明かしが早すぎたように思う。
金原ひとみ「アタラクシア」(すばる)は新連載だから内容には触れないが、最後はこれでいいのだろうか。「レジ袋を持って半歩先を歩く俊輔の斜め後ろを歩きながら、空を見上げる。何やってるんだろう。私の疑問に答えるように、星たちが小さく瞬いた。」と終わるからだ。そして「つづく」となる。短編ならこれでもいいと思うが、まだ続くのに星が解答してはまずいだろう。最後の一文はいらない。それで読者は、「何やってるんだろう」を一緒に考えてくれるのではないか。
最近の「連続テレビ小説」はおばあさんの役割が大きくなっているなと漠然と感じていた。トミヤマユキコ「おばあさんがヒロインになる時-現代老女マンガ論」(すばる)を読んで合点がいった。もちろん家庭や親戚のおばあさんと一人でキャラが立つマンガのおばあさんとではテイストは異なるが、いまはまちがいなくおばあさんの時代なのだ。ただ、トミヤマユキコのキャラは斎藤美奈子とまるかぶりではないかな。
《参照:産経新聞=文芸時評10月号 早稲田大学教授・石原千秋 おばあさんの時代》
一度は休刊宣言間をした同人誌「砂」(文芸同人「砂」の会)であるが、活性化に向けてから、とにかく原稿がないので、寄稿しないことには、と伊藤がこれまで取材してきたものをドキュメントの形で寄稿している。また、新会員や休眠会員が参加してきた。今回の138号の発行日は9月10日になっているが、届いたのが9月末である。取材する都合もあるので、発行は予定通りにしてほしいものだ。「いつ出るかわからにけれどもーー」というのでは、話も聞けない。それを回避するためにブログ記事の応用ですましている。
取材記録を重視した文芸同人誌は「文学フリマ」では、とくに目新しくはない。病院もの、書店ものなど専門分野でそれぞれ現状報告をしたものがある。
「砂」の場合、大田区の町工場である。話題性としては、近く「下町ロケット」のドラマもリメイクでTVドラマ化されるらしい。NHKの下町ロケットの工場は、多摩川沿いにある桂川精螺製作所の広大な工場をロケにしていた。しかし、同社は工場を静岡に移転させて、研究所を立てた。さらに、残った敷地は持ち主がマンション用地にしたらしく3年がかりで工事中になった。新ドラマでは、どこの工場を借りるのであろうか。
《参照:石井遊佳「象牛」 坂上秋成「私のたしかな娘」 古川日出男「ローマ帝国の三島由紀夫」 佐々木敦》
『新潮』10月号で古川日出男が長編戯曲「ローマ帝国の三島由紀夫」を発表している。同誌は野田秀樹や岡田利規、神里雄大などの戯曲を随時掲載してきたが、舞台化の決まっていない純粋な書き下ろし戯曲、それも小説家の筆による戯曲は非常に珍しい。古川には『冬眠する熊に添い寝してごらん』という戯曲があるが、これは故・蜷川幸雄の演出によって上演されることが前提だった。だからこれはかなり貴重な試みだと言っていい。
「戯曲」も「文学」の一形式である。かつての文豪はしばしば戯曲に取り組んだものである。その最大の存在こそ三島由紀夫であり、古川は大胆にも「ミシマユキコ」を舞台上に登場させる。破格のスケールの小説を次々と書いてきたこの作家は、戯曲でもあっさりと時空を超えてみせた。
本誌は、大阪文学学校の機関誌でもあり、生徒の作品発表の場であるようだ。作家研究の資料は、ひとつが見つかると、次々と関連情報が発見される事例であろう。この事例としてー安芸宏子「三島由紀夫『潮騒』の新資料発見などについての報告」】につては、「三島由紀夫「潮騒」の新資料発見記(安芸宏子)=「樹林」ーにジャーナルとして紹介した。 これはどうも、あとから出てきた資料のきっかけとなったようだ。
【「小説友達」藤本紘士】
横浜市にある小さな出版社主催の文学賞を受賞した「私」は、その1日前に、尼崎市から東京の京浜蒲田にやってくる。この町にはかつて「黒猫」という男性老作家の朗読会をするバーがあった。それが現在でも続くいているという。そこで、「私」そこに再び脚を運ぶ。そこで文学好きの仲間のような男と知り合い、「私」の文学的な好みなどが語れる。地名の実在するものであるのに、日本人作家の名称はなく、フィクションとしてのスタイルであることがわかる。なかで、ゲーテ「詩と真実」のなかで、上流階級が芸術活動に精進すると、非常に栄誉に包まれた一生を送ることができるが、中流より下の人間が芸術に身を捧げると、悲惨と迫害の生涯となる」と書いているらしい。階級社会の浸透した欧州らしい話として面白かった。文学カルチャーのオタク化へ向かう、ひとつの流れを感じさせる作品。
【「贋夢譚」稲葉祥子】
あなたは何のために日本に来たのですかーーというフレーズで始まり、外国人の日本での生活のギグシャクしたところを描き、そして、実は人間がこの世に生まれきたことへの違和感へつなげて、母親の胎児にもどるような話になっている。
【「ランドルト環」岡田智樹】
うなぎのタウナギが、水希という人間になっているという、馴染みの薄い設定の話。このような擬人化は、昔からあるが、この書き方であるとイメージ的にまとまって受け取りにくい。マジックリアルズム系のような語りかたと表現が通じる時代になったのあろうか。
【「小説の生まれるところ」染谷庄一郎】
個人的メモ、買い物レシート、日記、エッセイの書きかけなどを並べまくる。作者は小説を書こうとしているーーそのドキュメントにも読める。創作には自己表現の意欲が含まれるが、その一つの姿に読める。
【連載講座「小説表現の基本」奥野忠明】
小説と小説ではないものの区別の基準になる点などが、わかりやすくルールになる事例が説明されている。同人雑誌の作品には、小説やエッセイの区別がつかないものや、文字認識とコミック、映像の認識の違いの混在したものが少なくない。前衛といわれればそれまでだが、ある程度は鑑賞側のもつ共通認識に沿ったルールに従った方が良いようにと思わせる。
発行所=〒542-0012大阪市中央区谷町7-2-2-305(新谷町第一ビル3F)、大阪文学学校・葦書房。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。
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