保坂和志さん(61)『ハレルヤ』刊行
ペチャ、ジジ、チャーちゃん、花ちゃん。作家の保坂和志さん(61)がこれまで自宅で飼った猫たちだ。昨年末、最後の一匹だった花ちゃんが旅立った。最新小説集『ハレルヤ』(新潮社)の表題作は、その愛猫との別れを描いている。とはいえ嘆き悲しむ物語ではない。「死んでもいなくなるわけじゃない。死は悲しいだけのものではないと、読む人が感じられればいい」。猫についての話はいつの間にか、小説論へとつながっていく。
保坂さんの小説は、あらすじや感想を書くのが難しい。物語を推進するための事件は起こらない。著者自身と思われる「私」が作中であれこれと考え、一見するとエッセーのようで、でもやはり違う。そして、よく猫が登場する。
「読んでいるときの『ああ、そうなんだ』が大事なんです。読み終わって忘れちゃってもいい。美術や音楽も一緒で、絵から離れると『見てない人にはうまく言えないな』ってことになるでしょ。読んでない人にも六割方の説明ができる、みたいな書き方じゃだめなんだよね」。文芸誌の連載論考で小説について長年考え続けた作家だけに、その言葉には実感がこもる。「理屈で読み過ぎちゃだめなんです。こっちは頭で書いてるんじゃなくて体で、全身で書いてるんだから」
本書には、花ちゃんとの出会いを描いた九九年発表の小説「生きる歓(よろこ)び」も収録されている。この構成がうまい。花ちゃんのその後の十八年余の生を知った読者には、まだ子猫のころの描写に新たな意味が付加されて読める。<時間においてはいつも過去と現在が同時にある>という表題作中の言葉とも呼応する。
「最初から効果を考えていたわけじゃなくて、あった方が分かりやすいかな、という素朴な理由。でも置いてみたら、一冊を構成する作品になった」
長年の読者として、保坂さんに聞きたい質問があった。近作になるにつれ、どんどん文体が自由になっているのはなぜか。それも、時に日本語の文法を逸脱するほどの自由さで。「ずっと小説家をやっているわけだから、そりゃ変わってくるんですよ。今は極力、頭の中を去来する考えに近くなるよう書いています。頭の中の考えってセンテンスになっていないことが多いから、校閲は困っているかも。でも、ゆがんでることって大事なんだ」
最後に、よけいなお世話の心配事も一つ。飼い猫がいなくなって、今後、保坂作品に猫が登場しなくなってしまうのではないか。
「だから、いなくなったわけじゃないんです」。笑いながらたしなめられる。「不思議なほど家に猫がいる感じがする。夫婦の会話もずっと猫のこと。前に『猫に時間の流れる』って小説を書いといて何だけど、やっぱり猫は時間の流れの外にいる感じがするね」。そう言われ、胸をなで下ろした。 (樋口薫)
《東京新聞・夕刊9月16日:揺らめく存在の余韻 愛猫の死描く『ハレルヤ』刊行 保坂和志さん(作家)》
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